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鎌倉の中心である鶴岡八幡宮の西側、扇ヶ谷(おおぎがやつ)の閑静な住宅街。
その一角に、「岩船地蔵堂」はあります。こぢんまりとした、六角形のお堂です。 【地図】
ここには頼朝と政子の最初の子、大姫の自念仏(個人が毎日拝むために身近に安置した仏像)である地蔵菩薩
像が安置されております。現在のお堂は平成13年に建て直された新しいものです。それ以前はほとんど打ち捨
てられた様な、さびしいものだったそうです。
大姫は、頼朝が伊豆に流されている時、北条政子と熱烈な恋に落ちて、そして生まれた女の子です。
頼家や実朝のお姉さんですね。鎌倉時代のプリンセス中のプリンセスです。
「大姫」とは、「長女」と言う意味で、彼女の本名は伝わっておりませんが、ここでは親しまれた大姫と呼びます。
生まれた年もはっきりしないようですが、治承2(1178)年頃ではないかと言われています。
大姫は、頼朝が鎌倉入りして幕府を開く準備をしている最中に、父に会いたさの一心で母・政子と共に鎌倉に入
り、親子三人感動の再会を果たしました。
寿永2(1183)年春、大姫が6歳の頃です。頼朝は対立していた源義仲との和議の為、義仲の長男・義高を鎌倉
に迎え、大姫の許婚としました。その時義高は11歳。完全な政略結婚なのですが、どころがどっこい大姫は義高
にぞっこんになります。将軍の娘として何不自由なく育てられ、ちやほやはされますが、その実心を開ける同世
代の友達もいなかった大姫にとって、父親譲りで弓馬に優れ野生的な義高はまさに王子様、ヒーローだったの
です。また、絶世の美女とうたわれた巴御前を母に持つ義高は、相当イケメンだった事でしょう。義高と会って以
来、大姫は「この子はこんなに笑う子だったのか」と政子も驚くほど明るく朗らかになったそうです。政子も、この
幼いカップルを暖かく見守り、頼朝にとっては人質に過ぎない義高をわが子の様に可愛がりました。義高も自分
を真摯に慕う大姫を憎く思うはずも無い。義高はさすがに今の幸せな状況は頼朝と義仲のパワーバランスが取
れているうちだけだと自覚していましたが、その分大姫を大事にしました。こうして鎌倉に、幼いながらも純愛を貫
くカップルが誕生したのです。
(←)一騎当千!!巴御前。義高のママです。
「中にも巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者なり」と平家物語にはあります。
しかし、義高が心配した通り、蜜月はあっと言う間に通り過ぎてしまいます。結局和議は上手く続かず、翌年の正
月に義仲は頼朝から送られた義経の軍勢に敗れて討ち死にします(栗津の戦い)。そしてその年の春、頼朝は
将来に禍根を残さぬ様に、義高を殺害する事を決定しました。当然、政子は猛反対しますが、頼朝の心は変わり
ません。しかしさすがに、大姫の目の前で殺害を実行する訳にも行かず、鶴岡八幡宮参拝を名目に大姫を連れ
出し、留守の間に事を済まそうと計画。その事を侍女から聞いた大姫は、母・政子に助けを求めます。政子も身
内には情の深い女性です。愛娘が心から慕う義高をむざむざ殺させる訳もありません。政子は一計を案じ、明
け方に義高を女装させ、侍女たちに取り囲ませて邸内から出し、ひづめに綿を巻いた馬を用意して鎌倉を脱出さ
せました。義高と共に鎌倉に来た側近であり親友の海野幸氏が義高の身代わりになって寝床に入ったり、いつ
も義高が双六遊びをする場所で双六を打って、義高が邸内にいる様に見せかけたりと、必死の隠蔽工作をしま
すが、そんな事でいつまでも誤魔化せる筈も無く、夜になって義高逃亡が露見してしまいます。怒った頼朝はす
ぐさま追っ手を差し向け、藤内光澄が入間河原で義高を補足し、討ち取ってしまいました。
最初、義高の死は大姫には隠されましたが、真相を知った大姫は泣き崩れ、病に伏し、笑顔を見せる事も無くな
ってしまいました。大姫はこの時、病を理由に水断ちをして、頼朝に抗議の意をあらわした様です。
政子の強い嘆願により、頼朝は義高を討ち取った藤内を晒し首にしますが、そもそもそれを命じたのは頼朝自身
なので、なんの解決にもなりませんでした。頼朝と政子は大姫を回復させる為にありとあらゆる手段を講じます。
しかし、大姫の心は凍ったままでした。ある時は、鎌倉に捕えられていた義経の愛妾・静御前が大姫の前で舞
い、お話をしたそうです。その時、大姫は「父は鬼だ」とつぶやいたとか…。
(←)風雲児・義経の愛した舞姫・静御前。
この人も、悲愛の人でした。静御前が鎌倉を去る時、政子と大姫は沢山の重宝を持たせたと云われております。
(↓)鶴岡八幡宮の舞殿。静御前も大姫の為に、ここで舞ったと伝えられます。
(↓)義高の死に触れ、悲しみに伏す大姫。
義高への想いが消えるどころかますます強くなっていく大姫
は病に伏す毎日が続きます。義高の追悼供養や加持祈祷
もなんの効果もありませんでした。大姫は成長するにしたが
って美しくなっていきますが、それはまるで魂の無い人形の
ような美しさでした。頼朝が縁談を進めようとした事もありまし
たが、大姫は「そんな事をしたら淵に身を投げる」と、頑とし
て受け付けません。頼朝は娘の身を案じてか、それとも政略
か、大姫を入内させようと熱心に工作しますが、その最中、
大姫は恋焦がれた義高の下へ旅立っていきました。建久9(1197)年、大姫はその時、20歳でした…。
北条・三浦・梶原はじめ多くの御家人達が彼女の死を悼み、この地蔵堂の建つ谷に野辺送りしたそうです。
お堂の扉の隙間から、大姫の地蔵菩薩を拝む事ができました。
大姫は、義高を想いながら、この仏様を毎日毎日拝んでいたのでしょうか。
大姫が義高と再会できるのは、自らが死を迎えた時だけ。その時を待ち焦がれながら仏様を拝んでいたとすれ
ば、こんなに哀れな事はありません。
大姫の霊が、父・頼朝に祟りを為したとの話もありますが、あまり同意したくない話です。
出来る事なら常世で義高と仲睦まじく暮らしたと思いたい。
−鎌倉に伝わる、悲しい姫のお話でした。
(史実かどうかは別として…。)
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鎌倉怨霊散歩
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とても悲しいお話ですね
早く死ぬために菩薩を拝む
まるで小説のようなお話です
2011/1/12(水) 午後 10:31
悟さん、実はかなりフィクションに近い話なのですが…。まあ、歴史のロマンと言う事で。
2011/1/12(水) 午後 11:22
悲恋ですね。。
きっと今頃は生まれ変わって、
「パねぇくらい好きだぜ〜♪」
「マジ? チョ〜嬉しいんだけど〜♪」
などと愛を語り合っているに違いありません。。
2011/1/13(木) 午前 10:21
かっちゃんさん、大姫(の生まれ変わり)がケバケバの爪してたり、義高(の生まれ変わり)が鼻ピアスしてたり…。
2011/1/13(木) 午後 0:36
日本の悲劇。政治家の家族は大変ですね。
シェークスピアに勝るとも劣らぬストーリー。
TOさん大姫のためにも是非、台本を…。
いつもなから鎌倉の歴史の奥深さを感じました。
2011/1/14(金) 午後 8:26 [ どらみ ]
どらみさん、私も鎌倉の歴史にはまってしばらく抜け出せそうもありません。そろそろ義経がらみの史跡に行ってみようかと…。
2011/1/16(日) 午前 10:19
おおっ!ついに義経ですか。頼朝の膝元の鎌倉の史跡ならそりゃ怖そうですね。
京都では、義経さん、好感度が高いようです。都落ちの際に、蛮行しなかったのが住民に好かれた由縁なのかな?今も京都東ICから出入りする人々を五条橋で弁慶と共に監視、いえいえ見守ってますよ。
期待してます。
2011/1/17(月) 午前 7:11 [ どらみ ]
どらみさん、京都で義経と静のラブロマンス史跡巡りなんかいいかも。歴史ブームと言いつつ戦国と竜馬と日露戦争オンリーの昨今、JR東海でキャンペーンやったらいいのにと思います。
天気が良ければ、そして二日酔いが酷くなければ、次の水曜日に義経系のスポットに行ってきます!!
2011/1/18(火) 午前 0:18