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「ワンマン道路」と呼ばれる道をご存知でしょうか。
横浜市戸塚区内、柏尾町から原宿間の国道1号線区間をそう呼びます。
1950年代初め、「ワンマン宰相」とあだ名された吉田茂が、邸宅のある大磯から永田町に車で通う折、
毎朝毎朝「戸塚大踏切」で足止めを喰らうのに業を煮やし、そこを通らなくても良い様にする為に、鶴の
一声で建設させた道路だから「ワンマン道路」と呼ばれるようになったとか。
アビさんから聞いた「要調査物件」がこの「ワンマン道路」の一部を為す「戸塚跨線橋」です。
以下、アビさんの談です。
「先日、車を売ったお客さんなんですけどね、もう80近いお爺さんなんですよ。家に私が行くと喜んで
くれまして、お暇しようとすると、何か話題を作って引き止めるんですね。そんな話の中で聞いたんです
が…何でも、その人、戸塚生まれでずっと戸塚だったそんなんですよ。その人の話と言うのは…
『ワンマン道路』の跨線橋な。あれ、出来てから間もなくして、車の事故がずっと続いてな。何人も
死んだり怪我したりで散々だったんだ。何かの崇りかと、近くの衆が図って坊さんに経でもあげて貰おうと言う事になり、名のある人を呼んだんだ。やって来た坊さんが言うには、墓場の土を盛った所為だと言う。はてと、調べてみると、確かに、どこぞの山を墓地ごと切り崩して、盛り土にしたらしい。あまりの突貫工事で、橋を造り始めてから、橋詰の盛り土が足りない事に気付いたんだな。それで慌てて、見境無く土を削ってきたらしい。坊さんがお経をあげてからは、事故も無くなったんだけどな』
―と、そう言う話なんですよ。本当にそんな事があったか、調べて記事にしたらどうですか?」
なるほどそれでは、と調べましたが、今ひとつ確証は無い。
しかし、郷土史の一部としては興味深いお話です。
―と言う訳で、とりあえず行って見ました。
車では幾度と無く通ったこの橋。まさかここに取材に来る事になろうとは…。
さて、邪魔にならない所に車を停めた、仕事帰りの取材班。
急に降りだした大粒の雨が、傘を持たない取材班を濡らします…。遠くでは稲光がビカビカと…。
―いやが上にも盛り上る雰囲気!!
しかし、一体全体何の因果で、たった一人で夜の夜中にこんな事をしているのでしょうか。
まあいいや。兎も角、とっとと行って、パパッと済ませましょう。
ここは、自動車専用道なので、基本的に歩道はありません。辛うじて白線を引いてある狭い路肩を行きま
すが、さすが天下の国道1号線だけあって、大型トラックなどがビュンビュン脇をかすめて行きます。
お化けより、そっちの方が怖い!!
戸塚跨線橋が、見えてきました。 橋詰の盛り土って、まさにここ!!この辺りです。
今、取材班が立っているアスファルトの下には、怨念の篭った墓場の土が…
そう思うと、足元から…じんわりと…霊気が…
なんて感じている余裕はありません。雨は降るは車はすっ飛ばしてくるわ。下手すればコッチが幽霊に
なってしまいます。
ちなみに、携帯での撮影です。鶴亀はどうやら完全にぶち壊れてしまった様です。
しかし、雨の中、こんな所でうろうろしている私の姿を見て、通り過ぎる車の人達はどう思っているので
しょうか???普段は人が歩く事が無い場所ですから。
その内、「戸塚跨線橋に営業マン風の中年男の霊が出る」なんて話が広まるかもしれません。
そんな事はどうでもいいし、雨も強くなって来たから、退散しましょう。
さて、「ワンマン道路」と、吉田茂の我儘で造ったかの様に云われるこの道路ですが、どうやらそれは只
の逸話の様です。
元々小田原方面と横浜・東京を繋ぐ「弾丸道路(バイパス)」の構想は以前からあって、その一部を実現
した…と言うだけの話だった様です。
早期建設への強力な後押しとなったのは箱根駅伝。
今では戸塚近辺は「花の2区」と言われますが、昔は戸塚大踏切で選手達が足止めされ、ずいぶん興を削
いでいたとか。
朝鮮特需で息を吹き返しつつあった日本に建設ラッシュが始まり、その一環として出来たのは良いが、
吉田茂の強烈な個性の反映で「ワンマン道路」と揶揄的に呼ばれた様です。
そして、肝心の戸塚跨線橋ですが、1953年1月17日に建設を閣議決定、1955年2月1日開通 と、建設決定か
ら開通までたったの2年しか経っていない事から、相当な突貫工事だったのは間違いありません。
山を墓地ごと切り崩して…と言う話も、あながち有得ないとは言えないかも…。
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