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義経、北へ行く。

 源義経は平泉では死なず、蝦夷地を経て中国大陸に渡り、ジンギスカンになった!! ―と言うオハナシ。

このオハナシのミソとしては、奥州平泉は布川館で義経が死んだとされる1189年から、ジンギスカンが台頭してくる1190年代半ばが程よく繋がっていると言う点です。代表的な根拠は、ざっと、以下の通りです。
①ジンギスカン(Gin Gis ken)の名は源義経の音読み(Gen Gi Kei ゲンギケイ)がなまったもの。モンゴル語ではSとEは無声音なので、「Gin Gi Kn」となりギンギケ(ン)と読め、つまりゲンギケイとなる。
②ジンギスカンはハーンに即位した時、9本の白旗を掲げていたが、これは自らの名「九郎」と、源氏の白旗にちなんだもの。
③ジンギスカンは、源氏の家紋と同じ「笹竜胆」の紋章を使用した。
④義経もジンギスカンも、騎馬を用いた戦術を得意とする。

へぇ、そうかいなと妙に納得しつつも、眉唾クサイなぁと思っておりましたが、ちょっと調べてみると、思った
以上に眉唾でした。一つづつ、見ていきましょう。
①ジンギスカンはゲンギケイがなまった?
「ジンギスカン」との表記は、本来の発音とは違います。だからそれをローマ字に分解して無声音だ何だと言っても、単なる語呂合わせにしかならないのです。だいたい「カン」は遊牧民の君主が名乗った称号で、名前ではないし。そもそも、何で源義経をゲンギケイなどとみょうちきりんな読み方をしなければいかんのか。
②9本の白旗は「九郎」と「源氏の白旗」を表わした?
ジンギスカンが掲げたのはこれ(↓)。
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四駿四狗(ししゅんしく)と言うそうです。
源氏の白旗とは似ても似つかないシロモノです。
 
9本あるのは、8本が「4頭の駿馬・4匹の狗」と讃えられたチンギス・ハーンの8人の側近を表わしており、真ん中の一番デカイので自分を表わしたからで、「九郎」とは何の関係もありません…。
 
 
 
 
 
 
③笹竜胆の紋章は?
左が今もウラジオストックなどに残るジンギスカンの紋章。右が源氏の家紋とされる「笹竜胆」。
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似てはいますが、左の方は笹はともかく、竜胆の花と見るには少々苦しいかも。
 しかし、似てる似てないの以前に、そもそも義経は「笹竜胆」の紋を使用していなかった!!のです。
当時、「笹竜胆」の紋は同じ源氏でも村上源氏・宇多源氏の公家流の一部が使っていたのみで、太平記や吾妻鏡にも頼朝や義経がこの紋を使ったとの記録は残されておりません。
 「笹竜胆」が源氏のシンボルとなるのは江戸時代になってからで、源平ものの芝居なんかをする時に無紋ではサマにならないので、演出として「笹竜胆」が使用されたからだそうです。同時期に清和源氏の末裔達の間で「笹竜胆」が家紋として使われるようになったそうな。それで今では「源氏=笹竜胆」のイメージがあるのですが、それはあくまでイメージで、史実とは違うのです。
④騎馬戦術が得意?
同じく騎馬を使う戦術でも、義経とジンギスカンではその運用方法が全く違います。
義経は迅速な兵力移動の為に騎馬の機動力を活用して奇襲を仕掛けたのに対し、ジンギスカンの戦術は騎馬による集団戦法で敵を殲滅させると言うもの。両者の戦術思想は全く異なります。
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(←)平家物語の名場面「敦盛」。
戦いに入ると、「やあやあ我こそは」と名乗りをあげ、基本タイマンで組討をする。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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(←)テュルク・モンゴル系の騎馬軍同士の会戦。騎馬で隊列を組み、一気に突撃!!
これには、やはり単騎での勝負が基本だったヨーロッパの騎士もお手上げだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
―と言う訳で、義経がジンギスカンになったと言う線はまずなさそうですが、そんな事はまあいいとして。
義経=ジンギスカンと言うハナシはどこから出てきて、どうやって広まったのでしょうか。
 
話の源は結構古くて、義経が衣川館で自刃してすぐ「義経生存伝説」の芽が出ています。
義経の死から約1年後の吾妻鏡には、「義経の軍勢が攻めてくるとの噂が鎌倉に広まり幕府が警戒した」とありますから、この頃すでに義経生存はかなりのリアリティーをもって語られていた事が判ります。
何故なら…。
義経の首は死後43日も経ってから鎌倉口まで運ばれて来たので、腐敗が進み、そうでなくても炎上した館から回収された首は焼け焦げで人相もよく判らない状態だったそうです。お陰で、首実検した梶原景時もホントにこの首が義経のものか判断がつかず、「まあ、そう言う事にしておこう」的な処理となりました。
そんなんなので、「あの首、ホントに義経だったの?実は生きてんじゃないの?」―との疑念が鎌倉の人々の間に広がっていたのでしょう。
 
義経が生きているとなれば、その後は何処で何をしていたのかと思うのが人の常。
 
室町初期には「義経が蝦夷地(北海道)に渡った」とする話が残っており(『松前征略』)、また、「御曹司島渡り」という御伽話が庶民に親しまれたと言います。これは、生きていた義経が北方各地を巡る冒険譚です。
奥州藤原氏は、平安時代から北方貿易を営んでいたので、義経が逃げるとしたらその貿易ルートを辿った北しかないとは誰もが思う事でしょうから、伝説上の義経も北へ向ったのです。
 
時は下って、江戸時代。
 
(眉唾ながらも)清和源氏の流れをくむとされる徳川の世になり、武士庶民を問わず義経人気が高まっておりました。義経は清和源氏の時代を切り開いた大功労者であり、天才的戦術家であり、薄幸の美男子であり、女にモテモテだった悲劇のヒーローですから。
 
そんな中で、幕府が公式に編纂を命じた歴史書の中に、異説としながらも義経生存説がとりあげられるようになります。(林羅山・鵞峯親子『本朝通鑑』1670年)そして、水戸光圀の『大日本史』には、義経が海を渡って蝦夷地(北海道)に行ったとの異説が紹介され、蝦夷地に渡った義経はアイヌの神オキクルミになったと書かれております。
 
異説と断りながらも、公式に編纂された歴史書に義経北行説が書かれた背景には、南下を狙うロシアの脅威がありました。アイヌの神と義経が同一であるとする事で、蝦夷地が日本の「領土」である事をアイヌの人たちに認識させようとしたのです。アイヌ民族支配を強化し、ロシアに備える方便として、義経伝説が利用されたのです。
 
この時点ではまだ北海道に留まっていた義経に、いよいよ日本海を渡らせたのが、沢田源内と言う人。
1710頃?源内が「中国の史書『金史』の別本に義経の息子が大陸に渡って金の将軍になったと書かれている!!」と言い出しました。そして、「義経は蝦夷地から大陸に渡り、子孫が清朝の祖になった!!」(『鎌倉実記』加藤謙斎1717年)となり、「清朝から渡来した『図書集成』には、中国の清王朝の先祖は源義経で、清という国号は清和源氏からとったものだと書いてある」(『国学忘貝』森長見1783年)となって、だんだんハナシが膨らんできます。
 
実はこの辺は今で言えば「トンデモ本」で、『金史別本』は沢田源内が捏造した偽書であり、森長見のネタ元は単なる伝聞情報で、実際に『図書集成』を閲覧した蘭学医から「そんな記述はなかった」と完全否定されてしまっております。
 
普通なら、ここらで与太話も尻すぼみになりそうなものですが、そうはならないのが義経伝説の凄いところ。
清朝は満州族のたてた国であり、金朝ともつながる。材料が出揃ったところで遂に真打登場となります。
 
実は、「義経=ジンギスカン」を最初に唱えたのは、シーボルトなのです。
シーボルトは通訳から義経生存→北行→大陸渡航のハナシを聞き、義経が死んだとされる1189年からジンギスカンが歴史の表舞台に踊りだす1190年代半ばまでが丁度よい間隔である事に気付き、「義経が大陸に渡ったとするならば、もしかしてジンギスカンになったのとちゃうやろか?」と考えました。そして伝承・民話・先駆者の研究をつぶさに見ていった結果、「やっぱ、そうやで!!」と思うに至ったのです。ちなみに、例の9本の白旗なんかはシーボルトが最初に目をつけたディテールです。シーボルトは『日本』の第1巻第1編第5章(1832年)に「義経=ジンギスカン」を書いています。ここに来て、遂にかやっとか、義経は晴れてジンギスカンとなったのです。

江戸の幕府が倒れ、文明開化の明治時代。
 
有能な外交官にしてジャーナリストにして歴史家にして後には政治家になる末松謙澄が、留学したケンブリッジ大の卒論で「義経=ジンギスカン」説を発表します。明治12(1879)年の事でした。英文で書かれた論文は和訳され『義経再興記』として出版されました。
これは、ロンドンで味わった日本人蔑視に憤慨した氏が、「日本は世界史に燦然と名を輝かす英雄ジンギスカンを生んだ国であり、お前らヨーロッパ人に馬鹿にされる覚えはないんじゃぁ!!」!とばかりに唱えたとされる説で、氏の想いはそのタイトルによーく現われております。
氏の論文のタイトルは、『The Identity of the Great Conqueror Genghis Khan with the Japanese Hero Yoshitsune(大征服者成吉思汗は日本の英雄源義経と同一人物なること)』でした。
 
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(←)末松謙澄さん。
(どうでもいいですが、日本人ってエライんだぞと世界に示すにも、わざわざ他の国の英雄にこじつけないとお国自慢の一つも出来ないのかと情けなくなるような気もしますけど…。)
 
 
 
 
 
 
 
その後、末松論文の影響を受けた牧師、小谷部全一郎が大正13(1924)年に出した『成吉思汗ハ義経也』が大ヒットし、この説が改めて大衆に浸透したのでした。
 当然、歴史学者からはこの説は完全否定されますが(だって、論拠が最初に挙げたようなネタばっかりだったから、仕方がない)、小谷部氏も負けずに続巻を出して対抗します。
 
はっきり言って「トンデモ」でしかない小谷部氏のハナシがなんでこんなにウケたのか。
 
それはやはり当時の時代背景が強く影響していたようです。
その頃の日本はシベリア出兵に失敗し、大陸雄飛の夢がしぼみかけていました。
義経がジンギスカンとなって大陸を支配したと言うネタは、日本の大陸進出にとって絶好のプロパガンダであり、
小谷部氏が行った大陸での調査を全面バックアップしたのは日本陸軍でした。
 しかし、軍が積極的にこの説を押し広めたと言うより、庶民の方で勝手に飛びついたと見る方が、この場合は妥当な様です。それだけ、当時の日本人は大陸進出に夢と憧れを持っており、義経が窮地から脱して大陸に渡ったとの話をロマンを持って受け入れたのだと思います。

古来英雄は死して祟り、それを防ぐために御霊として祀られましたが、ある種の英雄は逆に「不死」として伝説が語られます。御霊を祀るのは時の為政者ですが、英雄を不死としたのは庶民であり、義経の他にも源為朝、豊臣秀頼、明智光秀、西郷隆盛等の例があります。しかし、その中でも日本の英雄からアジアの英雄に昇華された義経は特異な存在であり、それだけ庶民人気が高い事の証明でしょう。
 
時に為政者は、そんな庶民感情を利用するので、与太話を語るにも多少は気をつけなくてはいけませんが。
 
しかし、庶民の感情と国家の思惑の中で、北海道に行かされたり、大陸に渡らせられたり、神にされたりジンギスカンにされたりと、死後も大忙しだった義経さん。草葉の陰で苦笑いをしていたのではないでしょうか。
 
「やれやれ…ですなあ。」             「いや、全く。」
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と言いつつも、色々調べる内に、ジンギスカンはともかく、義経は衣川では死なず、せめて北海道までは逃げ延びたのではないかなぁと感じ始めているTOでした。その辺は、また機会があれば、記事にしたいと思います。

『トンデモ日本史の真相』(原田実著/文芸社) 『逆説で斬る!!義経』(井沢元彦/宝島社)
 
(↓)ラミちゃん、辞めないで〜!!
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