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最近お陰さまで忙しくしておりますので、昨日今日と連休取れたのは久しぶりでした。
 
昨日は朝帰りだったので1日寝て潰しましたが、今日は精力的な鎌倉詣でが出来ました。
 
 
しかし、ここのところ鎌倉鎌倉ですが、寺や墓ばっかり出てくる記事って面白いのでしょうか?
 
たぶん面白くないだろうなぁと思いながら、記事を書いております。
 
 
そう言えば、本業の「ほんとにあった(と思う)怖い話」もネタがぽつぽつ溜まって来たので、その内記事にしたい
 
と思います。
 
 
それに、「心スポ」にも行きたいし、オフ会もやりたいし…ああ、時間が欲しいです…。
 
 
 
 「岩船地蔵堂」の記事で出てきた悲劇の純愛カップル、大姫と義高ですが、大船の常楽寺に二人のお墓がある
 
と聞き及んだので行ってみました。
 
 
 
(↓)茅葺きの山門。鎌倉市の指定文化財です。
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常楽寺は三代執権北条泰時が母の供養に立てた「粟船御堂」が前身となっているそうで、大船(おおふな)の地
 
名はこの粟船(あわふね)にちなむとされています。
 
また、大姫の亡き後、母・北条政子が大姫と義高の為に阿弥陀三尊を安置した仏堂を建てたのが始まりとも云
 
われております(常楽寺略記)。当ブログ的にはこちらの説を採りたいところ。
 
 
何はともあれ、小さいが由緒のあるお寺です。
 
鎌倉三名鐘の一つで、鎌倉最古と言われる梵鐘を持ち(鎌倉国宝館に寄贈)、常楽は建長の根本なりと言わ
 
れ、篤く信仰されているお寺です。
 
 
(↓)茅葺きで趣き深い文殊堂。安置されている文殊菩薩坐像は秘仏の為、普段は見る事が出来ません。
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(↓)本尊阿弥陀三尊を収める仏殿。天井には見事な雲竜が描かれておりました。
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(↓)仏殿裏手の墓所には北条泰時の墓所があるのですが…。
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しかし、大姫と義高のお墓が見当たりません。
 
しかたなく寺務所のチャイムを鳴らし、出てきてくれた女性の方に「あのう、源義高のお墓は…」と訊ねると、
 
しばし首をかしげ「みなもとの…?ああ、木曽義高ね」と。「門を出て右に垣根伝いに歩くと裏の丘に上がれま
 
すので、その上ですよ」と教えてくれ、もし良かったらとお寺のパンフレットもくれました。「大姫のお墓は」と聞く
 
と、その途中にありますよとの事。朝のお掃除中でお忙しい中、有難うございました。
 
 
教えられた通りに行くと、寺の墓所を抜けた先が裏山に続く山道となっておりました。
 
山道と言っても住宅に囲まれ、上を仰いでも民家が立ち並んでおります。
 
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遊歩道みたいに整備された道を登っていくと、森の中に小さな可愛らしい祠がありました。
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傍らの立て札には「姫宮の墓 (泰時公の娘)」と書いてありました。「泰時の娘」とは三浦泰村に嫁いだ娘の事
 
で、宝治の三浦合戦で甥に当たる北条時頼に夫を攻め滅ぼされたこれまた悲劇の女性です。
 
あれ?大姫じゃないじゃん…と思いきや、こちらが大姫の墓だという説もあるそうです。
 
せっかく来たのだから、そう言う事にしておきましょう。
 
 
そして更に登ると、丘を登りきった所に小さな公園があり、そこにこんもりとした塚がありました。
 
こちらが「木曽塚」と呼ばれる、木曽義高の墓所です。
 
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墓標には「木曽清水冠者義高公之墓」とあります。冠者とは元服して間もない男性の事です。
 
齢12歳で殺された義高の悲哀が感じられます。
 
考えたら、うちの長男と同じ歳だ…(数えと満の違いはあるが)。
 
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塚には、古い石塔の跡(?)が残されております。
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『鎌倉攬勝考』によると、義高の遺体は首実験の後に田圃に塚(木曽免)を築いて埋葬されましたが、田の持ち主
 
である石井某が掘り出して常楽寺に移し、塚を封じて「木曽塚」と称したとの事です。(常楽寺のパンフレットより)
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石碑の碑文にもそんな様な事が書いてありました。それによると、塚がここに移されたのは延宝年中(1673〜16
 
81年)だそうです。
 
この近くの離山と言う場所に木曽免と呼ばれる塚があったと言われ、江戸時代に田畑の拡張の為に掘り返した
 
ところ青磁の瓶が出てきたと。そこでこれは義高の遺骨に違いないとされて、常楽寺の裏山に埋葬したという話
 
もあるそうで、おそらくここがその埋葬地なのでしょう。
 

 
義高の墓も大姫の墓も「そうではないか」の域を出ませんが、ここはまあ、そういう事にしておきたいところです。
 
現在、二人の墓は同じ寺の境内に仲良く納まっております。
 
−と言い切って、大姫と義高の物語を締めくくりたいと思います。
 
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さて、白旗神社を後にした取材班は鎌倉は腰越にやって参りました。
 
目指すは龍護山満福寺。
 
満福寺は義経が兄・頼朝に許しを得る為に書状を書いた場所。そう、あの有名な「腰越状」を書いたお寺です。
 
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江ノ電・腰越駅近くのコインパーキングに車を停め、タバコ屋さんで道を聞くと、優しいおばあちゃんが「この道ま
 
っすぐ行けばありますよ。あなたの足ならそうねぇ、5分もかからないよ」と教えてくれました。
 
言われた通りに海岸に向かって歩いて行くと、江ノ電の踏み切りのすぐ向こうに「源義経」の文字を染め抜いた
 
のぼりが見えました。満福寺です。
 
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元暦元(1184)年、平氏追討の功績により、義経は後白河法皇から左衛門少尉に任ぜられ、検非違使となりまし
 
た。しかし、義経が自分の許可無く勝手に朝廷の官位を受けた事に頼朝は激怒します。
 
朝廷に対抗する武家の政権を確立したい頼朝にとっては「あの野郎、何考えてんだ!!」となるのも尤も。
 
まだ官位を授ける地位にない頼朝にとって、自分の存在価値を否定された様なものだったのです。
 
平氏との戦いでも、義経の独断専行に頼朝は内心イライラしていた上に、義経についていた梶原景時から
 
「義経は戦功を自分一人の物としている」とチクリも入っていたのです。
 
義経は軍事の天才ではありましたが、こと政治的な事柄については鈍感と言うか無頓着で、後白河法皇はその
 
辺を見越して官位を授け、兄弟の仲を裂こうとしたのでしょう。
 
元暦2(1185)年5月に、義経は頼朝の怒りを解こうと鎌倉に向かいました。
 
しかし、義経や弁慶は、頼朝の許しが無いので鎌倉に入る事が出来ず、鎌倉一歩手前の満福寺で2週間程滞在
 
したそうです。
 
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(↓)境内には義経の慰霊碑や…
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(↓)弁慶関連の石などが。
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義経は大江広元を通じて頼朝に許しを得ようとしましたが、腰越状はその時にかかれた物。
 
元暦2年5月24日の事です。
 
 
腰越状は、お寺の資料室に展示されています。
 
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(←)義経の直筆サイン入りです。
この「腰越状」は、「不願為敵亡命」の六文字が抜けたため、こ
の寺に残ったという事です。つまり、下書きなのですが、それ
でもとても貴重なものです。
因幡前司殿…とありますが、これは大江広元の事です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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(←)腰越状をしたためる義経。(資料室の襖絵)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
腰越状を取り次いで貰うも、頼朝の許しは出ず。
 
義経主従は京都へ帰って行きます。
 
ここから、義経の悲劇が始まる事になりました。
 
この後、朝敵の汚名を着せられた義経は、吉野から奥州までの逃避行に入ります。
 
そして最期は奥州平泉で自刃…。義経の華麗な活躍と悲劇的な最期は「判官贔屓」と言う言葉を生み、そのキ
 
ャラクターはヒーローとして神格化され、現代まで語り継がれる事となるのでした…。
 
 
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 (←)展示してあった笹竜胆の紋章入りの鎧。ま、まさか義経の物!?と思いましたが、お寺の方によると「義経とは関係ないんですよ〜」との事でした…。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
さて、この満福寺ですが、思ったよりもこぢんまりとしており、目の前を江ノ電が行きすぎ…
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ワンコが遊ぶ、何となく和んでしまうお寺でした。
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【グルメ情報】お休み処の「義経庵(ぎけいあん)」のしらす丼は、知る人ぞ知る穴場グルメです。
 


 
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藤沢市の白旗神社は源義経が祀られている事で有名ですが、そのすぐ傍に「義経の首洗い井戸」と呼ばれる史
 
跡があるのは余り知られていない様です。
 
 
義経と言えば知らぬ人の無い稀代の、そして悲劇のヒーロー。
 
平家滅亡の立役者でありながら兄・頼朝の不興を買い、逃げ延びた奥州・平泉でかくまってくれていた藤原泰衡
 
に裏切られて攻められ、自刃したとされております。文治5(1189)年の事です。
 
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(←)源義経。云われているほど男前ではなく、出っ歯の小男だっ
 
たそうな。判官贔屓の伝承の中で、ルックスも美化されていった
 
のでしょうね…。
 
 
 
 
 
 
討ち取られた義経の首は鎌倉に送られ、梶原景時らに首実検された後に海岸に晒され、腰越の海に打ち捨てら
 
れたそうです。
 
ところが、義経の首は潮に乗って境川を遡って白旗神社近くまで辿り着き、里人がすくい上げて井戸の水で首を
 
清めた所から「義経首洗井戸」と呼ばれる様になりました。
 
大寒にしては陽光が身体を暖めてくれる中、行ってみました。
 

 
さて、まずは白旗神社にお参りします。
 
白旗神社はいつからあったか判らないほど古い歴史をもっており、太古関東地方を開拓した神様・寒川比古命
 
を祀っておりました。義経の霊が合祀されたのは宝治3(1249)年9月の事だそうです。
 
 
(↓)ちなみにこの鳥居は昭和59年に建てられたもので、日本で初めてのグラスファイバー製鳥居だそうです。
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(↓)本殿には源氏の紋章である「笹竜胆」が。
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境内を出て、交番の脇の細い道を入ると小さな公園があり、その一角に「義経首洗井戸」がありました。
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白旗神社に残る伝承では、義経の首は漆黒の櫃に入れられ、美酒に浸され鎌倉に送られました。首実検した
 
梶原景時、和田義盛らは義経の変わり果てた姿に涙で袖を濡らしたそうです。海岸に捨てられた首は金色の亀
 
の背中に乗って藤沢宿まで遡り、「われは不幸にして悪人の舌頭にかかって高館の露と消えたが、その首さえ
 
捨てられて怨魂やる方なし。汝等よく葬りくれよ」との言葉を発したそうです。里人たちは井戸の水で義経の首を
 
洗い清め、塚を造って丁重に弔った。(その塚は現存していませんが、この井戸から40mほど離れた場所にあっ
 
たとか。)その後、鎌倉の御所は義経の怨霊に悩まされたそうで、頼朝の命により白旗神社に義経が祀られる事
 
となったのです。
 
ちなみに白旗神社の「白旗」とは、平氏の赤旗に対する源氏の旗の事で、源平合戦の時に敵味方を識別する為
 
に使われた事から源氏のシンボルとなった、その「白旗」から来ています。
 
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(↓)井戸の中を覗き込む。
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首ひとつになってもなお鎌倉に入れなかった義経の霊を封じた場所。
 
それがここ、白旗の地なのです…。
 
(↓)平成11年、義経公没後810年を記念して、宮城県栗原郡栗駒町に葬られた「骸」と、腰越の首実検後この地
に葬られた「首」の霊を合わせ祀る御鎮祭が行われ、境内に鎮霊碑が建立されました。
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そして取材班は次なる義経伝承の地に向かうのでした…。
 
 


 
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