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久々の続き記事です。正直、疲れてきました。このクソ忙しいのに何をやってるんでしょうか、私は。
まあいいや。頑張って続けましょう。TO与太話の始まり始まり〜!!
頼朝の死から、長すぎる年月を経てようやく建立された大仏。
その長すぎる年月にこそ、大仏の謎を解く鍵が秘められていたのです!!
(なんて、とりあえず断言してみる。)
(↓)稲多野局の笠塔婆(供養塔)。大仏さんの背後にあります。
頼朝の死からこっち、鎌倉は激動の時代だったのはご存知の通りです。つーか、鎌倉は常に激動ですが。
源氏嫡流の将軍は三代で途絶え、有力御家人同士の抗争が多発し、隙を見て京からは討幕の兵が挙がる。 実朝が公暁に暗殺されてからは将軍は空位で、北条政子が鎌倉殿を代行しておりました。
鎌倉幕府すなわち執権北条が大仏建立計画に表立って動かなかったのも無理はないかもしれません。動きたく
ても動けなかったのです。政局運営でそんな暇は無かったし、下手に大仏建立なんてプロジェクトをぶち上げた
ら「北条め、権威を知らしめるために大仏を造ろうとしてやがるな」と他の御家人の反発を買い、足元をすくわれ
かねません。
よって、大仏建立は侍女の発願と言う事にしておいて、陰ながら支援し計画を進めていったのではないでしょう
か。首謀者はもちろん北条政子でしょう。証拠は何もありませんが、この人しかいないと思うのもまた事実…。
(←)やっぱり、政子ちゃんなしでは鎌倉の話は進
みませんわなぁ。
そんな中、二代執権・義時が死亡。政子の依頼によって、政子の甥である泰時が元仁元(1224)年に三代執権
の座に就きます。執権となった泰時は高潔な人格者で、質素倹約に努め、飢饉の時は年貢の免除や食料支援
を行うなど善政を行った人物として知られています。日本初の武家法典である御成敗式目を編纂したのも泰時。
(↓)明治大学の博物館に展示してあった「御成敗式目」。 (夏島貝塚出土品の取材に行った時に撮影。)
しかし、いい人ばかりでなく、承久の乱では朝廷に対してきついお灸をすえており、厳しい人でもありました。
六波羅探題として京に駐在していた泰時は、優れた都市機能を持つ京を目にしており、それに倣った街づくりを
鎌倉で実行しました。その中で大仏建立計画が日の目を見たのではないでしょうか。頼朝の遺志通り、鎌倉のシ
ンボルを造る。都市計画としては必須の条件ですし、頼朝の遺志を実現するのは政子の悲願だった事でしょう。
(↓)大船の常楽寺にある北条泰時墓所。(大姫ちゃんと義高くんの墓所を取材した折に撮影。)
嘉禄元(1225)年、頼朝以来永く幕府を支えていた大江広元が、次いで政子が亡くなります。大きな後ろ盾を失
いつつつも、泰時は自らの政治手腕を思う存分発揮出来る環境になりました。うるさいじいとおばはんがいなくな
ったのですから。
(←)うるさいじい。しかしこの人無くして鎌倉幕府はあり得なかったのではないかと思います。
じいとおばはんが亡くなった年、泰時は京の九条家から次期鎌倉殿として迎えていた当時8歳の三寅を元服させ
藤原頼経と名乗らせ、翌日には全て賞罰は泰時自身で決定する旨を宣言。がっちり実権を握り、翌年には頼経
を四代将軍にします。
泰時が実権を握った、丁度この辺から、鎌倉大仏建立計画が急速に具体化していくのです。
泰時は、うるさいおばはんらに反対されていた御所の移転を、おばはんの死後すぐに実行しました。移転先は宇
都宮辻子御所と呼ばれています。移転の理由は、血塗られた大倉御所に巣食う怨霊から逃れる為と云われて
おります。頼朝・頼家・実朝と三代続いた源氏将軍がどいつもこいつもロクな死に方をしていないので、泰時が大
倉御所を怨霊の地だと思ったのは無理の無い事です。御所の移転と言うのは、規模は小さいですが、平城から
長岡、平安と遷都したのと意味は同じです。怨霊と共に旧い既得権益層から脱却し、人心一新を図ったのです。
大仏の建つ長谷界隈は鎌倉の西の外れです。建長寺や極楽寺の辺りもそうだった様に、当時の鎌倉の境界領
域と言うのは地獄谷(死体を放棄する場所)だったり、刑場だったり、病人を隔離する場所だったり、つまり「悪
所」でした。実際、当時の長谷には悲田院と言う病人の隔離施設があったそうです。
泰時は、都市計画の一環として、また、うるさいながらも敬愛する亡きおばはんの恩に報いる為にも、「悪所」に
おばはん悲願の大仏を置く事によって聖域化し、鎌倉ひいては東国全体を護持させようとしたと考えられます。
長年、資金と資材を集めていた浄光は泰時と言う後ろ盾を得てヒア・ウイ・ゴーとばかりに大仏建造に着手する。
―と言う訳で、泰時の援助によって、鎌倉の大仏はようやくその姿を形作ってくのです。(たぶん。)
(←)高徳院仁王門の金剛力士。
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< 記事、長いよ。 |
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こうして鎌倉大仏は造られ始めるのですが、泰時は深く阿弥陀仏を信仰していたので、大仏は阿弥陀如来として
着工されたのではと思います。しかも、鎌倉大仏の手が結ぶ印相は、9種類あるとされる阿弥陀仏の印相の中で
も最も格式が高い「上品上生印(じょうぼんじょうしょういん)」を結んでいます。最高の阿弥陀如来像を造るのが
泰時の願いだったのではないでしょうか。
しかし、仁治3(1242)年、泰時は赤痢を発症し、亡くなります。
(巷では後鳥羽上皇の怨霊の仕業と云われましたが。)
泰時没後、鎌倉宗教の軸足は浄土宗から禅宗へと移行していきます。幕府は京に対抗する意味でも新しい宗
教を求め、それが禅宗だったのです。バックアップを失った浄光はそれでも何とか銅製大仏を完成させました。
しかし、そこには寺社は無く、ただ大仏殿の中に銅製の大仏が置かれるのみ。
対照的に、今で言う北鎌倉には建長寺や円覚寺など、禅の巨刹が建立されていくのでした。
浄光ら浄土宗系の僧によって造られた鎌倉の大仏は、完成時には律宗僧・忍性の極楽寺の管理下に置かれま
す。これは、浄土宗の僧は律宗に帰依したから。政子も泰時もいなくなり、鎌倉幕府宗教政策の主流から外れ
た鎌倉の大仏は、その完成を『吾妻鏡』に記述される事なく、ただ黙って座っているのでした…。
(↓)そう考えると、ちょっと寂しい後姿…。
―と言う事で、鎌倉の大仏は政子を始め頼朝に近しい人達が、頼朝の遺志を叶える為に造ったと至極真っ当な
結論に落ち着いた訳ですが。全く、高徳院由来記そのままで、面白くも何ともないですね。
(↓)境内の一角に建つ石碑。
(↑)源頼朝の名が刻まれておりました。
そして最後の謎、浄光とは何物だったのか?鎌倉大仏の勧進以外、この人の名が出てくる史料はありません。
よって、これはもう推測(妄想)するしかありません。
手がかりと言えば、浄光は遠江の人だと云われている事くらい。今で言う静岡県の人です。
もしかしたら、女好きで有名な頼朝が富士川の戦いの時か何かに地元の女性とねんごろになって生まれた御落
胤かもしれません。だからこそ、父の遺志を全うすべく大仏建立に奔走したのかも…。
全てを知る大仏さんは、小泉八雲に「東洋的微笑」と讃えられた口元を決して開く事無く、永遠に黙したまま…。
TO与太話、おしまいおしまい〜。
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