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この建物は、戦前から売春宿だった。
国家公認のな。公認する代わりに、税金を課す。
当時は、こんな売春宿からの税収で国庫はずいぶんと潤ったらしい。
修道院の修理費を稼ぐのに、尼さんも身体を売ってたって時代さ。
どうせやるなら‥って訳だ。
戦争が始まって、ナチに占領されていた時は商売どころではなかったが、
パリが解放されると、連合軍の兵隊相手に随分と繁盛した。
戦後になってもしばらくは続いたが、ビドーの頃に売春宿が禁止されると、廃れちまった。
その後、普通の宿になって、現在に至るって訳だ。
ここに住み着いている幽霊は3人いて、みな戦前から戦時中にここの売春宿にいた娼婦達だ。
平和な頃は、La traviata(椿姫)とまではいかないが、彼女達はそれなりに上流に得意客がいて、
そこそこ稼いでいたようだ。
しかし、ナチがやってくると、金蔓はみな殺されたかスイスやスウェーデンに逃げた。
そして、どうやら、パリが占領されていた時にレジスタンスに協力していたのがバレで、
3人ともナチに殺されたのさ。ーどういう風に殺されたかなんて、考えたくもないけどねー
てな訳で、元が娼婦だけに女の宿泊客の前に出ることは無く、
幽霊に出会うのは男の客ばかりだ…。
なるほどなあ。売春宿だったのか。
道理で周りの建物と毛色が違っている訳だ…と変な所に納得した私に、あんちゃんは
「どうする?もう1泊する勇気はあるかい?もし出て行くなら金は返すけど…」と聞いてきた。
「いや、もちろん、もう一晩世話になるよ」と答える私に笑いかけながら、
「へえ。幽霊に会った客は、大抵出て行くけどね。あんたも物好きだね」と、
あんちゃんは呆れた声を出してみせた。
念の為だが、フランスでは売春宿が禁止されているだけで、行為そのものは禁じられていない。
本当にいい国だ。(当時)
レセプションに鍵を置いて外出する初老の男性をやり過ごし、その背中を見ながら
「あの人の所には出なかったのかな?」と呟くと、あんちゃんはこう言った。
「ああ、あのお客さんはドイツ人だ。彼女達はドイツ人を嫌っているのか恐れているのか、
ドイツ人の前には姿を現さないんだ」
―なるほどなあ。また私は納得した。
その日、当然ながら特にあても用も無かった私は、そう言えば今日は週末だという事を思い出し、
クリニャンクールの蚤の市を覗いてみる事にした。
まあ、売っているのは大体がガラクタばかりなのだが、
こじゃれた商店街を歩くより私にとってはなんぼも面白い。
週末になると、パリのあちこちに市がたつが、クリニャンクールが一番大きい様だ。
あのあたりはスリの巣窟と言われているが、私は一度も被害に会った事は無い。
要は、すられる物を持っていなければいいのだ。
幾許かの紙幣と小銭をポケットに押し込み、その他の貴重品は宿の金庫に入れて、私は宿を出た。
蚤の市には、何に使うのか判らないガラクタが、
相変わらず沢山並んでいた。
古びたドアノブとか、錆びたスプーンとか。
だれが読むのか、古い手紙の束とか。
たまに、電気製品なども売っているが、
恐らくまともに動く事は無いだろう。
いんちきジーパン屋があったので、着替え用に偽ブランドのジーンズを1本買った。
それからもぶらぶらと市の中を彷徨っているうち、私は良い物を見つけ、
散々値切った挙句にそれを買った。
その夜。
部屋でじっと幽霊を待つのも飽きてきた私は、夜の宿を探検してみる事にした。
探検と言っても小さな宿の事、4階から1階まで隈なく歩いても10分とかからないが。
ともあれ、私は階段を下りて、ワンフロアづつ見て回った。
あんちゃんに聞いたところでは、今日は3〜4組の客が入っているそうだが、
何故か各階とも人の気配がない。
シンとした空気が宿を支配している。
時計はまだ11時前。週末だし、客は皆夜のパリを楽しんでいるのだろう。
週末のパリで、幽霊と戯れようとしている酔狂者など、私くらいのものだ。
本来なら、今夜あたりはフォルショー通りかピカール通りあたりへ街娼を冷やかしに行く所だが、
そんな事はいつでも出来る。それに、出てくる幽霊も娼婦なら、似たようなものだろう。
いや、生身の街娼よりは剣呑でないかもしれない。
フォルショーの女ときたら、100ドルも獲っておきながら、事を致すのは、路地に停めた
古びたルノーの中でだったりするのだから。
さて、何事も無く下まで着く。
あんちゃんは奥に引っ込んでいるのか、レセプションは無人で、ただテレビに
お笑い番組が垂れ流されているだけだった。
そう言えば、この宿に入ってから、従業員と言えば彼にしか会っていない。
年恰好から、宿のオーナーと言う感じではないし、まさか、一人で切り盛りしている訳でも
ないだろうが、朝から晩まで、四六時中、彼は一人で宿の中にいた。
彼の名前は何と言ったっけ。宿にいる間は名前で呼んでたのだが、どうしても思い出せない。
しばらく、貧相なソファーに座っていても何事も起こらないので、やや飽きてきた私は、
部屋に戻ろうと階段を上り始める。
すると、2階まで来た時、ゴワンゴワンとエレベーターが動き出した。
―私はぎくりとした。 エレベーターは壊れてる筈だ…。
ゴンドラは、ギシギシギイイと軋みながら、1階から上がってくる。
そして、私の目の前を通り過ぎ、なおも昇って行った。
―いた。いた。いた。いたよ、いたいた。
ゴンドラの中には、今となってはこの安宿には場違いな、黒いドレスを着た女がいた。
美しかった。この世のものとも思えぬほどに。
私は、一瞬、その女と目が合ったのだ。
何とも冷たい目で、こちらを見ていた。
私は、階段を駆け上がった。
たぶん、女は最上階まで行った筈だ。
私には、そんな確信めいたものがあった。
息急き切って階段を駆け上り、最上階へ踊り場を回った所で、
私は思わず足を止めた。
そこには、昨夜の、あのきつい、安物の香水の臭いが充満していたのだ。
むせ返りそうになりながら視線を上げると、階上には3人の女が立ち、私を見下ろしていた。
いや、正確には、立っている、とは言えない。
良く見るまでもなく、彼女らのハイヒールは、其々床から20〜30センチほど浮いているのだ。
昨夜の出来事を、私は思い出した。
ああそうか、廊下をウロウロしてたのに、そう言えば足音がしなかったのは、
浮いてたからか。なるほどなぁ。
今更ながら、私は妙に納得した。
3人の真ん中にいるのは、やはりエレベーターに乗っていた黒いドレスの美女だ。
もう2人は、それぞれ原色の派手なドレスを着ていた。
仰々しいが顔の造りに似合った化粧をしている。
この辺がプロっぽさを感じさせる。
二人とも、やはりなかなかの美人だが、どことなくやさぐれた雰囲気を漂わすのは、
彼女達が娼婦…の幽霊、だからであろうか。
黒いドレスの美女は、他の二人より若い感じで、下手すれば十代の様に見えた。
しかしそれはそんな気がしただけで、どうだかは判らない。
娼婦の年齢を当てる事など、どんな男にも出来はしないのだ。
幽霊なのだろう。
それはたぶん間違いないのだが、浮いている事以外は生きている人間と全く変わらず、生々しい。
艶と言うか、色気さえ感じる。
3人は、無関心なのか、それとも興味を持っているのか、何とも判然としない表情で
じっと私を見下ろしていた。
興味が無ければ出てこないだろうから、それに、じっと見つめたりはしないだろうから、
やはり私に多少なりとも興味はあるんだろうと思う事にした。
幽霊とは言え、美人のフランス女に興味を持たれるのはまんざらでもない気がする。
しかし、一向に恐怖を感じないのは何故だろう。
目の前にいるのは、幽霊なのに。
私は割と冷静でいる自分が一番不思議だった。
それはそうと、しばらく無言で見つめられるのに居心地の悪さを感じた私は、
何か気の利いた事でも言わなきゃ、と思って口をあけた。
すると、思いがけずも、やたらと間の抜けた言葉が出てきた。
「Bon soir(こんばんは)」
突然、彼女達は甲高い声で笑い出した。
笑い声は廊下や階段に反響する。
それは、まさに、昨晩と同じ、狂気じみた、あの、笑い声だった。
今の挨拶はそんなに場違いだったのか。それとも私の発音が可笑しいのか。
彼女達は、長い事、笑い声を止めなかった。
客がいれば、部屋から出てきそうな、高い笑い声だ。
下のあんちゃんにも聞こえてる筈だが、階段を上ってくる気配も無い。
それとも、もう慣れっこになっており、今更いちいち見にくるつもりもないのだろうか。
私は、どうしていいのか判らず、笑う娼婦達を、ただただぼけっと見上げているしかなかった。
そして、笑い疲れたのか、3人の娼婦は、笑い声と共に、ふっと消えてしまった。
私の鼓膜には、しばらくの間、甲高い笑い声の残響がへばりき、
階段には、安物の香水が漂い続けていた。
私は、狐につままれた気分で、部屋に戻った。
バタン、カチャ、ドサ。ふぅぅ〜。
幽霊だったよなあ、今の。
浮いてたし、消えたもんなあ。
酔ってないよなぁ、俺。まだ、酒飲んでないもんなぁ。
幻覚とかじゃないよなぁ、アレ。
スチーム・ヒーターには、さっきのせておいた洗濯物がもう乾いている。
ヨーロッパで助かるのは、こうして洗濯物がすぐに乾く所だ。
もともと乾燥した気候もあって、ろくに絞っていない厚手のジーパンも、
スチームに乗せておけばすぐ乾く。
そのかわり、やたら喉が乾くから、寝るときは必ずエビアンを枕元に置いておく。
あ、エビアン買っとくの忘れてた。
…いや、そんな事はどうでもいい。
今、私は、たぶん幽霊に遭遇したのだ。 いや、確かに。
全く、実感は湧かないが。
それから深夜まで、またしてもワインを開け、チーズとハムを齧りながら、
私は彼女達の訪問を待ち続けていた。
しかし、それきり笑い声が聞こえる事も、香水が漂う事も、ボトルが宙に浮く事も無かった。
仕方なく、蚤の市で買ったものをテーブルの上に置き、そのまま私はベッドに入った。
明日からはまた、場末の宿を探し歩いて、相部屋で眠る日々が始まる。
せいぜい、独りきりの豊かな眠りを堪能しよう。
程なく睡魔がやってきて、前も後もなく、私は深い眠りに落ちた。
そして、翌朝目覚めると、テーブルの上に置いたものは無くなっていた。
彼女達は、私の好意を受け取ってくれたらしい。
それは、安物の、3つのブローチだった。
次にどこに行くあてもなく、私は荷物を背負って、名残惜しくも部屋のドアを閉めた。
いつものように、レセプションに居場所を決めているあんちゃんが待っていた。
「とても楽しかった」と礼を言うと、「へえ。そうかい。やっぱりあんたは変わってるねえ。
それとも日本人はみんなそうなのかい?」と、人懐こい笑顔が返ってきた。
チップを弾んで、「いい旅を」の言葉に背中の荷物を押されて、私は石畳の歩道に踏み出した。
去り際、私の背中に、「昨夜も出たみたいだな」と、あんちゃんは声をかけてきた。
やはり、あの笑い声は彼にも聞こえていたのだ。私は片手を軽く挙げて応えた。
そうして、私は、パリ18区の幽霊宿を後にした。
また泊まりたい宿だが、それは叶わないかもしれない。
あんちゃんが言うには、この一帯の再開発が決まっており、
そのうち近々、この宿も取り壊されるそうだ。
パリには、そこだけ時間の流れが止まってしまった様な場所が幾つもあり、
この宿もそんな場所の一つだと思っていたが、どうやらそれは私の思い込みに過ぎなかったらしい。
どんなものも、移ろい消えていくのだ。
たぶん、人の魂以外は。
この宿が瓦礫になってしまった後は、あの3人の娼婦達や、人の良いあんちゃんは
何処に行ってしまうんだろう。
それだけが、気がかりだった。
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