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1952(昭和27)年の事。 伊豆諸島の一つ、太平洋に浮かぶ八丈島で、土木作業中の死亡事故がありました。 島内の山中で林道建設中の作業員数名が土砂崩れに遭い、1人は一命を取り留めたものの、7人の死者が 出たのです。 「犠牲者が7人…。まさか…。この昭和の時代に…。」 島に密かに伝わる、ある「伝承」を知る島民の間には「これは、祟りではないか」と戦慄が走りました。 その「伝承」とは、江戸の昔から、「山中では決して口外するべからず」と定められ、 島民の間に密やかに口伝えされたこんな「忌み話」でした。 江戸時代、全てを自給自足で賄う八丈島は、度々飢饉に見舞われていた。 ある時の飢饉で、島民が食うや食わずの状態の中、上方から江戸に向かう船が難破し、7人の僧侶が 八丈島に流れ着く。 僧侶達は飢えに苦しみながら島内を彷徨い、ようやくある村に辿り着いた。 流人の村人達は、助けを求める僧侶達を、「余所者に施す余裕は無い」と村外に放逐するばかりか、遂には惨殺するに及んだ…。「7人の符号」に、島民は殺された僧侶の祟りでは…と思ったのです。 事故の直前(数日前との説もあり)、作業員の一人が「昔、ここ辺で7人の坊さんが島民に殺されたそう だ」と島の伝承を話し、島の人が諌めるのも聞かず、その伝承を嘲る様な掛け声をかけながら、作業をし ていた…との噂も立ちました。 さて、時は移って、1995(平成7)年8月。 そんな事故の記憶も薄れ掛けた頃、八丈島で奇妙な「事件」が発生します。 厳重に施錠された町営の火葬場から、子供のものを含む身元不明の人骨が七柱発見されたのです。 人骨は、最近焼かれたものではなく、死後十数年は経過していると鑑定されました。 誰の仕業かも、人骨の身元も、全く不明のままに「事件」は謎だけを残して幕を降ろしました。 当時、新聞や週刊誌、ワイドショー等で騒がれた為、記憶にある方も多いのではないかと思います。 再び「7」の符号が起こったばかりか、身元不明の人骨と言う不吉な事件に、島の人々が戦慄を覚えた であろう事は、想像に難くありません。 ―以上が「八丈島の七人坊主の祟り」として有名なお話の概略です。 と、ここで終わっても良かったのですが、1周年感謝フェアと言う事で、もう少し調べてみました。 この手の「伝承」は、現代になって捏造されたモノであるケースが多いのですが、「七人坊主」のお話 は、かなり昔から存在していました。大正15年に発行された「民族」(小寺融吉 著) の中で、八丈島 の話として次の様な民話が紹介されております。 八丈島に漂着した7人の坊主を島人が惨殺した。 怨念がその地に宿り、坊主と呼ぶと、7人の坊主の姿が夢現と現われた。つまり、「山中で口外してはいけない、七人坊主惨殺話」と言う云われは、実際に存在していたのです。 ただし、この「七人坊主惨殺話」には疑問点も多く見受けられます。 話だけを聞くと、荒くれの流人が住む村で、僧侶達が惨殺された…と言う風なイメージを抱きます。 確かに八丈島は流刑地として知られてはいます。 島流しの島とは、遥か昔から流人たちが何千人も流され、荒涼とした無人島にコロニーを作った。つま り、島流しの島には流人しかいないと言う様な一般的なイメージがありますが、さにあらず。 八丈島の場合、流刑地となったのは、江戸初期からで、流人第一号は関ヶ原で西軍についた宇喜多秀家父 子です。その後、江戸時代を通じて流刑地となりますが、その間に八丈島に流された流人の総数は、 約1900人程でしかありません。当時、流人は八丈島に着くと、地役人、名主などの出迎えを受け、 くじ引きで各村に振り分けられて住まいを定め、島抜けを企まない限りは、島内では原則自由に生活でき たそうです。(結婚は許されませんでしたが、島内の女性と同居する事まで認められていました。) つまり、流人だけの村、と言うのはあり得なかったのです。 更に、流人というと、荒くれ者ばかりと言うイメージもありますが、八丈島の場合は、余りに遠い為、 知能犯や政治犯、はたまた身分の高い者等といった、各時代毎のエリートが多く流されておりました。 こそ泥や強盗程度の犯罪者を、高い費用と遭難のリスクをかけて連れて来るには遠すぎたのです。 そして、流人となった者達は、全国各地から高度な知識や技術を八丈島にもたらしました。 例えば… 師民部:多数の仏教彫刻を作った。 狩野春潮:絵師で南京船漂着図を作成した。 菅野八郎:奥州の百姓で、養蚕技術を伝授した。 太田道寿:島の医療の改善に尽力した 加藤稲五郎:為替手形を島に広める。 丹宗庄右衛門:芋焼酎の造り方を伝授した。(ちなみに芋だけの焼酎は独特の匂いがするため、現在では芋と麦のブレンド焼酎になった) 平川親義:明治になって夜学学校を開設し、初等教育に尽力した。 近藤富蔵:択捉島を日本領土だとした探検家近藤重蔵の長男で、人殺しにより島に流された。明治になって放免され『八丈実記』72巻を作成した。(ちなみに、この人は八丈島に流された最後の流人です。)等など。 その為、当時から八丈島の文化・知的水準は、離島としてはかなり高かったそうです。(勿論現在も) また、甘蔗(サツマイモ)が普及してからは、飢饉も薄らいでいたとの事。 そんな文化水準の高かった八丈島で、幾ら食糧不足とは言え、七人もの僧侶を惨殺すると言う事が あったのか?流人が絡んでいたとしても、むしろ、僧侶を助ける事によって、特赦を期待する方が普通で はないのか? そんな気がします。(実際、江戸時代を通じて500人程の流人が特赦・恩赦にあずかっています。) 更に色々と調べてみると、僧侶達は殺されたのではなく、村落から放逐されただけだ、と言う説もある事 が判りました。実は、僧侶の一人が伝染病に罹患しており、伝播を恐れた為だとか。 僧侶には気の毒ですが、閉鎖された孤島で伝染病が広がると、島民が絶滅しかねません。 八丈島の島民たちは、止む無く僧侶を山中に追いやったと考える方が納得がいく様な気がします。 では、何故この様な「忌み話」が生まれたのか? 「七人〇〇」と言うと、思い浮かぶのが「七人ミサキ」です。「七人ミサキ」とは… 七人ミサキ(しちにんミサキ)または七人みさき(しちにんみさき)は、高知県を初めとする四国地方や中国地方に伝わる集団亡霊。災害や事故、特に海で溺死した人間の死霊。その名の通り常に7人組で、主に海や川などの水辺に現れるとされる。 七人ミサキに遭った人間は高熱に見舞われ、死んでしまう。1人を取り殺すと七人ミサキの内の霊の1人が成仏し、替わって取り殺された者が7人ミサキの内の1人となる。そのために七人ミサキの人数は常に7人組で、増減することはないという。(ウィキペディアより)同類の怪として、「七人同行(しちにんどうぎょう)」「七人童子(しちにんどうじ)」と云われるモノ もあります。何となく、「七人坊主」とイメージが重なる様な…。 ―と、言う訳で…、長々と書いてきて、やっとオチですが。 流れ付いた僧侶(何人だったかは兎も角)を、止む無くとは言え非業の死に追いやった負い目がある所 に、中国地方もしくは四国出身の流人がもたらした「七人ミサキ」の妖怪話が重なり、「七人坊主惨殺 話」の原型が出来たのではないのかなと、私はそんな気がします。 では、冒頭の事故・事件は何なのか…?それは私には判りません。 只の偶然と言えばそれまでだし、曰くがあると言えばありそうだし…。 ただ、不謹慎ながら、興味深い話である事は否めません。 ちなみに、色々調べている内に、某巨大掲示板に八丈島の話としてこんな書き込みを見つけました。 何でも、夜、友人達とクッチャべってたら、坊主頭の集団が現れたそうです。 坊主頭なので野球部員と思い、「野球部出て来いよ!」と叫んだら 消えたそうです。「もしや、お坊さんの霊・・・・」かと焦り 車を急発進させたら、エンストを起こしたそうです。また、以前何度か登場した、釣りバカの同僚の、こんな体験談も…。 八丈島に釣りに行った時。夜釣りをしていたら、何処からか、読経の声が聞こえた。 何人かの坊さんが合唱する様にお経を読んでいた…。 ―やっぱり、何かあるんでしょうか…?
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