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「岩船地蔵堂」の記事で出てきた悲劇の純愛カップル、大姫と義高ですが、大船の常楽寺に二人のお墓がある
と聞き及んだので行ってみました。
(↓)茅葺きの山門。鎌倉市の指定文化財です。
常楽寺は三代執権北条泰時が母の供養に立てた「粟船御堂」が前身となっているそうで、大船(おおふな)の地
名はこの粟船(あわふね)にちなむとされています。
また、大姫の亡き後、母・北条政子が大姫と義高の為に阿弥陀三尊を安置した仏堂を建てたのが始まりとも云
われております(常楽寺略記)。当ブログ的にはこちらの説を採りたいところ。
何はともあれ、小さいが由緒のあるお寺です。
鎌倉三名鐘の一つで、鎌倉最古と言われる梵鐘を持ち(鎌倉国宝館に寄贈)、常楽は建長の根本なりと言わ
れ、篤く信仰されているお寺です。
(↓)茅葺きで趣き深い文殊堂。安置されている文殊菩薩坐像は秘仏の為、普段は見る事が出来ません。
(↓)本尊阿弥陀三尊を収める仏殿。天井には見事な雲竜が描かれておりました。
(↓)仏殿裏手の墓所には北条泰時の墓所があるのですが…。
しかし、大姫と義高のお墓が見当たりません。
しかたなく寺務所のチャイムを鳴らし、出てきてくれた女性の方に「あのう、源義高のお墓は…」と訊ねると、
しばし首をかしげ「みなもとの…?ああ、木曽義高ね」と。「門を出て右に垣根伝いに歩くと裏の丘に上がれま
すので、その上ですよ」と教えてくれ、もし良かったらとお寺のパンフレットもくれました。「大姫のお墓は」と聞く
と、その途中にありますよとの事。朝のお掃除中でお忙しい中、有難うございました。
教えられた通りに行くと、寺の墓所を抜けた先が裏山に続く山道となっておりました。
山道と言っても住宅に囲まれ、上を仰いでも民家が立ち並んでおります。
遊歩道みたいに整備された道を登っていくと、森の中に小さな可愛らしい祠がありました。
傍らの立て札には「姫宮の墓 (泰時公の娘)」と書いてありました。「泰時の娘」とは三浦泰村に嫁いだ娘の事
で、宝治の三浦合戦で甥に当たる北条時頼に夫を攻め滅ぼされたこれまた悲劇の女性です。
あれ?大姫じゃないじゃん…と思いきや、こちらが大姫の墓だという説もあるそうです。
せっかく来たのだから、そう言う事にしておきましょう。
そして更に登ると、丘を登りきった所に小さな公園があり、そこにこんもりとした塚がありました。
こちらが「木曽塚」と呼ばれる、木曽義高の墓所です。
墓標には「木曽清水冠者義高公之墓」とあります。冠者とは元服して間もない男性の事です。
齢12歳で殺された義高の悲哀が感じられます。
考えたら、うちの長男と同じ歳だ…(数えと満の違いはあるが)。
塚には、古い石塔の跡(?)が残されております。
『鎌倉攬勝考』によると、義高の遺体は首実験の後に田圃に塚(木曽免)を築いて埋葬されましたが、田の持ち主
である石井某が掘り出して常楽寺に移し、塚を封じて「木曽塚」と称したとの事です。(常楽寺のパンフレットより)
石碑の碑文にもそんな様な事が書いてありました。それによると、塚がここに移されたのは延宝年中(1673〜16
81年)だそうです。
この近くの離山と言う場所に木曽免と呼ばれる塚があったと言われ、江戸時代に田畑の拡張の為に掘り返した
ところ青磁の瓶が出てきたと。そこでこれは義高の遺骨に違いないとされて、常楽寺の裏山に埋葬したという話
もあるそうで、おそらくここがその埋葬地なのでしょう。
義高の墓も大姫の墓も「そうではないか」の域を出ませんが、ここはまあ、そういう事にしておきたいところです。
現在、二人の墓は同じ寺の境内に仲良く納まっております。
−と言い切って、大姫と義高の物語を締めくくりたいと思います。
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鎌倉怨霊散歩
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七枚目の写真右端、「む? 何だこの人っぽいのはっ!? まさか心霊写真──っ」って思ったら、枝切りしているただのオジサン(か、お兄さん)じゃないですか・・・。もぅ。
2011/1/22(土) 午前 6:21 [ リットリオ ]
リットリオさん、確かに植栽のお手入れ中でした。大事にされているのが良く判ります。
2011/1/26(水) 午前 11:26
普通3代執権泰時の娘のお墓を父親のお墓からあんなに隔離された場所には置きませんよね?仮にいくら泰時親子が周辺に恨みを買っていたとしてもです。
そもそも木曽塚の信憑性の時点で問題があるのは残念ですが・・・
2012/8/16(木) 午後 10:54 [ マナ ]
マナさん、どっちにしろ、お墓にはとうてい見えない感じではありましたが…。まあ、当ブログ的には、そう言う事にしておこうと思っております。
2012/8/16(木) 午後 11:20