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さて、白旗神社を後にした取材班は鎌倉は腰越にやって参りました。
目指すは龍護山満福寺。
満福寺は義経が兄・頼朝に許しを得る為に書状を書いた場所。そう、あの有名な「腰越状」を書いたお寺です。
江ノ電・腰越駅近くのコインパーキングに車を停め、タバコ屋さんで道を聞くと、優しいおばあちゃんが「この道ま
っすぐ行けばありますよ。あなたの足ならそうねぇ、5分もかからないよ」と教えてくれました。
言われた通りに海岸に向かって歩いて行くと、江ノ電の踏み切りのすぐ向こうに「源義経」の文字を染め抜いた
のぼりが見えました。満福寺です。
元暦元(1184)年、平氏追討の功績により、義経は後白河法皇から左衛門少尉に任ぜられ、検非違使となりまし
た。しかし、義経が自分の許可無く勝手に朝廷の官位を受けた事に頼朝は激怒します。
朝廷に対抗する武家の政権を確立したい頼朝にとっては「あの野郎、何考えてんだ!!」となるのも尤も。
まだ官位を授ける地位にない頼朝にとって、自分の存在価値を否定された様なものだったのです。
平氏との戦いでも、義経の独断専行に頼朝は内心イライラしていた上に、義経についていた梶原景時から
「義経は戦功を自分一人の物としている」とチクリも入っていたのです。
義経は軍事の天才ではありましたが、こと政治的な事柄については鈍感と言うか無頓着で、後白河法皇はその
辺を見越して官位を授け、兄弟の仲を裂こうとしたのでしょう。
元暦2(1185)年5月に、義経は頼朝の怒りを解こうと鎌倉に向かいました。
しかし、義経や弁慶は、頼朝の許しが無いので鎌倉に入る事が出来ず、鎌倉一歩手前の満福寺で2週間程滞在
したそうです。
(↓)境内には義経の慰霊碑や…
(↓)弁慶関連の石などが。
義経は大江広元を通じて頼朝に許しを得ようとしましたが、腰越状はその時にかかれた物。
元暦2年5月24日の事です。
腰越状は、お寺の資料室に展示されています。
(←)義経の直筆サイン入りです。
この「腰越状」は、「不願為敵亡命」の六文字が抜けたため、こ
の寺に残ったという事です。つまり、下書きなのですが、それ
でもとても貴重なものです。
因幡前司殿…とありますが、これは大江広元の事です。
(←)腰越状をしたためる義経。(資料室の襖絵)
腰越状を取り次いで貰うも、頼朝の許しは出ず。
義経主従は京都へ帰って行きます。
ここから、義経の悲劇が始まる事になりました。
この後、朝敵の汚名を着せられた義経は、吉野から奥州までの逃避行に入ります。
そして最期は奥州平泉で自刃…。義経の華麗な活躍と悲劇的な最期は「判官贔屓」と言う言葉を生み、そのキ
ャラクターはヒーローとして神格化され、現代まで語り継がれる事となるのでした…。
(←)展示してあった笹竜胆の紋章入りの鎧。ま、まさか義経の物!?と思いましたが、お寺の方によると「義経とは関係ないんですよ〜」との事でした…。
さて、この満福寺ですが、思ったよりもこぢんまりとしており、目の前を江ノ電が行きすぎ…
ワンコが遊ぶ、何となく和んでしまうお寺でした。
【グルメ情報】お休み処の「義経庵(ぎけいあん)」のしらす丼は、知る人ぞ知る穴場グルメです。
(参考) 鎌倉ぶらぶら 鎌倉の観光ポータルサイト
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鎌倉怨霊散歩
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しらすどん
が気になって気になって、ネットで検索しちゃいました
。
しらすの旬て3月からの春時期なんですね。
義経庵てしらすどんを食べながらピアノの生演奏が聴けたり、土日は元関取が作るちゃんこ鍋が食べれたり、2階にはお座敷や江ノ島が一望できるパーティールームっぽい部屋(からおけセットやグラスセット有り)もあるんですねぇ。
おもしろい茶帽だぁ、行ってみたいー。
たくさんの墓を見下ろしながらここで春のオフ会なんてのも、心霊ブログとしてはいいんじゃないですか。
記事の内容からずれてすんません。
2011/1/21(金) 午前 10:25 [ クリリン ]
クリリンさん、脱線コメが当ブログの華ですから!!
でも「義経庵」は評判いいみたいですよ。しらすが旬の時期はどこも観光客の行列が出来ますが、ここはそうでもないみたいだし。コーヒーも美味しいらしいし。(私が行った時は定休日でしたが。)宿坊も兼ねているそうなので、お泊りオフ会もいいかも!!
2011/1/21(金) 午後 11:39
ウチのお袋は、ここに来るともの凄く気分が悪くなるって言っていた。
出ると嘘のようになんともなくなるらしい。
やっぱり何かこう漂っているというか、溜まっているのでしょうかネェ。
2011/1/22(土) 午前 6:16 [ リットリオ ]
リットリオさん、やはり義経の怨霊が漂っているのでしょうか!?
私はモンゴルに渡ってジンギスカンになったのだと思ってましたが(笑)。
2011/1/26(水) 午前 11:24