ある日、奈良県明日香村で、ある人が芋やショウガを貯蔵する為の穴を竹やぶの中に掘った。
直径は60センチほど。
穴の底で凝灰岩の四角い切り石が見つかった。
有力者の墓である事を示唆するその切り石は、貯蔵穴から顔をのぞかせたまま、取り立てて人目を引く事も無く、静かに時を過ごした。
10年程を経た昭和45年。農業振興と観光開発を兼ねた舗道を村内に通す話が持ち上がり、説明会に出向いた村観光課の職員が、地元の住民から切り石の話を聞きつけた。
村観光課の課長は、住民から聞いた話を関西大学助教授の網干善教氏や県立橿原考古学研究所の関係者にその話を伝えた。
話を聞いた網干氏は「これは大変なことかもしれない…」と、直感的に思った。
―それが、戦後最大の考古学的発見と言われた「高松塚古墳」発掘のきっかけでした。
そして、あの「祟り」の始まりでも…。
高松塚古墳。皆様良くご存知の、直径約18mの巨大な円墳です。
奈良県の明日香村にある、7世紀終わりから8世紀初め頃の古墳です。
鮮やかな壁画(国宝)で知られ、またその壁画が(アホな役人のせいで)カビに侵されている為、石室を
さて、その高松塚古墳の発掘調査後、「日本版ツタンカーメンの呪い」とでも言うべき事態が起こってい
た事は、意外に知られていない様です。
(因みに、本家「ツタンカーメンの呪い」は当時のマスコミの悪ノリによるでっち上げでしたが。)
1972年(昭和47年)3月21日 発掘調査中の高松塚古墳から、彩色された壁画が発見される。
〃 年 5月21日 明日香村観光課長M氏が肺癌で死去。M氏は、貴重な観光資源である高松塚古墳の発掘調査に熱心で、国や県からの発掘予算獲得に尽力した。M氏はこの日、突然苦しみだし、そのまま亡くなったと云う。
〃 年 8月21日 古墳近くに在住のKさんが突然苦しみだし、2日後に死去。Kさんは、古墳の発掘の手伝いをしていた。Kさんは、古墳の第一発見者だとも云われる。(冒頭の穴を掘った人か?)
1973年(昭和48年)8月21日 古墳のある地区の総代(自治会長)MSさんが交通事故で死亡。MSさんは古墳の発掘を積極的に支援しており、MSさん抜きでは発掘が出来ないとまで云われていた。
〃 年 月日不詳 古墳に最初に鍬を入れた発掘関係者であるNさんが自殺。物置小屋で農薬を飲んで死亡した。Nさんは日頃から悪夢に悩まされていたと云う。
1974年(昭和49年)1月4日 画家のWさんが交通事故で死亡。Wさんは壁画の模写を担当していた。Wさんが事故に遭ったのは、模写が完成したお祝いのパーティーの帰りとも有名な「女子群像」を書き写している時だったとも云われる。
―と、偶然にしては出来すぎの様な事件・事故が立て続けに起こったのです。
当初、亡くなった方の命日が壁画が発見された「21日」に集中している為、戦慄を覚える関係者も
少なからず居たとの事です。
↑高松塚古墳の発掘風景
調べてみると、高松塚古墳が発見された場所は、古来地元では「古宮」と呼ばれる忌地だったそうで、
橘家紋を持つ九軒の家が代々祀っていたそうです。
また、高松塚古墳の正式な所在地は「明日香村上平田4444番地」となっています。
選りによって、何故そんな縁起の悪い地番を付けたのか、お役人の心理が計りかねますが、
一説によると、「死に番」を国有地に付け、そのまま放置していたと言われております。
また、高松塚古墳の被葬者は未だ特定できておりませんが、石室内から頭蓋骨が発見されていない事や
刀身の無い鞘だけの刀が埋葬されていた事から、余程の怨念を持つ者をこの古墳に「封印」したのでは無
いかと言う説もあります。
更に、盗掘の痕跡も残されている割には、多くの副葬品が手付かずで残っている所を見ると、もしかする
と、盗掘者も「祟り」に遭って盗掘を中止したのかもしれないなあ、なんて気もしてきます。
ともあれ、発掘開始後の高松塚古墳に対する「仕打ち」ともとれる文化庁の失政・怠慢・隠蔽・責任回避
によって、先人達が残した貴重な文化財が、今や目も覆うような状態になっているのは、皆様ご存知の
通りです。
いにしえの怨霊も、祟るなら、文化庁の役人に祟ればいいのに…。
(念の為申し上げておきますが、「発掘関係者が次々と死んだ」という話のウラ(新聞記事や客観的な文書などによる裏付け)は一切取れておりません。今の所、「そう言う噂もありますよ」と言った程度のお話です。情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、是非お教え下さい)
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