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そうこうしている内に船は、中継地であるロードス島の桟橋に着いた。パブで飲みはじめたハリーは全く興味がないようで、追加のビールをオーダーしている。あらかじめ貰っておいたランディングカードとパスポート、いくばくかの現金を身につけ上陸する。小さな港を取り囲むように城壁が建っていた。その向こうには古い石造りの城が見える。海岸から城壁をくぐると小さな町があり、これまた小さな広場に面した雑貨屋でタバコと食料を買いだす。滞在時間は1時間しかないので、これと言って何も見て回れない。しばらく砂浜でボンヤリ海を眺めるだけだった。船に戻ると、ここから乗ってくるらしい身なりのよい客が何人かいた。彼らはアッパーデッキの客だ。ランディングカードを係りのおっさんに渡す時、雑貨屋で買った袋も改められた。やる事はきちんとやっている。
船は3時過ぎに出航。藍色に深く澄んだ海面に、またイルカが跳ねている。水面下を泳ぐイルカの流麗なシルエットも透けて見えた。甲板の手すりには真新しい塩が結晶している。寝床でしばし昼寝すると、船は夕焼けに染まっていた。昼間は甲板で日向ぼっこを決め込んでいた連中もギャラリーに戻り、また賑やかになってきた。ハリーは、ずっとパブで飲んでいたらしく、ベロベロになって、ガターンと大きな音をたてて椅子から崩れ落ち、そのまま眠ってしまった。ホールには酒がまわり、兄ちゃん達がギターを鳴らし、どうやらアムステルダムの奴が持ち込んだらしきハッシシの煙が漂い、皆手を叩き、空き缶を鳴らして騒いでいる。そんな中で、じっと本を読む奴、ととっと寝る奴、飯を食う奴、考え込む奴、日記を書く奴、女を口説く奴と、好きな事をして寛いでいる。ふと見ると、暗い船窓を鏡代わりにして散髪をしている奴までいた。私も、イタリア人と、アメリカ人とユダヤ人とパレスチナ人と一緒に飲んで騒いで、そして寝た。
夜が明けると、日本で言う大晦日の日。朝方まで騒いだのに、8:00には目が覚めた。今日もいい天気だ。ふと見ると、ハリーはすでに飲んでいる。甲板に出てみると、名も知らぬ島が白い岸壁を見せながら通り過ぎていく。ようやくみんなも起き出し、またギャラリーが賑やかになってきた。トイレの脇に設置されていたシャワーを浴び、久々にサッパリした。11:00、キプロスに入港。予定で13:00の筈だったが、船脚が速かったらしい。ランディングカードを貰う時、停泊時間を聞くと、18:00までに帰って来いと言う。ドラクマも使えると言うので、余った小銭減らしに丁度いい。港の周りには何も無く、まだ新しい街道をてくてくと歩く。やたらと車屋やバイク屋が多い。何となく日本の郊外に似ている。「Town centre」の看板を頼りに5Kmも歩いて、やっと市街地に入った。古い家屋の残る旧市街と言った趣。土産物屋やカフェもある。その先には古城、その先には海。真っ青な海を行きかう貨物船を眺めながら、日光浴をする。片手には船から持ち出したビールがある。何時間か眠ってしまったらしく、潮風に目を覚まし、街道沿いの果物屋で新鮮なオレンジを買って船に戻った。今年最後の夕陽が港の向こうに沈み、船に明かりが灯る。いつもの如く、いつの間にか岸壁を離れた船は、星降る海に漕ぎ出した。
大晦日のサービスなのか、ギャラリーにも夕食が配られた。想定外のプレゼントに皆大喜びでかぶりつく。それを食い終わった頃、皆が集まりだした。ワインとフルーツカクテルがまわり、だんだんと盛り上がってくる。私も、イタリア人とアルメニア人とポーカーをしたが、イタリア人にタバコを全部巻き上げられてしまった。年明けの瞬間、ギャラリーの盛り上がりは最高潮に達し、男女を問わずハグとキスとハッピーニューイヤーの嵐が巻き起こった。それからみんな踊りだし、ラバンバを大声で歌いながら、船内を練り歩き、船長主催のニューイヤーパーティーで上級船客たちがダンスを踊っているホールにまで雪崩れ込んだ。そうして船が沈むかと言うほどの大騒ぎを繰り広げた上で、初日の出はイスラエル領海上で迎えた筈だが、それを見たものは皆無だっただろう。
初夢は泥酔の彼方に消え、それでも私は朝早くから下船の準備をしていた。イタリア人も、割としゃんとして荷をまとめていた。ふと見ると、ハリーの姿が無い。姿どころか、ハリーの寝床だったソファーは、何事も無かったように、綺麗サッパリとしている。あの男がこんなに早起きする訳はないが…。昨夜もハリーは…あれ?昨夜あの騒ぎの中にハリーはいたっけ?イタリア人に訊くと、そう言えば、見なかったなぁと言う。窓を覗くと、ハイファの町並みが迫っている。あれがイスラエルか…と感慨にふける間もなく、7:00丁度に船は接岸した。タラップは使われず、車が並ぶガレージから降ろされた。ほとんど真っ先に降りた私とイタリア人は、パスポートコントロールに入る前でハリーが降りてくるのを待っていた。お互い急ぐ旅でもない。最後にお別れの握手くらいしたかったのだ。
しかし、彼は降りて来なかった。
全ての乗客が居なくなり、係員から促されて私達がその場を立ち去る時まで。
彼は降りて来なかった。
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2011年03月31日
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いよいよアテネを離れる朝が来た。これから私は船でイスラエルに行く。
長く世話になった、『Pella In』との看板がぶら下げている安宿をチェックアウトするが、人懐こい宿のオヤジが泣きそうな顔をしている。なにしろ、ここには何ヶ月いただろう。古ぼけた建物のが群がる一角に、そこだけ小奇麗なその宿は、世界中から集まる貧乏旅行者で常に賑わっていた。アテネの安宿としては大したもので、ヒーターはきちんと機能し、シャワーからも熱い湯がほどばしる。思い返せば、アクロポリスの麓で一服していた白バイの若い警官と仲良くなり、紹介してもらったのがこの宿だった。警官が紹介するくらいだから間違いないだろうと思って訪ねたら、本当に間違いなくいい宿だった。愛想のいいオヤジが構えるレセプションの壁には、白バイに跨った若者の写真が誇らしげに飾られていたが。何の事はない、あの白バイ警官の実家だったのだ。
それは兎も角私はこの宿を大変気に入り、途中でエジプトに行ったり、トルコに行ったりしたが、拠点はここに置いていた。そんな遠出の時は、不急不要の荷物を預かってくれたりもした。そして帰ってくると、「お帰り。今度は何泊だい?」と、オヤジがニコニコ顔で迎えてくれたものだ。数日前に迎えたクリスマスの日には、「日本語で『メリークリスマス』はどう言うんだ?」 とオヤジが聞いてくるから、「『メリークリスマス』だ」と答えたら、周りに居た女の子達に大うけしたっけ。泣きながら抱きついてくるオヤジに、残りの宿代としてドラクマ札を渡しながら、「Να μας ξανάρθετε(また、来るよ)」と、おぼえたてのギリシャ語を残し、エルム通りをシンタグマ広場に向った。
そこでバスの乗ろうと思ったのだが、港行きのバスが見つからない。仕方なく、オモニア広場にある地下鉄の駅まで歩いた。地下鉄(と言っても殆どの区間は地上を走っていたが)に20分も揺られると、古代のポリス時代から栄えたピレウスの港に着いた。古くからの港の常で、灰色を基調とする煤けた風景に、活気と怠惰が溶け込んでいる。東洋の果てから辿り着いた旅行者などは無視するかの如く、港には何の案内板もなかった。一体全体、私が乗るべきイスラエル行きの船はどこにあるのか。さっぱり判らない。地下鉄の駅に戻ると、フランス系らしき船会社のオフィスがあったので訊ねると、さもめんどくさそうなレディーが、「中央税関で聞いたら?」と、いい怪訝な地図を走り描いてくれた。カチン!!とボールペンのフタを閉めた音がオフィスに響き、それはとっとと出て行けとの意思表示に他ならない。
これが地図と言えればの話だが、地図を頼りに、潮風と油の匂いとディーゼルの騒音と男達のだみ声、それに海鳥の鳴き声が混じり合う埠頭を彷徨うように歩く。すると、不釣合いに立派な建物が見えてきた。あれが中央税関のようだ。行って見ると、立派なのは遠目だけで、半分廃虚化した古ぼけたビルだったが、とりあえず中央税関の建物である事には違いなかった。中に入っても受付も何もなく、がらんとしたロビーがあるだけだ。廊下にはいくつかのドアが並んでおり、とりあえず一番手近なドアをノックする。出てきた小太りにイスラエル行きの船はどこだと聞くが、早口のギリシャ語でまくし立てられただけで、何を言っているかさっぱり判らない。すると、廊下を歩いてきた初老の紳士が、「ちょっと、耳に入ったから来たんだが…」と話に割り込んできて、上手な英語で親切に船乗り場の位置を教えてくれた。彼は何度か日本に行っており、日本人の友人も多い親日家だそうだ。
教えられたとおりに歩くと、パスポートコントロールの建物があった。そこでパスポートに出国のスタンプが押され、その先で荷物のX線検査があり、建物を出た先に船が泊まっていた。地中海をハイファまで3日かけて渡る船なので、それなりの大きさを想像していたが、それよりは随分小さく、阪九フェリーよりも小さそうな勢いだ。そうは言っても、こちらは船の大小を言える身分ではない。私は部屋や席もない、「デッキ・クラス(甲板で寝ろ)」の乗客なのだ。乗船までの数時間を埠頭で待つが、冬のギリシャは結構寒い。もちろん寝袋や防寒衣料は持っているが、これでデッキだと相当キツイなぁと思いながら景色を眺めていると、周囲には、私と同じ様な貧乏旅行者が三々五々集まってきた。ようやくゲートが開けられる頃には、それは100人近くになっていた。
もう一度パスポートのチェックを受け、係員から「他人から預かった物はあるか?」としつこく聞かれた。お人よしの日本人が見ず知らずの人から物を預かってイスラエルに持ち込むケースは多い。見ず知らずの人は大概テロリストで、預かる物は大概爆弾だったりする。今まで国境でこんな事を訊かれた事は無かったが、さすがはイスラエル行きの船だけの事はある。ようやくチェックを終えてタラップを上ると、私達デッキクラスの乗客…いや、荷物は船頭に誘導された。そこには、「ギャラリー」と呼ばれる船内のパブリックスペースがあり、片隅に小さなパブが設えられていた。日本風に言うと「大広間」だろうか。壁際にソファー並び、ホールにはテーブルと椅子が配置されている。どうやら慣習的にここがデッキクラスの「荷物」置き場になっているらしく、「荷物」たちは皆それぞれテーブルの下やソファーの上に自分の居場所を造っていく。私も壁際のソファーを寝床とし、両隣で同じ事をしている銀髪のオヤジと、明らかにイタリア人と判る兄ちゃんに挨拶した。
そこから3泊の船旅が始まったのだった。「ギャラリー」のパブには無愛想な姉ちゃんと、そこそこバリエーションに富んだ食い物、そして酒とタバコが置いてあった。一段落する頃、いつの間にか船は埠頭を離れ、港は暮れなずんでいた。時計を見ると、1時間ほど遅れて出航したようだ。デッキに出ると、船は狭い水路を縫いながらピレウスの灯を後方へ押しやろうとしている。湾内なのに波は高く、揺れる。遠ざかる陸の灯を見送りながらタバコをふかし、寒くなってきたので寝床に戻ると、ギャラリーの住人達は殆ど寝袋にくるまい、芋虫のように床に転がっていた。私も寝袋に納まり、酔っ払いとその子供がじゃれる声を聞きながら眠りに落ちた。
朝8:00。ソファーの上も寝心地は悪くなく、熟睡して目が覚めた。窓の外は真っ青な海と空が広がっている。並も穏やかで、揺れは殆ど無い。一夜明けたギャラリーは、まるで難民船の様相を呈していた。床一面、ごちゃごちゃとした生活感が漂い、まるで何年も前からこうだったかのように感じられる。まあ、こっちの方が気を遣わなくていいが。
デッキに出ると、船はエーゲ海の島々を追い越し、舳先ではイルカの群れが跳ね飛びながら随行している。野生のイルカって初めて見たが、まるで陳腐な映画の1シーンだ。陽光が燦燦と降注ぎ小春日和の中で、する事もないので、タバコとビールで時間を潰す。お隣さんのイタリア人が「カードでもしようぜ」と誘ってくるので、銀髪オヤジとその辺にころがっていたトルコ人をさそってポーカーをする。小銭をかけてやっていたが、どうもイタリア人だけ勝ちまくるので、銀髪がニヤリと笑って「手口はわからんが、イカサマだろう」と、片言の英語で言った。彼は、ドイツ人だそうだ。見た目がクリント・イーストウッドに似ていたので、周囲から「ダーティー・ハリー」と呼ばれ始めていた。ハリーの言葉にイタリア人は、「俺はナポリでこれで食ってたんだ」と笑う。私がカードを切りながら、「じゃあ、次はAのフォーカードだ」と言って配る。ハリーと、トルコ人と私がイタリア人の手元を注視しながらゲームは進むが、何らあやしいところはない。そうして、トルコ人がフルハウスを嬉しそうに広げると、イタリア人は「Aの…」と言いながらカードを広げた。「フォーカードだ」。これには、暇つぶしに後ろで見ていた連中も感嘆し、次々とリクエストを出し始めた。イタリア人はそれに応えて次々とフラッシュ、ストレート、フルハウスを披露していく。さすがにロイヤルストレートフラッシュは無理だろう。そんな声に彼は笑いながら「そう言われるだろうと思って、作っておいた」と言った。開けられたカードはロイヤルストレートフラッシュだった。どうやってるんだ!?との周囲の問いには彼は笑って答えなかった。イタリア人は、私達から巻き上げた小銭で酒を買い、ご馳走してくれた。
(文字制限の為、続く)
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