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ずっとほっぽらかしてた癖に一度始めると続いてしまう当ブログの癖。
ご興味のない方、じき飽きますので今しばらくのお付き合いを頂ければ…。
と言う訳で、寿福寺にも立ち寄ったので、ついでに。
政子さんと実朝くんの記事が畠山とか梶原のついでとはアレなんですが、仕方がない。
私TO、マイナー好きなんで。
さて、平日にもかかわらず大勢の観光客や遠足修学旅行の学童学生で賑わう
小町通りから、横須賀線の線路一本渡るだけで、静寂感あふれる落ち着いた空気になります。
そんな中に佇む古刹が寿福寺です。
(↓)総門
鎌倉五山第三位。開基は北条政子、開山は栄西。
栄西は言わずと知れた臨済宗の開祖です。
鎌倉的にはむちゃむちゃ格の高い由緒ただしいお寺さんです。
(ちなみに、開基とは創立者いうなればスポンサー的な人、開山は初代住職の事です。)
正治2(1200)年、前の年に亡くなった頼朝さんの菩提を弔うために創建したと伝えられております。
もともとこの地は、源範義が奥州征伐の戦勝祈願をし、頼朝の父義朝の居館があったという
父祖伝来の地だそうで、政子さんにとっても特別な場所だったのです。
とは言え、麗美さはなく、鎌倉の寺らしく全く質素。
総門から本堂へ向かう参道には、心地よく静かに秋の風がそよぐ。
本堂。門が閉ざされ入れない…。
本堂の裏手にまわります。
本堂裏の墓地の奥に、政子さんと実朝くんのお墓があるそうな。
寿福寺の墓地には、陸奥宗光さんとか大仏次郎さんとか、高浜虚子さんら、そうそうたるメンバーが
永眠しておりますが、失礼ながら今回は割愛させて頂きます。
あそこかな?
それっぽいやぐら群があります。
近くば寄って目にも見よ。
―お。やっぱり北条政子さんのお墓でした。
…と、言うところで、画像の容量が不足したとかでこれ以上写真を載せられなくなりました。
(続く…)
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ここで、「鎌怨」にも度々登場する、「鎌倉一の嫌われ者」、梶原景時さんにご登場頂きます。
景時さんと言えば、いわずと知れた、鎌倉幕府の讒言キング!! マスター オブ 讒言!!
三度の飯より讒言が好き!! 一に讒言二に讒言、三四は桂で五に讒言!! と言われております。
(言われてねえよ)
【注:「讒言(ざんげん)とは。[名](スル)事実を曲げたり、ありもしない事柄を作り上げたりして、
その人のことを目上の人に悪く言うこと。つまりはタチの悪い悪口。】
景時さんの讒言ベスト1は、平氏討伐戦の折に軍奉行(軍監)として義経についた時、折り合いの悪さから、
「義経は傲慢で言う事きかない。みんなホントに困っとります」みたいな事を頼朝に報告した一件でしょうか。
これが義経追放の一因を作った…と、見事、稀代のヒーロー義経の敵役となってしまいました。
また、上総広常を騙し討ち(囲碁を打ってる時に襲いかかった)したり、侍所所司(副長官)として、
やれ不忠だ謀反だ反乱だと次々と讒言を繰り出しては多くの御家人を排除し、周囲の反発を買いまくり。
しまいにゃまたぞろ謀反の疑いで結城朝光を断罪しようとしたところ、いいかげんいせえよと
御家人66人からの連判状で景時排斥が訴えられ、仕方なく所領の相模一宮に引き下がるハメに。
その後、鎌倉幕府に反乱の兵を挙げたはいいが、見事に返り討ちに遭い、一族は滅亡しました。
世に言う「梶原景時の変」です。
吾妻鏡では「二代の将軍に寵愛されたのをいい事に、やりたい放題し放題。長年積み重ねた悪事が
たたって身を滅ぼした」と、ケチョンケチョンに書かれる始末です。
(↓)梶原景時。どうせオイラは嫌われ者さ…
しかしですねぇ…大庭景親を祖先に持つ(半信半疑)私TOとしては、景時さんはご先祖様の親戚
ですから、あんまりそんなに悪し様に言わなくても…という気がしておるのです。
景時さんは、頼朝さんのおぼえは目出度く、それはまずあの有名な石橋山の逸話から始まって
いるようです。
そう、合戦に敗けて逃亡し洞窟の中に隠れていた頼朝さんを発見し、観念して自害しようとする
のを思いとどまらせ、「ここには誰もおらん」と槍の先についた蜘蛛の糸を大庭景親らにかざして、
窮地を救った…と言う、アレです。
まあ、こりゃ出来杉君なハナシで眉唾ですが、実際自分の捜索範囲に頼朝が隠れている事を知りつつ、
捜索隊を別の山に誘導したくらいの事はやったらしい。
もともと梶原氏は大庭氏とともに源氏の家人で、時代の流れでやむ無く平氏側にはついていたが、
心情としては、頼朝さんにシンパシーを感じていたのでしょう。
そんな訳で、頼朝さんが再挙して鎌倉に入った後、大庭景親は捕らえられ斬られましたが、景時さんは
降伏するやすぐ御家人に列せられると言う厚遇ぶり。土肥実平さんの取りなしがあればこそでしょうが、
景時さんは武勇だけでなく、和歌を読み教養もあり弁も立つと、坂東武士には珍しいタイプだったので、
頼朝さんのお気に召したようです。
景時さんは、以後頼朝さんの側近として、御所や鶴岡若宮の造成、諸行事の準備、囚人の監視から
政子さんの身の回りの世話などを一手に引き受ける、㈲頼朝の総務部長のような存在となっていきます。
頼朝さんの組織が㈱頼朝になってくると、前述のとおり侍所所司にも任ぜられます。
侍所と言うのは、御家人の進退賞罰・軍の動員の全てを司り、「ご恩と奉公」で成り立つ鎌倉封建制度の
中心となる最重要部署です。今で言うと防衛省と総務庁と人事院を足したようなものか。
侍所の長官(別当)には”頼朝親衛隊隊長”の和田義盛が就きますが、当時まだ若かった義盛さん
を補佐し、実権を握っていたのは景時さんだったようです。そしてその後は、侍所別当まで上り詰める。
周りの御家人からしてみれば、なんだアイツ敵だったくせに成り上がりやがって…とやっかみ
めいたものがあってもおかしくない上に、頼朝命の景時さんは職務に忠実、ビシバシと不満分子を
取り締まるもんだから、風当たりもますます強くなったのでしょう。吾妻鏡では、別当になった時も奸計
を巡らせて職を奪ったみたいに書かれていますが、侍所別当がちゃちな策略で奪えるような軽いもの
であるはずもなく、これは、景時でないと務まらんと判断した頼朝さんの意向と見るべきでは。
実際、愚管抄をして景時さんは「頼朝No1の家来」と評されております。
そして、頼朝さん亡き後、景時さんは二代将軍頼家さんにも重用されます。
ふつう、親父の息のかかった重臣を煙たがって窓際に追いやるのが二代目ですが、
景時さんなくしては幕府成り立たず…くらいに思っていたのか、景時さんは自分の乳母夫
(乳母の旦那さん)だったから無下にもできなかったのか。どちらにせよ、若将軍にとって
景時さんはいなくちゃ困る人の筆頭だったのはまず間違いない。
景時さんが失脚する直因となった結城朝光の一件は、裏では二代将軍頼家を引きずり降ろそう
とする北条氏の策略が見え隠れしております。
北条氏は二代目頼家さんになってからは落ち目になっておりました。
それは頼家の乳母には北条の女は一人もおらず、娘を嫁に出してるわけでもないから。
この時代、乳母というのは大きな影響力を持っており、養君が将軍とかになると乳母一族
も絶大な権力を握ることになってました。頼家さんの乳母には比企氏や梶原氏の女性が選ばれ
(頼朝の乳母が比企尼たっだことは有名)、北条としてはどうにも分が悪かったのです。
そこで北条は弟君の実朝くんに目を付け、政子さんの妹を乳母に付けていたのです。
そのうち、お兄ちゃんを追いやって実朝くんが将軍になれば…と、目論んでいた訳です。
実朝くんの乳母は阿波局といい、この人が結城朝光さんに「やばいわよ、景時が狙ってるわよ」と
告げ口した張本人ときたもんだ。それが元で例の連判状⇒景時失脚と相成ります。
連判状を頼家から見せられた時、景時さんは全てを察したかのように、一言も弁明しなかったそうです。
愚管抄を著した慈円は、「頼家は有力な乳母夫を失った…(やばいでぇ)」と書き、
これから先、北条氏は頼家さんの乳母たちを各個撃破で失脚させていきます。
つまり北条は、将を射んと欲すれば先ず乳母を射よ―で頼家包囲網を狭めていき、終いには…
というあたりはどっか以前の「鎌怨」に書いた通りです。
となると、北条徳宗家が書いたに等しい「正史」吾妻鏡で景時さんがクソミソに書かれるのは
もっともな事です。
もともと恨みを買いやすい立場だった上に、それを利用され、真相を歪曲して悪人キャラとして
後世に伝えられた景時さん。
単純な勧善懲悪と判官贔屓で義経ものがウケていた江戸時代の歌舞伎や講談では、
義経の格好の敵役として、完全にヒール化してしまいました。おかわいそうに。
景時さんを弁護するわけではないのですがと言いつつ弁護しますが(ご先祖の親戚だし)、
義経に対する不満反感を表明していたのは景時さんばかりではなく、むしろ大多数の御家人は
「なんだアイツは」と思っていたらしいし(この辺は、吾妻鏡にも書いてある)、
むしろ、実は、義経の実力(戦術指揮官では◎、戦略家・政治家としては×)を冷徹に見極め、
御所様(頼朝)=日本初の本格武家政権の安泰を図ったのが、義経に対する”讒言”では
なかったのか?
【TO劇場 義経と景時】
①一の谷の時。
九郎どの!!
いくらなんでも、そりゃ無茶じゃ!!
うっせーよ、景時はよー。
②屋島の時。
九郎どの!!
いくらなんでも、そりゃ無茶じゃ!!
うっせーよ、景時はよー。
九郎どの!!
いくらなんでも、そりゃ無茶じゃ!! うっせーよ、景時はよー。
【完】
讒言讒言といいますが、怪しいものを摘発するのが侍所の仕事だし。
怪しいというより、景時さんが討ったり摘発して首を(文字通り)切った相手は、頼朝さんが立場上
色々あって自分じゃ直接命令しずらいけど、あいついなくなんないかな〜と思ってた筈の人ばっかり
だし。上総広常さんなんて、自分の抱える大兵力をいいことに、頼朝さんに対しても上から目線だった
らしいし。
ちなみに、自分がミスった時には、景時さんはちゃんとペナルティーを与えられ、甘んじて受けてるし。
梶原景時の変にしたって、あの景時さんが倒幕なんて馬鹿な事を考えるとも思えず、
実際、兵を挙げて鎌倉に向かった訳でもない。
吾妻鏡は「反乱を企てた」と書きますが、実際はどうだったのか。
景時さん一族が滅ぼされたのは駿府でした。
上洛途中に(今の静岡市清水区あたりで)たまたま出くわした地元の武士や御家人と戦闘になったのです。
朝廷から、(鎌倉幕府を牽制する意味でか)九州司令官なる職を拝領したらしく、それで一族引き連れて
京に向かっていたところだったのです。
連判上を無言で受け入れた時点で、聡明な景時さんは、自分は北条に負けたと自覚した筈です。
それでも、反北条の頼家に「あいつらは、ああでこうで、つまりは頼家様に謀反を企てております!!」
とか、それこそ”讒言”する手もあったろうに、それをしなかった。
そんな事をすれば、自分への悪評にもかかわらず、御所様と共に創り上げていた鎌倉幕府に騒乱が
起こり、武士風情に実権を握らせまいでおじゃると虎視眈々と幕府転覆を狙う朝廷に付け入る隙を
与える事になる。
その後一宮の本拠の防備を固めたとされるのは、そのうち北条方が攻めて来るのは
火を見るように明らかだからでしょう。でも、今の自分の勢力では勝てる訳がない。
と言う訳で、一族が食っていくため朝廷に仕え、九州あたりでまずは何とかかんとか
生きていこうとしていた…のではないでしょうか。のんびりと。
鎌倉幕府創成期から頼朝さんの片腕となって、人から恨まれる仕事をかって出て、一所懸命働いて
幕府の体制を確立したかどうかと思う間もなく頼朝さんが亡くなり、御家人同士の主導権争いが
始まり、自らがそのターゲットになってしまう…。
だめだこりゃ。
景時さん、なんとなく疲れて、虚しくなってたんではないか。私TOはそんな気がします。
実際、景時さんの”弾劾”に加わった主な御家人は、殆ど皆、共食いの果、北条に呑まれる事となります。
景時さん最後の戦いでは、敵方に飯田家義がいたと、一部では伝えられております。
家義さんとは、石橋山ではともに頼朝さんと戦った仲。
家義さんは戦の中でとっとと頼朝さんのもとに下りましたが(頼朝が落とした念珠を持って参じた
話は有名)。
その時、景時さんの心中にはどんな想いが去来していたのでしょうか…。
「おお、あの家義がきよったか…」と、頼朝さんと戦場で出会ってからこの方までの思い出が
走馬灯のように脳裏を駆け巡っていたのでは…(涙)。
相変わらず前置きが長いというか、余りにも長すぎる!! すみません。
ともあれ、久々の鎌倉で、重保さんのお墓だけでは飽き足らず、うちのご先祖さんの親戚、
梶原景時さんの墓所と伝えられるところに行って参りました。
景時さんのお墓は、鎌倉市立深沢小学校の敷地内にあります。
物騒な昨今、怪しげなオヤジが勝手に入っていくとそれこそ不審者として捕まってしまいますので、
予め深沢小学校に電話してご許可を頂きます。
電話に出た方は、落ち着いたお声の女性で、景時墓を見学したい旨を伝えると快くOKを下さいました。
まずは教職員玄関にいらっしゃって下さいと。
(↓)放課後野球の子供達の歓声が響く深沢小校庭。なんか、懐かしいなぁ…。
そそくさと、言われた通りに教職員玄関に馳せ参じると、出迎えて下さったのは、お若い、
それもとても美人な、ホントに美人な、このくそ深沢小のガキ共はこんな可愛い先生に
教わってやがんのか!! と嫉妬するほど
美人な先生でした。
ヤニサガリ、そしてドキドキしながら「あのぉ。先ほどお電話したTOと申しますが…」と名乗ると、
「ああ、景時さんのお墓を見に来た…」とニッコリ♡
ももも、♪もしかしてだけど〜、この美人先生が案内してくれるのか!?
しょしょしょしょして、放課後の裏庭あたりで二人歴史談義に花が咲き、では、ちょっと飲みにでも…
と夜の大船あたりに繰り出して、いつしか二人は男と女の仲に…
ぐふ・ぐふ・ザクとは違うのだよ・グフグフグフフ…。
と妄想繰り広げる私TOをよそに、美人先生は「○○せんせぇ〜、いらっしゃいましたよ〜」と
誰かを呼ぶ。奥からお出ましになったのは、いかにもお人柄が良さそうな
ベテランの女先生。雲行きがアヤシイと感じつつ、言われた通りにまずは来校者名簿に名前を記入し、
「来校者」の札を首から下げます。
これでもはや不審者ではなくなった私TOを、オバ…いやいや、ベテラン女先生は、
ささ、どうぞこちらですよと、とてもご丁寧に、ガッカリ…いや、ガッカリしてない!!
決してガッカリしてない!!ゼッタイガッカリなんてしてない!! 私TOを案内してくれました。
(美人先生はとっとと校門の方へ…ご帰宅されました…。)
給食室の裏手に周り、この先ですよとおっしゃる先生に、「いやしかし、私も学生時代に近所で
バイトしてましたが、ここに景時の墓があるなんて知りませんでした」と言うと、「あらそうですか。
私はここで生まれ育ったので、子供の頃から当たり前でしたけど。オホホ。」と、上品にお笑いに
なります。やっぱり、鎌倉生まれの人は品が良いなぁと思いつつ、ああ、あの美人先生に
後ろ髪ひかれ隊なまま、ふと見ると、ありました。
ある意味義経以上の悲劇のヒーロー、梶原景時さんのお墓です。
こういったの(やぐらとか空風火水地)は見慣れた筈の私TOの胸にも、
ご先祖様(の親戚)だけあって、何か迫るものがあるようなないような。
ご、ご先祖様(の親戚)、こんなになっちゃって…(合掌)。
ひとしきり拝んだ後、景時さんの墓所を後にします。
さよなら、ご先祖様(の親戚)!! またくるとも限らないからね。
で、この墓所の裏手、小学校に隣接して、御霊神社があります。
京都とかにある、怨霊鎮めの御霊神社と違って、鎌倉のそれは、関東平氏五家すなわち鎌倉・梶原・
村岡・長尾・大庭各氏の始祖の霊を祀ります。
五氏の霊すなわち五霊が転じて御霊となったとされます。だもんで、この辺にはあちこちにあります。
こちらの御霊神社は梶原氏の鎮守であり、江戸時代までは鎌倉権五郎景政夫妻の像を安置する
と共に、景時さんの像もあったそうな。
(↓)拝殿。
うーん、静謐。
拝殿背後の階段を上ると本殿が。割合こじんまりとしております。
と言う訳で、ご先祖さんの親戚の汚名を晴らした私TOは、もしかしたらあの美人先生に会えるかも
と、淡い期待を抱きつつ、夕暮れ迫る大船界隈へ向かうのでした…。
【梶原景時墓】
湘南モノレール湘南深沢駅より石橋を叩くように歩いて約1時間半。
(↓)これ、マジに欲しい!!―しかし、なぜ大阪の勝尾寺に頼朝と景時の墓が並んでたのか!?
謎だ…。
J7622 大阪 勝尾寺 源頼朝梶原景時の墓通常販売価格1,080円(税込)
商品説明中古のアンティーク絵葉書です。
明治から昭和初期の間に発行されたのをアンティーク絵葉書としています。 現在の絵葉書より小いさいため、郵便に使用することはできません。 経年劣化による紙焼けがあります。 コレクション品や研究資料としてご購入下さい。 |
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咳止めに重保さんのお墓にだけ行くつもりが、勢いついて鎌倉散策になってしまいました。
まずは、あちこちブラブラしながら、鶴岡八幡宮へ。
しかし、鎌倉の裏道っていいですなぁ。
八幡様の舞殿では、おごそかに結婚式が執り行われておりました。
境内には色とりどりの、こんぺいとう屋さんが出てました。
今日は長女の誕生日なので、プレゼントにザラザラと購入。
この後、取材班(いつのまに?)は、次なる怨霊スポットに向かうのですが、それはまた
別の機会に…。
今夜の皆既月食は曇ってて見えませんでした。残念!!
せっかく頂いたコメントのお返事もせず申し訳ございません。
記事を上げたあとにと思ってたんですが、なにぶんとても眠いので…ZZZ
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全く以て久しぶりの「鎌怨」です。2年半ぶりです。
実は、ここ1ヶ月位、咳が止まらくて、せきこえのどの浅田飴でも治らない。 困っているうち、あ、そうだ、あそこに行こう、ポム(膝を叩く音)、と思いついたので、
定休日にして好天な本日、行って来ました。
「畠山重保の墓」 に!!
何故、咳に重保なのかは後々として、畠山と言えば重忠、と思い出す方も多いかと存じます。
重保さんのお父さんである重忠さんは、頼朝挙兵時には平氏についていましたが、後に臣従。
武運の誉れ高く、清廉潔白なお人柄で「坂東武士の鏡」と称されたお人です。
なにより、私TOみたいな鎌倉フリークにとっては、「いいところでちょこちょこ顔を出す」ので親しみを 感じるお方です。
まず、石橋山の時は、大雨で頼朝と合流できず引き返して来た三浦と邂逅し、合戦。 双方痛み分けるも、三浦の要塞・衣笠城を攻めて三浦義明最期のドラマを演出しつつ討ち取った。
この時重忠17歳の若大将。
その後、源氏の旗下にあった先祖が貰った「源氏の白旗」を持って帰参して頼朝を喜ばせ、
先陣切って鎌倉入り。
養和元年鶴岡八幡宮社殿改築上棟式では、義経屈辱の馬曵きに付き合い、
義仲と戦った宇治川では溺れかかった味方を岸に放り投げて助け、
三条河原で一騎当千&絶世の美女・巴御前と一騎打ちして鎧袖を引き千切り、
平家討伐の鵯越では愛馬を背負って断崖を駆け下り、
静御前が鶴岡八幡宮で舞った折には伴奏の銅拍子を打つ。
色々あって、「謀反の疑い有り」との梶原景時の讒言(得意技ですな)にあったが、
色々あって申し開きもせずに許されるどころか頼朝から褒美まで貰う。
奥州攻めでは先陣を努めて奥州藤原氏を滅ぼし、捕らえられた泰衡郎党の由利八郎は
最初に取り調べられた梶原景時の傲岸不遜っぷりには立腹して全く口を割らなかったが、
替わった重忠の、礼を尽くした態度には感服して、問答に素直に応じたとか。
―-ウソかホントかは置いといて、智勇合わせ持ちつつイメージがあって数ある鎌倉御家人の中でも、
畠山重忠は、気は優しくて力持ち的いい人キャラになっているのだと思います。
(↓)重忠っつたら、やっぱ、これだよなぁ…。
お父さんの話が長くなりましたが、重保さんも父さん似で実直かつ勇猛だったらしい。 そんな重保さんが平賀朝雅という人と酒の席で諍った。
周りのとりなしで一度は収まったのに、根に持った朝雅さんは、「あいつひどいんだよ」と
嫁のお母さんに泣きついたのですが、その嫁のお母さんと言うのがよりによって、あの!!牧の方。
(日野富子がどうとか言うけど、悪妻っつたらむしろ、この女だろう。)
牧の方は夫である北条時政に、「畠山父子が謀叛を企てとります」と讒言します。
時政は、「え!?そうなの!?」とばかりに、畠山潰しに打って出ようかなと考えたりします。
北条氏としては、口実さえあればとっとと討ってしまいたい相手、それが畠山だったからです。
時は三代将軍実朝の世。 鎌倉殿の嫁&現将軍のママの実家とは言え、所詮は伊豆の豪族風情の北条氏にとっては、 武蔵国に絶大な勢力を持つ名門、しかも、頼朝が死に際して「我が子孫を守護するよう」遺言を受けた
程に信頼を置かれた畠山は目の上のたんこぶ以上の存在であります。
それまで、讒言ニストで人気はないが、頼朝の忠臣で御家人を統括する立場だった梶原景時も 色々あって滅ぼされ、頼朝の乳母一族をいい事に二代将軍頼家を擁立してブイブイ言わせてた比企氏も
滅ぼし、「有力御家人実権争奪レース」の一回戦・二回戦を勝ち抜いた北条氏のドン・時政としては、
このチャンスを見逃せる筈もございません。
それでも時政は、やっぱりいくらんなでもあの畠山を一方的に攻めるのもどうなのかと思ったらしく、 一応、息子の義時や時房に「謀叛のかどで重忠と重保を討ちたいんやが、どやろか?」と相談します。
しかし、息子たちからは、「あの重忠さんが謀反などする訳がない」と、(当然ながら)反対されます。
重忠さんの奥さんは、叔母さん(政子の妹)だし。義時にとって、重忠さんは友人だし。
それでもまた嫁の家の方からなんやかや言われて、たぶん半分やむ無く、時政は兵を挙げます。
時は元久2年6月22日。早朝から鎌倉は謀反人の討伐で騒然となる。
重保も、おっとりがたなで従者3人とともに由比ガ浜へ駆けつけたが、自らを取り囲む御家人衆を 見て事態を悟った。「謀反人は儂か!!」。
重保は武勇で鳴る畠山の名を汚すまいぞと奮戦するも、多勢に無勢。
戦いの最中に持病の喘息の発作が出た事もあり、戦場の露と消える。
父・重忠も、鎌倉に異変有りとの知らせを受け、本拠の菅谷館(今の埼玉県比企郡)から出立するも、 二俣川で義時率いる幕府軍が待ち構えていた。そこで初めて自らが謀反人とされていること、
同じ濡れ衣を着せらたまま息子重保も討ち死にした事を知った。
その時、重忠の戦力はせいぜいたぶん100騎かそこら。
しかし、そこで退く重忠である筈もない。
潔く戦い散るべし。それこそ武士の本懐。と、数千の大軍を迎え撃つ覚悟を決めた。
そこに先陣切って突入してくるのは、旧友である安達景盛。
(↓)ガンバレ!! 重忠!!
「おお、景盛!!一番槍とは見事なり!!存分に戦おうぞ!!」と言ったか言わんか知らんが、
たぶん、そんくらいの事は言ってるはず。
重忠は寡兵であるにも拘らず4時間に及んで戦うも、終には愛甲季隆放つ矢に討たれ、
首級を取られた…。 鎌倉に戻った義時は、「重忠の兵は出払っており小勢で、謀反は虚報であり、重忠は無罪です。 重忠の首を見るには涙を禁じえず…大変お気の毒で…」と(たぶん涙ながらに)報告すると、
聞いた時政は黙って引き下がった…。
その後、この一件をきっかけに時政は我が子である政子・義時によって、牧の方とともに鎌倉を
追われる事になるのですが、それはまた別の話。
―と、前置きが長くなりましたが、重保さんが戦いの最中、持病の喘息が出たため討ち死にした…
との由来で、重保さんのお墓とされる宝篋印塔は、咳に苦しむ人が願をかけると治ると言い伝えられて
いるのです。
そんな訳で、咳の止まらん私TOもここにやって来たのです。
由比ガ浜から来て最初の鳥居、一の鳥居の脇に重保さんのお墓はあります。
一礼して拝み、どうにかこの咳をお鎮め下さいと。
今でも、旧い鎌倉の人は「六郎様」と、この石造宝篋印塔を崇め、
ご覧のように、供えられるお花が絶えません。
願をかける時には竹筒の茶を注いだと云われ、往時は墓の脇に「六郎茶屋」(六郎とは重保の通称)
と言う茶屋もあったそうな。
私TOも、持ってたペットボトルのお茶をかけようかとも思いましたが、
いくらなんでも飲みかけでは失礼だろうと、遠慮しました。
(↓)巨きな木が、まるで風雨から守るように、重保さんのお墓を覆っております。
ゴホン、ゴホン。
重保さんのお墓を後にした私TOの咳は止まず。
おかしいなぁ、何でだろ?と訝しりつつ、今日2箱目のタバコの封を切る私TOでした。
【畠山重忠墓】
JR横須賀線鎌倉駅より欽ちゃん走りで約10分。
江ノ電和田塚駅より民主党の牛歩戦術で約3日。
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台風18号、ババっとやってきてササッと去って行きました。
台風一過の東京は抜けるように澄み切った秋空が広がりましたが…。
大変な目に遭われた方々(私も実はその一人)には心からお見舞い申し上げます。
どういでもいいですが、台風の「アジア名」って奴は、なかなか定着しないですね〜。
台風のアジア名って、どうやってつけてるかと言うと…
気象庁では毎年1月1日以後、最も早く発生した台風を第1号とし、
以後台風の発生順に番号をつけています。
なお、一度発生した台風が衰えて「熱帯低気圧」になった後で再び発達して台風に
なった場合は同じ番号を付けます。
台風には従来、米国が英語名(人名)を付けていましたが、
北西太平洋または南シナ海で発生する台風防災に関する各国の政府間組織である
台風委員会(日本ほか14カ国等が加盟)は、
平成12年(2000年)から、北西太平洋または南シナ海の領域で発生する
台風には同領域内で用いられている固有の名前(加盟国などが提案した名前)
を付けることになりました。
平成12年の台風第1号にカンボジアで「象」を意味する「ダムレイ」の名前が付けられ、
以後、発生順にあらかじめ用意された140個の名前を順番に用いて、
その後再び「ダムレイ」に戻ります。台風の年間発生数の平年値は25.6個ですので、
おおむね5年間で台風の名前が一巡することになります。
なお、台風の名前は繰り返して使用されますが、大きな災害をもたらした台風などは、
台風委員会加盟国からの要請を受けて、その名前を以後の台風に使用しないように
変更することがあります。また、発達した熱帯低気圧が東経180度より東などの領域から
北西太平洋または南シナ海の領域に移動して台風になった場合には、各領域を担当する
気象機関によって既に付けられた名前を継続して使用します。このため、下の表に記されない
名前が付けられた台風もあります。
…だそうです。(気象庁HPより。)
で、その140の名前とは?
今回の台風18号=アジア名:ファンフォンPhanfoneは62番目にありました。
しかし、なんで日本の提案した名前は星座名ばかりなんだろう?
しかも、結構マイナーな…。「コップ座」とか「コンパス座」とか、台風にあんま関係ないような…?
「とかげ座」なんて付けるんなら、どうせだったら「さそり座」にすればいいのに。
そしたら美川憲一も喜ぶのに。
明日、気象庁に電話して聞いてみよう。
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