釣りきちツーさん夢日記

体調が戻り、ようやく竿出しできました。

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苗木城址の樹木伐採

苗木城址の景観を阻害していた樹木の伐採工事が一か月以上かけて行われています。
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おかげで、見晴らしがよくなり、今まで隠れていた巨岩が姿を現しました。
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武器蔵、笠木櫓からの見晴らしがずいぶん良くなりました。
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苗木城の特徴である、巨岩を利用した城造りがよく分かります。
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工事は11月初旬までかかるそうで、その間一部通行規制が行われます。遠山史料館で確認してから登ることをお勧めします。

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苗木城址ガイドの今回は「二の丸」です。二の丸は城主の住居で、苗木城平面図で示すと下図の位置にありました。
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拡大してみると
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藩主の部屋は廊下で囲まれ、順に台子(だいす 茶棚)の間、次の間、鉄砲の間、その奥で部屋の中央に「居間」、その後方に「逢ノ間」があった。そこから廊下で女中部屋に通じる。現在は、礎石が残る。  (ガイド資料より)

遠山史料館内の立体模型で見ると・・・
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二の丸玄関は城主住居の玄関である。玄関をあがれば大広間、その奥が猫太(ムシロ)の間・右へ二の間・その右側が書院、ここで家臣などの集合がなされた。さらに重役詰所がある。玄関は平常は中小姓が一人、徒士が一人の二人で昼夜番をする  (ガイド資料より)

内室(正室)は人質として江戸住居なので苗木の側室(身分は女中)の部屋があった。参勤交代について幕府は規則を緩め、1863(文久3)年3月に内室(嘉子)は江戸を引き払って移住した。その時に普請して広げたので間数も沢山になった。元来土地が狭い場所なので、味噌部屋の屋根の上に柱を組み立てて二階造りにして継ぎ足した。  (ガイド資料より)

大門を潜ると、右手に広間や勘定書、左手に御朱印蔵がありました。
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御朱印蔵は、切石で石垣が築立てて土蔵が拵えてある。「昔から徳川家より代々くだされた御朱印や御奉書ならびに刀剣の類その他宝物類などが入れてある。年々虫干しを一度ずつ行う。その時は家老・用人・郡奉行・元方目付役・目付役人、立会の上出す。鍵は重役が預かる。」 朱印状は将軍が交替すると、その都度、幕府に提出し再認証を得た。1868(慶応4)年夏、明治政府に朱印状の提出を命じられ、史料館には写しが残る。  (ガイド資料より)

城内には本丸と二の丸の二か所的場があり、二の丸城主居間の一段下がったところに的場がありました。
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立体模型の的場
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現在のようす
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2016〜7年、城主居間のあった石垣の修復工事が行われ、石垣の積み直しが行われました。
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全ての石に番号を付け、解体する前と同じ位置に積み直しを行うという非常に手間のかかる工事でした。
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かなり大がかりな工事です。
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工事が完了した石垣
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一万石で唯一城持ち大名だった遠山家。一万石でこれだけの城郭を維持するため、苗木藩の経済は困窮を極めたことでしょう。

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苗木城址ガイドの今回は、三の丸です。苗木城平面図で示すと下図の位置にありました。
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拡大してみると、仲間部屋、材木置き場、作事小屋などがあったことがわかります。雇人には次の人たちがいました。
 ・足軽 66人 中番・供番・門番など
 ・中間 84人 (各村からも)大工・左官など
 ・下男 34人 (うち28人は各村から)
足軽は竹門の横側、中間は三の丸の東、下男は風吹門の手前、とそれぞれ詰め所があった。(それぞれ小頭が支配)               (ガイド資料より)

三の丸は、中間が作事(大工・左官)を行う作業場と資材置き場が主な場所となっていたようです。

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遠山史料館内の立体模型で見ると・・・
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大矢倉と風吹門は前回の記事をご覧ください。
菱櫓跡付近から観た現在の三の丸のようすです。
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大矢倉の石垣以外残っているものは見当たりません。

三の丸から内部に入る位置に二の丸、天守とを仕切る「大門」があった。城内で最も大きな門なので大門という。ここからは普通の百姓は入れない。ここは足軽が門番役を担当する。城主が江戸へ出立の時、在着の時、あるいは規式や正月三ヶ日は開門する。通用の出入りは潜り戸を使用する。 (ガイド資料より)
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現在の大門跡のようすです。
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大門を入る手前左側(東方向)の奥まったところに「牢屋」跡があります。
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城内にひとつあった「牢屋」は、日の当たらない大岩の上に建てられていました。
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参勤交代は、一行が三の丸から四十八曲がり(実際は30曲がり)を下って、木曽川のほとりにある大手門から出立しました。イメージ 8
参勤交代は、一日約40km進み7泊8日で江戸に着きました。
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大矢倉から見た三の丸跡。中間部屋や資材蔵など、たくさんあった建物は明治4年にすべて取り壊され、今は広場となっています。

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苗木城址ガイドの今回は、大矢倉周辺(風吹門と北門)。平面図から位置関係から説明します。
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搦め手(裏)門の役割をしていた風吹門と大矢倉。
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 風吹門は、城内の三の丸・二の丸・本丸に通じる入口になる。城主が在城の時は開門し、江戸詰めで留守の時は締め切りにして潜り口を適用する。中間一人が昼夜番をして出入りを改める。この門から内はよそ者は入ることができない。門の2階は飼葉蔵となっていた。その北に干し草蔵、縄蔵の建物が大矢倉まで連なる。(ガイド講座資料より)

遠山史料館に展示してある立体模型でさらに詳しく見てみる。まずは風吹門。
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風吹門の名の由来は不明。
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一般に風は少ないが初夏などには、爽やかな風が抜ける。
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1871(明治4)年、苗木城が解体された時、この門は、北野の大泉寺(丁度寺再建の時)が購入したが、1996(平成8)年、山門を更新したので返され、25年ぶりの姿を史料館ホールで示している。(ガイド講座資料より)
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次に大矢倉と北門。
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大矢倉は、風吹門とともに搦め手(裏)からの攻撃を迎え撃つ重要な建物だった。


石垣を高く築き立て、その上に3階造り(床下が1階)にしてある。縦横2×3間位の大矢倉である。高さは石垣下から12m程。「お鳩部屋」というが、理由は不明。 作事小屋の上(三の丸)は、作事門から大矢倉まで物置が順々に高さに従って小屋(材木・スサ・縄・干し草など)が続く。また大矢倉から風吹門2階まで同様に建て続きになっていて、それぞれ物置である。東の作事門は作事小屋・中間小屋へ下る所の門である。作事方中間の作事懸りや休憩の合図を拍子木で知らせる。(ガイド講座資料より)

天守から大矢倉を見下ろすと、今は石垣が残るだけだが、いかに大規模だったかわかる。
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今の大矢倉と風吹門跡。石垣を残すだけだが、往時家臣たちの往来あった。
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大矢倉の北に北門があった。
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現在の北門のようす。横の池は雨水を貯めた池で、馬の飲み水に利用された。
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大矢倉、風吹門、北門は、苗木城の搦め手(裏)を守る重要な役割を担っていた。たった一万石の弱小大名だった遠山家だったが、関ヶ原以来江戸時代を転封も改易もされず生き抜いた数少ない大名だった。

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苗木城址ボランティアガイドを目指して勉強中です。今後、週に一回は城山に上りガイドとして説明すべきポイントの写真を撮り、資料を見ながら勉強を兼ねて紹介していきます。

今回は、「足軽長屋跡」。一番上の駐車場からぼど近いところにある。イメージ 3
苗木城址の建物は明治4年にすべて取り壊され、足軽長屋もこの時取り壊された。
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今は往時をしのばせるものは何もないが、雑木林となっているこの場所に「小頭部屋」「稽古場」など、いくつかの建物があり登城する足軽は必ずここに立ち寄ることになっていた。
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苗木藩では、家臣(給人・中小姓・徒士)が大体、20家・40家・60家の割合であり、1816(文化13)年の分限帳では、職務に属する者は給人23名、中小姓53名、徒士66名、計142名である。

家臣の中でも有力(家老を多出)は、小倉・小池家などがある。家臣の下が、足軽・中間・下男である。足軽は実務の中核で、明治期には苗木町政の多くを担った。中間下男は各村からも指定の数だけ、出仕させられた。

足軽長屋跡地から天守がよく見える絶景ポイントのひとつである。
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ほぼ同じアングルで天守をCGで再現されている。
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足軽長屋の隣地(奥・南)に「龍王院」があった。
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光耀山金厳寺龍王院(真言宗)という。
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遠山家祈願所で、法印(和尚)は裏山にある龍王権現の別当を兼帯した。
法印は1月・5月・9月の16日早暁、大般若会(だいはんにゃえ)を三井寺(坂下)・雲台寺(福岡)の法印(和尚)と三人で二の丸書院で行った。

法印の初期5代の墓は、龍王権現のやや南の傾斜地にある。1868(明治元)年7月、神仏分離で龍王院が廃院とされ、法印(和尚)は八尾伊織と改名し高森神社の神職を命じられた。八尾は苗木騒動(1870年)で罪となり、職を免じられ、後任には真地飯盛山(もと天王院)の神職鷲見兵庫がついた。

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