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私が以前住んでいた、その旧いアパート。 ハイツ・アオヤマといいます。 戦後、復興期に建てられた建物が、それまで都市開発を生き延びたのはまさに奇跡と言えるでしょう。 木と煉瓦とコンクリートとモルタルで形造られたアパートは、格好つければ古き良き。 ありていに言うと只のボロアパート。 隣のおばあさんは、夕暮れ時には魚を焼くこうばしい臭いや、煮込まれたカレーの香り、ほくほくのご飯 が沸きたてるあったかい空気を、毎日日替わりで私の部屋まで漂わせます。 私の懐が寒くて、晩飯抜きを決め込んで、それでも部屋で安いウイスキーを煽っている時に限って、 独り暮らしでつい作りすぎちゃって…と、お裾分けを持ってドアを叩いてくれます。 私はいつも有難く頂くのですが、おばあさんの手料理を食うと、とっくに忘れた筈の、故郷の母親を思い 出だしてしまうので、私にとっては痛し痒しではありました。 向かいの部屋の50がらみのおっさんは、20世紀のピカソを自称する芸術家です。 私が暇な時…そうでない時の方が非常に珍しかったのですが…暇な時に限って、私のドアを叩く。 そうして、彼の部屋に呼ばれては、真っ暗な背景に赤いドレスを着た女が描かれている絵に囲まれて、 安いウイスキーで、グラスを干しあいました。20世紀のピカソが描くのは、何故かどれもこれも同じく、 真っ暗な中にぼんやりと赤いドレスの女が浮かび上がる、下手糞な絵ばかりです。 これは、ピカソと言うより、ドガだな。と、私は思ったものですが、自ら、俺は20世紀のピカソだと言い 張るおっさんにはそんな事も言い出しかね、おまけに、ピカソは20世紀の人間だ、しかもまだ生きてるし と、そんな当たり前の事も知らない芸術家に、そんな当たり前の事も言えずに、飲んでいたものです。 二階には、ジゴロが住んでいました。売れないジゴロです。ジゴロの癖に、女に騙されてばかり。 いい女、紹介してやるよ、が、私に対する口癖なのですが、たまに夜の街で見かける彼は大抵、ぶよぶよ ふくれた有閑マダムの、きつすぎる香水の中に引き摺られて歩いておりました。夜、彼の仕事が無い時は ―1年の内、300日位がそうでしたが―彼は私の部屋にやってきては、安いウイスキーを飲むのでした。 彼は、酔うと必ず、ウイスキーって、憂い好き…なんだよな…憂いが好きな男が飲む酒なんだよな… と、私に同意を求める様に呟いたものです。 そう言えば、管理人、と称する爺さんが、1階の隅に住んでおりました。復員軍人だと言う事で、名誉の 負傷か、片足を引き摺って歩いておりました。20ほどある、ハイツ・アオヤマの部屋も、いまや数戸が埋 まるのみで、管理人と言っても殆どする事は無きに等しい。たまに廊下の電気でも切れれば良いものを、 そんな事は私が住んでいた間には一度も無く、水周りが壊れたとか、換気扇が壊れたとか言う事も無く、 ハイツ・アオヤマは、ここだけ時間が停止している様に、何事も無く毎日をやり過ごしておりました。 そんなところなので、管理人の爺さんは日がな1日、ハイツ・アオヤマの玄関口に出した椅子に座って、 ネコを抱いて昼寝をしておりました。まるで、永眠しているかの様に、安らかに。 どこの部屋に住んでいるのかわかりませんが、いつも白い軽げなワンピースを着た綺麗なお嬢さんも、ハ イツ・アオヤマには住んでいました。何度か通りすがり、透き通る様に綺麗な人だなあと、密かに憧れて いたのですが、或る日私が、自室のオンボロのレコード・プレーヤーでワーグナーを聞いていた時にドア が叩かれ、開けると彼女が居ました。ごめんなさいワーグナーが聞こえてきたから。このピアノ曲のレコ ード、私持ってないの。ピアノ・ソナタ ニ短調、好きな曲なのだけど。と言いながら、そうする事が当 然の様に私の部屋にあがりこみ、レコード・プレーヤーの前にちょこんと座ったのが、そう言う事が何度 も続く初めでした。彼女は、このレコードは持ってないのと言いつつ、毎度毎度私のレコードを聴いて は帰るのですが、終ぞ一度も彼女がレコードを持って来ることはありませんでした。でも、良かったので す。彼女がレコードに聴き惚れるその横顔を見ているだけで、私の心には恋の曲がカンタービレで演奏さ れていたのです。 或る朝、私は驚天動地の大音響で目覚めました。それはまさにこの世の終わりかハルマゲドンかと言う騒 ぎで、がおわわわーんとの轟音と共に、ハイツ・アオヤマが大きく揺さぶられ、その都度、がららららと その一部が崩れ落ちる音が響きます。一拍置いて、またがおわわわーん。そして、がらららら。 その轟音が徐々に私の部屋に迫ってきたので、矢も盾もたまらないと、ドアを蹴破るように開けると、薄 暗かった廊下は今や白日の陽が差し込め、かび臭さも霧散しております。と言うのも、ハイツ・アオヤマ は半壊し、壊れた屋根壁から陽の光が降り注いでいたのです。 みると、浅間山荘みたいな、巨大な鉄球が、唸りをあげてこちらに向かって来る最中でした。 思わず身を伏せた私の頭上を通り過ぎた鉄球は、屋根の残りの部分を粉砕し、瓦礫が私を襲いました。 隙を見て駆け出し、おおいやめろやめろと、両手を振り回しながら叫ぶ私を、大勢の作業服が唖然と見つ めるのが判りました。 おい人がいるぞ 作業中断 機械を停めろ 作業開始前に確認したのに 監督を呼べ 何で廃墟に人がい るんだ あなたこっちへ大丈夫ですかお怪我は なんてこったい 何で人が居るんだ 廃墟に人が 口々に叫ぶ作業員達の声を聞きながら、私は、気が遠くなり…………あ・やっぱり・ここは・ここは・ ハイキョダッタンダ…ソウイエバ・ハジメテ・ここに来た時・無一文で・アメガフッテテ・アマヤドリシテ・廃墟だか ら・中に入って・雨宿り・シテテ・・・そのままキガツケバ・コノアパートニ・スンデイテ・このアパートの住人 に・ナッテイテ… 気がつくと、私は、工事現場の事務所に寝かされておりました。 私が勝手に、廃墟に住みついていたと思い込んでいる現場監督達は、本来なら、建造物侵入罪や不法占拠 になるのだが、こちらも一々警察に届けると、工期も遅れて面倒だし、こちらとしては一休みして出て行 ってくれればそれで…アンタがねぐらにしていた部屋にも、荷物らしい荷物は無かったけど…。 あ、いいですいいです。ちょっと、雨宿りに使っただけですから。 そう言い残し、行く当ても無く、私は事務所を出ました。 このあたりは、全部旧い建物を壊して地ならしして、霞ヶ関ビルよりも大きなビルが建つんだよ… そんな風に言っていた現場監督の言葉を思い返しながら、後ろからワーグナーでも聞こえてきやしないか と思いましたが、私の背後には、ハイツ・アオヤマが崩れ去る轟音だけが鳴り響くだけでした。 |
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2010年05月15日
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