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ここで、「鎌怨」にも度々登場する、「鎌倉一の嫌われ者」、梶原景時さんにご登場頂きます。
 
 
景時さんと言えば、いわずと知れた、鎌倉幕府の讒言キング!! マスター オブ 讒言!!
 
三度の飯より讒言が好き!! 一に讒言二に讒言、三四は桂で五に讒言!! と言われております。
 
(言われてねえよ)
 
【注:「讒言(ざんげん)とは。[名](スル)事実を曲げたり、ありもしない事柄を作り上げたりして、
 
その人のことを目上の人に悪く言うこと。つまりはタチの悪い悪口。】
 
 
景時さんの讒言ベスト1は、平氏討伐戦の折に軍奉行(軍監)として義経についた時、折り合いの悪さから、
 
「義経は傲慢で言う事きかない。みんなホントに困っとります」みたいな事を頼朝に報告した一件でしょうか。
 
これが義経追放の一因を作った…と、見事、稀代のヒーロー義経の敵役となってしまいました。
 
 
また、上総広常を騙し討ち(囲碁を打ってる時に襲いかかった)したり、侍所所司(副長官)として、
 
やれ不忠だ謀反だ反乱だと次々と讒言を繰り出しては多くの御家人を排除し、周囲の反発を買いまくり。
 
しまいにゃまたぞろ謀反の疑いで結城朝光を断罪しようとしたところ、いいかげんいせえよと
 
御家人66人からの連判状で景時排斥が訴えられ、仕方なく所領の相模一宮に引き下がるハメに。
 
その後、鎌倉幕府に反乱の兵を挙げたはいいが、見事に返り討ちに遭い、一族は滅亡しました。
 
世に言う「梶原景時の変」です。
 
吾妻鏡では「二代の将軍に寵愛されたのをいい事に、やりたい放題し放題。長年積み重ねた悪事が
 
たたって身を滅ぼした」と、ケチョンケチョンに書かれる始末です。
 
 
(↓)梶原景時。どうせオイラは嫌われ者さ…
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 しかしですねぇ…大庭景親を祖先に持つ(半信半疑)私TOとしては、景時さんはご先祖様の親戚
 
ですから、あんまりそんなに悪し様に言わなくても…という気がしておるのです。
 
 
景時さんは、頼朝さんのおぼえは目出度く、それはまずあの有名な石橋山の逸話から始まって
 
いるようです。
 
そう、合戦に敗けて逃亡し洞窟の中に隠れていた頼朝さんを発見し、観念して自害しようとする
 
のを思いとどまらせ、「ここには誰もおらん」と槍の先についた蜘蛛の糸を大庭景親らにかざして、
 
窮地を救った…と言う、アレです。
 
まあ、こりゃ出来杉君なハナシで眉唾ですが、実際自分の捜索範囲に頼朝が隠れている事を知りつつ、
 
捜索隊を別の山に誘導したくらいの事はやったらしい。
 
もともと梶原氏は大庭氏とともに源氏の家人で、時代の流れでやむ無く平氏側にはついていたが、
 
心情としては、頼朝さんにシンパシーを感じていたのでしょう。
 
 
そんな訳で、頼朝さんが再挙して鎌倉に入った後、大庭景親は捕らえられ斬られましたが、景時さんは
 
降伏するやすぐ御家人に列せられると言う厚遇ぶり。土肥実平さんの取りなしがあればこそでしょうが、
 
景時さんは武勇だけでなく、和歌を読み教養もあり弁も立つと、坂東武士には珍しいタイプだったので、
 
頼朝さんのお気に召したようです。
 
景時さんは、以後頼朝さんの側近として、御所や鶴岡若宮の造成、諸行事の準備、囚人の監視から
 
政子さんの身の回りの世話などを一手に引き受ける、㈲頼朝の総務部長のような存在となっていきます。
 
 
頼朝さんの組織が㈱頼朝になってくると、前述のとおり侍所所司にも任ぜられます。
 
侍所と言うのは、御家人の進退賞罰・軍の動員の全てを司り、「ご恩と奉公」で成り立つ鎌倉封建制度の
 
中心となる最重要部署です。今で言うと防衛省と総務庁と人事院を足したようなものか。
 
侍所の長官(別当)には”頼朝親衛隊隊長”の和田義盛が就きますが、当時まだ若かった義盛さん
 
を補佐し、実権を握っていたのは景時さんだったようです。そしてその後は、侍所別当まで上り詰める。
 
周りの御家人からしてみれば、なんだアイツ敵だったくせに成り上がりやがって…とやっかみ
 
めいたものがあってもおかしくない上に、頼朝命の景時さんは職務に忠実、ビシバシと不満分子を
 
取り締まるもんだから、風当たりもますます強くなったのでしょう。吾妻鏡では、別当になった時も奸計
 
を巡らせて職を奪ったみたいに書かれていますが、侍所別当がちゃちな策略で奪えるような軽いもの
 
であるはずもなく、これは、景時でないと務まらんと判断した頼朝さんの意向と見るべきでは。
 
実際、愚管抄をして景時さんは「頼朝No1の家来」と評されております。
 
 
そして、頼朝さん亡き後、景時さんは二代将軍頼家さんにも重用されます。
 
ふつう、親父の息のかかった重臣を煙たがって窓際に追いやるのが二代目ですが、
 
景時さんなくしては幕府成り立たず…くらいに思っていたのか、景時さんは自分の乳母夫
 
(乳母の旦那さん)だったから無下にもできなかったのか。どちらにせよ、若将軍にとって
 
景時さんはいなくちゃ困る人の筆頭だったのはまず間違いない。
 
 
景時さんが失脚する直因となった結城朝光の一件は、裏では二代将軍頼家を引きずり降ろそう
 
とする北条氏の策略が見え隠れしております。
 
 
北条氏は二代目頼家さんになってからは落ち目になっておりました。
 
それは頼家の乳母には北条の女は一人もおらず、娘を嫁に出してるわけでもないから。
 
この時代、乳母というのは大きな影響力を持っており、養君が将軍とかになると乳母一族
 
も絶大な権力を握ることになってました。頼家さんの乳母には比企氏や梶原氏の女性が選ばれ
 
(頼朝の乳母が比企尼たっだことは有名)、北条としてはどうにも分が悪かったのです。
 
そこで北条は弟君の実朝くんに目を付け、政子さんの妹を乳母に付けていたのです。
 
そのうち、お兄ちゃんを追いやって実朝くんが将軍になれば…と、目論んでいた訳です。
 
 
実朝くんの乳母は阿波局といい、この人が結城朝光さんに「やばいわよ、景時が狙ってるわよ」と
 
告げ口した張本人ときたもんだ。それが元で例の連判状⇒景時失脚と相成ります。
 
連判状を頼家から見せられた時、景時さんは全てを察したかのように、一言も弁明しなかったそうです。
 
 
愚管抄を著した慈円は、「頼家は有力な乳母夫を失った…(やばいでぇ)」と書き、
 
これから先、北条氏は頼家さんの乳母たちを各個撃破で失脚させていきます。
 
つまり北条は、将を射んと欲すれば先ず乳母を射よ―で頼家包囲網を狭めていき、終いには…
 
というあたりはどっか以前の「鎌怨」に書いた通りです。
 
 
となると、北条徳宗家が書いたに等しい「正史」吾妻鏡で景時さんがクソミソに書かれるのは
 
もっともな事です。
 
もともと恨みを買いやすい立場だった上に、それを利用され、真相を歪曲して悪人キャラとして
 
後世に伝えられた景時さん。
 
単純な勧善懲悪と判官贔屓で義経ものがウケていた江戸時代の歌舞伎や講談では、
 
義経の格好の敵役として、完全にヒール化してしまいました。おかわいそうに。
 
 
景時さんを弁護するわけではないのですがと言いつつ弁護しますが(ご先祖の親戚だし)、
 
義経に対する不満反感を表明していたのは景時さんばかりではなく、むしろ大多数の御家人は
 
「なんだアイツは」と思っていたらしいし(この辺は、吾妻鏡にも書いてある)、
 
むしろ、実は、義経の実力(戦術指揮官では◎、戦略家・政治家としては×)を冷徹に見極め、
 
御所様(頼朝)=日本初の本格武家政権の安泰を図ったのが、義経に対する”讒言”では
 
なかったのか? 
 
 
 
【TO劇場 義経と景時】
 
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①一の谷の時。
 
九郎どの!!
 
いくらなんでも、そりゃ無茶じゃ!!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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うっせーよ、景時はよー。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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②屋島の時。
 
九郎どの!!
 
いくらなんでも、そりゃ無茶じゃ!!
 
 
 
 
 
 
 
 
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うっせーよ、景時はよー。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 17③壇ノ浦の時。
 
九郎どの!!
 
いくらなんでも、そりゃ無茶じゃ!!
 
 
 
 
 
 
 
 
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うっせーよ、景時はよー。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
【完】
 
 
 
讒言讒言といいますが、怪しいものを摘発するのが侍所の仕事だし。
 
怪しいというより、景時さんが討ったり摘発して首を(文字通り)切った相手は、頼朝さんが立場上
 
色々あって自分じゃ直接命令しずらいけど、あいついなくなんないかな〜と思ってた筈の人ばっかり
 
だし。上総広常さんなんて、自分の抱える大兵力をいいことに、頼朝さんに対しても上から目線だった
 
らしいし。
 
ちなみに、自分がミスった時には、景時さんはちゃんとペナルティーを与えられ、甘んじて受けてるし。
 
 
梶原景時の変にしたって、あの景時さんが倒幕なんて馬鹿な事を考えるとも思えず、
 
実際、兵を挙げて鎌倉に向かった訳でもない。
 
吾妻鏡は「反乱を企てた」と書きますが、実際はどうだったのか。
 
 
景時さん一族が滅ぼされたのは駿府でした。
 
上洛途中に(今の静岡市清水区あたりで)たまたま出くわした地元の武士や御家人と戦闘になったのです。
 
朝廷から、(鎌倉幕府を牽制する意味でか)九州司令官なる職を拝領したらしく、それで一族引き連れて
 
京に向かっていたところだったのです。
 
 
連判上を無言で受け入れた時点で、聡明な景時さんは、自分は北条に負けたと自覚した筈です。
 
それでも、反北条の頼家に「あいつらは、ああでこうで、つまりは頼家様に謀反を企てております!!」
 
とか、それこそ”讒言”する手もあったろうに、それをしなかった。
 
そんな事をすれば、自分への悪評にもかかわらず、御所様と共に創り上げていた鎌倉幕府に騒乱が
 
起こり、武士風情に実権を握らせまいでおじゃると虎視眈々と幕府転覆を狙う朝廷に付け入る隙を
 
与える事になる。
 
 
その後一宮の本拠の防備を固めたとされるのは、そのうち北条方が攻めて来るのは
 
火を見るように明らかだからでしょう。でも、今の自分の勢力では勝てる訳がない。
 
 
と言う訳で、一族が食っていくため朝廷に仕え、九州あたりでまずは何とかかんとか
 
生きていこうとしていた…のではないでしょうか。のんびりと。
 
 
鎌倉幕府創成期から頼朝さんの片腕となって、人から恨まれる仕事をかって出て、一所懸命働いて
 
幕府の体制を確立したかどうかと思う間もなく頼朝さんが亡くなり、御家人同士の主導権争いが
 
始まり、自らがそのターゲットになってしまう…。
 
 
 だめだこりゃ。
 
 
景時さん、なんとなく疲れて、虚しくなってたんではないか。私TOはそんな気がします。
 
実際、景時さんの”弾劾”に加わった主な御家人は、殆ど皆、共食いの果、北条に呑まれる事となります。
 

 
景時さん最後の戦いでは、敵方に飯田家義がいたと、一部では伝えられております。
 
家義さんとは、石橋山ではともに頼朝さんと戦った仲。
 
家義さんは戦の中でとっとと頼朝さんのもとに下りましたが(頼朝が落とした念珠を持って参じた
 
話は有名)。
 
 
その時、景時さんの心中にはどんな想いが去来していたのでしょうか…。
 
 
「おお、あの家義がきよったか…」と、頼朝さんと戦場で出会ってからこの方までの思い出が
 
走馬灯のように脳裏を駆け巡っていたのでは…(涙)。
 

 
 相変わらず前置きが長いというか、余りにも長すぎる!! すみません。
 
 
ともあれ、久々の鎌倉で、重保さんのお墓だけでは飽き足らず、うちのご先祖さんの親戚、
 
梶原景時さんの墓所と伝えられるところに行って参りました。
 
 
景時さんのお墓は、鎌倉市立深沢小学校の敷地内にあります。
 
物騒な昨今、怪しげなオヤジが勝手に入っていくとそれこそ不審者として捕まってしまいますので、
 
予め深沢小学校に電話してご許可を頂きます。
 
電話に出た方は、落ち着いたお声の女性で、景時墓を見学したい旨を伝えると快くOKを下さいました。
 
まずは教職員玄関にいらっしゃって下さいと。
 
 
(↓)放課後野球の子供達の歓声が響く深沢小校庭。なんか、懐かしいなぁ…。
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そそくさと、言われた通りに教職員玄関に馳せ参じると、出迎えて下さったのは、お若い、
 
それもとても美人な、ホントに美人な、このくそ深沢小のガキ共はこんな可愛い先生に
 
教わってやがんのか!! と嫉妬するほど
 
美人な先生でした。
 
 
ヤニサガリ、そしてドキドキしながら「あのぉ。先ほどお電話したTOと申しますが…」と名乗ると、
 
「ああ、景時さんのお墓を見に来た…」とニッコリ♡
 
ももも、♪もしかしてだけど〜、この美人先生が案内してくれるのか!?
 
しょしょしょしょして、放課後の裏庭あたりで二人歴史談義に花が咲き、では、ちょっと飲みにでも…
 
と夜の大船あたりに繰り出して、いつしか二人は男と女の仲に… 
 
ぐふ・ぐふ・ザクとは違うのだよ・グフグフグフフ…。
 
と妄想繰り広げる私TOをよそに、美人先生は「○○せんせぇ〜、いらっしゃいましたよ〜」と
 
誰かを呼ぶ。奥からお出ましになったのは、いかにもお人柄が良さそうな オバハン もとい
 
ベテランの女先生。雲行きがアヤシイと感じつつ、言われた通りにまずは来校者名簿に名前を記入し、
 
「来校者」の札を首から下げます。
 
 
これでもはや不審者ではなくなった私TOを、オバ…いやいや、ベテラン女先生は、
 
ささ、どうぞこちらですよと、とてもご丁寧に、ガッカリ…いや、ガッカリしてない!!
 
決してガッカリしてない!!ゼッタイガッカリなんてしてない!! 私TOを案内してくれました。
 
(美人先生はとっとと校門の方へ…ご帰宅されました…。)
 
 
給食室の裏手に周り、この先ですよとおっしゃる先生に、「いやしかし、私も学生時代に近所で
 
バイトしてましたが、ここに景時の墓があるなんて知りませんでした」と言うと、「あらそうですか。
 
私はここで生まれ育ったので、子供の頃から当たり前でしたけど。オホホ。」と、上品にお笑いに
 
なります。やっぱり、鎌倉生まれの人は品が良いなぁと思いつつ、ああ、あの美人先生
 
後ろ髪ひかれ隊なまま、ふと見ると、ありました。
 
 
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ある意味義経以上の悲劇のヒーロー、梶原景時さんのお墓です。
 
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こういったの(やぐらとか空風火水地)は見慣れた筈の私TOの胸にも、
 
ご先祖様(の親戚)だけあって、何か迫るものがあるようなないような。
 
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ご、ご先祖様(の親戚)、こんなになっちゃって…(合掌)。
 
 
ひとしきり拝んだ後、景時さんの墓所を後にします。
 
さよなら、ご先祖様(の親戚)!! またくるとも限らないからね。
 
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で、この墓所の裏手、小学校に隣接して、御霊神社があります。
 
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京都とかにある、怨霊鎮めの御霊神社と違って、鎌倉のそれは、関東平氏五家すなわち鎌倉・梶原・
 
村岡・長尾・大庭各氏の始祖の霊を祀ります。
 
五氏の霊すなわち五霊が転じて御霊となったとされます。だもんで、この辺にはあちこちにあります。
 
こちらの御霊神社は梶原氏の鎮守であり、江戸時代までは鎌倉権五郎景政夫妻の像を安置する
 
と共に、景時さんの像もあったそうな。
 
 
(↓)拝殿。
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うーん、静謐。
 
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拝殿背後の階段を上ると本殿が。割合こじんまりとしております。
 
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と言う訳で、ご先祖さんの親戚の汚名を晴らした私TOは、もしかしたらあの美人先生に会えるかも
 
と、淡い期待を抱きつつ、夕暮れ迫る大船界隈へ向かうのでした…。
 
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【梶原景時墓】
湘南モノレール湘南深沢駅より石橋を叩くように歩いて約1時間半。
 

 
(↓)これ、マジに欲しい!!―しかし、なぜ大阪の勝尾寺に頼朝と景時の墓が並んでたのか!?
 
謎だ…。
 
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J7622 大阪 勝尾寺 源頼朝梶原景時の墓

通常販売価格1,080円(税込)

商品説明

中古のアンティーク絵葉書です。
明治から昭和初期の間に発行されたのをアンティーク絵葉書としています。
現在の絵葉書より小いさいため、郵便に使用することはできません。
経年劣化による紙焼けがあります。
コレクション品や研究資料としてご購入下さい。

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