釣りきちツーさん夢日記

体調が戻り、ようやく竿出しできました。

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苗木城址ボランティアガイドを目指して勉強中です。今後、週に一回は城山に上りガイドとして説明すべきポイントの写真を撮り、資料を見ながら勉強を兼ねて紹介していきます。

今回は、「足軽長屋跡」。一番上の駐車場からぼど近いところにある。イメージ 3
苗木城址の建物は明治4年にすべて取り壊され、足軽長屋もこの時取り壊された。
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今は往時をしのばせるものは何もないが、雑木林となっているこの場所に「小頭部屋」「稽古場」など、いくつかの建物があり登城する足軽は必ずここに立ち寄ることになっていた。
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苗木藩では、家臣(給人・中小姓・徒士)が大体、20家・40家・60家の割合であり、1816(文化13)年の分限帳では、職務に属する者は給人23名、中小姓53名、徒士66名、計142名である。

家臣の中でも有力(家老を多出)は、小倉・小池家などがある。家臣の下が、足軽・中間・下男である。足軽は実務の中核で、明治期には苗木町政の多くを担った。中間下男は各村からも指定の数だけ、出仕させられた。

足軽長屋跡地から天守がよく見える絶景ポイントのひとつである。
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ほぼ同じアングルで天守をCGで再現されている。
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足軽長屋の隣地(奥・南)に「龍王院」があった。
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光耀山金厳寺龍王院(真言宗)という。
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遠山家祈願所で、法印(和尚)は裏山にある龍王権現の別当を兼帯した。
法印は1月・5月・9月の16日早暁、大般若会(だいはんにゃえ)を三井寺(坂下)・雲台寺(福岡)の法印(和尚)と三人で二の丸書院で行った。

法印の初期5代の墓は、龍王権現のやや南の傾斜地にある。1868(明治元)年7月、神仏分離で龍王院が廃院とされ、法印(和尚)は八尾伊織と改名し高森神社の神職を命じられた。八尾は苗木騒動(1870年)で罪となり、職を免じられ、後任には真地飯盛山(もと天王院)の神職鷲見兵庫がついた。

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