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全く以て久しぶりの「鎌怨」です。2年半ぶりです。
実は、ここ1ヶ月位、咳が止まらくて、せきこえのどの浅田飴でも治らない。 困っているうち、あ、そうだ、あそこに行こう、ポム(膝を叩く音)、と思いついたので、
定休日にして好天な本日、行って来ました。
「畠山重保の墓」 に!!
何故、咳に重保なのかは後々として、畠山と言えば重忠、と思い出す方も多いかと存じます。
重保さんのお父さんである重忠さんは、頼朝挙兵時には平氏についていましたが、後に臣従。
武運の誉れ高く、清廉潔白なお人柄で「坂東武士の鏡」と称されたお人です。
なにより、私TOみたいな鎌倉フリークにとっては、「いいところでちょこちょこ顔を出す」ので親しみを 感じるお方です。
まず、石橋山の時は、大雨で頼朝と合流できず引き返して来た三浦と邂逅し、合戦。 双方痛み分けるも、三浦の要塞・衣笠城を攻めて三浦義明最期のドラマを演出しつつ討ち取った。
この時重忠17歳の若大将。
その後、源氏の旗下にあった先祖が貰った「源氏の白旗」を持って帰参して頼朝を喜ばせ、
先陣切って鎌倉入り。
養和元年鶴岡八幡宮社殿改築上棟式では、義経屈辱の馬曵きに付き合い、
義仲と戦った宇治川では溺れかかった味方を岸に放り投げて助け、
三条河原で一騎当千&絶世の美女・巴御前と一騎打ちして鎧袖を引き千切り、
平家討伐の鵯越では愛馬を背負って断崖を駆け下り、
静御前が鶴岡八幡宮で舞った折には伴奏の銅拍子を打つ。
色々あって、「謀反の疑い有り」との梶原景時の讒言(得意技ですな)にあったが、
色々あって申し開きもせずに許されるどころか頼朝から褒美まで貰う。
奥州攻めでは先陣を努めて奥州藤原氏を滅ぼし、捕らえられた泰衡郎党の由利八郎は
最初に取り調べられた梶原景時の傲岸不遜っぷりには立腹して全く口を割らなかったが、
替わった重忠の、礼を尽くした態度には感服して、問答に素直に応じたとか。
―-ウソかホントかは置いといて、智勇合わせ持ちつつイメージがあって数ある鎌倉御家人の中でも、
畠山重忠は、気は優しくて力持ち的いい人キャラになっているのだと思います。
(↓)重忠っつたら、やっぱ、これだよなぁ…。
お父さんの話が長くなりましたが、重保さんも父さん似で実直かつ勇猛だったらしい。 そんな重保さんが平賀朝雅という人と酒の席で諍った。
周りのとりなしで一度は収まったのに、根に持った朝雅さんは、「あいつひどいんだよ」と
嫁のお母さんに泣きついたのですが、その嫁のお母さんと言うのがよりによって、あの!!牧の方。
(日野富子がどうとか言うけど、悪妻っつたらむしろ、この女だろう。)
牧の方は夫である北条時政に、「畠山父子が謀叛を企てとります」と讒言します。
時政は、「え!?そうなの!?」とばかりに、畠山潰しに打って出ようかなと考えたりします。
北条氏としては、口実さえあればとっとと討ってしまいたい相手、それが畠山だったからです。
時は三代将軍実朝の世。 鎌倉殿の嫁&現将軍のママの実家とは言え、所詮は伊豆の豪族風情の北条氏にとっては、 武蔵国に絶大な勢力を持つ名門、しかも、頼朝が死に際して「我が子孫を守護するよう」遺言を受けた
程に信頼を置かれた畠山は目の上のたんこぶ以上の存在であります。
それまで、讒言ニストで人気はないが、頼朝の忠臣で御家人を統括する立場だった梶原景時も 色々あって滅ぼされ、頼朝の乳母一族をいい事に二代将軍頼家を擁立してブイブイ言わせてた比企氏も
滅ぼし、「有力御家人実権争奪レース」の一回戦・二回戦を勝ち抜いた北条氏のドン・時政としては、
このチャンスを見逃せる筈もございません。
それでも時政は、やっぱりいくらんなでもあの畠山を一方的に攻めるのもどうなのかと思ったらしく、 一応、息子の義時や時房に「謀叛のかどで重忠と重保を討ちたいんやが、どやろか?」と相談します。
しかし、息子たちからは、「あの重忠さんが謀反などする訳がない」と、(当然ながら)反対されます。
重忠さんの奥さんは、叔母さん(政子の妹)だし。義時にとって、重忠さんは友人だし。
それでもまた嫁の家の方からなんやかや言われて、たぶん半分やむ無く、時政は兵を挙げます。
時は元久2年6月22日。早朝から鎌倉は謀反人の討伐で騒然となる。
重保も、おっとりがたなで従者3人とともに由比ガ浜へ駆けつけたが、自らを取り囲む御家人衆を 見て事態を悟った。「謀反人は儂か!!」。
重保は武勇で鳴る畠山の名を汚すまいぞと奮戦するも、多勢に無勢。
戦いの最中に持病の喘息の発作が出た事もあり、戦場の露と消える。
父・重忠も、鎌倉に異変有りとの知らせを受け、本拠の菅谷館(今の埼玉県比企郡)から出立するも、 二俣川で義時率いる幕府軍が待ち構えていた。そこで初めて自らが謀反人とされていること、
同じ濡れ衣を着せらたまま息子重保も討ち死にした事を知った。
その時、重忠の戦力はせいぜいたぶん100騎かそこら。
しかし、そこで退く重忠である筈もない。
潔く戦い散るべし。それこそ武士の本懐。と、数千の大軍を迎え撃つ覚悟を決めた。
そこに先陣切って突入してくるのは、旧友である安達景盛。
(↓)ガンバレ!! 重忠!!
「おお、景盛!!一番槍とは見事なり!!存分に戦おうぞ!!」と言ったか言わんか知らんが、
たぶん、そんくらいの事は言ってるはず。
重忠は寡兵であるにも拘らず4時間に及んで戦うも、終には愛甲季隆放つ矢に討たれ、
首級を取られた…。 鎌倉に戻った義時は、「重忠の兵は出払っており小勢で、謀反は虚報であり、重忠は無罪です。 重忠の首を見るには涙を禁じえず…大変お気の毒で…」と(たぶん涙ながらに)報告すると、
聞いた時政は黙って引き下がった…。
その後、この一件をきっかけに時政は我が子である政子・義時によって、牧の方とともに鎌倉を
追われる事になるのですが、それはまた別の話。
―と、前置きが長くなりましたが、重保さんが戦いの最中、持病の喘息が出たため討ち死にした…
との由来で、重保さんのお墓とされる宝篋印塔は、咳に苦しむ人が願をかけると治ると言い伝えられて
いるのです。
そんな訳で、咳の止まらん私TOもここにやって来たのです。
由比ガ浜から来て最初の鳥居、一の鳥居の脇に重保さんのお墓はあります。
一礼して拝み、どうにかこの咳をお鎮め下さいと。
今でも、旧い鎌倉の人は「六郎様」と、この石造宝篋印塔を崇め、
ご覧のように、供えられるお花が絶えません。
願をかける時には竹筒の茶を注いだと云われ、往時は墓の脇に「六郎茶屋」(六郎とは重保の通称)
と言う茶屋もあったそうな。
私TOも、持ってたペットボトルのお茶をかけようかとも思いましたが、
いくらなんでも飲みかけでは失礼だろうと、遠慮しました。
(↓)巨きな木が、まるで風雨から守るように、重保さんのお墓を覆っております。
ゴホン、ゴホン。
重保さんのお墓を後にした私TOの咳は止まず。
おかしいなぁ、何でだろ?と訝しりつつ、今日2箱目のタバコの封を切る私TOでした。
【畠山重忠墓】
JR横須賀線鎌倉駅より欽ちゃん走りで約10分。
江ノ電和田塚駅より民主党の牛歩戦術で約3日。
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鎌倉怨霊散歩
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鎌倉にハマってきたので、「心霊スポットの旅」から分離独立しました!!
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さて、喚き十王岩ですが、その声の正体は谷から吹き上げてくる風だったとも言われております。
風が樹木や岩の間を抜ける時に笛のような音を出し、その響きが喚き声に聞こえたと言う訳ですが、何となく
腑に落ちないのです。
もしそうだとしたら、他の場所でも同じ様な喚き声がしていてもおかしくないでしょうに。
(↓)何故に喚くか、十王岩…?(後から見たところ。)
十王岩の謎に想いを馳せながらここからの素晴らしい眺望を堪能している時…。
(十王岩の眺望はかながわの景勝50選に入っております。)
謎が全て解けた!! (ような気がしました。)
(↓)十王岩から鎌倉市街を眺める。
どうですか、この眺望。
真ん中を通っているのが、鎌倉のメインストリートである若宮大路です。
つまり、ここは鶴岡八幡宮や幕府中枢部の真裏にあたり、鎌倉中心部全域が見通せてしまう戦略上
の重要地点なのです。
(↓)尾根の反対側からは遠くランドマークタワーも望める。
建長寺や極楽寺など、重要な切通しに有力寺院を配置したのは、いざ鎌倉の際にそこを防衛拠点とする為
だったとも言われております。先ほど通って来た展望台からはその防衛拠点の建長寺も眼下に収める事が
できますし、十王岩一帯は、敵の間者なんかを絶対に近づけたくない場所である事は間違いありません。
そこで幕府は一計案じ、喚き十王岩の怪談話を流布させ、みだりに人が近づかないように仕向けたのでは
ないかと、そんな風に思った訳です。
―少々うがち過ぎでしょうか。
(↓)十王岩のすぐ傍には、明らかに人の手が入った岩肌が。「監視所」みたいなものがあったのか???
真相はともあれ、喚き十王岩みたいなミステリアスな伝説があちこちに残っているのが鎌倉の良い所です。
十王岩に別れを告げ、ハイキングコースを今度は名月院へと下り、家路に就くTOでした。
(↓)春の紅葉。
さて、次回はどこに行こうかな♪
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予報では雨が降る筈だった定休日の今日ですが、娘に「駅まで送って」と叩き起こされるとド・ピーカン。
雨が降ったら一日中寝てやろうと思ってはおりましたが、あまりの好天に誘われて、娘を駅に降ろした足で
鎌倉に向かいました。―そう、鎌怨散をしようと思い立ったのです。
振り返ると、随分久々の鎌怨散です。しかし、わざわざ略す方がめんどくさい。「かまくらおんりょうさんぽ」
で変換すれば、一発で「鎌倉怨霊散歩」と出るのに。まあどうでもいいですそんな事。
さて、今回は再開を祝して、怨霊指数がかなり高いスポットをチョイスしました。
その名も、「喚き(わめき)十王岩」です。
十王とは何者か?何故に岩が喚くのか?いかにも怨霊好きの興味をそそる物件ですが、まあまず現地に
行ってみましょう。
建長寺です。臨済宗建長寺派の大本山です。鎌倉観光でここを外す人はまずいない、有名寺院です。
平日にもかかわらず、参拝客が大勢いらっしゃいます。
歴史が深く、見所満載の素晴らしい寺院なのはもちろんですが、とりあえず今日はここには用はございません。
北条時頼(建長寺の開基)さんごめんなさい。
で、何故建長寺なのかと言うと、こちらが本日の鎌怨散の基点だからです。
拝観料300円也を払いながら、窓口のおばちゃんに「十王岩って、ここから行けますよね?」と聞くと、
おばちゃんはニコニコ笑いながら、道順を丁寧に教えて下さいました。すごく徳の高そうなお顔でしたが、
もしかしたら観世音菩薩の権現か何かかもしれません。ありがたや。思わず心の中で掌を合わすTOでした。
境内に入ると、ここには用はないと言いつつ、やっぱりあちこちにひっかかりながら時間ばかり食っているTO。
(↓)例えば、三門(三解脱門)。
この門には、施餓鬼に纏わる梶原景時の亡霊譚なんかが残っております。
事ほど左様に建長寺は建長寺で十二分に鎌怨散のネタになるので詳しくはまたの機会にしつつ、
先を急ぎましょう。
建長寺の境内から左手の道を進むと、半増坊への参道に入ります。
新緑が目にまぶしいです。この時点で、来て良かったと思うTO。
(↓)いかにも鎌倉らしい、崖のくりぬき方。いいなぁ。
のんびりと歩いていると、やがて急な石段が現われ、明日の筋肉痛覚悟で登りに入ります。
鳴き方も上手くなったうぐいすの声が閑静な森に響いております。
木々を縫う風は爽やかで、汗ばみ始めた肌に心地よいです。
ヒーヒー言いながら登っていくと、半増坊に到着。
天狗の像がお出迎えしてくれます。
半増坊は、明治23(1890)年に勧請された建長寺の鎮守、つまり、守り神です。祀られているのはその名の
通り半増坊、後醍醐天皇の子にして臨済宗の僧となった人です。半僧半俗だったので、半僧坊と呼ばれる
との事ですが、神通力が強く、いつしか天狗として祀られるようになったとか。
と言う訳で、天狗なのです。
(↓)半増坊からの眺望。春の霞で見えませんが、この先に富士山がそびえています。
ここまでで、いい加減に息が挙がっているヘタレTO、日ごろの運動不足とビールとタバコを恨んでも後の祭り、
英語で言うとアフターフェスティバルで、十王岩はまだ先です。
さらにヒーヒー言いながら登り尽くすと尾根筋に出て、展望台に到着。同時に天園ハイキングコースに
合流します。
(↓)展望台から建長寺を見下ろす。殆どエベレスト登頂の気分。
ハイキングコースには若いお嬢さんコンビ、ご年配のご夫婦、妙齢のご婦人グループと、様々な方が歩いて
おられます。すれ違いざまに「こんにちは」と挨拶を交わしながら、天園方面へ。
整った山道には、散った桜で薄紅の絨毯が敷かれています。
そんな気分のよい道をものの数分も歩かずに、見えてきました。十王岩が。
(↓)十王岩。
この岩には「地獄の十王」が彫られているのが、十王岩の名の由来なのですが…。
この岩が、夜な夜な悲しげに泣き喚く事から「喚き十王岩」と呼ばれるようになったそうです。
その声は時に激しく、時に切なく響いたとか。
(↓)風化が酷く原型を留めておりませんが、左から如意輪観音(観音菩薩)・地蔵菩薩・閻魔大王だそうです。
あとの七王は風化して無くなってしまったのか?欠け落ちてしまったのか?その辺はよく判りません。
ちなみに、十王とは地獄で亡者の審判をする裁判官役の尊格。
地獄の裁判官と言えば閻魔様ですが、他に9人もいるんです。
そのラインナップたるや…
秦広王(不動明王) 初江王(釈迦如来) 宋帝王(文殊菩薩) 五官王(普賢菩薩) 閻魔王(地蔵菩薩)
変成王(弥勒菩薩) 泰山王(薬師如来) 平等王(観音菩薩) 都市王(勢至菩薩) 五道転輪王(阿弥陀如来)
と、銀河系最強どころではない錚々たるメンバーによって構成され、秦広王が初七日・初江王が二七日…
五道転輪王が三回忌と、節目ごとに審理をするのだそうです。おちおち死ねませんねこりゃ。
で、何でこの岩に十王が掘り込まれたかと言うと、この尾根下の谷が地獄谷だったから。
地獄谷とは、鎌倉時代の庶民墓地の事です。
墓地と言っても、当時の庶民の埋葬方法は、よく言えば風葬、悪く言えば辺地に放置して終わり、でした。
鎌倉においての辺地とは、市街地と外界を隔てる切通しのあたりと、浜辺でした。
今でも、由比ガ浜あたりをちょっと掘ると人骨がざくざく出てきて、某ハンバーガーチェーンの店が撤退したのは
その祟りのせいだとのプチ都市伝説もあったりましますが、それは浜辺が庶民の墓地だったから。
建長寺周辺もそのような場所だったのです。
(↓)十王岩周辺から見下ろした谷。画像では良く判りませんが、かなり急峻で深い谷間です。
このような谷あいに、庶民の遺体は棄て置かれたと言われております。
鎌倉時代は、幕府が成立してからも有力御家人同士の殺し合いが続き、多くの庶民が巻き添えを食って
命を落とし、また、飢饉・疫病・天変地異が庶民を襲い、その度多くの人々が死んでいきました。
決して満足して死んだ人ばかりではなかった訳で、そんな人々の為に、誰そがこの岩に十王像を彫ったので
しょう。「預修」と言って、生前に十王を祀れば死して罪を減ぜられるとの信仰もあったそうですから。
地獄谷は同時に処刑場でもあったそうです。そんなこんなで、十王岩の喚きは、不遇の死を遂げた人々の
怨嗟の声とされたであろう事は容易に想像できます。
と言うところで、画像の容量が足りなくなりましたので、続きにします…。
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久々の続き記事です。正直、疲れてきました。このクソ忙しいのに何をやってるんでしょうか、私は。
まあいいや。頑張って続けましょう。TO与太話の始まり始まり〜!!
頼朝の死から、長すぎる年月を経てようやく建立された大仏。
その長すぎる年月にこそ、大仏の謎を解く鍵が秘められていたのです!!
(なんて、とりあえず断言してみる。)
(↓)稲多野局の笠塔婆(供養塔)。大仏さんの背後にあります。
頼朝の死からこっち、鎌倉は激動の時代だったのはご存知の通りです。つーか、鎌倉は常に激動ですが。
源氏嫡流の将軍は三代で途絶え、有力御家人同士の抗争が多発し、隙を見て京からは討幕の兵が挙がる。 実朝が公暁に暗殺されてからは将軍は空位で、北条政子が鎌倉殿を代行しておりました。
鎌倉幕府すなわち執権北条が大仏建立計画に表立って動かなかったのも無理はないかもしれません。動きたく
ても動けなかったのです。政局運営でそんな暇は無かったし、下手に大仏建立なんてプロジェクトをぶち上げた
ら「北条め、権威を知らしめるために大仏を造ろうとしてやがるな」と他の御家人の反発を買い、足元をすくわれ
かねません。
よって、大仏建立は侍女の発願と言う事にしておいて、陰ながら支援し計画を進めていったのではないでしょう
か。首謀者はもちろん北条政子でしょう。証拠は何もありませんが、この人しかいないと思うのもまた事実…。
(←)やっぱり、政子ちゃんなしでは鎌倉の話は進
みませんわなぁ。
そんな中、二代執権・義時が死亡。政子の依頼によって、政子の甥である泰時が元仁元(1224)年に三代執権
の座に就きます。執権となった泰時は高潔な人格者で、質素倹約に努め、飢饉の時は年貢の免除や食料支援
を行うなど善政を行った人物として知られています。日本初の武家法典である御成敗式目を編纂したのも泰時。
(↓)明治大学の博物館に展示してあった「御成敗式目」。 (夏島貝塚出土品の取材に行った時に撮影。)
しかし、いい人ばかりでなく、承久の乱では朝廷に対してきついお灸をすえており、厳しい人でもありました。
六波羅探題として京に駐在していた泰時は、優れた都市機能を持つ京を目にしており、それに倣った街づくりを
鎌倉で実行しました。その中で大仏建立計画が日の目を見たのではないでしょうか。頼朝の遺志通り、鎌倉のシ
ンボルを造る。都市計画としては必須の条件ですし、頼朝の遺志を実現するのは政子の悲願だった事でしょう。
(↓)大船の常楽寺にある北条泰時墓所。(大姫ちゃんと義高くんの墓所を取材した折に撮影。)
嘉禄元(1225)年、頼朝以来永く幕府を支えていた大江広元が、次いで政子が亡くなります。大きな後ろ盾を失
いつつつも、泰時は自らの政治手腕を思う存分発揮出来る環境になりました。うるさいじいとおばはんがいなくな
ったのですから。
(←)うるさいじい。しかしこの人無くして鎌倉幕府はあり得なかったのではないかと思います。
じいとおばはんが亡くなった年、泰時は京の九条家から次期鎌倉殿として迎えていた当時8歳の三寅を元服させ
藤原頼経と名乗らせ、翌日には全て賞罰は泰時自身で決定する旨を宣言。がっちり実権を握り、翌年には頼経
を四代将軍にします。
泰時が実権を握った、丁度この辺から、鎌倉大仏建立計画が急速に具体化していくのです。
泰時は、うるさいおばはんらに反対されていた御所の移転を、おばはんの死後すぐに実行しました。移転先は宇
都宮辻子御所と呼ばれています。移転の理由は、血塗られた大倉御所に巣食う怨霊から逃れる為と云われて
おります。頼朝・頼家・実朝と三代続いた源氏将軍がどいつもこいつもロクな死に方をしていないので、泰時が大
倉御所を怨霊の地だと思ったのは無理の無い事です。御所の移転と言うのは、規模は小さいですが、平城から
長岡、平安と遷都したのと意味は同じです。怨霊と共に旧い既得権益層から脱却し、人心一新を図ったのです。
大仏の建つ長谷界隈は鎌倉の西の外れです。建長寺や極楽寺の辺りもそうだった様に、当時の鎌倉の境界領
域と言うのは地獄谷(死体を放棄する場所)だったり、刑場だったり、病人を隔離する場所だったり、つまり「悪
所」でした。実際、当時の長谷には悲田院と言う病人の隔離施設があったそうです。
泰時は、都市計画の一環として、また、うるさいながらも敬愛する亡きおばはんの恩に報いる為にも、「悪所」に
おばはん悲願の大仏を置く事によって聖域化し、鎌倉ひいては東国全体を護持させようとしたと考えられます。
長年、資金と資材を集めていた浄光は泰時と言う後ろ盾を得てヒア・ウイ・ゴーとばかりに大仏建造に着手する。
―と言う訳で、泰時の援助によって、鎌倉の大仏はようやくその姿を形作ってくのです。(たぶん。)
(←)高徳院仁王門の金剛力士。
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< 記事、長いよ。 |
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こうして鎌倉大仏は造られ始めるのですが、泰時は深く阿弥陀仏を信仰していたので、大仏は阿弥陀如来として
着工されたのではと思います。しかも、鎌倉大仏の手が結ぶ印相は、9種類あるとされる阿弥陀仏の印相の中で
も最も格式が高い「上品上生印(じょうぼんじょうしょういん)」を結んでいます。最高の阿弥陀如来像を造るのが
泰時の願いだったのではないでしょうか。
しかし、仁治3(1242)年、泰時は赤痢を発症し、亡くなります。
(巷では後鳥羽上皇の怨霊の仕業と云われましたが。)
泰時没後、鎌倉宗教の軸足は浄土宗から禅宗へと移行していきます。幕府は京に対抗する意味でも新しい宗
教を求め、それが禅宗だったのです。バックアップを失った浄光はそれでも何とか銅製大仏を完成させました。
しかし、そこには寺社は無く、ただ大仏殿の中に銅製の大仏が置かれるのみ。
対照的に、今で言う北鎌倉には建長寺や円覚寺など、禅の巨刹が建立されていくのでした。
浄光ら浄土宗系の僧によって造られた鎌倉の大仏は、完成時には律宗僧・忍性の極楽寺の管理下に置かれま
す。これは、浄土宗の僧は律宗に帰依したから。政子も泰時もいなくなり、鎌倉幕府宗教政策の主流から外れ
た鎌倉の大仏は、その完成を『吾妻鏡』に記述される事なく、ただ黙って座っているのでした…。
(↓)そう考えると、ちょっと寂しい後姿…。
―と言う事で、鎌倉の大仏は政子を始め頼朝に近しい人達が、頼朝の遺志を叶える為に造ったと至極真っ当な
結論に落ち着いた訳ですが。全く、高徳院由来記そのままで、面白くも何ともないですね。
(↓)境内の一角に建つ石碑。
(↑)源頼朝の名が刻まれておりました。
そして最後の謎、浄光とは何物だったのか?鎌倉大仏の勧進以外、この人の名が出てくる史料はありません。
よって、これはもう推測(妄想)するしかありません。
手がかりと言えば、浄光は遠江の人だと云われている事くらい。今で言う静岡県の人です。
もしかしたら、女好きで有名な頼朝が富士川の戦いの時か何かに地元の女性とねんごろになって生まれた御落
胤かもしれません。だからこそ、父の遺志を全うすべく大仏建立に奔走したのかも…。
全てを知る大仏さんは、小泉八雲に「東洋的微笑」と讃えられた口元を決して開く事無く、永遠に黙したまま…。
TO与太話、おしまいおしまい〜。
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「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな」
(鎌倉の大仏さんて さわやかで 仏のクセに かなりイケメン :TO意訳)と与謝野晶子に詠まれた
鎌倉の大仏。
「やわ肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」なんて、スーパーセクシーな歌を詠む
情熱の女流歌人にこんな風に言われるとは羨ましい限りです。
でも、釈迦牟尼と言ったのは晶子の間違い(『吾妻鏡』にもそう誤記されてるから晶子はそれに従った
か?)で、正しくは阿弥陀如来です。
釈迦も阿弥陀も同じ様に見えますが、実は全くの別人(と言うか「別仏」)。
釈迦はご存知ゴータマ・シッダルタさんで、この世で唯一仏陀(悟りを開いた人)となり、仏教の源と
なった人です。
それに対し、阿弥陀様は言ってみれば釈迦の先生とも言える仏様です。
釈迦は地球上でただ一人の仏陀ですから地球では一番尊いのですが、宇宙スケールで言うと十方諸仏
(数え切れない数の仏陀)の一人であり、阿弥陀様は「本師本仏」つまり全ての仏の師であるとされていま
す。釈迦は先生である阿弥陀様の御心を人々に教えていった。それが仏教となったのです。
ちなみに「如来」とは悟りをひらいた人、すなわち仏陀の事で、釈迦如来以外にも薬師如来とか大日如来とか弥
勒如来とか何人もいらっしゃいます。彼らは皆阿弥陀様の弟子であり、阿弥陀様が一番偉いのです。
(以上は浄土真宗の考え方。)
そんな仏教豆知識はどうでもいいとして。
比較的マイナーなスポットを巡るのが旨の「怨霊散歩」ですが、酔石亭主さんから頂いたコメントに触
発されて、鎌倉の超目玉観光スポットに行って来ました。
鎌倉の大仏がある長谷界隈は、鶴岡八幡宮と並んで観光客で賑わう場所です。
今日も平日(1/31)にもかかわらず大勢の人がそぞろ歩いておりました。
パーキングに車を停め、大仏に向かっていると…やっぱりありました。
「オバマッ茶ソフト」!! 絶対この手の駄洒落アイスが出てると思ったんだよな〜。
―美味しそうだがこんな寒い日にアイスを食う気にもなれずスルーしました。
さて、鎌倉の大仏さんです。もちろん国宝です。拝観料(200円)分以上の見応えはあります。
境内には多くの観光客が来ております。外国人旅行者の姿も多いです。シャッターを押してあげた外人カップル
はドイツからきたそうな。
この様に世界的に有名な鎌倉の大仏さんですが、実は誰が何の為に造ったか、今ひとつ良く判っておりませ
ん。『吾妻鏡』にもチラッチラッと記述が見えるだけです。奈良東大寺の大仏は国家を挙げての一大プロジェクト
で造られたのに、鎌倉の大仏は幕府が総力を挙げて建立した…と言う感じではまったくないのです。こんな大き
な仏様なのに…。
そもそも、鎌倉に大仏を望んだのは頼朝でした。京に対する独立性をアピールする為、また鎌倉武士の心の拠
り所として、奈良東大寺の大仏に匹敵する大仏を置きたかったのでしょう。
高徳院の由来記によると、正治元(1199)年に頼朝が急死した後、遺志を継いだ侍女の稲多野局が発願し、勧進
僧・浄光が諸国から浄財を集めて建立したとされます。
『吾妻鏡』には、暦仁元年(1238年)に「初代」大仏の建造が開始され、5年後の寛元元年(1243年)に開眼供養が
行われたと書かれています。
「初代」と言うのは、この時の大仏は高さ8丈の木製仏だったのです。仁治3(1242)年の『東関紀行』には大仏&
大仏殿が3分の2ほど完成していた事、大仏は銅製ではなく木製であった事が書かれています。
その後、初代大仏は何らかの原因で失われ(宝治元【1247】年の台風で倒壊したとか、銅製大仏の原型だったと
言う説があります)、建長4(1252)年から金銅八丈の釈迦如来像の造立が開始されたと『吾妻鏡』には書かれて
います。「釈迦如来」と言うのは誤記で正しくは「阿弥陀如来」であると言うのが定説で、つまりこの二代目大仏が
現在まで残る鎌倉の大仏だとされております。
ちなみに、高さ8丈と言うと約16m。ただし、仏像の高さは「立った時の高さ」を言うので、座像の場合なら実寸は
その半分強でしょう。つまり高さ10m位の大仏と言う事になりますが、鎌倉の大仏の仏身高は約11mですので、
誤差を考えると同一のものとしてほぼ間違いないと思われます。
銅製の二代目大仏ももちろん大仏殿に納まっておりましたが、天災により何度か破損・倒壊しつつ、明応7(148
8)年の大津波で流され、以後鎌倉の大仏は露座のまま現在に至ります。
(↓)江戸末期の鎌倉の大仏さん。「夏木立」と詠んだ与謝野晶子の時代もこんな感じだったのでしょうか?
(↓)高徳院境内のあちこちに残る大仏殿の礎石。参拝客のベンチがわりになっています。
しかし、僧・浄光とは何物なのかも良く判らない。一人の僧の力でこの様な巨大な大仏の建造計画が実行出来
るとも思えないし、銅製の大仏がいつ完成したのかすら記録が残っていない。 幕府はある程度の援助はしたら
しいが、表立っては動いていないのは何故なのか。
鎌倉の大仏さんは謎だらけなのです。
鎌倉の大仏の謎なんて、ど素人の私がいくら調べても解明できるわけもありませんが、一応それらしい事を書か
ないといけません。以下はかなり眉唾な考察なので、あまり信じないで下さい。
鎌倉の大仏建立の目的は怨霊を封じる為と言う説があります。ようやく「怨霊散歩」らしくなってきました。
では、誰の怨霊を封じようとしたのか。
大仏まで建てないと封じられない怨霊とはかなり凄まじいモノの筈ですが、幾つか候補は挙がります。
①平氏の怨霊…もっともらしい気もしますが、元暦2(1185)年に壇ノ浦で平氏が滅亡してから初代大仏建造まで
53年も経ってますので、今更感が漂います。やるならもっと早くやってるでしょうし。
②義経の怨霊…もっともらしい気がしますが、宝治3(1249)年に白旗神社(現在は藤沢市)に祀られているの
で、大仏に封じられているとは思えません。
③後鳥羽上皇らの怨霊…もっともらしい気がしますが、後鳥羽上皇らは後に新宮(今宮)に祀られております。
もし大仏が後鳥羽上皇らの霊を封じているのなら新宮は必要ありません。
④北条に滅ぼされた有力御家人達の怨霊…もっともらしい気がしますが、初代大仏建造までには梶原・比企・
畠山・和田などは既に滅んでいましたが、北条最大のライバル三浦氏は健在でした。このタイミングで滅んだ連
中の為に大仏を造る必然性北はありません。ところが、初代大仏が台風で倒壊したとされるのは奇しくも宝治合
戦で三浦氏が滅んだ年で、三浦氏鎮魂の為に改めて銅製大仏を造ったのではないかと言う説もあります。
うーん、もっともらしい。
しか〜し!!銅製大仏は実はもっともっと早い時期から計画されていたフシがあるのです。
鎌倉の大仏は厳密に言うと銅ではなく銅合金で作られております。昭和34年から36年にかけて行われた修理・
耐震補強工事の際、試料を採取して、電子線マイクロアナライザーによる材質調査が行われた結果、鎌倉大仏
の銅成分は中国公鋳銭に近いということが判明しました。 長門長登銅山は産出量が豊富で、東大寺の大仏建
造に380トンもの大量の銅を供給しました。しかしその様な銅山も鎌倉時代には枯渇し、銅資源が不足していた
ので、当時の日本では鐘や仏像の材料として宋から輸入した銅銭が使われたのです。
大仏建立の勧進をした浄光は、延応元(1239)年に人別一文銭の勧進を北陸や西国に下知さるべく幕府に願い
出ております。既に出された下知で山陽山陰からは寄進を得てるが、更にエリアを拡大して欲しいと言う様な嘆
願でした。どうもこれは資金集めと言うより原材料集めくさい。
幕府はこれに応じて刀剣などを供出し、仁治2(1241)には罪人を逃がした預人から過怠料を徴収して大仏建立
に寄進する様に下知を出しております。(幕府はその後も銅銭寄進の下知を出している。)
ここで重要なのは、延応元年(初代大仏建造開始から1年後)以前に銅銭大仏建立寄進の下知が出ている事
で、この事が初代大仏以前から銅製大仏の建造を計画していたのではないかと思わせるのです。
浄光は「男女45億人(当時の「億」とは10万の事)いるので、一人一文で4万貫余りの銅銭が集まる」と主張してお
り、この4万貫の銅銭というのは鎌倉の大仏鋳造に必要とする銅の量とぴったりと一致するのです。これが
偶然の一致でないとすると、浄光は早い時期に銅製大仏の設計を行い、必要な銅の量を計算していたと言う事
になります。
するとやはり初代大仏は銅製大仏の原型として造られたのではないかと言う気分になります。初代大仏が木製
だった、大仏殿があった、と言うのは先に挙げた『東関紀行』に書かれている事ですが、『東関紀行』は作者不詳
で事実か疑わしい記述も多い書物だそうで、史料としての価値を認めない研究者も多いとか。『東関紀行』の
大仏は塑土(粘土)で造った原型で、大仏殿に見えたのは工事用の仮屋か何かだったのではないかと言う説も
あります。当然ながら、銅製大仏の鋳造には実物大の原型が必要なのです。
(鎌倉大仏高徳院さんのHPに「大仏の鋳造法」が動画で紹介されておりますので、是非ご参照下さい。)
(↓)20円で胎内に入れます。頭の真下から見上げる。丸いツブツブの凹みは
(↑)茶色いガムテープみたいなのは、地震で首がもげないようにFRPで補強した部分です。
(↓)幾層にも分けて鋳造したのが良く判ります。
初代大仏の開眼供養の際には10人かそこらしか参列しなかった様子が『吾妻鏡』に書かれており、いくらなんで
も寂しすぎるだろうと思っていましたが、これが「単なる原型」の完成式典だとすれば、参列者の少なさもまあ
何となく納得できます。
高徳院由来記どおり稲多野局が発願して大仏建立計画が始まったとして、頼朝の死から初代大仏の建造開始
まで40年近くかかっております。稲多野局がいつ大仏建立を発願したのかは判りませんが、かなり長い期間を
かけて準備したと言う事になります。しかし、いくら何でも長すぎる様な気がしないでもありません。頼朝の遺志
を実現するならもっと早く大仏を造っても良さそうなものです。
さて、ここからTOスーパー眉唾説「鎌倉の大仏の謎を解く!!」が始まるのでですが、文字制限に引っかかりそう
なので、続くにします。
しかし、こんな与太話を読んで下さる方がいるのでしょうか…。 |





