鎌倉怨霊散歩

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さて、今日はお休みで、しかも朝からのポカポカ陽気に誘われて、行ってきました 鎌倉散策 「スポット突撃」!!
 
今日はまず、鎌倉と言えばこの人!!ミスター鎌倉・源頼朝公の墓所に向かいました。
 


 
源頼朝に関しては、今更説明するまでもないですね。鎌倉に幕府を開き、以後大政奉還まで680年も続く武家政
 
権の始まりを成した人です。ちなみに鎌倉幕府成立の年ですが、私は「いいくにつくろう鎌倉幕府(1192年・頼朝
 
が征夷大将軍になった年)」と習いましたが、最近は違う様で、1185年(朝廷から全国統治を許された年)とする
 
教科書が多いそうです。今の子供たちはどう語呂合わせしているのでしょうか?「いいやごろごろしてよう鎌倉幕
 
府」?
 
―そんな事はどうでも良くて、金沢街道沿いのコインパーキングに車を入れ、現地に向かう取材班。
 
晩秋の鎌倉は、平日とは言え観光客の姿も多い。
 
金沢街道から閑静な住宅地に入ると、清泉小学校の角に、「大蔵幕府跡」の碑がありました。
 
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治承4(1180)年10月、源頼朝はこの地に建てた屋敷に入り、
 
侍所、公文所 (のちの政所) 、問注所などの「政府機関」を設
 
置。ここは頼朝屋敷・大倉(大蔵)幕府と呼ばれ、鎌倉武家政
 
権の中心地となりました。現在の清泉女学院周辺200m四方
 
が大蔵幕府だったそうです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
頼朝公の墓は、この先にあります。 【地図】
 
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いやあ、ホントに暖かく、歩いていると汗ばみそうな程。
 
空は真っ青、紅葉は綺麗だし、最高のお日和です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
程なく現地に到着した取材班。
 
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(↓)墓所入り口に建つ白旗神社。頼朝公が主祭神です。
 
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ここは大蔵幕府の北端にあたり、頼朝公の持仏堂(身近に置いて信仰し礼拝する仏像を安置しておく建物)があ
 
った場所です。建久10(1199)年に頼朝公が死去すると、ここに葬られて法華堂と呼ばれました。
 
法華堂はその後廃れますが(後述)、明治維新後にこの白旗神社が建立されたそうです。
 
 
石段を登っていくと、頼朝公の墓所がありました。森の中の広々とした空間にポツリと建っております。
 
日本史上の大人物の墓としては小ぶりでシンプル。質素を旨とした鎌倉武士らしさが出ております。
 
ちなみに、この墓は、頼朝公の子孫とされる薩摩藩主・島津重豪が安永8(1779)年に建てたものです。
 
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さて、この頼朝公の墓所には、悲惨な歴史の舞台と言う、もう一つの顔があります。
 
ここは、鎌倉幕府の有力御家人である三浦氏が滅亡した場所でもあるのです。
 
 
鎌倉幕府の歴史は、独裁を目論む北条氏とそれに反発する有力御家人の争いの歴史でもありました。
 
梶原・和田・比企・畠山各氏など、鎌倉開幕以来の有力御家人の排除に成功してきた北条氏ですが、5代執権
 
北条時頼の頃、いまだ健在かつ繁栄していたのが三浦氏。幕府の中でも北条氏に次ぐ強大な権力を保持してお
 
りました。両氏は縁戚関係を維持しながらも、常に緊張関係にあったのです。
 
 
宝治元(1247)年になると、鎌倉に不吉な事象が多発する様になりました。1月29日には羽蟻の大群が鎌倉を覆
 
い、翌30日には北条時盛館上空を「光る物体」が飛びました。3月になると怪異はさらに頻繁に出現し、11日には
 
由比ヶ浜の潮が赤く血のように染まり、12日には「大流星が東北より西南に流れ、16日深夜には、敵襲の報に触
 
れた軍勢が出陣し騒然となるも、誤報と判明。17日には鎌倉中に黄色の蝶が乱れ飛び、4月になると「津軽の海
 
辺に人間の死体のような大魚が漂着した」と噂が流れました。黄色の蝶や人型の大魚についてはそれぞれ「戦
 
乱」の予兆とされ、鎌倉には異常な緊迫感が漂い始めました。次の「戦乱」とは、北条対三浦である事は考える
 
までもなく、両者の緊張も日増しに高まって行きました。4月25日に日暈(ひがさ=太陽の周りに光の輪が出来る
 
光学現象)が現れ、これも戦乱の予兆とされました。幕府は数々の怪異現象は後鳥羽上皇の怨霊の仕業とし
 
て、鶴岡八幡宮の裏山に御霊の社を建てました。
 
 
そんな中、25年振りに高野山から帰参した安達景盛(時頼の母方の祖父)は、時頼に三浦氏排斥を進言し、
 
三浦氏当主・三浦秦村に対する挑発行為を仕掛けます。5月には鶴岡八幡宮に「横暴な三浦秦村を討つべし」と
 
立て札が掲げられ、「三浦氏が謀反を画策している」との流言が飛び交いました。
 
それまで北条氏との協調路線をとってきて、謀反の気などさらさら無かった秦村は困惑するばかり。
 
また時頼も三浦氏を滅ぼすまでの考えは無かった様です。
 
 
しかし、三浦氏に対し異常なライバル心を燃やす安達景盛は事態をヒートアップさせます。一説によると、安達よ
 
りも上位に見られている三浦氏に嫉妬していたとか、北条と三浦が仲良くなると安達の出番が無くなる事を危惧
 
したと言われております。さらに、秦村の弟で対北条強硬派の光村も北条に対する反抗心を隠そうとしません。
 
事態は悪化の一途を辿るばかり。
 
 
鎌倉に両氏の軍勢が終結し、緊張が最高度に達する中でも、時頼と秦村は合戦を回避しようと尽力しました。
 
お互いに使者と書簡を取り交わし、時頼は三浦氏を滅ぼす意図は無い事、秦村は謀反の気は無く忠誠を誓う事
 
を伝え合い、そして最後には三浦側の武装解除を条件に和平の儀が取り結ばれました。
 
喜び安堵した秦村は、集結した一族郎党を解散させ、誰もが鎌倉が戦乱から救われたと思ったその時…。
 
 
ここを逃しては三浦氏討伐の機会が失われると、安達景盛は一族に三浦秦村の館を急襲させました。
 
再び鎌倉に両派の御家人が集結。 秦村と時頼の努力の甲斐なく、合戦が始まってしまったのです。
 
時頼も已む無く三浦氏討伐を下命。内心、忸怩たる思い(深く恥じ入る気持ち)だった事でしょう。
 
不意打ちを喰らった秦村・光村兄弟は其々館と永福寺に立て篭もって善戦しますが、館に火を放たれ焼け出さ
 
れるに及んで、秦村は頼朝公の眠る法華堂に向かいました。徹底抗戦を訴える光村を法華堂に呼寄せた秦村
 
は、「兄弟揃って頼朝公の御前で死のう」と諭しました。
 
この場を凌いでも北条側の三浦討伐の意思は変わらぬだろうし、今自分達が自刃すれば過去の功績によって
 
累代は守られると判断したのです。
 
悔しさのあまり自分の顔を切り刻む光村に対し、その血で頼朝公の御影が穢れると諌める秦村。最後まで穏便
 
だった秦村は、「讒言でこの様な事態に陥った恨みと悲しみは深いが、冥土に行く身でもはや北条殿に恨みは
 
無い」と言い残し、妻子一族郎党500人と共に自刃して果てました。
 
 
これが世に言う「宝治合戦(宝治の乱)」です。
 
勢いに乗った北条側は、もう一つの有力御家人である千葉氏も打ち滅ぼし、ここに北条の独裁政権が確立した
 
のです。
 
(秦村の名誉の為に付け加えると、秦村は穏健なばかりではなく、武勇でも名を馳せており、承久の乱でも数々
 
の戦功を残しております。特に弓の名手だったとか…。)
 
 
頼朝公の墓より法華堂跡を見下ろす…。兵どもが夢のあと…ですか。
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頼朝公の墓所のすぐ近くに、三浦一族のやぐら(鎌倉時代の横穴式墳墓兼慰霊所)が残されております。
 
墓所入り口から八幡宮と反対方向へほんの2〜30m行くと、特に何の案内板も無い灯篭が並んでおります。
 
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頼朝の重臣・大江広元らのやぐらへ向かう参道入り口
 
なのですが、その間を行くと…、殆ど何の整備もされ
 
ていない空虚な土地が広がっておりました。
 
ちょっと、夜は来れない雰囲気です。
 
さらにその先に行くと…。
 
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質素な鳥居が見えてきます。訪れる人影も無く、ここはもう観光地・鎌倉ではありません。
 
鳥居の脇にぽっかりと黒い口をあけるやぐらがありました。ここにも何の案内板もありません。
 
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三浦一族のやぐらです…。何か、背筋が寒くなるような、それでいて静謐な空気が流れ出てきている様な…。
 
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合掌。
 
 
さて、三浦一族のやぐらから鳥居をくぐって石段を上がります。最近よく石段を上がったり下がったりします。
 
足腰が強くなってきた様な気がします。
 
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石段の上には、大江広元・毛利季光・島津忠久の墓といわれる3つのやぐらがあります。
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大江広元は頼朝の信頼厚かった鎌倉幕府初期の功労者。有名なので解説は省略。
 
毛利季光は、大江広元の息子で、相模国毛利荘(現在の厚木周辺)を領していたので毛利姓を名乗りました。
 
毛利と言えば…そう、戦国時代の中国地方の覇者・毛利元就を輩出した毛利家のご先祖様です。
 
この方、娘が時頼に嫁いでいて、自分の妻は秦村の妹。宝治の合戦は義理の息子と義理の兄の戦いと言う事
 
になり、板ばさみになって悩んだ様です。最初は北条方に付こうとしたのですが、嫁に「兄を捨て、執権に味方す
 
るとはそれが武士のすることですか!!」と諌められて、「そりゃそうだ」と変心して三浦に味方し、秦村らと共に法華
 
堂で戦場の露と消えました。この時、越後国にいた季光の四男・経光の血筋が残り、その子孫が安芸国に移っ
 
て、後の毛利家へと繋がっていったそうです。
 
 
島津忠久は、母が源頼朝の乳母の娘とあって、頼朝の信頼も厚く、薩摩・大隈・日向の守護職となりました。
 
九州・薩摩の島津氏の祖となる人です。一説によると、頼朝の御落胤だとか…。そんな縁があって、頼朝公の墓
 
所を江戸時代の薩摩藩主が建てる事になったのですね。
 
 
しかし、時代を遠く離れて武家政権を崩壊させ明治維新の大きな力となった薩摩・長州の祖が共に頼朝公の
 
縁者であり、武家政権の始まった地に墓を並べているのは歴史の皮肉なのでしょうか…。
 
 
まあ、島津忠久の墓は頼朝公の墓を整備する際に造られ、大江広元の墓と毛利季光の墓は江戸幕末期の
 
文政6(1823)年に長州藩家老村田清風(藩革新派のドンで、吉田松陰らを育てた人物)が整備したものですか
 
ら、それぞれの根拠はかなり怪しいらしいですが。


 
―と言う訳で、本日の第一スポットを後にする取材班。
 
折角の好天なので、もう一箇所行って見る事にしました。
 
蛇足ですが、頼朝公の墓所や三浦一族のやぐらにお化けが出るとの噂も聞きませんので番外編と致しました。
 
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(↑)「宝治の合戦」は時頼が景盛と共謀して画策したと言う見方もありますが、私は時頼が嫌いじゃないので、
ちょっと「いいもん」風の解釈を採りました。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

閉じる コメント(11)

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なるほど。

しかし……毎度よくここまでリサーチしましたね〜。トゥーさん、歴史家になれるんじゃないですか?w

2010/12/1(水) 午後 6:04 [ リットリオ ]

下手な日本史の授業よりもよっぽど面白いですよ!
TOさん、ホントにカーディーラーなんですか?
すごいです

2010/12/1(水) 午後 8:10 悟

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TOさんが歴史の先生だったら、授業をサボる事もなかっただろうに(^_^;)

頼朝の墓以外はぜーんぶ知らなかったことばかりで勉強になります☆


感覚が一番鋭かった10代の頃は、八幡様の北東寄りは重い空気を感じて苦手でした。何故か人もそっちの方だけはいないし。それでも縁あって、3回ほど白旗神社の参道を歩きましたが、家に帰った途端、首・肩が痛くなって高熱が出るんですね↓で、たった4、5時間で平熱に戻るみたいな。

お盆の真っ盛りに親友に、アメリカから遊びに来ている友人達を鎌倉案内してもらえない?と頼まれ、大勢だから平気だろ〜と思いきや、八幡様全域(白旗辺りはカメラのシャッター下りず)・杉本寺・報告寺・住宅街の竹林とNGゾーンだらけでした。一番印象的だったのは、八幡様の大鳥居を入ってから悩まされてた幻聴が大鳥居を出た瞬間に止んだことです。あと、この日は入り口の太鼓橋が朱色に変わってました(?_?)ふだんは何も感じないんだけどな〜。そして、いかにも出そうな場所にあるにもかかわらず唯一平気だったのは、頼朝の墓でした。あ〜この人、無念な死に方してないんだろうな、と思ったっけ…。

2010/12/1(水) 午後 9:02 [ 波乗り娘 ]

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リットリオさん、歴史愛好家の方々は私の数百倍の知識と見識をお持ちですから…。ただ単に、下手の横好きって奴です。

2010/12/2(木) 午前 1:00 TO7002

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悟さん、一介の車売りなのは間違いありません(苦笑)。

2010/12/2(木) 午前 1:02 TO7002

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波乗り娘さん、感受性の強い方には鎌倉ってキビシイかもしれませんね。(と、言いつつ「コメ怖」に載せさせて頂きます!!)

頼朝の死因は諸説あるも、特定は出来ません。謎に包まれております。表向きは落馬したとなっておりますが…おっと、これはいいネタになりそうですね。その内、記事にします。

2010/12/2(木) 午前 1:07 TO7002

頼朝の墓までは行ったことがあります。
あーそうそうこんな感じだった
そうそう左手にこの建物があったと懐かしく思いました。
その先に三浦一族の・・・
今その三浦一族の領地だった地に住んでいるのも何かの縁かも
合掌です。
こういうのも楽しいです♪

2010/12/2(木) 午後 10:56 [ ま〜くん♪ ]

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まーくんさん、鎌倉巡りにハマってるので、しばらくこのシリーズは続くと思います。

2010/12/3(金) 午後 6:39 TO7002

私の鎌倉探訪の二回目の地です。三浦氏の墓にお寿司などが供えられ供養されていました。北条と同じ桓武平氏同士の戦であり酷いものです。北条義時の墓ももっと上にあるそうですがわかりませんでした。
この戦は北条時頼が10代のときくらい?金沢実時も同じような年代ですが蒙古襲来前の統一戦とはいえ戦国の無情を感じます。
ポチ!

2014/7/11(金) 午前 0:23 熱田北条

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熱田北条さん、鎌倉幕府成立後の有力御家人淘汰戦は色々な人間ドラマが絡み合って興味深いですよね〜。

三浦氏については吾妻鏡なんかでは悪し様に書かれてますが(吾妻鏡の成立過程を考えるとそれも仕方ないが…)、頼朝が旗揚げした時以降最も頼りにしてたのは三浦氏だったんじゃないかと。

2014/7/16(水) 午後 5:22 TO7002

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傑作記事を転載させてください。

2016/10/5(水) 午後 11:13 熱田北条


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