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「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな」
(鎌倉の大仏さんて さわやかで 仏のクセに かなりイケメン :TO意訳)と与謝野晶子に詠まれた
鎌倉の大仏。
「やわ肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」なんて、スーパーセクシーな歌を詠む
情熱の女流歌人にこんな風に言われるとは羨ましい限りです。
でも、釈迦牟尼と言ったのは晶子の間違い(『吾妻鏡』にもそう誤記されてるから晶子はそれに従った
か?)で、正しくは阿弥陀如来です。
釈迦も阿弥陀も同じ様に見えますが、実は全くの別人(と言うか「別仏」)。
釈迦はご存知ゴータマ・シッダルタさんで、この世で唯一仏陀(悟りを開いた人)となり、仏教の源と
なった人です。
それに対し、阿弥陀様は言ってみれば釈迦の先生とも言える仏様です。
釈迦は地球上でただ一人の仏陀ですから地球では一番尊いのですが、宇宙スケールで言うと十方諸仏
(数え切れない数の仏陀)の一人であり、阿弥陀様は「本師本仏」つまり全ての仏の師であるとされていま
す。釈迦は先生である阿弥陀様の御心を人々に教えていった。それが仏教となったのです。
ちなみに「如来」とは悟りをひらいた人、すなわち仏陀の事で、釈迦如来以外にも薬師如来とか大日如来とか弥
勒如来とか何人もいらっしゃいます。彼らは皆阿弥陀様の弟子であり、阿弥陀様が一番偉いのです。
(以上は浄土真宗の考え方。)
そんな仏教豆知識はどうでもいいとして。
比較的マイナーなスポットを巡るのが旨の「怨霊散歩」ですが、酔石亭主さんから頂いたコメントに触
発されて、鎌倉の超目玉観光スポットに行って来ました。
鎌倉の大仏がある長谷界隈は、鶴岡八幡宮と並んで観光客で賑わう場所です。
今日も平日(1/31)にもかかわらず大勢の人がそぞろ歩いておりました。
パーキングに車を停め、大仏に向かっていると…やっぱりありました。
「オバマッ茶ソフト」!! 絶対この手の駄洒落アイスが出てると思ったんだよな〜。
―美味しそうだがこんな寒い日にアイスを食う気にもなれずスルーしました。
さて、鎌倉の大仏さんです。もちろん国宝です。拝観料(200円)分以上の見応えはあります。
境内には多くの観光客が来ております。外国人旅行者の姿も多いです。シャッターを押してあげた外人カップル
はドイツからきたそうな。
この様に世界的に有名な鎌倉の大仏さんですが、実は誰が何の為に造ったか、今ひとつ良く判っておりませ
ん。『吾妻鏡』にもチラッチラッと記述が見えるだけです。奈良東大寺の大仏は国家を挙げての一大プロジェクト
で造られたのに、鎌倉の大仏は幕府が総力を挙げて建立した…と言う感じではまったくないのです。こんな大き
な仏様なのに…。
そもそも、鎌倉に大仏を望んだのは頼朝でした。京に対する独立性をアピールする為、また鎌倉武士の心の拠
り所として、奈良東大寺の大仏に匹敵する大仏を置きたかったのでしょう。
高徳院の由来記によると、正治元(1199)年に頼朝が急死した後、遺志を継いだ侍女の稲多野局が発願し、勧進
僧・浄光が諸国から浄財を集めて建立したとされます。
『吾妻鏡』には、暦仁元年(1238年)に「初代」大仏の建造が開始され、5年後の寛元元年(1243年)に開眼供養が
行われたと書かれています。
「初代」と言うのは、この時の大仏は高さ8丈の木製仏だったのです。仁治3(1242)年の『東関紀行』には大仏&
大仏殿が3分の2ほど完成していた事、大仏は銅製ではなく木製であった事が書かれています。
その後、初代大仏は何らかの原因で失われ(宝治元【1247】年の台風で倒壊したとか、銅製大仏の原型だったと
言う説があります)、建長4(1252)年から金銅八丈の釈迦如来像の造立が開始されたと『吾妻鏡』には書かれて
います。「釈迦如来」と言うのは誤記で正しくは「阿弥陀如来」であると言うのが定説で、つまりこの二代目大仏が
現在まで残る鎌倉の大仏だとされております。
ちなみに、高さ8丈と言うと約16m。ただし、仏像の高さは「立った時の高さ」を言うので、座像の場合なら実寸は
その半分強でしょう。つまり高さ10m位の大仏と言う事になりますが、鎌倉の大仏の仏身高は約11mですので、
誤差を考えると同一のものとしてほぼ間違いないと思われます。
銅製の二代目大仏ももちろん大仏殿に納まっておりましたが、天災により何度か破損・倒壊しつつ、明応7(148
8)年の大津波で流され、以後鎌倉の大仏は露座のまま現在に至ります。
(↓)江戸末期の鎌倉の大仏さん。「夏木立」と詠んだ与謝野晶子の時代もこんな感じだったのでしょうか?
(↓)高徳院境内のあちこちに残る大仏殿の礎石。参拝客のベンチがわりになっています。
しかし、僧・浄光とは何物なのかも良く判らない。一人の僧の力でこの様な巨大な大仏の建造計画が実行出来
るとも思えないし、銅製の大仏がいつ完成したのかすら記録が残っていない。 幕府はある程度の援助はしたら
しいが、表立っては動いていないのは何故なのか。
鎌倉の大仏さんは謎だらけなのです。
鎌倉の大仏の謎なんて、ど素人の私がいくら調べても解明できるわけもありませんが、一応それらしい事を書か
ないといけません。以下はかなり眉唾な考察なので、あまり信じないで下さい。
鎌倉の大仏建立の目的は怨霊を封じる為と言う説があります。ようやく「怨霊散歩」らしくなってきました。
では、誰の怨霊を封じようとしたのか。
大仏まで建てないと封じられない怨霊とはかなり凄まじいモノの筈ですが、幾つか候補は挙がります。
①平氏の怨霊…もっともらしい気もしますが、元暦2(1185)年に壇ノ浦で平氏が滅亡してから初代大仏建造まで
53年も経ってますので、今更感が漂います。やるならもっと早くやってるでしょうし。
②義経の怨霊…もっともらしい気がしますが、宝治3(1249)年に白旗神社(現在は藤沢市)に祀られているの
で、大仏に封じられているとは思えません。
③後鳥羽上皇らの怨霊…もっともらしい気がしますが、後鳥羽上皇らは後に新宮(今宮)に祀られております。
もし大仏が後鳥羽上皇らの霊を封じているのなら新宮は必要ありません。
④北条に滅ぼされた有力御家人達の怨霊…もっともらしい気がしますが、初代大仏建造までには梶原・比企・
畠山・和田などは既に滅んでいましたが、北条最大のライバル三浦氏は健在でした。このタイミングで滅んだ連
中の為に大仏を造る必然性北はありません。ところが、初代大仏が台風で倒壊したとされるのは奇しくも宝治合
戦で三浦氏が滅んだ年で、三浦氏鎮魂の為に改めて銅製大仏を造ったのではないかと言う説もあります。
うーん、もっともらしい。
しか〜し!!銅製大仏は実はもっともっと早い時期から計画されていたフシがあるのです。
鎌倉の大仏は厳密に言うと銅ではなく銅合金で作られております。昭和34年から36年にかけて行われた修理・
耐震補強工事の際、試料を採取して、電子線マイクロアナライザーによる材質調査が行われた結果、鎌倉大仏
の銅成分は中国公鋳銭に近いということが判明しました。 長門長登銅山は産出量が豊富で、東大寺の大仏建
造に380トンもの大量の銅を供給しました。しかしその様な銅山も鎌倉時代には枯渇し、銅資源が不足していた
ので、当時の日本では鐘や仏像の材料として宋から輸入した銅銭が使われたのです。
大仏建立の勧進をした浄光は、延応元(1239)年に人別一文銭の勧進を北陸や西国に下知さるべく幕府に願い
出ております。既に出された下知で山陽山陰からは寄進を得てるが、更にエリアを拡大して欲しいと言う様な嘆
願でした。どうもこれは資金集めと言うより原材料集めくさい。
幕府はこれに応じて刀剣などを供出し、仁治2(1241)には罪人を逃がした預人から過怠料を徴収して大仏建立
に寄進する様に下知を出しております。(幕府はその後も銅銭寄進の下知を出している。)
ここで重要なのは、延応元年(初代大仏建造開始から1年後)以前に銅銭大仏建立寄進の下知が出ている事
で、この事が初代大仏以前から銅製大仏の建造を計画していたのではないかと思わせるのです。
浄光は「男女45億人(当時の「億」とは10万の事)いるので、一人一文で4万貫余りの銅銭が集まる」と主張してお
り、この4万貫の銅銭というのは鎌倉の大仏鋳造に必要とする銅の量とぴったりと一致するのです。これが
偶然の一致でないとすると、浄光は早い時期に銅製大仏の設計を行い、必要な銅の量を計算していたと言う事
になります。
するとやはり初代大仏は銅製大仏の原型として造られたのではないかと言う気分になります。初代大仏が木製
だった、大仏殿があった、と言うのは先に挙げた『東関紀行』に書かれている事ですが、『東関紀行』は作者不詳
で事実か疑わしい記述も多い書物だそうで、史料としての価値を認めない研究者も多いとか。『東関紀行』の
大仏は塑土(粘土)で造った原型で、大仏殿に見えたのは工事用の仮屋か何かだったのではないかと言う説も
あります。当然ながら、銅製大仏の鋳造には実物大の原型が必要なのです。
(鎌倉大仏高徳院さんのHPに「大仏の鋳造法」が動画で紹介されておりますので、是非ご参照下さい。)
(↓)20円で胎内に入れます。頭の真下から見上げる。丸いツブツブの凹みは
(↑)茶色いガムテープみたいなのは、地震で首がもげないようにFRPで補強した部分です。
(↓)幾層にも分けて鋳造したのが良く判ります。
初代大仏の開眼供養の際には10人かそこらしか参列しなかった様子が『吾妻鏡』に書かれており、いくらなんで
も寂しすぎるだろうと思っていましたが、これが「単なる原型」の完成式典だとすれば、参列者の少なさもまあ
何となく納得できます。
高徳院由来記どおり稲多野局が発願して大仏建立計画が始まったとして、頼朝の死から初代大仏の建造開始
まで40年近くかかっております。稲多野局がいつ大仏建立を発願したのかは判りませんが、かなり長い期間を
かけて準備したと言う事になります。しかし、いくら何でも長すぎる様な気がしないでもありません。頼朝の遺志
を実現するならもっと早く大仏を造っても良さそうなものです。
さて、ここからTOスーパー眉唾説「鎌倉の大仏の謎を解く!!」が始まるのでですが、文字制限に引っかかりそう
なので、続くにします。
しかし、こんな与太話を読んで下さる方がいるのでしょうか…。 |
鎌倉怨霊散歩
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勉強になります。
釈迦と阿弥陀の違いって、初めて知りました。
派が違うんじゃない?と思ってました。
2011/2/3(木) 午後 6:42 [ ま〜くん♪ ]
鎌倉大仏は書く側にすれば謎だらけで面白いのですが、読む側にとっては歴史が複雑でわかりにくく、しかも実物が存在するだけに、興味をあまり引かない対象でしょうね。いずれにしても、難しいテーマであることは間違いありません。私も現在ブログに書き続けていて、ようやく三分の二まで書き終わったところです。サブカテゴリ「鎌倉の謎を解く」の「鎌倉大仏の謎」その1から10までが関連記事で、できるだけ独自の視点で書くようにしています。参考にしていただいてもかまいません。TOさんの記事の方向性がねじ曲がっても責任は負い兼ねますが…。
2011/2/3(木) 午後 6:48 [ 酔石亭主 ]
まーくんさん、仏陀は宇宙に沢山いるといいますが、グレイタイプの仏陀や巨人型仏陀、タコ型仏陀なんかもいるのでしょうか?いるんでしょうねぇ〜。
2011/2/3(木) 午後 10:50
酔石亭主さん、有難うございます!!仰るとおり、鎌倉の大仏は難しいです。それだけに面白いですが。次回記事はかなり方向性がねじまがっていると思いますので、乞うご期待です!!
2011/2/3(木) 午後 10:53
漢字ミスってました(^_^;)大沸→大佛です。失礼しました〜。葉書の中の一枚が、TOさんのblogの江戸末期の写真に風景がそっくりなんですよ〜!この葉書セットじたいは大正時代かそれ以降に作られたっぽい感じですけど。大仏を背後から撮った写真、仁王門方面も木々だらけ。昔のほうが風情あったんだな〜って…。off会にでも持参しますよ (^_^)v
2011/2/6(日) 午後 11:41 [ 波乗り娘 ]
波乗り娘さん、是非見せてください!!
火曜日の立ち飲みオフ会ですが、忙しくて予定を立てられないのが恐縮です。「今日、飲みに行きます」と、ゲリラ的に開催したいと思いますので、ご都合が合えば是非!!
2011/2/7(月) 午前 10:52