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嵐の夜

【ある方の登山録】
 
一昨年の夏、単独行でK岳(特に名を秘す)に登った時の事。
 
カールに山小屋があり、その周囲のテント場泊。
 
低気圧が近づき、夜半から荒れるとの予報が出ていたが、買ったばかりのテント(完全防水との触込み)を
 
試したかったのだ。夏山であるし、すぐそこに小屋もあり、遭難する事は考えられないと判断。
 
私の他にも数張のテントがあるのが心強く、いざとなれば小屋に逃げ込むつもりだった。
 
 
陽が落ち、満天の星空を楽しむうち、雲が出てきてあっと言う間に空を覆う。
 
テントの状態を再確認し、念の為いつでも脱出できるよう支度してから就寝。徐々に強くなる風。
 
 
叩きつける雨音と、強風に煽られ揺れるテントに目覚めたのは、午前2時前。
 
さすが、水は漏れてきていない様子であるが、フライシートが飛ばされないか心配になるほどの強風。
 
まんじりともせずにいると、風雨は更に威力を増し、雨音はザーザーなどと言う生優しいものでなくなり、
 
ドドド…と、まるで滝つぼに居るかのよう。予想以上の荒天だが、低気圧は明け方には抜ける筈。
 
天候の回復を祈りつつ、目が冴えてしまったので、深夜放送でもとラジオをつけるが、空電が酷く聞こえず。
 
落雷が心配になるが、今のところ雷鳴は聞こえていない。下界は雷に見舞われているのかも。
 
やがて、耳元でピチャピチャと水の音。ついに浸水してきた。そろそろ、撤収を考えねばいけないかもしれない。
 
しかし、この風雨では…と躊躇。
 
 
すると、雨風の音の中、ザシ・ザシと足音が近づいてきた。
 
私のテントまでやってきた足音の主は、大丈夫かと、野太い声を出す。
 
テントを透かしてチラチラと灯りが見える。
 
今のところ。しかしそろそろ小屋に逃げようかと。 と私が応じると、その方が良い。支度して、ついて来るように
 
と返事が来る。山小屋の人が様子を見に来てくれたのだ。この暴風雨の中。私は身がすくむ思いで、手早く
 
支度すると、テントを出た。そこには、横殴りの雨の中、黒っぽいポンチョをかぶった男がランタン片手に立って
 
いた。外はまさにバケツを返したような雨が殆ど真横から叩きつけ、ガスが渦巻いており、5m先も見通せない。
 
私もヘッドライトをつけるが、殆ど役には立たない。先導する男のランタンを頼りによろめきながら歩く。
 
平時なら、5分もかからず小屋だ。
 
 
しかし、まだ50mも行かぬうち、蝋燭の火を吹き消すように、ふっと、先をゆくランタンの明かりが消えた。
 
転んだか、電池が切れたか。
 
急ぎ歩み寄り、見回しても、男の姿はない。おおい!!風雨に負けぬように大声で呼ぶが、返事はない。
 
カールの中の事、滑落するような地形ではないし、素早く身を隠す場所もない。おおい、おおい!!
 
何度も呼ぶが、聞こえるのは荒れ狂う風雨の音のみ。出来る限り周辺を探すが、男は何処へ行ったのか、
 
私は独り取り残された。
 
 
真夏とはいえ、3,000m近い標高の気温は低く、加えて風雨が私の体温をみるみる奪って行く。
 
小屋の方角も定かでなくなっており、視界のきかない中で動き回るのは自殺行為。
 
私は、今来たルートを辿って、何とかテントまで戻った。テントは若干水が入っているものの健在。
 
濡れ鼠で、まさか凍死はしないが、このままでは風邪を引くのは必至。しかし、先ほどの男はどうしたのか。
 
着替えをして、コーヒーで身体を暖めて人心地ついた私は、また心配になった。しかし、今は如何しようもない。
 
男の無事を祈念し、身体を寝袋に押し込み、寝るともなしに寝ていると、徐々に風雨は和らいできた。
 
 
陽が昇る頃には、すっかり低気圧が抜け、台風一過のようなピーカンになった。青空がまぶしい。
 
相当に体力を消耗したので、行程変更。今日はここで停滞を決め込み、濡れた用具類を干す。
 
朝食を作る前に、早速男を見失ったあたりを捜索するが何の痕跡もなし。
 
小屋に行って、深夜こんな方が迎えに来たが途中で見失った。万が一遭難でもしていなければいいがと申し
 
出るが、主は、そんな男は小屋にはおらず、テント場を心配はしていたが迎えに行った者はいないと言う。
 
 
不思議に思いながらテントに戻ると、近くに張っていた人達も起き出していた。
 
挨拶を交わし、昨夜はひどく荒れましたがお互い無事で何よりと会話を交わすうち、誰からとも無く、
 
真夜中に男が来たがついて行ったら消えた、との話がでた。私も同じ目に遭った、と言うと、皆口々に
 
同じ体験をしたと言う。ある人は、登山者には珍しい暗い色のポンチョだったので、もしや自衛隊の人かとも
 
思ったそうだ。男が来た時間を聞くと、どうやらテントを順に回っていたらしい。私が小屋主から聞いた話を
 
伝えると、一同首を捻るばかり。
 
 
まさかあんな天候の真夜中に悪戯を行う酔狂者は山男の中にはいないだろうし、そうなるとあの男は幽霊
 
だったのかと、今更ながらに背筋を凍らせる私であった。
 
 
 
 
 
 

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