鎌倉怨霊散歩

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鎌倉にハマってきたので、「心霊スポットの旅」から分離独立しました!!
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鎌倉の中心である鶴岡八幡宮の西側、扇ヶ谷(おおぎがやつ)の閑静な住宅街。
 
その一角に、「岩船地蔵堂」はあります。こぢんまりとした、六角形のお堂です。  【地図】
 
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ここには頼朝と政子の最初の子、大姫の自念仏(個人が毎日拝むために身近に安置した仏像)である地蔵菩薩
 
像が安置されております。現在のお堂は平成13年に建て直された新しいものです。それ以前はほとんど打ち捨
 
てられた様な、さびしいものだったそうです。
 


 
大姫は、頼朝が伊豆に流されている時、北条政子と熱烈な恋に落ちて、そして生まれた女の子です。
 
頼家や実朝のお姉さんですね。鎌倉時代のプリンセス中のプリンセスです。
 
「大姫」とは、「長女」と言う意味で、彼女の本名は伝わっておりませんが、ここでは親しまれた大姫と呼びます。
 
生まれた年もはっきりしないようですが、治承2(1178)年頃ではないかと言われています。
 
 
大姫は、頼朝が鎌倉入りして幕府を開く準備をしている最中に、父に会いたさの一心で母・政子と共に鎌倉に入
 
り、親子三人感動の再会を果たしました。
 
 
寿永2(1183)年春、大姫が6歳の頃です。頼朝は対立していた源義仲との和議の為、義仲の長男・義高を鎌倉
 
に迎え、大姫の許婚としました。その時義高は11歳。完全な政略結婚なのですが、どころがどっこい大姫は義高
 
にぞっこんになります。将軍の娘として何不自由なく育てられ、ちやほやはされますが、その実心を開ける同世
 
代の友達もいなかった大姫にとって、父親譲りで弓馬に優れ野生的な義高はまさに王子様、ヒーローだったの
 
です。また、絶世の美女とうたわれた巴御前を母に持つ義高は、相当イケメンだった事でしょう。義高と会って以
 
来、大姫は「この子はこんなに笑う子だったのか」と政子も驚くほど明るく朗らかになったそうです。政子も、この
 
幼いカップルを暖かく見守り、頼朝にとっては人質に過ぎない義高をわが子の様に可愛がりました。義高も自分
 
を真摯に慕う大姫を憎く思うはずも無い。義高はさすがに今の幸せな状況は頼朝と義仲のパワーバランスが取
 
れているうちだけだと自覚していましたが、その分大姫を大事にしました。こうして鎌倉に、幼いながらも純愛を貫
 
くカップルが誕生したのです。
 
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(←)一騎当千!!巴御前。義高のママです。
「中にも巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者なり」と平家物語にはあります。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
しかし、義高が心配した通り、蜜月はあっと言う間に通り過ぎてしまいます。結局和議は上手く続かず、翌年の正
 
月に義仲は頼朝から送られた義経の軍勢に敗れて討ち死にします(栗津の戦い)。そしてその年の春、頼朝は
 
将来に禍根を残さぬ様に、義高を殺害する事を決定しました。当然、政子は猛反対しますが、頼朝の心は変わり
 
ません。しかしさすがに、大姫の目の前で殺害を実行する訳にも行かず、鶴岡八幡宮参拝を名目に大姫を連れ
 
出し、留守の間に事を済まそうと計画。その事を侍女から聞いた大姫は、母・政子に助けを求めます。政子も身
 
内には情の深い女性です。愛娘が心から慕う義高をむざむざ殺させる訳もありません。政子は一計を案じ、明
 
け方に義高を女装させ、侍女たちに取り囲ませて邸内から出し、ひづめに綿を巻いた馬を用意して鎌倉を脱出さ
 
せました。義高と共に鎌倉に来た側近であり親友の海野幸氏が義高の身代わりになって寝床に入ったり、いつ
 
も義高が双六遊びをする場所で双六を打って、義高が邸内にいる様に見せかけたりと、必死の隠蔽工作をしま
 
すが、そんな事でいつまでも誤魔化せる筈も無く、夜になって義高逃亡が露見してしまいます。怒った頼朝はす
 
ぐさま追っ手を差し向け、藤内光澄が入間河原で義高を補足し、討ち取ってしまいました。
 
 
最初、義高の死は大姫には隠されましたが、真相を知った大姫は泣き崩れ、病に伏し、笑顔を見せる事も無くな
 
ってしまいました。大姫はこの時、病を理由に水断ちをして、頼朝に抗議の意をあらわした様です。
 
政子の強い嘆願により、頼朝は義高を討ち取った藤内を晒し首にしますが、そもそもそれを命じたのは頼朝自身
 
なので、なんの解決にもなりませんでした。頼朝と政子は大姫を回復させる為にありとあらゆる手段を講じます。
 
しかし、大姫の心は凍ったままでした。ある時は、鎌倉に捕えられていた義経の愛妾・静御前が大姫の前で舞
 
い、お話をしたそうです。その時、大姫は「父は鬼だ」とつぶやいたとか…。
 
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 (←)風雲児・義経の愛した舞姫・静御前。
この人も、悲愛の人でした。静御前が鎌倉を去る時、政子と大姫は沢山の重宝を持たせたと云われております。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(↓)鶴岡八幡宮の舞殿。静御前も大姫の為に、ここで舞ったと伝えられます。
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(↓)義高の死に触れ、悲しみに伏す大姫。
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義高への想いが消えるどころかますます強くなっていく大姫
 
は病に伏す毎日が続きます。義高の追悼供養や加持祈祷
 
もなんの効果もありませんでした。大姫は成長するにしたが
 
って美しくなっていきますが、それはまるで魂の無い人形の
 
ような美しさでした。頼朝が縁談を進めようとした事もありまし
 
たが、大姫は「そんな事をしたら淵に身を投げる」と、頑とし
 
て受け付けません。頼朝は娘の身を案じてか、それとも政略
 
か、大姫を入内させようと熱心に工作しますが、その最中、
 
大姫は恋焦がれた義高の下へ旅立っていきました。建久9(1197)年、大姫はその時、20歳でした…。
 


 
北条・三浦・梶原はじめ多くの御家人達が彼女の死を悼み、この地蔵堂の建つ谷に野辺送りしたそうです。
 
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お堂の扉の隙間から、大姫の地蔵菩薩を拝む事ができました。
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大姫は、義高を想いながら、この仏様を毎日毎日拝んでいたのでしょうか。
 
大姫が義高と再会できるのは、自らが死を迎えた時だけ。その時を待ち焦がれながら仏様を拝んでいたとすれ
 
ば、こんなに哀れな事はありません。
 
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大姫の霊が、父・頼朝に祟りを為したとの話もありますが、あまり同意したくない話です。
 
出来る事なら常世で義高と仲睦まじく暮らしたと思いたい。
 
 
−鎌倉に伝わる、悲しい姫のお話でした。
 
(史実かどうかは別として…。)
 


 
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ここのところ江姫が人気を集めておりますが、今回は鎌倉時代のお姫様にまつわる場所です。
 
 
妙本寺は鎌倉の大町、比企谷(ひきがやつ)の地にあり、そこには「蛇苦止堂」と呼ばれるお堂があります。
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妙本寺は比企能員の屋敷跡に建つ日蓮宗のお寺で、蛇苦止堂は能員の娘、若狭局を祀っております。
 
酔石亭主さんのおススメにより、行って参りました。 【地図】
 


 
鎌倉幕府の有力御家人であった比企氏。当主の能員は頼朝の乳母であった比企尼の養子となり、比企氏を継
 
ぎました。能員は頼朝の信頼篤く、妻は頼朝の長男頼家の乳母として仕え、娘の若狭局は二代将軍となった頼
 
家の側室になり、一幡を生みます。実家である北条氏のライバルだった比企氏の姫を側室に迎える事に対して
 
は母・政子は穏やかな気分ではなかった筈ですが、頼家は若狭局にぞっこんで、次第に北条とは疎遠になって
 
いった様です。
 
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(←)伊豆・修善寺の「頼家祭り」の頼家・一幡・若狭局。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
頼朝の死後、将軍外戚として権勢を誇った比企氏。しかし、建仁3(1203)年に頼家が病で倒れ危篤状態となる
 
と、後継者問題から北条氏との対立が深まっていきます。比企氏は一幡を後継者に据えようとし、北条氏は政子
 
と共謀し、千幡(頼家の弟で、後の三代将軍・実朝)を擁立して実権を握ろうとしたのです。そこで、北条時政と政
 
子は、頼家に無断で全国の地頭職を一幡と千幡に二分してしまいます。若狭局の介抱の甲斐もあって危篤から
 
脱した頼家は、能員からその話しを聞かされ、家督は惣領が継ぐものであると激怒し、能員と共に北条討伐を画
 
策します。しかしその謀議を障子の陰で聞いていた政子はすかさず北条側に使者を遣わします。知らせを聞い
 
た時政は、頼家病気平癒の祈願に薬師如来の供養をすると言って自邸に能員を呼び込み、暗殺。
 
同時に軍勢を比企の館に差し向け、一気呵成に攻め込みます。比企一族は比谷に篭って北条勢と戦うも破れ、
 
ここに滅亡しました。世に言う「比企の乱(比企能員の変)」です。
 
若狭局は、この戦いの中、家宝と共に井戸に身を投げ自害したと伝えられています。
 
 
(↓)若狭局が身を投げたとされる「蛇形の井戸」。
今でも、蛇に姿を変えた若狭局が宝を守っていると言われています。
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(↓)井戸に掲げられた曼荼羅。
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吾妻鏡には、文応元(1260)年、七代執権・北条政村の娘が若狭局の霊に祟られ、まるで蛇の様な狂態をみせ
 
たとあります。若狭局は、死後60年を経てもなお北条に祟る強力な怨霊となったのです。
 
これは鶴岡八幡宮の隆弁による加持祈祷によって快復し、のちに政村は、比企の邸跡に若狭局を祀る社を建立
 
したとされます。それがこの蛇苦止堂なのです。
 
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(↓)お堂の中。
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妙本寺は、辛うじて命を存えた能本(能員の末子。比企の乱当時はまだ2歳だった)が、一族の霊を慰める為に
 
お堂を建てたのが始まりとされています。
 
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(↓)妙本寺境内の比企一族の墓所。
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(↓)一幡の袖塚。比企の乱後、焼け跡から焼けこげた小袖の一片が見つかりました。小袖には頼朝や頼家が好んだ菊の文様が残っていたことから、頼家の子・一幡が着ていたものと判り、ここに祀られたそうです。
一幡は当時まだ6歳でした…。
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比企氏滅亡後、愛する妻子を殺された頼家は激怒し、和田義盛に北条征伐を命じますが、逆にそれを北条時政
 
に通じられてしまいます。時政は遂に頼家殺害の意思を固めますが、政子の助命嘆願に一命は助けられます。
 
しかし出家を強制され、将軍職を追われて伊豆・修善寺に幽閉。そしてその翌年、北条の手の者に暗殺されてし
 
まいます。(吾妻鏡では病死となっていますが…。)政子の庇い立ても限界があったのです。
 
政子としては、可愛いわが子を自分と北条から遠ざけた比企一族と若狭局は憎き相手だったかもしれません
 
が、それを滅ぼしたが為に我が子まで殺害される羽目になるとは思わなかったのでしょう。皮肉なものです。
 
こうして北条の三代将軍の座は実朝のものとなりますが、その実朝も頼家の子・公暁に暗殺されたのはご存知
 
の通り。因果応報と言う事でしょうか…。
 


 
−と言う訳で、ここ、蛇苦止堂には、歴史に翻弄された父母子の悲しい魂が封印されていたのでした…。
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最近の記事を読み返すと、鎌倉鎌倉ばっかりですね〜。
 
皆様も飽きているのではないかと思いつつ、個人的にハマってしまっているので、已む無く続けさせて頂きます。
 


 
さて、「和田塚」から江ノ電を越えて、由比ガ浜商店街の方へ歩く取材班。
 
江ノ電の線路を歩くオバチャンの姿も鎌倉ならではの風景ですなぁ…。
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(↓)ここも、由比ガ浜あたりの名所のひとつでしょうか。
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昭和2年に建てられた、旧鎌倉銀行由比ヶ浜出張所跡です。
 
今は、レトロでお洒落なバー「THE BANK」になっております。
 
銀行時代から残る大理石のカウンターなど、内装も必見…なのですが、昼間なので閉まっております。
 
鎌倉に行かれた時は、是非寄って一杯やって下さい。
 


 
さて、由比ガ浜の商店街にはこんな(↓)マスコット・キャラがいます。―かわいいお地蔵さん…。 
 
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そのモデルになったのがこの、「六地蔵」です。
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マスコットになるくらいだけあって、ご本人(?)達もかわいらしいのですが…。
 
背後に建つ碑文を読むと…。
 
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此処は 昔時の刑場なり 後 里人六地蔵を祀り 又供
 
養塔芭蕉句碑を建つ 今石柵を繞(めぐ)らして此を整
 
理す
 
―とあります。
 
つまり、この地は鎌倉時代には、刑場だったのです。
 
現在の御成小学校付近にあった幕府の「評定所」(裁判所)
 
で死刑判決を受けた罪人は「裁許橋」を渡ってここまで引き
 
出され、処刑されたのだそうです。
 
刑場は飢餓畠(けかちばたけ)と呼ばれる荒地であり、刑死
 
した者の霊を慰める為に「六地蔵」を祀ったとされます。
 
 
結構怖いバックグランドをかかえるお地蔵さんだったんですね…。
 
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鎌倉の刑場と言えば、江ノ島口にある「龍ノ口」が、日蓮の起こした奇跡で有名ですが、今は観光客で賑わい
 
洒落たお店が立ち並ぶここ由比ガ浜にも、そんな歴史があったのです。 【地図】
 


 
せっかく天気が良いので、由比ガ浜に出てみました。すでにコートが要らないほどに気温があがっております。
 
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波がいいので、大勢のサーファーさんが海に出ておりました。
 
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鎌倉の魅力の一つは、歴史と海のコントラストです。
 
土地には血塗られた歴史が染み付いていても、一方が太平洋にむけて開け放たれているので、怨念も何も
 
全て海に解き放たれて、あまり空気が澱んでいない様な気がします。
 
鎌倉の「怨霊スポット」を回って見ても、どことなくあっさりしてる様に感じられるのは、そのせいでしょうか…?
 
 
 
―と言う訳で、まだまだしばらく「鎌倉怨霊巡り」に飽きそうはありません…。
 


 
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 江ノ電の駅名にもなっている「和田塚」。
 
「鎧武者の幽霊が出る」等との噂もあり、一部では「心霊スポット」として知られております。
 
今日は予報では気温が下がるとなっておりましたが、なになに、お天気が良くポカポカ陽気になりましたので、ち
 
ょっといって参りました。
 

 
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(←)江ノ電「和田塚駅」。いつ乗っても江ノ電には風情
 
があります。最近良くみかけるこの青いレトロ風も悪く
 
はないですが、やっぱり江ノ電と言えば…
 
 
 
 
 
 
 
 
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この、緑とクリームですね〜。
 
江ノ電を見ると、海沿いで良く遊んでいた学生時代を
 
思い出して、少々センチメンタルになってしまう私。
 
 
 
 
 
 
 
 
そんな事はどうでもいいとして、早速和田塚へ向かいます。
 
「向かいます」と言っても、駅のすぐそば、住宅街の一角に和田塚はあります。
 
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和田塚…ここは、鎌倉時代の有力御家人である和田一族の戦没地だと言われております。
 
実はここ、鎌倉に残る唯一の高塚式古墳で、土器や埴輪も出土しているそうです。
 
明治の中ごろまでは「無常堂塚」と呼ばれておりました。
 
 
明治25(1892)年、道路建設の為に塚の一部を掘り返したところ、おびただしい数の人骨が出土。
 
その人骨は「和田合戦」のものだろうと推測され、この地に「和田一族戦没地」の石碑が建てられました。
 
以降、この塚は「和田塚」と呼ばれるようになったそうです。
 
 
(↓)「和田一族戦没地」の碑。背面には「明治四十二年九月二十五日竣工」とありました。
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(↓)横に並ぶ「和田義盛一族墓」。背面には「明治三十四年二月十八日」とあります。
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(↓)石碑の背後には、多くの石塔がやや乱雑に並んでおります。和田一族の供養塔でしょうか…?
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(↓)無残に破壊されたお地蔵さん。
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破壊された石碑…。
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和田義盛と言えば三浦氏の一族で、本家と並ぶ鎌倉の有力御家人でした。
 
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(←)和田義盛
 
 
 
 
 
 
北条氏の独裁政権を狙う北条義時にとって、和田氏と三浦氏の抹殺は宿願です。
 
そこで、北条義時は、策を弄して和田義盛を挑発します。
 
 
建暦3(1213)年、北条に対する叛逆未遂事件に加わったとして、義盛の二人の息子と甥の胤長が北条方に捕ら
 
えられます。義盛の懇願により息子達は赦免されたましたが、胤長は叛逆の首謀者とされ、一族の面前で縛ら
 
れたまま引き回されると言う屈辱を味わわされた末に、陸奥国に流されました。
 
胤長配流の数日後、胤長の屋敷跡は和田氏に返還される筈のところが、突然義時が拝領し、義盛の代官は屋
 
敷から追い出されてしまうと言う事件がありました。
 
度重なる屈辱に怒りを募らせた義盛は、同年5月2日に義時討伐の兵を挙げます。
 
義盛は、まんまと義時の挑発に乗ってしまったのです。
 
 
当初は同族の三浦義村.胤義親子も共に挙兵する約束でしたが、土壇場で裏切って、「和田に謀反の企てあり」
 
と北条に訴えます。義盛は戦力不足のまま戦いに突入し、軍兵150騎で幕府を攻撃します。当初、義盛軍は北
 
条勢を圧倒し、幕府の建物を全焼された将軍・源実朝と義時は法華堂へ追いやられる程でした。
 
しかし翌日には幕府軍の軍勢は立て直され、形勢が逆転。義盛軍は奮戦するも、各地からの増援を得た幕府軍
 
は次々と新手を繰り出し、義盛軍は徐々に衰退していきます。四男・義直が討たれると義盛は戦意を失い、
 
「今は戦う甲斐もなし」と声をあげて男泣きしたそうです。そして、江戸能範の兵に討たれました。義盛67才。
 
その和田一族最期の地といわれるのが、ここ、和田塚なのです…。
 

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―と、言う事で、鎧武者の霊が一人や二人うろついていてもおかしくない場所ではあります。
 
近年の発掘調査でも、やはり大量の人骨がでたそうですし。
 
ただし、鎌倉時代では海岸近くは埋葬地(埋葬と言うか、当時死体は野に放置されるのが普通だったらしいで
 
す…。)だったと言う事が明らかになっており、何処を掘っても人骨が出るのはとっくに承知の為、そんな事でい
 
ちいち騒ぐ鎌倉市民はおりませんが。
 

 
さて、せっかくなので、この近くにある「スポット」をもう一つ見ていきましょう…(続く)。
 
 
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さて、頼朝公の墓所から次なる「スポット」へ向かう取材班。
 
鎌倉のシンボル・鶴岡八幡宮を突っ切ります。
 
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さすがと言おうか、平日だと言うのに広い境内は大勢の参拝客で賑わっております。
 
しかし、今日はスルーして、北鎌倉へ抜ける道を経て、八幡様の裏手へ…。
 
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観光客など誰も入って来ない細い道を歩いていくと、
 
どん突きに赤い鳥居が見えてきました。
 
あそこが本日2つ目の突撃スポットである…
 
 
 
 
 
 
 
 
 
今宮」、別名「新宮」です。 【地図】
 
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頼朝公の墓所 の記事で書いた、「幕府が後鳥羽上皇の怨霊を畏れて宝治元(1247)年に建立した御霊の社」
 
と言うのがここなのです。
 
祭神は、後鳥羽・順徳・土御門の三上皇。
 
(土御門上皇は明治になってから合祀されたそうですが。)
 


 
承久3(1221)年、鎌倉三代将軍実朝暗殺の報に触れ、討幕の兵を挙げた後鳥羽上皇でしたが、計画は失敗。
 
世に言う承久の乱です。
 
幕府はこの戦いに勝利により、朝廷に対する優位性を決定的にし、それまで影響力が及ばなかった西国にまで
 
支配権を確立していき、幕府と朝廷の二元統治に終止符を打ったのでした。(と、昔に習いました。)
 
 
執権北条義時追討の院宣が発せられた時には、鎌倉の御家人達はまさか朝廷相手に戦う事など夢にも思って
 
おらずに大いに動揺しました。自分達が朝敵となってしまったのですから、ビビるのも無理もありません。
 
しかし、それを見事に収め、御家人を対朝廷戦に奮い立たせた”尼将軍”北条政子の涙の演説は今でも語り草
 
となっております。この場合、朝廷の権威よりも”尼将軍”のカリスマ性の方が勝っていたのです。(亡き頼朝の
 
恩は山より高く、海より深い!!従わぬなら、この老尼を斬り捨ててから京に与せよ!!―って奴です。日本史上トップ
 
10に入るいいシーンだよなあ。)同時に幕府は「天皇御謀反」と訳の判らない主張をして、戦いに臨みました。
 
(「謀反」とは目上に叛逆する事なので、こんな言葉は本来は有り得ません。)
 
何はともあれ紆余曲折ありながらも、鬨の声をあげて鎌倉幕府軍は京を目指して進軍するのでした。
 
 
百戦錬磨の御家人軍団に敵うはずもない上皇軍はなすすべなく壊滅遁走。
 
後鳥羽上皇は院宣を無視して突っ込んでくる鎌倉武士団に驚愕したのではないでしょうか。
 
一敗地にまみれた首謀者である後鳥羽上皇は隠岐へ、後鳥羽の息子である順徳上皇は父親以上に討幕に積
 
極的だった為に佐渡へ配流となりました。殆ど実権が無く、討幕に反対していた土御門上皇は罪には問われま
 
せんでしたが、自ら望んで土佐国に流されました。
 
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(←)後鳥羽上皇像
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
後鳥羽上皇は隠岐で延応元(1239)に亡くなりますが、その2年前に書いた遺言には「自分が死んだら、この
 
世に祟りをなしかねない」と言う様な事が記されていました(後鳥羽院置文之案文)。また、死の13日前に書かれ
 
た「後鳥羽上皇手印置文」には、後鳥羽上皇の両手形が、血の様に真っ赤な朱肉で押されていたそうです。
 


 
後鳥羽上皇が亡くなってからと言うもの、鎌倉では幕府の要人や承久の乱で功績のあった者が次々と変死を遂
 
げていきました。延応元年12月には三浦義村が、明けて仁治元(1240)年1月には北条時房が相次いで急死。
 
仁治3(1242)年6月には三代執権・北条泰時が赤痢に罹って死亡(狂死とも)。
 
三者とも京へ攻め上って上皇の軍勢を打ち破った者ばかりです。三浦義村は上皇の近臣だった弟から決起を
 
促されるや、すぐに幕府に通報したと言う功績もあり、時房は承久の乱での幕府軍総大将。泰時は、上皇らが配
 
流された7月と同じ時期に亡くなったため、ここに来て人々は「天魔蜂起」と噂し、「後鳥羽上皇らの祟りではない
 
か」と畏れる様になりました。
 
そして、前の記事の通り、宝治元(1248)年には様々な怪異が鎌倉を襲いました。
 
そこで、後鳥羽上皇らの怨霊を鎮める為に建立されたのが、イメージ 6今宮なのです。
 
 
 
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当時は、呪いや祟りや怨霊などがごく当たり前に信じられていた時代。
 
後鳥羽上皇も、実朝の生前に「官打ち」と言う呪いをかけていたと言われております。
 
「官打ち」とは、分不相応な官位をどんどん授けて、その重みに耐えられなくなった相手が身を滅ぼすと言う、宮
 
中に古くから伝わる呪術法で、これによって実朝は頼朝よりも高い位(右大臣正二位)まで上り詰めました。
 
(博識な大江広元が実朝に「官打ち」をかけられていると警告しましたが、当の本人は耳を貸さなかったとか。)
 
実朝が公暁に暗殺されたのはこの呪いが成就したのだ!!―と後鳥羽上皇は喜んで、勢い余って討幕に討って出
 
たのかもしれません。
 

 
さて、現在の今宮です。お宮のすぐそばまで住宅地が来ているのですが、境内に人の気配はありません。
 
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ただ、小さなお社が佇むのみ…。そんなに古い建物ではないので、近く建て直されたのでしょう。
 
重要文化財の標記もありますが、殆ど何の案内板もない。あんまり来て欲しくない感ありありです。
 
―しかし、旧い怨霊を封じる場所と言うのはどこもかしこも何故こんなにも静寂なのでしょうか。
 
何だか、ここにいる事が申し訳なくなって来る様な、そんな感じです。
  
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今宮の縁起・由来は「吾妻鏡」「新編相模國風土記稿」「新編鎌倉志」によります。後鳥羽天皇の御霊を宥めるた
 
めに鶴岡の乾の山麓に日夾一宇の御社を建立したと。また社の後には、根1つから6本に分かれた大杉があり、
 
此に天狗が住んでいたという言い伝えもあります(私が見たところ、そんな杉は見当たりませんでしたが。)

「鎮座日を旧暦から新暦に推歩し6月7日を例祭日として、年に一度の例祭は厳かに執り行われています。」
 
と、鶴岡八幡宮のHPにはあります。今宮は鶴岡八幡宮の末社なのです。
 
 
憎き北条もとっくの昔に滅びており、後鳥羽上皇も今は安らかにお休みであれば良いのですが…。
 

 
帰り道、巨福呂坂や八幡様で秋の終わりの鎌倉を満喫して、取材班は帰路につきました。
 
色々見れて、いい一日でした。
 
(↓)巨福呂坂
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(↓)鶴岡八幡宮境内
イメージ 13

イメージ 11
 
 
 
 
 
(↑)鎌倉フリークと化しつつある私TO。
 
 
 
 
 
 

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