鎌倉怨霊散歩

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鎌倉にハマってきたので、「心霊スポットの旅」から分離独立しました!!
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この、佐助稲荷の近くに、葛原岡神社があります。
 
この神社は、明治20年の創建とのことで、鎌倉的には新参者と言えるでしょうか。
 
鎌倉末期に後醍醐天皇の側近として倒幕計画に参加し、
 
色々あってこの地で処刑された日野俊基が祀られております。
 
 ここはここで鎌怨的には別個採り上げたい場所なので、詳しくはその時に譲ります。
 
 
葛原岡神社の場所には、鎌倉時代には御霊社があり、それが後に深沢に移されたのだそうで。
 
先日記事にした、私TOのご先祖様の親戚である梶原”ゲジゲジ”景時さんのお墓の脇にある
 
御霊社がそれ。
 
 
「ゲジゲジって言うな!!」
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つまり、頼朝さんが鎌倉殿になった頃は、佐助界隈はゲジ時いや景時さんの地であり、
 
”隠れ里”の人々は、この地の御霊社に奉じていたそうです。
 
 
ゲジ原、いや梶原配下、鎌倉の裏の裏まで知り尽くす、”隠れ里”の人々は、頼朝さんにとっては
 
またとない情報源であり、彼らを間者と言うか、梅干と言うか(つまりスッパイ、いや、スパイ)的に
 
使役したのではなかろうかと思われるフシもあります。
 
 
という事で、頼朝さんが佐助の地を訪ねる事も多かった(御所から馬でたぶん10分かそこらだから、
 
訪ねると言う程の事でもないが…)のでしょうが、ここでまた頼朝さんの悪い癖が出たようです。
 
佐助ガ谷の木彫師の娘っこに、またぞろ手を付けちゃったらしいんですね〜。
 
頼朝さんにとっては、一回だけのお遊びのつもりが、一発必中!!
 
その娘っこがお子を身篭ったのでさあ大変。
 
 
こんな事が政子さんに知れたらおおごとです!!
 
亭主の浮気相手が匿われていた家を急襲して打ち壊す位の事は、平気でやるお方ですから。
 
谷ごと焼き討ちにあってもおかしくも何ともない。
 
 
戦々恐々とする頼朝さんを、半ばユスったのが御霊神社の巫女さんとかだったのでは?(TO史観。)
 
それで、豪華口封じの品を賜った。
 
その実、裏ではゲジ時さんが糸引いてたりして。
 
今も昔も、上司の弱みを握るのが出世と身の安泰を図る術ですから…。
 
 


 
 
と言う訳で、鎌倉系御霊社の胴元、いや元締め、いやまあ、何でもいいや、
 
その、御霊神社へ向かう取材班。いつの間にか取材班。ひとりぼっちの取材班。
 
 
御霊神社と言えば、鎌倉権五郎景政。
 
梶原氏や大庭氏の始祖であり、我がご先祖ofご先祖!! でございます。
 
 
さて、江ノ電は長谷の駅からポツポツ歩く取材班。
 
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いいですね〜。
 
もう、30年もこんな、このあたりの光景を見てますが、相変わらずいい。
 
寺社仏閣とまた異なる、「今の鎌倉」の魅力を見せてくれるのが、長谷坂の下極楽寺界隈です。
 
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御霊神社は、今や江ノ電の線路と共に有ります。
 
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踏切渡ればすぐ鳥居。
 
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 境内に入ると、これまた空気が変わります。
 
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で、この御霊神社の例大祭(現在は権五郎さんの命日、9月18日に行われる)に、
 
面掛行列が出ます。
 
猿田彦を先頭に、異形の面々が練り歩くのですが、この祭り、別名を「はらみっと祭」と称します。
 
はらみっと…とは、孕み人つまり妊婦を指し、行列の最後尾に、産婆を従えた妊婦おかめが歩くのです。
 
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これは、一見豊穣祈願っぽく見えますが、実は、身内の娘っこが頼朝さんに孕まされた事を
 
伝える”隠れ里”の伝統行事であり、頼朝さんは詫び入れと同時に政子さんに対する口封じもあって、
 
佐助ガ谷の”隠れ里”の人々に年一度の無礼講を許したのがそもそもの由来だと考えられなくも
 
ないとの事です。
 
 
浮気の口止めの代償としては、頼朝さんにとって高かったのか安かったのか。
 
生涯、浮気なんてただの一回もした事のない私TOには、推し量りかねますです。
 


 
石橋山からの逃避行で山で暮らす人々に助けられて以来、頼朝さんは彼らの価値を認め利用していた
 
みたいで。土肥実平さんは、その手の人達と太いパイプがあり、実平さんとゲジさんはマブダチだし。
 
そう言ったラインで、情報収集はもとより、鎌倉独自の文化の創成(鎌倉彫なんかはその代表例)
 
に活用していた(TO史観)。
 
 
山の民には独自のネットワークがあったらしく、今の神奈川県エリアで言うと、その総元締が足柄を
 
拠点とする、風間(風魔)一族だったとか。
 
風魔の名が世に出るのは、後北条氏の時代ですが。
 

 
 そんなことで、浮気すると隠すのに苦労するので、既婚男性諸氏はくれぐれもお気を付け召されい。
 
と言うのが、今回の〆です。
 
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今日は天気が良かったですからね〜。
 
ここのところ出かけがちな私TO、また鎌倉に行っちゃいました。
 
本日向かうは、鎌倉の隠れ里と云われる、佐助ガ谷界隈です。
 
 
隠れ里、と言うと、平家の落人が…的なイメージのある私TOですが、頼朝さんのお膝元にそんな
 
もんがある訳もないです。
 
 
源平以前から、もちろん全国あちこちに”隠れ里”と云われる村落はあった訳で、そこにはあまり世間と
 
関わりたくない人々―例えば祈祷師、例えば修験者、例えばUFOコンタクティー(いねえよ)、
 
また、生業の都合で人里離れた山中に住む人々、例えば木樵や猟師、木地師(木工品を造る職人)
 
などなど、味のある人々が ”隠れ里” に住んでいたようです。
 


 
佐助ガ谷。”さすけがたに”、ではなく、”さすけがやつ”。
 
鎌倉では谷を”やつ”と読みます。
 
 
ですから、私TOなんて、昔、織田(*゚∀゚*)裕二主演のドラマのタイトルを聞いて、
 
振り返れば谷がいる」だと勘違いし、振り返ったら谷啓がいたのかそれとも谷隼人だったのか、
 
もしかしてチンペイ!? と、訝ったものです。何故なら、私TOにとって彼らは半分”やつけい”であり、
 
”やつはやと”であり、”やつむらしんじ”だったからです。
 
これは、反町隆史が出始めの頃、”たんまちたかし”だと思っていたり、大前あつみ&サザンクロスの
 
「星の河」を聴くと、ついつい相鉄線の星川を思い出したりする、いわゆる、ご当地思い込みであり…
 
 
そんなこたぁどうでもいいですね。
 
すみません。
 

 
さて、その昔の隠れ里と云っても、現在は、鎌倉市役所にも近く、高級…と言うより、
 
上品な住宅街となっております。
 
 
遠足修学旅行の学童学生は時期柄いいとして、平日にもかかわらず、陽気に誘われた
 
暇なじじばばばおっさんおばはん、酔狂な若いカップルなどなどが、今日など大勢、
 
上品住宅街の狭い道を歩いております。(人のこと言えるか!!)
 
 
殆どの人の目的地は、銭洗弁天でしょう。
 
洗うと金が増えると、そんな都合が良すぎつつも有難い弁天窟が、
 
佐助界隈のメイン観光スポットですから。
 
 
そんな中、銭洗弁天ロードから左に折れる人はそうは多くない内の一人が私TO。
 
佐助稲荷に向かいます。
 
 
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 隠れ里っぽくは全くない住宅街の脇どん突きに至ると、空気は一変。
 
この、空気一変感が、鎌倉散歩の醍醐味っちゃぁ醍醐味です。
 
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佐助稲荷です。
 
この子の七つのお祝いに的な、赤鳥居がずらりずらずらと並ぶ参道。
 
こっからは山の中。
 
のたりのたりと、階段を登っていきます。
 
圧し迫るような、赤い鳥居と赤い陣旗。
 
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真夜中に来たら、迫力ありそうです。(来ませんよ、はねるさんとかには言っとくけど。)
 
 
しかし、こう同じもんが沢山寄り集まっていると、恐怖感を感じるのは何故なんでしょうか。
 
子供の頃、草野球してて、夕暮れ時に小さい羽虫が頭の上に群れ飛んでる時しかり、
 
流行らないキ○バで、待ちのネエチャンたちが一つのブースに群れてる時しかり、
 
赤い鳥居しかり、赤い陣旗しかり。
 
(って、赤い陣旗は平氏の旗では??? お稲荷さんだからいいのか???)
 
 
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参道にはお狐様。
 
体力のない私TO、やや息を上げつつ拝殿に登り着きました。
 
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佐助稲荷の由来ですが、実は、いつからあるのかは良く判りません。
 
判りませんが、隠れ里には伝説がつきもので、ここにも伝説が多くあるようです。
 
有名なところでは、頼朝さんが伊豆にいる時に、こんな事があったそうです。
 
 
頼朝 「うーん、うーん、具合悪くて寝込んでるんだけど、熱が下がらないなぁ…(説明的)」
 
ミスターX 「おばんです。」
 
頼朝 「わ?誰すか、おじいさん???」
 
ミスターX 「病気はね、これこれこの薬草を煎じて飲めば治る!! ―♪たぶん治ると思う。
 
治るんじゃないかな? ―まちょと覚悟はしておけ。
 
…で、もし治ったら、平氏討伐の兵を挙げなさい。手伝ってあげるから。」
 
頼朝 「だ・か・ら、♪その手を離して…じゃなくて、だから、そんな自信なげに言われても
 
ハイそうですかとわかりました…とは言いにくいんだけど、だから、おじいさん、あんた誰?」
 
ミスターX 「わし? わしは、隠れ里の稲荷だよーん」 
 
 
と、そんな夢を三晩続けて見た頼朝さん。 
 
勇気づけられた(?)頼朝さんは、その後挙兵し…と言うのがその伝説。
 
 
(しかしたぶん、あんまりやりたくなかった挙兵を、どいつもこいつもやれやれと言うし、
 
こないだはヘンな坊さんが、「あんたのお父さんの頭蓋骨だ、これ見てアンタ何も感じないのか
 
いや感じるだろう!? ♪僕の髪が肩まで伸びたら挙兵しようよ挙兵挙兵」とガイコツ片手に
 
騒いで帰ってたし、いい加減うっるせえよ、となってるところに、夢の中の見も知らずのジジイにまで
 
言われたかねぇよ!!  ―と思ったんじゃないかな頼朝さん、と言うのが私TOの史観ですが、そんな事も
 
どうでもいい。)
 
 
念願叶ったのかどうかは微妙だが、兎も角鎌倉に拠点を築いた頼朝さんは、配下に命じて件の
 
稲荷を探させて見つけたのが、いかにも隠れ里っぽい人達が住む山ん中の小さな祠。
 
ああ、これこれ、これでいいや、これにしとこうと(TO史観)、再興したのがこの佐助稲荷です。  
 
 
ちなみに、その普請を命ぜられたのは、こないだ記事にした畠山重忠さんでした。
 
重忠さんのことだから、無茶苦茶律儀に仕事にあたったであろう事は、想像に難くありません。
 
 
(↓)本殿。
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と言う訳で、頼朝さんは、官名(伊豆に流される前に朝廷から貰った位が従五位下右兵衛権)に
 
ちなんで佐殿(すけどの)と呼ばれた時期もありましたが、その佐殿を助けて天下を執らせたので、
 
佐を助けて佐助。 それがこのお稲荷さんの名前の由来だそうです。
 

 
どこでも、隠れ里、と云われるところには、何故か洞窟・泉などがつきものなのですが、これは、
 
いざとなれば潜伏する場所&生命維持に欠かせない水…と言う事なのかどうなのか知りませんが、
 
ここにもやっぱりありました。
 
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拝殿の右手に、こんこんと清水が湧く洞窟泉が。
 
霊狐泉と云うそうです。 説明札によれば、古来、麓の田畑を潤す水源だそうな。
 
賽銭は水の中に入れず、賽銭箱に入れてくれとも書かれていました。
 
こうでもしないと、銭洗から流れてきた観光客が、同じノリでポンポン小銭を投げるんでしょうね〜。
 
 
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いやしかし、境内を支配する、この”苔生す”感。
 
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 いいですね〜。 実にいい。 静寂感満点です。
 
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ところで、面白いのはここから。
 
佐を助けたのはむしろ頼朝が鎌倉殿になって以降のことかもしれませんのです。
 
 
吾妻鏡 (文治元【1185】年8月27日)には、「御霊社が地震のように鳴動し、頼朝が巫女それぞれに
 
藍摺二反を渡して収まった…」みたいな事が書かれている。
 
 
御霊社とは、坂ノ下の御霊神社のことですが、その社が鳴動する?
 
で、巫女たちに大変貴重な藍摺を二反づつも渡す? 
 
今で言うと、超高級ブランドの服を2着ずつ買ってあげるみたいなもん。
 
 
頼朝さんが、何でこんな大盤振る舞いをしたかのか?
 
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 「かんけーないね…」と呟いているようなお狐様。
 
 
 
(続く)
 
 
北条政子さんのお墓です。
 
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なんか、オーブっぽいのが写ってますが…。
 
政子さん、歓迎してくれてるのか、いないのか。
 
大庭景親の子孫(半信半疑)の私TOを歓迎する訳はないか…。
 
 
しかし、日本史上有数の女傑の墓にしては、案内板などのデコレーションもなく、
 
「北条政子の墓」と手書きされた看板がぞんざいに置かれてるだけ。
 
一杯飲み屋の短冊の方がよっぽど丁寧なくらい。
 
しかしこのキッチュさがまた、鎌倉の史跡のいいところ。
 
 
鎌倉を歩くと、青年団が建てた石碑があちこちにあり、ここはだれそれの館、ここはこういう場所、
 
と教えてくれますが、あれは、どこもかしこもあまりにもぞんざいなので、見るに見かねて
 
やってくれたのではないかと思ったりします。
 
 
そんな事はどうでもいいとして、北条政子さん。
 
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尼将軍・鬼嫁と、コワくて強い女性のイメージが強いようです。
 
歴史ドラマでも、政子役を演じるのは「強い女」系の女優さんが多いようにも思います。
 
 
ちなみに、私にとって政子さんのイメージは、大河ドラマ「草燃ゆる」の岩下志麻さんです。
 
子供の頃はそんなに大河ドラマなんか見てなかったんですが、あれだけは欠かさず見てたような
 
記憶があります。(蛇足ですが、と言う訳で、佐殿と言えば石坂浩二さん。)
 
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(よしたかさま〜by斉藤こず恵)
 
 
考えたら、歴史ど素人の癖に「鎌怨」なんてのを始めたのも、単に鎌倉に馴染みがあるだけでなく、
 
あのドラマの影響が多分にあるような気がしないでもありません。
 
 
そんなこんなで、私TO、政子さんには惹かれるんですよね〜。
 
 
詳しくは省きますが、やる事成す事、すごく自分に正直っぽくて。それが後に謀略と言われようと。
 
愛する夫、頼朝さんが築いた鎌倉幕府を、なりふり構わず守り抜きたかったんだろうな、
 
と、そんな風に思える訳です。
 
頼朝愛人の家を叩き壊させたりするのは男にとってはゾッとしますが、
 
慈愛に満ちた言動を見せる事もしばしばだし。
 


 
そして、すぐ並びにある、実朝くんのお墓。
 
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こちらは、オーブだけでなく、ヘンな白いモヤが…。
 
 
実朝くん、ご存知のように、お兄さんの息子に暗殺されちゃいますが、
 
これまた結構好きなんですよね〜。
 
母親とおじいさんに実権を握られつつも、ちょっとづつ反抗した感じで。
 
それでいて、若いくせに全てを悟ったように生き、そして死んでいった…ような気がしたり。
 
(「草燃ゆる」ではウルトラマンタロウこと篠田三郎さんが演じてたので、すごく親しみがありましたっけ。
 
ちなみに、三浦義村は仮面ライダー1号の藤岡弘さん、畠山重忠はウルトラセブンの森次晃嗣さんでした。)
 

 
そして、激動の人生を歩んだお二人が眠る寿福寺には、秋の午後の日差しが柔らかく降り注いで
 
いるのでした…。
 
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ずっとほっぽらかしてた癖に一度始めると続いてしまう当ブログの癖。
 
ご興味のない方、じき飽きますので今しばらくのお付き合いを頂ければ…。
 


 
と言う訳で、寿福寺にも立ち寄ったので、ついでに。
 
政子さんと実朝くんの記事が畠山とか梶原のついでとはアレなんですが、仕方がない。
 
私TO、マイナー好きなんで。
 
 
さて、平日にもかかわらず大勢の観光客や遠足修学旅行の学童学生で賑わう
 
小町通りから、横須賀線の線路一本渡るだけで、静寂感あふれる落ち着いた空気になります。
 
そんな中に佇む古刹が寿福寺です。
 
(↓)総門
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鎌倉五山第三位。開基は北条政子、開山は栄西。
 
栄西は言わずと知れた臨済宗の開祖です。
 
鎌倉的にはむちゃむちゃ格の高い由緒ただしいお寺さんです。
 
(ちなみに、開基とは創立者いうなればスポンサー的な人、開山は初代住職の事です。)
 
正治2(1200)年、前の年に亡くなった頼朝さんの菩提を弔うために創建したと伝えられております。
 
もともとこの地は、源範義が奥州征伐の戦勝祈願をし、頼朝の父義朝の居館があったという
 
父祖伝来の地だそうで、政子さんにとっても特別な場所だったのです。
 
とは言え、麗美さはなく、鎌倉の寺らしく全く質素。
 
 
総門から本堂へ向かう参道には、心地よく静かに秋の風がそよぐ。
 
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本堂。門が閉ざされ入れない…。
 
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本堂の裏手にまわります。
 
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本堂裏の墓地の奥に、政子さんと実朝くんのお墓があるそうな。
 
寿福寺の墓地には、陸奥宗光さんとか大仏次郎さんとか、高浜虚子さんら、そうそうたるメンバーが
 
永眠しておりますが、失礼ながら今回は割愛させて頂きます。
 
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あそこかな?
 
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それっぽいやぐら群があります。
 
近くば寄って目にも見よ。
 
―お。やっぱり北条政子さんのお墓でした。
 
 
 
…と、言うところで、画像の容量が不足したとかでこれ以上写真を載せられなくなりました。
 
(続く…)
 
 
 
 
 
ここで、「鎌怨」にも度々登場する、「鎌倉一の嫌われ者」、梶原景時さんにご登場頂きます。
 
 
景時さんと言えば、いわずと知れた、鎌倉幕府の讒言キング!! マスター オブ 讒言!!
 
三度の飯より讒言が好き!! 一に讒言二に讒言、三四は桂で五に讒言!! と言われております。
 
(言われてねえよ)
 
【注:「讒言(ざんげん)とは。[名](スル)事実を曲げたり、ありもしない事柄を作り上げたりして、
 
その人のことを目上の人に悪く言うこと。つまりはタチの悪い悪口。】
 
 
景時さんの讒言ベスト1は、平氏討伐戦の折に軍奉行(軍監)として義経についた時、折り合いの悪さから、
 
「義経は傲慢で言う事きかない。みんなホントに困っとります」みたいな事を頼朝に報告した一件でしょうか。
 
これが義経追放の一因を作った…と、見事、稀代のヒーロー義経の敵役となってしまいました。
 
 
また、上総広常を騙し討ち(囲碁を打ってる時に襲いかかった)したり、侍所所司(副長官)として、
 
やれ不忠だ謀反だ反乱だと次々と讒言を繰り出しては多くの御家人を排除し、周囲の反発を買いまくり。
 
しまいにゃまたぞろ謀反の疑いで結城朝光を断罪しようとしたところ、いいかげんいせえよと
 
御家人66人からの連判状で景時排斥が訴えられ、仕方なく所領の相模一宮に引き下がるハメに。
 
その後、鎌倉幕府に反乱の兵を挙げたはいいが、見事に返り討ちに遭い、一族は滅亡しました。
 
世に言う「梶原景時の変」です。
 
吾妻鏡では「二代の将軍に寵愛されたのをいい事に、やりたい放題し放題。長年積み重ねた悪事が
 
たたって身を滅ぼした」と、ケチョンケチョンに書かれる始末です。
 
 
(↓)梶原景時。どうせオイラは嫌われ者さ…
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 しかしですねぇ…大庭景親を祖先に持つ(半信半疑)私TOとしては、景時さんはご先祖様の親戚
 
ですから、あんまりそんなに悪し様に言わなくても…という気がしておるのです。
 
 
景時さんは、頼朝さんのおぼえは目出度く、それはまずあの有名な石橋山の逸話から始まって
 
いるようです。
 
そう、合戦に敗けて逃亡し洞窟の中に隠れていた頼朝さんを発見し、観念して自害しようとする
 
のを思いとどまらせ、「ここには誰もおらん」と槍の先についた蜘蛛の糸を大庭景親らにかざして、
 
窮地を救った…と言う、アレです。
 
まあ、こりゃ出来杉君なハナシで眉唾ですが、実際自分の捜索範囲に頼朝が隠れている事を知りつつ、
 
捜索隊を別の山に誘導したくらいの事はやったらしい。
 
もともと梶原氏は大庭氏とともに源氏の家人で、時代の流れでやむ無く平氏側にはついていたが、
 
心情としては、頼朝さんにシンパシーを感じていたのでしょう。
 
 
そんな訳で、頼朝さんが再挙して鎌倉に入った後、大庭景親は捕らえられ斬られましたが、景時さんは
 
降伏するやすぐ御家人に列せられると言う厚遇ぶり。土肥実平さんの取りなしがあればこそでしょうが、
 
景時さんは武勇だけでなく、和歌を読み教養もあり弁も立つと、坂東武士には珍しいタイプだったので、
 
頼朝さんのお気に召したようです。
 
景時さんは、以後頼朝さんの側近として、御所や鶴岡若宮の造成、諸行事の準備、囚人の監視から
 
政子さんの身の回りの世話などを一手に引き受ける、㈲頼朝の総務部長のような存在となっていきます。
 
 
頼朝さんの組織が㈱頼朝になってくると、前述のとおり侍所所司にも任ぜられます。
 
侍所と言うのは、御家人の進退賞罰・軍の動員の全てを司り、「ご恩と奉公」で成り立つ鎌倉封建制度の
 
中心となる最重要部署です。今で言うと防衛省と総務庁と人事院を足したようなものか。
 
侍所の長官(別当)には”頼朝親衛隊隊長”の和田義盛が就きますが、当時まだ若かった義盛さん
 
を補佐し、実権を握っていたのは景時さんだったようです。そしてその後は、侍所別当まで上り詰める。
 
周りの御家人からしてみれば、なんだアイツ敵だったくせに成り上がりやがって…とやっかみ
 
めいたものがあってもおかしくない上に、頼朝命の景時さんは職務に忠実、ビシバシと不満分子を
 
取り締まるもんだから、風当たりもますます強くなったのでしょう。吾妻鏡では、別当になった時も奸計
 
を巡らせて職を奪ったみたいに書かれていますが、侍所別当がちゃちな策略で奪えるような軽いもの
 
であるはずもなく、これは、景時でないと務まらんと判断した頼朝さんの意向と見るべきでは。
 
実際、愚管抄をして景時さんは「頼朝No1の家来」と評されております。
 
 
そして、頼朝さん亡き後、景時さんは二代将軍頼家さんにも重用されます。
 
ふつう、親父の息のかかった重臣を煙たがって窓際に追いやるのが二代目ですが、
 
景時さんなくしては幕府成り立たず…くらいに思っていたのか、景時さんは自分の乳母夫
 
(乳母の旦那さん)だったから無下にもできなかったのか。どちらにせよ、若将軍にとって
 
景時さんはいなくちゃ困る人の筆頭だったのはまず間違いない。
 
 
景時さんが失脚する直因となった結城朝光の一件は、裏では二代将軍頼家を引きずり降ろそう
 
とする北条氏の策略が見え隠れしております。
 
 
北条氏は二代目頼家さんになってからは落ち目になっておりました。
 
それは頼家の乳母には北条の女は一人もおらず、娘を嫁に出してるわけでもないから。
 
この時代、乳母というのは大きな影響力を持っており、養君が将軍とかになると乳母一族
 
も絶大な権力を握ることになってました。頼家さんの乳母には比企氏や梶原氏の女性が選ばれ
 
(頼朝の乳母が比企尼たっだことは有名)、北条としてはどうにも分が悪かったのです。
 
そこで北条は弟君の実朝くんに目を付け、政子さんの妹を乳母に付けていたのです。
 
そのうち、お兄ちゃんを追いやって実朝くんが将軍になれば…と、目論んでいた訳です。
 
 
実朝くんの乳母は阿波局といい、この人が結城朝光さんに「やばいわよ、景時が狙ってるわよ」と
 
告げ口した張本人ときたもんだ。それが元で例の連判状⇒景時失脚と相成ります。
 
連判状を頼家から見せられた時、景時さんは全てを察したかのように、一言も弁明しなかったそうです。
 
 
愚管抄を著した慈円は、「頼家は有力な乳母夫を失った…(やばいでぇ)」と書き、
 
これから先、北条氏は頼家さんの乳母たちを各個撃破で失脚させていきます。
 
つまり北条は、将を射んと欲すれば先ず乳母を射よ―で頼家包囲網を狭めていき、終いには…
 
というあたりはどっか以前の「鎌怨」に書いた通りです。
 
 
となると、北条徳宗家が書いたに等しい「正史」吾妻鏡で景時さんがクソミソに書かれるのは
 
もっともな事です。
 
もともと恨みを買いやすい立場だった上に、それを利用され、真相を歪曲して悪人キャラとして
 
後世に伝えられた景時さん。
 
単純な勧善懲悪と判官贔屓で義経ものがウケていた江戸時代の歌舞伎や講談では、
 
義経の格好の敵役として、完全にヒール化してしまいました。おかわいそうに。
 
 
景時さんを弁護するわけではないのですがと言いつつ弁護しますが(ご先祖の親戚だし)、
 
義経に対する不満反感を表明していたのは景時さんばかりではなく、むしろ大多数の御家人は
 
「なんだアイツは」と思っていたらしいし(この辺は、吾妻鏡にも書いてある)、
 
むしろ、実は、義経の実力(戦術指揮官では◎、戦略家・政治家としては×)を冷徹に見極め、
 
御所様(頼朝)=日本初の本格武家政権の安泰を図ったのが、義経に対する”讒言”では
 
なかったのか? 
 
 
 
【TO劇場 義経と景時】
 
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①一の谷の時。
 
九郎どの!!
 
いくらなんでも、そりゃ無茶じゃ!!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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うっせーよ、景時はよー。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 14
②屋島の時。
 
九郎どの!!
 
いくらなんでも、そりゃ無茶じゃ!!
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 16
うっせーよ、景時はよー。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 17③壇ノ浦の時。
 
九郎どの!!
 
いくらなんでも、そりゃ無茶じゃ!!
 
 
 
 
 
 
 
 
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うっせーよ、景時はよー。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
【完】
 
 
 
讒言讒言といいますが、怪しいものを摘発するのが侍所の仕事だし。
 
怪しいというより、景時さんが討ったり摘発して首を(文字通り)切った相手は、頼朝さんが立場上
 
色々あって自分じゃ直接命令しずらいけど、あいついなくなんないかな〜と思ってた筈の人ばっかり
 
だし。上総広常さんなんて、自分の抱える大兵力をいいことに、頼朝さんに対しても上から目線だった
 
らしいし。
 
ちなみに、自分がミスった時には、景時さんはちゃんとペナルティーを与えられ、甘んじて受けてるし。
 
 
梶原景時の変にしたって、あの景時さんが倒幕なんて馬鹿な事を考えるとも思えず、
 
実際、兵を挙げて鎌倉に向かった訳でもない。
 
吾妻鏡は「反乱を企てた」と書きますが、実際はどうだったのか。
 
 
景時さん一族が滅ぼされたのは駿府でした。
 
上洛途中に(今の静岡市清水区あたりで)たまたま出くわした地元の武士や御家人と戦闘になったのです。
 
朝廷から、(鎌倉幕府を牽制する意味でか)九州司令官なる職を拝領したらしく、それで一族引き連れて
 
京に向かっていたところだったのです。
 
 
連判上を無言で受け入れた時点で、聡明な景時さんは、自分は北条に負けたと自覚した筈です。
 
それでも、反北条の頼家に「あいつらは、ああでこうで、つまりは頼家様に謀反を企てております!!」
 
とか、それこそ”讒言”する手もあったろうに、それをしなかった。
 
そんな事をすれば、自分への悪評にもかかわらず、御所様と共に創り上げていた鎌倉幕府に騒乱が
 
起こり、武士風情に実権を握らせまいでおじゃると虎視眈々と幕府転覆を狙う朝廷に付け入る隙を
 
与える事になる。
 
 
その後一宮の本拠の防備を固めたとされるのは、そのうち北条方が攻めて来るのは
 
火を見るように明らかだからでしょう。でも、今の自分の勢力では勝てる訳がない。
 
 
と言う訳で、一族が食っていくため朝廷に仕え、九州あたりでまずは何とかかんとか
 
生きていこうとしていた…のではないでしょうか。のんびりと。
 
 
鎌倉幕府創成期から頼朝さんの片腕となって、人から恨まれる仕事をかって出て、一所懸命働いて
 
幕府の体制を確立したかどうかと思う間もなく頼朝さんが亡くなり、御家人同士の主導権争いが
 
始まり、自らがそのターゲットになってしまう…。
 
 
 だめだこりゃ。
 
 
景時さん、なんとなく疲れて、虚しくなってたんではないか。私TOはそんな気がします。
 
実際、景時さんの”弾劾”に加わった主な御家人は、殆ど皆、共食いの果、北条に呑まれる事となります。
 

 
景時さん最後の戦いでは、敵方に飯田家義がいたと、一部では伝えられております。
 
家義さんとは、石橋山ではともに頼朝さんと戦った仲。
 
家義さんは戦の中でとっとと頼朝さんのもとに下りましたが(頼朝が落とした念珠を持って参じた
 
話は有名)。
 
 
その時、景時さんの心中にはどんな想いが去来していたのでしょうか…。
 
 
「おお、あの家義がきよったか…」と、頼朝さんと戦場で出会ってからこの方までの思い出が
 
走馬灯のように脳裏を駆け巡っていたのでは…(涙)。
 

 
 相変わらず前置きが長いというか、余りにも長すぎる!! すみません。
 
 
ともあれ、久々の鎌倉で、重保さんのお墓だけでは飽き足らず、うちのご先祖さんの親戚、
 
梶原景時さんの墓所と伝えられるところに行って参りました。
 
 
景時さんのお墓は、鎌倉市立深沢小学校の敷地内にあります。
 
物騒な昨今、怪しげなオヤジが勝手に入っていくとそれこそ不審者として捕まってしまいますので、
 
予め深沢小学校に電話してご許可を頂きます。
 
電話に出た方は、落ち着いたお声の女性で、景時墓を見学したい旨を伝えると快くOKを下さいました。
 
まずは教職員玄関にいらっしゃって下さいと。
 
 
(↓)放課後野球の子供達の歓声が響く深沢小校庭。なんか、懐かしいなぁ…。
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そそくさと、言われた通りに教職員玄関に馳せ参じると、出迎えて下さったのは、お若い、
 
それもとても美人な、ホントに美人な、このくそ深沢小のガキ共はこんな可愛い先生に
 
教わってやがんのか!! と嫉妬するほど
 
美人な先生でした。
 
 
ヤニサガリ、そしてドキドキしながら「あのぉ。先ほどお電話したTOと申しますが…」と名乗ると、
 
「ああ、景時さんのお墓を見に来た…」とニッコリ♡
 
ももも、♪もしかしてだけど〜、この美人先生が案内してくれるのか!?
 
しょしょしょしょして、放課後の裏庭あたりで二人歴史談義に花が咲き、では、ちょっと飲みにでも…
 
と夜の大船あたりに繰り出して、いつしか二人は男と女の仲に… 
 
ぐふ・ぐふ・ザクとは違うのだよ・グフグフグフフ…。
 
と妄想繰り広げる私TOをよそに、美人先生は「○○せんせぇ〜、いらっしゃいましたよ〜」と
 
誰かを呼ぶ。奥からお出ましになったのは、いかにもお人柄が良さそうな オバハン もとい
 
ベテランの女先生。雲行きがアヤシイと感じつつ、言われた通りにまずは来校者名簿に名前を記入し、
 
「来校者」の札を首から下げます。
 
 
これでもはや不審者ではなくなった私TOを、オバ…いやいや、ベテラン女先生は、
 
ささ、どうぞこちらですよと、とてもご丁寧に、ガッカリ…いや、ガッカリしてない!!
 
決してガッカリしてない!!ゼッタイガッカリなんてしてない!! 私TOを案内してくれました。
 
(美人先生はとっとと校門の方へ…ご帰宅されました…。)
 
 
給食室の裏手に周り、この先ですよとおっしゃる先生に、「いやしかし、私も学生時代に近所で
 
バイトしてましたが、ここに景時の墓があるなんて知りませんでした」と言うと、「あらそうですか。
 
私はここで生まれ育ったので、子供の頃から当たり前でしたけど。オホホ。」と、上品にお笑いに
 
なります。やっぱり、鎌倉生まれの人は品が良いなぁと思いつつ、ああ、あの美人先生
 
後ろ髪ひかれ隊なまま、ふと見ると、ありました。
 
 
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ある意味義経以上の悲劇のヒーロー、梶原景時さんのお墓です。
 
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こういったの(やぐらとか空風火水地)は見慣れた筈の私TOの胸にも、
 
ご先祖様(の親戚)だけあって、何か迫るものがあるようなないような。
 
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ご、ご先祖様(の親戚)、こんなになっちゃって…(合掌)。
 
 
ひとしきり拝んだ後、景時さんの墓所を後にします。
 
さよなら、ご先祖様(の親戚)!! またくるとも限らないからね。
 
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で、この墓所の裏手、小学校に隣接して、御霊神社があります。
 
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京都とかにある、怨霊鎮めの御霊神社と違って、鎌倉のそれは、関東平氏五家すなわち鎌倉・梶原・
 
村岡・長尾・大庭各氏の始祖の霊を祀ります。
 
五氏の霊すなわち五霊が転じて御霊となったとされます。だもんで、この辺にはあちこちにあります。
 
こちらの御霊神社は梶原氏の鎮守であり、江戸時代までは鎌倉権五郎景政夫妻の像を安置する
 
と共に、景時さんの像もあったそうな。
 
 
(↓)拝殿。
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うーん、静謐。
 
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拝殿背後の階段を上ると本殿が。割合こじんまりとしております。
 
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と言う訳で、ご先祖さんの親戚の汚名を晴らした私TOは、もしかしたらあの美人先生に会えるかも
 
と、淡い期待を抱きつつ、夕暮れ迫る大船界隈へ向かうのでした…。
 
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【梶原景時墓】
湘南モノレール湘南深沢駅より石橋を叩くように歩いて約1時間半。
 

 
(↓)これ、マジに欲しい!!―しかし、なぜ大阪の勝尾寺に頼朝と景時の墓が並んでたのか!?
 
謎だ…。
 
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J7622 大阪 勝尾寺 源頼朝梶原景時の墓

通常販売価格1,080円(税込)

商品説明

中古のアンティーク絵葉書です。
明治から昭和初期の間に発行されたのをアンティーク絵葉書としています。
現在の絵葉書より小いさいため、郵便に使用することはできません。
経年劣化による紙焼けがあります。
コレクション品や研究資料としてご購入下さい。

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