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巴里18区の幽霊宿2

この建物は、戦前から売春宿だった。

国家公認のな。公認する代わりに、税金を課す。

当時は、こんな売春宿からの税収で国庫はずいぶんと潤ったらしい。

修道院の修理費を稼ぐのに、尼さんも身体を売ってたって時代さ。

どうせやるなら‥って訳だ。


戦争が始まって、ナチに占領されていた時は商売どころではなかったが、

パリが解放されると、連合軍の兵隊相手に随分と繁盛した。

戦後になってもしばらくは続いたが、ビドーの頃に売春宿が禁止されると、廃れちまった。

その後、普通の宿になって、現在に至るって訳だ。
 
 
ここに住み着いている幽霊は3人いて、みな戦前から戦時中にここの売春宿にいた娼婦達だ。
 
平和な頃は、La traviata(椿姫)とまではいかないが、彼女達はそれなりに上流に得意客がいて、

そこそこ稼いでいたようだ。

しかし、ナチがやってくると、金蔓はみな殺されたかスイスやスウェーデンに逃げた。
 
そして、どうやら、パリが占領されていた時にレジスタンスに協力していたのがバレで、

3人ともナチに殺されたのさ。ーどういう風に殺されたかなんて、考えたくもないけどねー


てな訳で、元が娼婦だけに女の宿泊客の前に出ることは無く、

幽霊に出会うのは男の客ばかりだ…。
 
 
なるほどなあ。売春宿だったのか。

道理で周りの建物と毛色が違っている訳だ…と変な所に納得した私に、あんちゃんは

「どうする?もう1泊する勇気はあるかい?もし出て行くなら金は返すけど…」と聞いてきた。

「いや、もちろん、もう一晩世話になるよ」と答える私に笑いかけながら、

「へえ。幽霊に会った客は、大抵出て行くけどね。あんたも物好きだね」と、

あんちゃんは呆れた声を出してみせた。

 
念の為だが、フランスでは売春宿が禁止されているだけで、行為そのものは禁じられていない。

本当にいい国だ。(当時)

 
レセプションに鍵を置いて外出する初老の男性をやり過ごし、その背中を見ながら

「あの人の所には出なかったのかな?」と呟くと、あんちゃんはこう言った。

「ああ、あのお客さんはドイツ人だ。彼女達はドイツ人を嫌っているのか恐れているのか、

ドイツ人の前には姿を現さないんだ」


―なるほどなあ。また私は納得した。
 
 
その日、当然ながら特にあても用も無かった私は、そう言えば今日は週末だという事を思い出し、

クリニャンクールの蚤の市を覗いてみる事にした。

まあ、売っているのは大体がガラクタばかりなのだが、

こじゃれた商店街を歩くより私にとってはなんぼも面白い。


週末になると、パリのあちこちに市がたつが、クリニャンクールが一番大きい様だ。

あのあたりはスリの巣窟と言われているが、私は一度も被害に会った事は無い。

要は、すられる物を持っていなければいいのだ。

幾許かの紙幣と小銭をポケットに押し込み、その他の貴重品は宿の金庫に入れて、私は宿を出た。

 
イメージ 2
 
蚤の市には、何に使うのか判らないガラクタが、

相変わらず沢山並んでいた。

古びたドアノブとか、錆びたスプーンとか。
 
だれが読むのか、古い手紙の束とか。

たまに、電気製品なども売っているが、


恐らくまともに動く事は無いだろう。

いんちきジーパン屋があったので、着替え用に偽ブランドのジーンズを1本買った。


それからもぶらぶらと市の中を彷徨っているうち、私は良い物を見つけ、

散々値切った挙句にそれを買った。
 
 
 
その夜。


部屋でじっと幽霊を待つのも飽きてきた私は、夜の宿を探検してみる事にした。

探検と言っても小さな宿の事、4階から1階まで隈なく歩いても10分とかからないが。

ともあれ、私は階段を下りて、ワンフロアづつ見て回った。

 
あんちゃんに聞いたところでは、今日は3〜4組の客が入っているそうだが、

何故か各階とも人の気配がない。

シンとした空気が宿を支配している。

 
時計はまだ11時前。週末だし、客は皆夜のパリを楽しんでいるのだろう。

週末のパリで、幽霊と戯れようとしている酔狂者など、私くらいのものだ。


本来なら、今夜あたりはフォルショー通りかピカール通りあたりへ街娼を冷やかしに行く所だが、

そんな事はいつでも出来る。それに、出てくる幽霊も娼婦なら、似たようなものだろう。

いや、生身の街娼よりは剣呑でないかもしれない。

フォルショーの女ときたら、100ドルも獲っておきながら、事を致すのは、路地に停めた

古びたルノーの中でだったりするのだから。
 
 
さて、何事も無く下まで着く。

あんちゃんは奥に引っ込んでいるのか、レセプションは無人で、ただテレビに

お笑い番組が垂れ流されているだけだった。


そう言えば、この宿に入ってから、従業員と言えば彼にしか会っていない。

年恰好から、宿のオーナーと言う感じではないし、まさか、一人で切り盛りしている訳でも

ないだろうが、朝から晩まで、四六時中、彼は一人で宿の中にいた。
 
彼の名前は何と言ったっけ。宿にいる間は名前で呼んでたのだが、どうしても思い出せない。
 
 
しばらく、貧相なソファーに座っていても何事も起こらないので、やや飽きてきた私は、

部屋に戻ろうと階段を上り始める。
 
すると、2階まで来た時、ゴワンゴワンとエレベーターが動き出した。
 

―私はぎくりとした。    エレベーターは壊れてる筈だ…。

 
ゴンドラは、ギシギシギイイと軋みながら、1階から上がってくる。

そして、私の目の前を通り過ぎ、なおも昇って行った。
 
 
―いた。いた。いた。いたよ、いたいた。
 
 
ゴンドラの中には、今となってはこの安宿には場違いな、黒いドレスを着た女がいた。

美しかった。この世のものとも思えぬほどに。

 
私は、一瞬、その女と目が合ったのだ。

何とも冷たい目で、こちらを見ていた。

 
私は、階段を駆け上がった。

たぶん、女は最上階まで行った筈だ。

私には、そんな確信めいたものがあった。
 
息急き切って階段を駆け上り、最上階へ踊り場を回った所で、

私は思わず足を止めた。


そこには、昨夜の、あのきつい、安物の香水の臭いが充満していたのだ。
 
むせ返りそうになりながら視線を上げると、階上には3人の女が立ち、私を見下ろしていた。


いや、正確には、立っている、とは言えない。

良く見るまでもなく、彼女らのハイヒールは、其々床から20〜30センチほど浮いているのだ。


昨夜の出来事を、私は思い出した。

ああそうか、廊下をウロウロしてたのに、そう言えば足音がしなかったのは、

浮いてたからか。なるほどなぁ。

今更ながら、私は妙に納得した。


3人の真ん中にいるのは、やはりエレベーターに乗っていた黒いドレスの美女だ。

 
もう2人は、それぞれ原色の派手なドレスを着ていた。

仰々しいが顔の造りに似合った化粧をしている。

この辺がプロっぽさを感じさせる。

二人とも、やはりなかなかの美人だが、どことなくやさぐれた雰囲気を漂わすのは、

彼女達が娼婦…の幽霊、だからであろうか。


黒いドレスの美女は、他の二人より若い感じで、下手すれば十代の様に見えた。

しかしそれはそんな気がしただけで、どうだかは判らない。

娼婦の年齢を当てる事など、どんな男にも出来はしないのだ。
 
 
幽霊なのだろう。

それはたぶん間違いないのだが、浮いている事以外は生きている人間と全く変わらず、生々しい。
 
艶と言うか、色気さえ感じる。

3人は、無関心なのか、それとも興味を持っているのか、何とも判然としない表情で

じっと私を見下ろしていた。

興味が無ければ出てこないだろうから、それに、じっと見つめたりはしないだろうから、

やはり私に多少なりとも興味はあるんだろうと思う事にした。

幽霊とは言え、美人のフランス女に興味を持たれるのはまんざらでもない気がする。

 
しかし、一向に恐怖を感じないのは何故だろう。

目の前にいるのは、幽霊なのに。

私は割と冷静でいる自分が一番不思議だった。


それはそうと、しばらく無言で見つめられるのに居心地の悪さを感じた私は、

何か気の利いた事でも言わなきゃ、と思って口をあけた。

すると、思いがけずも、やたらと間の抜けた言葉が出てきた。
 
 
「Bon soir(こんばんは)」
 
 
突然、彼女達は甲高い声で笑い出した。

笑い声は廊下や階段に反響する。
 
それは、まさに、昨晩と同じ、狂気じみた、あの、笑い声だった。
 
 
今の挨拶はそんなに場違いだったのか。それとも私の発音が可笑しいのか。
 
彼女達は、長い事、笑い声を止めなかった。

客がいれば、部屋から出てきそうな、高い笑い声だ。


下のあんちゃんにも聞こえてる筈だが、階段を上ってくる気配も無い。

それとも、もう慣れっこになっており、今更いちいち見にくるつもりもないのだろうか。

私は、どうしていいのか判らず、笑う娼婦達を、ただただぼけっと見上げているしかなかった。

 
そして、笑い疲れたのか、3人の娼婦は、笑い声と共に、ふっと消えてしまった。

 
私の鼓膜には、しばらくの間、甲高い笑い声の残響がへばりき、

階段には、安物の香水が漂い続けていた。
 
 
私は、狐につままれた気分で、部屋に戻った。

バタン、カチャ、ドサ。ふぅぅ〜。

幽霊だったよなあ、今の。

浮いてたし、消えたもんなあ。

酔ってないよなぁ、俺。まだ、酒飲んでないもんなぁ。

幻覚とかじゃないよなぁ、アレ。

 
スチーム・ヒーターには、さっきのせておいた洗濯物がもう乾いている。
 
ヨーロッパで助かるのは、こうして洗濯物がすぐに乾く所だ。

もともと乾燥した気候もあって、ろくに絞っていない厚手のジーパンも、

スチームに乗せておけばすぐ乾く。

そのかわり、やたら喉が乾くから、寝るときは必ずエビアンを枕元に置いておく。

あ、エビアン買っとくの忘れてた。

 
…いや、そんな事はどうでもいい。
 
今、私は、たぶん幽霊に遭遇したのだ。   いや、確かに。

全く、実感は湧かないが。

 
それから深夜まで、またしてもワインを開け、チーズとハムを齧りながら、

私は彼女達の訪問を待ち続けていた。
 
しかし、それきり笑い声が聞こえる事も、香水が漂う事も、ボトルが宙に浮く事も無かった。

 
仕方なく、蚤の市で買ったものをテーブルの上に置き、そのまま私はベッドに入った。
 
明日からはまた、場末の宿を探し歩いて、相部屋で眠る日々が始まる。
 
せいぜい、独りきりの豊かな眠りを堪能しよう。

程なく睡魔がやってきて、前も後もなく、私は深い眠りに落ちた。
 
 
そして、翌朝目覚めると、テーブルの上に置いたものは無くなっていた。

彼女達は、私の好意を受け取ってくれたらしい。
 

それは、安物の、3つのブローチだった。

 
次にどこに行くあてもなく、私は荷物を背負って、名残惜しくも部屋のドアを閉めた。
 
いつものように、レセプションに居場所を決めているあんちゃんが待っていた。


「とても楽しかった」と礼を言うと、「へえ。そうかい。やっぱりあんたは変わってるねえ。

それとも日本人はみんなそうなのかい?」と、人懐こい笑顔が返ってきた。

チップを弾んで、「いい旅を」の言葉に背中の荷物を押されて、私は石畳の歩道に踏み出した。
 
 
去り際、私の背中に、「昨夜も出たみたいだな」と、あんちゃんは声をかけてきた。
 
やはり、あの笑い声は彼にも聞こえていたのだ。私は片手を軽く挙げて応えた。

そうして、私は、パリ18区の幽霊宿を後にした。
 



 
また泊まりたい宿だが、それは叶わないかもしれない。

あんちゃんが言うには、この一帯の再開発が決まっており、

そのうち近々、この宿も取り壊されるそうだ。
 
 
パリには、そこだけ時間の流れが止まってしまった様な場所が幾つもあり、

この宿もそんな場所の一つだと思っていたが、どうやらそれは私の思い込みに過ぎなかったらしい。

どんなものも、移ろい消えていくのだ。
 
 
たぶん、人の魂以外は。
 
 
この宿が瓦礫になってしまった後は、あの3人の娼婦達や、人の良いあんちゃんは

何処に行ってしまうんだろう。

 
それだけが、気がかりだった。
 
 
イメージ 1

巴里18区の幽霊宿

貧乏旅行で、ユースホステルやドミトリー(相部屋)の安宿に泊まり歩いていると、

世界中からやって来た同じ様な貧乏旅行者達と仲良くなり、

「歩き方」には載っていない情報を様々手に入れる事ができる。
 
 
この旅も長くなり、何か面白い所はないかと思っていた所に、思いがけない話を聞く事が出来た。
 
フランスのとある田舎町の安宿で一緒になった、トムと名乗るイギリス人が、

パリに幽霊の出る宿があると言うのだ。

彼は1週間ほど前にその宿に泊まり、様々な不思議体験をしたと言う。


どんな体験かと聞いてはみたが、あまり思い出したくないらしく、

しつこくすると、そんなに興味があるなら自分で泊まってみろと、手帳を見ながら

メモ用紙にその宿のアドレスを書きつけ、突きつけてきた。


この旅も、どうせここと言う目的地もないし、ここしばらくパリにも行ってなかったので、

好きな私は、話のタネにその宿に泊まってみる事にして、翌朝早々に出立した。
 
 
相変わらず時間通りに来ない列車を乗り継ぎ、パリに入ったのは夕方近くだった。

とても短いヨーロッパの秋が、足早に通り過ぎようとしている花の都。

並木も葉を落としかけていた。


パリはやはりパリで、華やかで薄汚い。


最先端のファッションを纏ったマドモアゼルと詐欺師と

洗練されたムッシュとスリと

一本気な美少女と売女と

ユダヤ人とアルジェリア人と黄色人種と

観光客とマフィアと

その他諸々が、一緒くたになって通りを歩いている。


セーヌ川はいつものとおりで、何でこんなにけだるく流れてるのか、

セーヌ川が喋れるのなら、一度聞いてみたくなる。

エッフェル塔も、もうそろそろ立ちくたびれたと言う佇まいだ。
 
イメージ 4






トムのメモには18区の住所が書いてあり、それを頼りに宿を探す。


18区と言うと、有名な所ではモンマルトルの丘なんかがある所だ。

あのムーラン・ルージュもここにある。

アラブ系やアフリカ系の住人も多く、物騒と言えば物騒だが、

パリにはもっと物騒な所は幾らでもあるし、

ともあれ、物騒さ加減では、歌舞伎町には及ばない事は間違いない。
 
 
その宿は、メトロの駅からちょっと入った、入り組んだ裏通りの一画にあった。
 
てっきりアパートメントのフロアを安宿にしているのかと思ったら、

その宿は、4階建てのそう大きくはないがそれなりに立派な建物だった。

その外壁は石造りで、周りの建物と比べても、古さと重厚さを醸していた。


一見すると、そこそこの値段を取りそうな宿だが、何百泊も安宿に泊まってきた私の嗅覚は、

この宿は安いと告げていた。
 
イメージ 1
当然予約などは入れてないが、そう混んでいる時期でも

ないので部屋くらい取れるだろうと思いながら

レセプションのベルを鳴らす。

から20歳そこそこのあんちゃんが出てきて、

部屋は幾らでも空いていると言う。
 

思ったより、ふっかけの値段が張ったのは、繁華街の近くだからか。

しかし、値切ると割と気前良くまけてくれたので、こちらも割と気前良く3泊分を前払いした。
 

ロビーと言うほどのものではないが、1階にはソファーセットが置かれ、

檻みたいな古いエレベーターがある。
 
しかし、あんちゃんは、そのエレベーターは何年も前に故障して動かないので、

部屋には階段で行けと言う。
 
イメージ 2
部屋は最上階で、廊下を挟んで3部屋づつあるうちの角部屋だった。
 
荷物を部屋に置き、晩飯がてら一杯飲みに行くべく下に降りると、

さっきのあんちゃんがレセプションでテレビを見ていた。

彼に安くて飲めて美味い店を教えて貰い、

ついでに幽霊が出ると聞いたが本当かと聞いてみた。



彼はひどくあっさりと「ああ、出るよ。毎日じゃないけど。特にあんたの泊まっている最上階には

良く出るよ」と、ブラウン管に視線を投げたまま、英語で答えてくれた。
 
 
こう言う所はヨーロッパらしいと言うか。

日本では、自分の宿に幽霊が出るなんて事は決して認めないだろう。

 
どんなのが出るのか聞いてみたい気もあったが、それは出てからのお楽しみにとって置く事にした。
 
まあ、もともと私は霊感などには全く無縁で、従って幽霊の存在もあまり信じてはいない。
 
あまり信じていないから、こんな所にわざわざ泊まりに来る事も出来る訳だが。
 
 
さて、こうしてパリ18区の幽霊宿にしばらく滞在する事になった訳だが、初日は何も出ず。
 
と言うより、意に反して、とっとと、早晩に、眠ってしまったのだ。

 
長旅の途中で、少々、疲れていたのだと思う。そう言えば、一人部屋に泊まるのも久しぶりだ。

シャワーからはちゃんと熱い湯が出るし、スチームヒータも心地よく効いていて少しも寒くない。

 
いくら慣れてるとは言え、また、いくら好きでやっているとは言え、

寒すぎたり暑すぎたりする安宿の、いくつも並んだ2段ベッドで、どこの誰とも判らぬ人たちと

共に夜を過ごすのは、やはり心のどこかが緊張するのだろう。

それが何十日も続いたので、自覚せぬうちに疲れが蓄積していたようだ。
 
しかしまあ、その熟睡のお陰で、翌朝にはその疲れもすっかりと抜け、気分は爽快だった。
 
 

階下に降りると、レセプションのあんちゃんが「昨夜は出たかい?」と聞くので、

「さあ?良く眠ってたから判らない」と答えると、「今晩あたりは眠れないかもしれないよ。

今日の最上階はあんただけだ」と笑いながら奥に消えていった。

 

そして、彼の言うとおり、その夜の事だった。

 
その夜、私は、部屋に安いワインを何本か買いこんで来て、チーズをつまみに一杯やっていた。

一応は、幽霊が現れるのを待っているつもりではあった。

そんなものがこの世に存在するのかは兎も角として、皆んなが出るというなら、

あるいは出るのかもしれないなあと、そんな気分でワインを煽っていた。
 
 
時計の針は確か0時を回っていたと思う。

窓からの喧騒も静まっている。

さほど寒くもないので、窓を開けた私は、人通りの途絶えた石畳の裏通りを見下ろしながら、

ワインを飲んでいた。


通りの先には旧そうで偉そうな石造りの立派な教会があり、ライトアップされているのが見える。
 
日本にこんな教会があれば、そこそこの観光スポットになると思われるが、

寄ると触ると教会のあるヨーロッパの街の事、終ぞ私がその教会の名を知る事はなかった。
 
つまりは、ありきたりの、珍しくもない教会をぼんやり眺めていると 、

何処からか、女の甲高い喋り声が聞こえてきた。


酔いが回っていたのですぐには気付かなかったが、確かに聞こえる。
 
たぶん、何人かの女が、早口で歓談している様だ。

言葉はフランス語らしく、何を言っているのかはさっぱり判らない。
 
世界中何処へ行っても、女が数人集まるとかしましいものだと思いながら飲んでいたが、

ふと、この最上階のフロアには自分しか泊まっていない事を思い出した。


通りを酔っ払って歩いてるのか?

しかし、喋り声は明らかに、いや、たぶん、同じフロアから聞こえてくる。

眼下の通りには、見通しても人影はない。

私は、窓を閉めて、耳をそばだてる。

やはり、嬌声は内側からだ。
 
私の知らないうちに客が入ったのだろうか。
 
 
―いや、それとも、幽霊の出現か。


そう考えて、私は苦笑した。

つまり、幽霊にしては、情緒がないと。
 
あるいは、ご当地の幽霊にはそもそも情緒など無いのだろうか。

そもそも、幽霊にまで情緒性を求めるのは、世界で唯一、日本人だけなのかも知れない。


しかしまあ、どうにもこうにも、到底あの世からの声とは思いにくいほど、

その嬌声は下卑て、あばずれていた。


耳慣れてくると、その声の主は、3人の女だと言う事が判った。
 
やっぱり。―「姦しい」わけだ。と、一人また苦笑いする。
 
 
女たちは、相変わらず甲高い声で喋り続けており、時折たてる狂気の様な笑い声が耳につく。
 
今時、そんなに笑うほどおもしろい事があるのか。

それとも、ないから無理に大げさに笑うのか。


普通なら、安眠妨害だとイラつくところだが、幸か不幸か、うるさい中で眠るのは慣れている私。

ユースで地元のガキ軍団がギャースカピースカ騒ぐ中でも熟睡したし、ドミトリーのアメリカ人

カップルがおっぱじめて、オウだのカムだの大騒ぎする中でも熟睡できた。

こんなもんは屁でもない。


しかしこれでは、幽霊出現の妨げになるのではないか。
 
ところが、文句を言おうにも、私はフランス語が喋れない。

例え喋れたとしても、「おばけが出づらくなるんで、ちょっと静かにしてもらえませんか」

なんて事を、フランス女性に言う度胸もない。

 
仕方なく彼女たちの嬌声を聞くともなしに聞いていると、私はある事に気がついた。
 
さっきまで、やや遠くから、くぐもった感じで聞こえていた声

(だから、私は同じフロアの他の部屋から聞こえてくるのだと思っていた)が、

よりはっきりと聞こえてきたのだ。まるで、廊下に出て喋っている様だ。

そのまま階下に降りていってくれれば良いのにと思っていたが、

3人の女の声は、廊下を行ったり来たりしている気がする。

いや、明らかに廊下を端から端まで行きかっている。

時には私の部屋のすぐ前で聞こえ、それがやや遠ざかって行き、また近づくのを繰り返している。


一体全体、何をしているんだ?

興味をそそられた私は、そそそとベットの脇を抜けると、

おもむろに部屋のドアを開けて、廊下に顔を出した。
 
 
すると、驚いた事に、廊下に人の姿はなく、しんと静まり返っている。
 
あれだけぺちゃくちゃと喋っていた声もピタリとやんでしまった。


廊下にはスチームもあまり効いていないようだ。

足元から部屋に流れ込んでくる冷気もそのままに、しばらく漫然と廊下を眺めていた私だったが、

そこで改めて、今までの声はやはりもしかして幽霊だったのかと思い直し、少々背筋が寒くなった。

それは、廊下の冷えた空気のせいだったかもしれないが。
 
 
ドアを閉めると、再びあの喋り声が聞こえる事はなかった。

夜通し起きていると、またあの幽霊が出るかも知れない。
 
私は、2本目のワインを手にした。

ちなみに、こんな安ホテルには、引き出しを開けたらコルク抜きが入っている、なんて事はない。

だからこそ、随分前にスイスで買ったビクトリノックスを常にポケットに入れているのだ。

それをワインのコルクに刺す。

 
どうせ明日も特に何処へ行くと言う予定もない。昼間は寝ていればいい。
 
そう思い、2本目のコルクを抜いた。
 
 
―しかしながら、あれ以降、何が起こると言う事も無く、ただただ時間だけが過ぎていく。
 
面倒になってきた私は、さっきの声は階下から聞こえてきていたのだと、

ひどく常識的な結論を出した。

 
恐らく、南仏あたりの田舎町から来たおのぼり姉さんたちが、

初めて来たパリではしゃいでいたんだろうと。
 
そして、このボトルを空けたらベッドに入ろうと心に決めた。

時計は既に、日本的に言うと、草木も眠る丑三つ時に差し掛かっている。
 
 
その時、異変が起こった。
 

不意に、やたらときつい香水の香りが私の鼻を突いたのだ。

安手の香水らしく、思わずむせ返りそうになる。
 
何事かと思ったその時、窓際の小さなテーブルに置いていたワインのボトルが、私の目の前で、

音もなくすーっと空中に浮かび上がったのだ。


ーこう言う時、ワーとかキャーとか悲鳴を上げると言うのは嘘だ。と言う事をその時知った。

私は、あまりの光景に言葉もなく、ただ浮き上がっていくボトルを目で追うだけだった。

 
ボトルはそのまま天井近くまで上昇し、さてどうしようと逡巡するかのようにそこで数秒漂ってから、

今度はすーっと降りてきて、やがて元通りの位置にコトリと置かれた。

 
恐怖感と言うのはあまりなかった。

目の前で発生した不思議な出来事に、やはり私はただただ唖然とするばかりだったのだ。
 
まさか誰かのイタズラかとボトルを改めてみるが、糸で釣られた形跡もない。
 
そんな細工をする隙も時間も無かったのは勿論だが。
 
そして、あの安物の香水は、残り香となって部屋に漂っていた。
 
 
そのまま起きているつもりだったが、気付くと私はベッドに倒れこむようにして眠っていた。



目が醒めたのは朝も割と早い時間だった。

窓の外からは、ようやく賑やかになりつつある街の喧騒が漏れ聞こえている。
 
パンを焼く芳ばしい香りがどこからか漂ってくる。

つられて空腹を覚えた私は、簡単に身なりを整え部屋を出た。
 
ここは朝食を出すような宿ではないので、どこか適当なカフェでも探すつもりだった。
 
 
1階に降りた私は、今度は聞かれる前に、あんちゃんに言った。
 
「昨夜、出たよ」
 
「へえ。女だったろ?」 
 
「うん。喋り声や笑い声しか聞こえなかったけど、確かに女だった。何人かいたみたいだ。

たぶん、3人かな。ーそれに、ワインのボトルが宙に浮いた」 
 
「そうか。それは確かにうちにいる幽霊たちだな。まあ、そう悪い事はしないから、心配はないよ」 
 
「ところで、何で、ここに幽霊が出る様になったんだい?殺人事件でもあったのか?」 
 
「ノンノン…。彼女達は最初からここにいたのさ。ずいぶん昔からね。後から我々が入居したんだ…」
 
 
へえ…と思い、詳しく訳を訊くと、話好きなあんちゃんは嬉しそうに教えてくれた。
 
彼の説明をまとめると、おおよそ次の様な話だった…。
 
 
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