旅の怪

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船旅

いよいよアテネを離れる朝が来た。これから私は船でイスラエルに行く。
 
長く世話になった、『Pella In』との看板がぶら下げている安宿をチェックアウトするが、人懐こい宿のオヤジが泣きそうな顔をしている。なにしろ、ここには何ヶ月いただろう。古ぼけた建物のが群がる一角に、そこだけ小奇麗なその宿は、世界中から集まる貧乏旅行者で常に賑わっていた。アテネの安宿としては大したもので、ヒーターはきちんと機能し、シャワーからも熱い湯がほどばしる。思い返せば、アクロポリスの麓で一服していた白バイの若い警官と仲良くなり、紹介してもらったのがこの宿だった。警官が紹介するくらいだから間違いないだろうと思って訪ねたら、本当に間違いなくいい宿だった。愛想のいいオヤジが構えるレセプションの壁には、白バイに跨った若者の写真が誇らしげに飾られていたが。何の事はない、あの白バイ警官の実家だったのだ。
 
それは兎も角私はこの宿を大変気に入り、途中でエジプトに行ったり、トルコに行ったりしたが、拠点はここに置いていた。そんな遠出の時は、不急不要の荷物を預かってくれたりもした。そして帰ってくると、「お帰り。今度は何泊だい?」と、オヤジがニコニコ顔で迎えてくれたものだ。数日前に迎えたクリスマスの日には、「日本語で『メリークリスマス』はどう言うんだ?」 とオヤジが聞いてくるから、「『メリークリスマス』だ」と答えたら、周りに居た女の子達に大うけしたっけ。泣きながら抱きついてくるオヤジに、残りの宿代としてドラクマ札を渡しながら、「Να μας ξανάρθετε(また、来るよ)」と、おぼえたてのギリシャ語を残し、エルム通りをシンタグマ広場に向った。
 
そこでバスの乗ろうと思ったのだが、港行きのバスが見つからない。仕方なく、オモニア広場にある地下鉄の駅まで歩いた。地下鉄(と言っても殆どの区間は地上を走っていたが)に20分も揺られると、古代のポリス時代から栄えたピレウスの港に着いた。古くからの港の常で、灰色を基調とする煤けた風景に、活気と怠惰が溶け込んでいる。東洋の果てから辿り着いた旅行者などは無視するかの如く、港には何の案内板もなかった。一体全体、私が乗るべきイスラエル行きの船はどこにあるのか。さっぱり判らない。地下鉄の駅に戻ると、フランス系らしき船会社のオフィスがあったので訊ねると、さもめんどくさそうなレディーが、「中央税関で聞いたら?」と、いい怪訝な地図を走り描いてくれた。カチン!!とボールペンのフタを閉めた音がオフィスに響き、それはとっとと出て行けとの意思表示に他ならない。
 
これが地図と言えればの話だが、地図を頼りに、潮風と油の匂いとディーゼルの騒音と男達のだみ声、それに海鳥の鳴き声が混じり合う埠頭を彷徨うように歩く。すると、不釣合いに立派な建物が見えてきた。あれが中央税関のようだ。行って見ると、立派なのは遠目だけで、半分廃虚化した古ぼけたビルだったが、とりあえず中央税関の建物である事には違いなかった。中に入っても受付も何もなく、がらんとしたロビーがあるだけだ。廊下にはいくつかのドアが並んでおり、とりあえず一番手近なドアをノックする。出てきた小太りにイスラエル行きの船はどこだと聞くが、早口のギリシャ語でまくし立てられただけで、何を言っているかさっぱり判らない。すると、廊下を歩いてきた初老の紳士が、「ちょっと、耳に入ったから来たんだが…」と話に割り込んできて、上手な英語で親切に船乗り場の位置を教えてくれた。彼は何度か日本に行っており、日本人の友人も多い親日家だそうだ。
 
教えられたとおりに歩くと、パスポートコントロールの建物があった。そこでパスポートに出国のスタンプが押され、その先で荷物のX線検査があり、建物を出た先に船が泊まっていた。地中海をハイファまで3日かけて渡る船なので、それなりの大きさを想像していたが、それよりは随分小さく、阪九フェリーよりも小さそうな勢いだ。そうは言っても、こちらは船の大小を言える身分ではない。私は部屋や席もない、「デッキ・クラス(甲板で寝ろ)」の乗客なのだ。乗船までの数時間を埠頭で待つが、冬のギリシャは結構寒い。もちろん寝袋や防寒衣料は持っているが、これでデッキだと相当キツイなぁと思いながら景色を眺めていると、周囲には、私と同じ様な貧乏旅行者が三々五々集まってきた。ようやくゲートが開けられる頃には、それは100人近くになっていた。
 
もう一度パスポートのチェックを受け、係員から「他人から預かった物はあるか?」としつこく聞かれた。お人よしの日本人が見ず知らずの人から物を預かってイスラエルに持ち込むケースは多い。見ず知らずの人は大概テロリストで、預かる物は大概爆弾だったりする。今まで国境でこんな事を訊かれた事は無かったが、さすがはイスラエル行きの船だけの事はある。ようやくチェックを終えてタラップを上ると、私達デッキクラスの乗客…いや、荷物は船頭に誘導された。そこには、「ギャラリー」と呼ばれる船内のパブリックスペースがあり、片隅に小さなパブが設えられていた。日本風に言うと「大広間」だろうか。壁際にソファー並び、ホールにはテーブルと椅子が配置されている。どうやら慣習的にここがデッキクラスの「荷物」置き場になっているらしく、「荷物」たちは皆それぞれテーブルの下やソファーの上に自分の居場所を造っていく。私も壁際のソファーを寝床とし、両隣で同じ事をしている銀髪のオヤジと、明らかにイタリア人と判る兄ちゃんに挨拶した。
 
そこから3泊の船旅が始まったのだった。「ギャラリー」のパブには無愛想な姉ちゃんと、そこそこバリエーションに富んだ食い物、そして酒とタバコが置いてあった。一段落する頃、いつの間にか船は埠頭を離れ、港は暮れなずんでいた。時計を見ると、1時間ほど遅れて出航したようだ。デッキに出ると、船は狭い水路を縫いながらピレウスの灯を後方へ押しやろうとしている。湾内なのに波は高く、揺れる。遠ざかる陸の灯を見送りながらタバコをふかし、寒くなってきたので寝床に戻ると、ギャラリーの住人達は殆ど寝袋にくるまい、芋虫のように床に転がっていた。私も寝袋に納まり、酔っ払いとその子供がじゃれる声を聞きながら眠りに落ちた。
 
朝8:00。ソファーの上も寝心地は悪くなく、熟睡して目が覚めた。窓の外は真っ青な海と空が広がっている。並も穏やかで、揺れは殆ど無い。一夜明けたギャラリーは、まるで難民船の様相を呈していた。床一面、ごちゃごちゃとした生活感が漂い、まるで何年も前からこうだったかのように感じられる。まあ、こっちの方が気を遣わなくていいが。
デッキに出ると、船はエーゲ海の島々を追い越し、舳先ではイルカの群れが跳ね飛びながら随行している。野生のイルカって初めて見たが、まるで陳腐な映画の1シーンだ。陽光が燦燦と降注ぎ小春日和の中で、する事もないので、タバコとビールで時間を潰す。お隣さんのイタリア人が「カードでもしようぜ」と誘ってくるので、銀髪オヤジとその辺にころがっていたトルコ人をさそってポーカーをする。小銭をかけてやっていたが、どうもイタリア人だけ勝ちまくるので、銀髪がニヤリと笑って「手口はわからんが、イカサマだろう」と、片言の英語で言った。彼は、ドイツ人だそうだ。見た目がクリント・イーストウッドに似ていたので、周囲から「ダーティー・ハリー」と呼ばれ始めていた。ハリーの言葉にイタリア人は、「俺はナポリでこれで食ってたんだ」と笑う。私がカードを切りながら、「じゃあ、次はAのフォーカードだ」と言って配る。ハリーと、トルコ人と私がイタリア人の手元を注視しながらゲームは進むが、何らあやしいところはない。そうして、トルコ人がフルハウスを嬉しそうに広げると、イタリア人は「Aの…」と言いながらカードを広げた。「フォーカードだ」。これには、暇つぶしに後ろで見ていた連中も感嘆し、次々とリクエストを出し始めた。イタリア人はそれに応えて次々とフラッシュ、ストレート、フルハウスを披露していく。さすがにロイヤルストレートフラッシュは無理だろう。そんな声に彼は笑いながら「そう言われるだろうと思って、作っておいた」と言った。開けられたカードはロイヤルストレートフラッシュだった。どうやってるんだ!?との周囲の問いには彼は笑って答えなかった。イタリア人は、私達から巻き上げた小銭で酒を買い、ご馳走してくれた。
 
(文字制限の為、続く)
 
 
 
 

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