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私の部では、3年生までは寮住まいが強制されるのだが、4年進級をもって独り暮らしが許される。 私は、4年になるや否やに安い部屋を借り、早々に寮を出たのだった。 後輩共には鬼軍曹と言われる私でも、やはり自由な暮らしには憧れるものだ。 社会に出れば、独力で暮らしていくのだから、その為の訓練だ。 私は後輩に対しては、そう詭弁していた。 しかし。 いつでもどこでも眠れるのが自慢だった私が、この部屋に越して来てからは、なかなか眠れなくなった。 寝苦しい…と言うのは、こう言う事だったのか。 べとべとした空気が肌に張り付く様な感じがする。呼吸するのも重い。とりわけ、夜になるとそうなる。 そして、常に誰かに見られている様な視線を感じる。とりわけ、夜には。 環境が変わって、神経過敏になっているのだろう。最初はそう思っていた。 季節は5月。暑くもなく寒くもなく、湿度もほどほどの筈なのに、相変わらず寝つきが悪い。 引っ越してから1ヶ月を経て、私はすっかり寝不足になってしまった。 しかしそれ以外は、この部屋には満足していた。何しろ、一間の相場で二間の部屋が借りられたのだ。 いかんせん古い建物だが、それは仕方が無い。特にガタがきている訳でもないのだ。 東の角部屋の為、午前中は日当たりが良く、しかも西日は入らない。 そこまでは良いのだが…。 ―今晩も、また、熟睡は出来そうにない。 布団に入って、何度寝返りを打った事か。これが毎晩繰返されるのだ。相変わらず空気は重い。 大学で野球部の主将を務めてる私が、余程体力精神力に自信があるとは言え、これには参る。 コチカチと耳障りに秒を刻む目覚ましの針も気に障る。恐らく、もう時刻は丑三つ時であろう。 草木も眠ると言うのに、私には一向に睡魔が襲って来ない。 まんじりともせず、豆電球を見つめていると、半ば開けてある襖の向うで、何か物音がした。 衣擦れの様な音。 襖の奥には、四畳半の部屋がある。 いつも、視線を感じる方向だ。 私は、四畳半を見た。 目を凝らすと、真っ暗な部屋の中で、何かが揺れている様だ。 窓を閉め忘れていたのだろうか。 そう言えば、帰宅して窓を開け空気を入れ替えたが、あの後閉めた記憶が薄い。 洗濯物が揺れている?今日、洗濯はしてないが?ああ、昨日干したのを畳んでなかったか。 さて、窓を閉めようと、重い身体を布団から起こすと、闇に目が慣れたのか、隣の部屋で揺れているモノ がはっきりと見えた。 ―はっきりと。 女が首を吊っている。 暗い部屋の中で、生白い華奢な手足がゆらりゆらりと揺れている。 真っ黒な髪が胸元まで垂れ下がり、がくりとうなだれた顔は見えない。 私は声も出ず、ただ立ち尽くすのみだった。 その時、天井からぶら下がったまま、女がゆっくりと顔を上げた。 ―気を失ったのだろうか、目が覚めると、小鳥のさえずりが聞こえ、朝の光が部屋に満ちていた。 四畳半の部屋には、首吊りなど跡形も無かった。ただ、干しっ放しの洗濯物があるだけだった。 女が顔を上げ―その顔を見たのか見なかったのか、私は全く憶えていなかった。 ドアが叩かれた。 開けると、めったに顔を合わせない隣人が立っていた。 昨夜遅くに悲鳴が聞こえたが大丈夫かと聞いてくる。 隣人の中年男に会うのはこれで2回目かそこらだ。 越して来た日に挨拶に行って会ったきりかもしれない。 顔色が悪い人だ、そう印象があったが、やはり今朝も顔色が悪かった。 私は、彼に事の顛末を話したものかどうか躊躇した。 ただ、寝不足で幻覚を見ただけかもしれない。 恐らく、そうなのだろう。洗濯物を、見間違えたのだ。話した所で、笑われるだけだ。 しかし、引っ越して以来の寝苦しさも尋常ではない様な気もする。そしてあの視線も。 隣人は長くここに住んでいるらしいので、何か曰くの一つも知っているかもしれない。 私は、思い切って昨夜の出来事を話してみた。 ああ。そうでしたか。やっぱり。 そう、したり顔で言う隣人は、やはり何かを知っている様だ。問い詰めると、 私から聞いたとは言わないで下さいよ。特に、大家には。 思わせぶりな前置きの後、隣人が語った所によると、私の部屋は住人が長く居つく事は無かったそうだ。 あなたもいつ出て行くかと思っていたが、一月以上も住んでいるので感心していたのです。 そう言うことも言う。全く、人の悪い隣人だ。 実は、あなたの部屋… 私の部屋で何があったんですか? 昔、住んでいた女がね、首を吊ったんですよ。今の、あなたの部屋でね。 それ以来、長く住む人が居なくなった。皆、女の幽霊が出ると言って、出て行ってしまう。 大家は住人が引払うと、数ヶ月して、次を入れる。ほとぼりを冷ましているつもりなのでしょう。 良く聞く幽霊譚。そんな話は、掃いて捨てる程あるだろうに。 この昭和の世にそんな莫迦なと笑っていたが、まさか我が身にそんな事が起こるとは。 私はその場で、部屋を引払う決心をした。 どうせ、荷物など大した嵩ではない。後で取りに来れば良い。 取り敢えずは、今日から同級の誰かの部屋にでも転がり込もう。 話を聞かせてくれた隣人に形ばかりに礼を述べ、ついでに訊いてみた。 お宅には、出ないのです? 顔色の悪い男は、ふっと失笑し、言った。 出ませんよ、私のところにはね。 その足で、近所に住む大家の所へ出向き、近々で部屋を引払う。今日から別の所に住むが、家財道具は 一両日中に引き揚げる。そう伝えた。 後ろめたいのか、大家は矢鱈と愛想が良い。そう言えば、入居する時もそうだったが。 しかし、私は厭味の一つも言わなければ気が済まなかった。 良い部屋でしたがね。幽霊以外はね。隣の人が教えてくれて、良かったですよ。 私は、知っていながら私に黙っており、あまつさえ様子を楽しんでいたきらいもある隣人に対しても 多少腹が立っていたので、その名を出してやったのだ。 大家の顔色が変わったのはその時だった。 ―と、隣って、貴方。隣は空いていると知っているでしょう。貴方が入る折に、言った筈ですよ。 ああ、言われて見れば…部屋を借りる時、そんな事を言われたっけ…。 しかし、越してみたら隣室に灯りがあったので、すっかり大家の言も忘れて、挨拶をしたのだった…。 私は、違和感と言うか、不安感と言うか、そんな気持ちが湧き上がるのを自覚しながら言った。 大家さん、何を仰るのか。確かに、隣の部屋に中年の男性が住んでいるじゃないですか。 更に大家の顔色は蒼白になり、額には脂汗が滲んで来た。声は震えている。 貴方。ご存知の様に、あの建物には身寄りの無い老人や、他に行く方もない住人も住んでおります。 私も、経営維持が苦しいが、あの人達の住処を失くす訳にもいかないので、頑張ってはおります。 だからと言い訳するつもりはないが、空き部屋を埋めて収入の足しにしようと、曰くを隠してあの部屋を 貸しました。幽霊が出るとも聞いておりました。それは、心底お詫びします。 私も、実は、幽霊などあるものかと心の何処かで思っておりましたし。そう悪気は無かったのです。 ただ… 私は次の言葉を催促しました。 ただ? あの男までが現れるとは…。 あの男?隣室の男の事ですか? ここだけの話と、これから言う事はどうぞ胸に仕舞っておいて下さい。 貴方も事の真相を知らなければ納得しそうに無いお顔ですしね。お話しましょう。 あの、貴方が隣人だと言う男、実は、貴方の部屋で住人の女性を絞殺した犯人なのですよ。 こ、絞殺した!? 首吊りの自殺…ではなかったのですか? 一見首吊りに見せかけましたが、警察が見ればそんな事はすぐに判ります。 あの男、何食わぬ顔で隣室に居座ろうとしておりましたが、警察から追及されそうになると、遁走し、 行方不明になりました。 その男が、何故今でも隣に居るのです?舞い戻って来ても、すぐに捕まるでしょうに。 …いや、貴方。その男、とうに死んでいるのですよ。 逃げられないと観念の自殺か、はたまた事故か。車に撥ねられて、死んだのですよ。
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