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明け方までの、冷たく激しい雨は何処へやら。

またまた水曜日は、真っ青な空から降りそそぐ暖かな陽光に満たされております。

これは、今日も行かなくては!!―そう、「心霊スポット」に!!


と言う訳で、取材班(アビエータ氏は頑なに参加を拒否)は鎌倉に向かいました。

本日の目的地は、「鎌倉最怖」の呼び声も高いアノ場所…。

北条高時腹切やぐら]です!!


さて、現地取材の前に、予備知識を少々…。

まず、「やぐら」とは、平たく言えば鎌倉期のお墓兼供養所の事です。

山肌の崖をくり貫いた横穴式の墳墓で、中には石仏や五輪塔等が置かれております。

なぜこの様な埋葬様式がとられたかと言うと、鎌倉幕府の発展と地理的条件が深く関与しています。


中世期、武士などの上流階級の埋葬方法は法華堂と呼ばれる堂を建てそこに葬るという方式をとって

いたそうです。

しかし、鎌倉幕府の権力が確定し、経済都市としても発展すると、当然ながら人口が急増。

三方を山、一方を海に囲まれて、元々平地の少なかった鎌倉で、そうそう法華堂ばかり建てられると、

お堂だらけになり、邪魔でしょうがない。

と言う訳で、山間の崖をくり貫いて墳墓を造る様になったそうです。

「やぐら」と言うのも、「岩窟(イワクラ)」の訛であるとされています。


ちなみに、「やぐら」は上流階級のお墓としたら、一般庶民は何処に埋葬されたのか?

実は、鎌倉周辺部の谷あいに投げ棄てられていたそうです。

その様な場所は「地獄谷」と呼ばれ、特定の一箇所ではなく、その様な場所が幾つか存在したとか。

今となっては、場所ははっきり判りませんが(判っていても、公言は出来ませんよね。そこに住んでいる

人だっているんだから…)極楽寺や建長寺の辺りは「地獄谷」だったと云われております。


そして、今回の目的地である「北条高時腹切やぐら]は、その名の通り、元弘三年(1333)の新田

義貞による鎌倉攻めにより追われた執権北条高時が、一族郎党870余人と共に最期を迎えた…とされる場

所です。


当然の如くですが、「武士の霊が出る」と言われ(そりゃ、ここで出なけりゃ何処で出る…と言う感じで

すが)霊感の強い人は、目はかすみ、足は硬直し、傍にも寄れぬほどの圧倒的な霊気を感じるそうです。



さて、前置きが長くなりましたが、そろそろ行って参りましょう。
場所はこの辺です
鎌倉のメインストリートである若宮大路から東に一本入った小町大路をぶらぶらと歩いていきます。
イメージ 1

お、ここで曲がるんだな。


閑静な住宅地を歩いていると、味のある橋が…。
イメージ 2

「東勝寺橋」とあります。大正13年の竣工!!関東大震災の復興期に架けられた橋だそうです。

随分古い橋では有りますが、鎌倉にあると、まだまだ新築に毛が生えた程度にしか感じません。

なにせ、周囲には築600年とかがゴロゴロしているのですから…。


橋を渡り、坂道を辿って行くと、「東勝寺跡」に到着。
イメージ 3

もっと寂しい処かと思っていたら、目の前は普通の宅地でした。

さて、この先が「腹切やぐら」です。

舗装が切れ、山道に入った途端に…。
イメージ 4

―到着しました…。

「霊がいるから、無闇に入るな」と言う意味でしょうか?

確かに、今までに無い、圧力と言うか、何とも表現し難い空気が満ちております…。

襟を正し、敬虔な気持ちで、聖域にお邪魔します。


―こちらが、「腹切やぐら」です。
イメージ 5

緊張の為か、ぶれてしまいました…。

丁重に手を合わせ、お賽銭を置いた後、中に入って見ました…。
イメージ 6

中から外を。高時一族は、ここでどの様な想いで、最後の風景を見たのか…。
イメージ 7

いたたまれず、すぐ外へ。
イメージ 8

その日、東勝寺には新田軍に追詰められた14代目執権高時を筆頭とした北条一族が集まってました。

栄華を誇った鎌倉は既に炎上。

東勝寺にも新田軍の軍勢が迫って来ます。

北条配下の猛将長嶋高重が東勝寺に戻って来るや

「もはやこれまで…憎き義貞に首を獲られる前に、早く自害を」

激戦を戦い、血まみれで見る影も無い重臣の言葉に、高時はその場でただ黙り込んだのでした。

主君の躊躇を見た高重は、実弟の新衛門に酎をさせ、ぐいと杯を飲み干すと、

「私が手本を見せましょうぞ!」と叫ぶや自分の腹を十字に斬り、見事な最期を遂げました。

その姿に意を決した北条の者々は次々と高時の前で自害して果てます。

遺骸が敵の手に陥ちる事を防ぐ為に東勝寺には火が放たれました。

燃え広がる業火の中、最後まで一族の死を見守っていた高時も遂に切腹。

源頼朝が開いた鎌倉幕府滅亡の瞬間でした…。
通りがかったハイキング客も「何ここ?」「気味が悪い〜」と言いながら、「やぐら」に近寄れないまま

行ってしまいました。

さて、改めて丁重に手を合わせた後、坂を下って「宝戒寺」へ。
イメージ 9

「宝戒寺」は、北条氏屋敷跡と云われています。倒幕後、後醍醐天皇は北条一族の霊を慰める為に、1335

年(建武2年)足利尊氏に命じてこの地に寺を建立させたそうです。

境内から、「腹切やぐら」の方を望む…。
イメージ 10

最期に慰霊のお参りを済ませ、取材班は、現場を後にするのでした。

イメージ 11







 

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閉じる コメント(39)

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アビちゃん、来週の水曜日、予定を空けておく様に。
(雨天中止)

2008/12/11(木) 午後 6:44 TO7002 返信する

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忙しいんです。

2008/12/12(金) 午前 11:50 [ アビエータ ] 返信する

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うるさい。多忙を言い訳にするな。聞く耳持たん。

2008/12/12(金) 午後 7:37 TO7002 返信する

こ、、これは・・・
久々、強烈、心霊写真。
全体が、、心霊写真(@_@;)
ちょっと、怖すぎ。
もう、絶対、行かないほうがいいと思う。
眉間が痛い(T_T)
TOさん、、大丈夫?

2008/12/16(火) 午前 0:14 [ sut*_*ora ] 返信する

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sut*_*ora さん、今の所無事です。

2008/12/16(火) 午後 3:03 TO7002 返信する

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鎌倉にはきっとたくさんの取材スポットがあることでしょう。
たまには行ってみようかな^^

2008/12/16(火) 午後 6:55 pepe 返信する

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花遊び山遊びさん、心霊スポットは兎も角、ハイキングや海遊び、歴史散歩など、鎌倉は魅力満載です!!

2008/12/17(水) 午後 1:15 TO7002 返信する

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今日は水曜日ですが・・・。

2008/12/17(水) 午後 4:10 minami♪ 返信する

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雨だったんで、臨時休業です…。

2008/12/20(土) 午後 5:29 TO7002 返信する

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亀ですみません。
ふとしたキッカケで貴サイトを知りはまりました。

悲しい祈りの場所ですね。写真、所々昔の方が写ってるようですが、あまりにも壮絶なお話を読むとキャー怖いって思えないです。史跡のスポットは深く重いですね。うちの近所にも玉砕した古城跡があります。そこは複雑な歴史の経緯で、今や地元民より歴オタの方が詳しいというビミョーな場所です。ともあれ、このような場所は、静かに永く英霊への祈りの場所として続いて欲しいです。からかい半分の凸は、止めた方がいいですね。機会があれば史跡として訪れたいと思いました。合掌 削除

2010/3/23(火) 午後 10:29 [ どらみ ] 返信する

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どらみさん、「心霊スポット」を通じて歴史に消えた人々の無念を想う…。教科書に載っていない、歴史の裏側が体感できます。

2010/3/24(水) 午後 1:43 TO7002 返信する

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みほさん、コメント有難うございます。
こんな凛としたとろで立ちションとは不届き千万!!

ー夜中に、行くのは、遠慮しときます。

2011/8/26(金) 午後 9:51 TO7002 返信する

私は三回参拝しました。初めて参拝したときに、老婆とその娘らしき女性がご祈祷をあげていました。なんと老婆が「何しに来た」と言いました。娘が「私たちは北条高時の子孫です」と言いました。
私は「参拝にきました」と言ったところ老婆が「お前、何かがあるな?早く帰れ!」とまで言いましたところ私に向かい手をかざしたのです。冷気がきました。話にならないのでお参りしてすぐに帰りました。

2014/7/7(月) 午前 0:11 熱田北条 返信する

当家は尾張氏です。熱田神宮系です。北条高時の子である時行を先祖がかくまいました。時行の奥さんは熱田大宮司の子です。時行は龍ノ口で切られましたが子孫は北条の名を隠し子孫は継続してゆきます。
この地をきっかけに私の北条史跡巡拝がスタートです。
傑作

2014/7/7(月) 午前 0:16 熱田北条 返信する

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熱田北条さん、そんな由緒正しいお家柄とは!!尾張氏と言えば、古事記の昔から続く名門じゃないですか!!(倭建命と美夜受比売が婚姻を契ったとか…。)

最近「鎌怨コーナー」もサボってますが、好きなんですよね〜。
鎌倉時代。

北条時行は建武軍と戦って一時は鎌倉を奪還したんですよね。
時行の孫・横井時泰は戦国時代に信長や家康の旗下数々の戦功をあげ、その子孫は膜末まで尾張徳川家に仕えていたとか。

いやいや、久しぶりに歴女ならぬ「歴中年」の血が騒ぎました。
ちなみに当家(とうけ…って程の家柄でもないが)は大庭景親の子孫だそうです…。

2014/7/10(木) 午後 4:56 TO7002 返信する

これはこれは私よりお詳しいですね。今は当家は没落して系図の尾張氏は消えましたが、私の研究でなんとか記録は残してゆきたいと思います。拙文のブログにいろいろな書庫を作り尾張氏と北条氏のことを記録しています。
横井時泰の死後、家督争いがあり愛知多郡横井村の領地はなくなり、
名古屋西武に家督を奪われ、当家は名古屋城の近所に移動したようです。しかし、明治になりまた家督争いがおき、家は分断しました。
愛知多郡横井村は桶狭間合戦地の近所であり、系図に信長殿に従ったことが書いてあります。時泰の死後、尾張氏は消されたと私の研究では考えています。
とりあえずは参考記事をTBさせてください。

2014/7/10(木) 午後 11:36 熱田北条 返信する

すみません。↑誤字です。西武→西部です。
私の先祖研究の旅の初期がこのハラキリやぐらです。二回目は霊感がある人と夕方行きました。例の老婆と娘はいませんでした。不思議と怖くありませんでした。この時期は16年前くらいだと思います。

2014/7/10(木) 午後 11:42 熱田北条 返信する

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熱田北条さん、家系を調査され、後世に残されようとされるお姿には、ご先祖様も喜ばれる事でしょう。
貴ブログも拝読させて頂きます!!

2014/7/16(水) 午後 4:40 TO7002 返信する

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転載させてくださいませ。慰霊の意味もありますので、よろしくお願いいたします。

2016/10/4(火) 午後 11:20 熱田北条 返信する

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TOさん初めまして。こちらを拝見して自分も参ってまいりました。
その洞に入ったすぐ左脇に(TOさんの画像でいうと6枚目の左下あたり)、
2頭の馬がほられた30cm程度の縦に楕円形の石が置かれていたのですが、
TOさんが行かれた時にお気づきだったでしょうか。
その石は頂点からほぼまっすぐに割れ、その2頭の馬がきれいに分かれる状態になっておりました。
こちらの記事にはその画像がなかったので、現場でとくにきになりました。

2016/11/30(水) 午後 1:23 [ ひこぼし ] 返信する

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