鎌倉怨霊散歩

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鎌倉にハマってきたので、「心霊スポットの旅」から分離独立しました!!
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さて、今日はお休みで、しかも朝からのポカポカ陽気に誘われて、行ってきました 鎌倉散策 「スポット突撃」!!
 
今日はまず、鎌倉と言えばこの人!!ミスター鎌倉・源頼朝公の墓所に向かいました。
 


 
源頼朝に関しては、今更説明するまでもないですね。鎌倉に幕府を開き、以後大政奉還まで680年も続く武家政
 
権の始まりを成した人です。ちなみに鎌倉幕府成立の年ですが、私は「いいくにつくろう鎌倉幕府(1192年・頼朝
 
が征夷大将軍になった年)」と習いましたが、最近は違う様で、1185年(朝廷から全国統治を許された年)とする
 
教科書が多いそうです。今の子供たちはどう語呂合わせしているのでしょうか?「いいやごろごろしてよう鎌倉幕
 
府」?
 
―そんな事はどうでも良くて、金沢街道沿いのコインパーキングに車を入れ、現地に向かう取材班。
 
晩秋の鎌倉は、平日とは言え観光客の姿も多い。
 
金沢街道から閑静な住宅地に入ると、清泉小学校の角に、「大蔵幕府跡」の碑がありました。
 
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治承4(1180)年10月、源頼朝はこの地に建てた屋敷に入り、
 
侍所、公文所 (のちの政所) 、問注所などの「政府機関」を設
 
置。ここは頼朝屋敷・大倉(大蔵)幕府と呼ばれ、鎌倉武家政
 
権の中心地となりました。現在の清泉女学院周辺200m四方
 
が大蔵幕府だったそうです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
頼朝公の墓は、この先にあります。 【地図】
 
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いやあ、ホントに暖かく、歩いていると汗ばみそうな程。
 
空は真っ青、紅葉は綺麗だし、最高のお日和です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
程なく現地に到着した取材班。
 
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(↓)墓所入り口に建つ白旗神社。頼朝公が主祭神です。
 
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ここは大蔵幕府の北端にあたり、頼朝公の持仏堂(身近に置いて信仰し礼拝する仏像を安置しておく建物)があ
 
った場所です。建久10(1199)年に頼朝公が死去すると、ここに葬られて法華堂と呼ばれました。
 
法華堂はその後廃れますが(後述)、明治維新後にこの白旗神社が建立されたそうです。
 
 
石段を登っていくと、頼朝公の墓所がありました。森の中の広々とした空間にポツリと建っております。
 
日本史上の大人物の墓としては小ぶりでシンプル。質素を旨とした鎌倉武士らしさが出ております。
 
ちなみに、この墓は、頼朝公の子孫とされる薩摩藩主・島津重豪が安永8(1779)年に建てたものです。
 
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さて、この頼朝公の墓所には、悲惨な歴史の舞台と言う、もう一つの顔があります。
 
ここは、鎌倉幕府の有力御家人である三浦氏が滅亡した場所でもあるのです。
 
 
鎌倉幕府の歴史は、独裁を目論む北条氏とそれに反発する有力御家人の争いの歴史でもありました。
 
梶原・和田・比企・畠山各氏など、鎌倉開幕以来の有力御家人の排除に成功してきた北条氏ですが、5代執権
 
北条時頼の頃、いまだ健在かつ繁栄していたのが三浦氏。幕府の中でも北条氏に次ぐ強大な権力を保持してお
 
りました。両氏は縁戚関係を維持しながらも、常に緊張関係にあったのです。
 
 
宝治元(1247)年になると、鎌倉に不吉な事象が多発する様になりました。1月29日には羽蟻の大群が鎌倉を覆
 
い、翌30日には北条時盛館上空を「光る物体」が飛びました。3月になると怪異はさらに頻繁に出現し、11日には
 
由比ヶ浜の潮が赤く血のように染まり、12日には「大流星が東北より西南に流れ、16日深夜には、敵襲の報に触
 
れた軍勢が出陣し騒然となるも、誤報と判明。17日には鎌倉中に黄色の蝶が乱れ飛び、4月になると「津軽の海
 
辺に人間の死体のような大魚が漂着した」と噂が流れました。黄色の蝶や人型の大魚についてはそれぞれ「戦
 
乱」の予兆とされ、鎌倉には異常な緊迫感が漂い始めました。次の「戦乱」とは、北条対三浦である事は考える
 
までもなく、両者の緊張も日増しに高まって行きました。4月25日に日暈(ひがさ=太陽の周りに光の輪が出来る
 
光学現象)が現れ、これも戦乱の予兆とされました。幕府は数々の怪異現象は後鳥羽上皇の怨霊の仕業とし
 
て、鶴岡八幡宮の裏山に御霊の社を建てました。
 
 
そんな中、25年振りに高野山から帰参した安達景盛(時頼の母方の祖父)は、時頼に三浦氏排斥を進言し、
 
三浦氏当主・三浦秦村に対する挑発行為を仕掛けます。5月には鶴岡八幡宮に「横暴な三浦秦村を討つべし」と
 
立て札が掲げられ、「三浦氏が謀反を画策している」との流言が飛び交いました。
 
それまで北条氏との協調路線をとってきて、謀反の気などさらさら無かった秦村は困惑するばかり。
 
また時頼も三浦氏を滅ぼすまでの考えは無かった様です。
 
 
しかし、三浦氏に対し異常なライバル心を燃やす安達景盛は事態をヒートアップさせます。一説によると、安達よ
 
りも上位に見られている三浦氏に嫉妬していたとか、北条と三浦が仲良くなると安達の出番が無くなる事を危惧
 
したと言われております。さらに、秦村の弟で対北条強硬派の光村も北条に対する反抗心を隠そうとしません。
 
事態は悪化の一途を辿るばかり。
 
 
鎌倉に両氏の軍勢が終結し、緊張が最高度に達する中でも、時頼と秦村は合戦を回避しようと尽力しました。
 
お互いに使者と書簡を取り交わし、時頼は三浦氏を滅ぼす意図は無い事、秦村は謀反の気は無く忠誠を誓う事
 
を伝え合い、そして最後には三浦側の武装解除を条件に和平の儀が取り結ばれました。
 
喜び安堵した秦村は、集結した一族郎党を解散させ、誰もが鎌倉が戦乱から救われたと思ったその時…。
 
 
ここを逃しては三浦氏討伐の機会が失われると、安達景盛は一族に三浦秦村の館を急襲させました。
 
再び鎌倉に両派の御家人が集結。 秦村と時頼の努力の甲斐なく、合戦が始まってしまったのです。
 
時頼も已む無く三浦氏討伐を下命。内心、忸怩たる思い(深く恥じ入る気持ち)だった事でしょう。
 
不意打ちを喰らった秦村・光村兄弟は其々館と永福寺に立て篭もって善戦しますが、館に火を放たれ焼け出さ
 
れるに及んで、秦村は頼朝公の眠る法華堂に向かいました。徹底抗戦を訴える光村を法華堂に呼寄せた秦村
 
は、「兄弟揃って頼朝公の御前で死のう」と諭しました。
 
この場を凌いでも北条側の三浦討伐の意思は変わらぬだろうし、今自分達が自刃すれば過去の功績によって
 
累代は守られると判断したのです。
 
悔しさのあまり自分の顔を切り刻む光村に対し、その血で頼朝公の御影が穢れると諌める秦村。最後まで穏便
 
だった秦村は、「讒言でこの様な事態に陥った恨みと悲しみは深いが、冥土に行く身でもはや北条殿に恨みは
 
無い」と言い残し、妻子一族郎党500人と共に自刃して果てました。
 
 
これが世に言う「宝治合戦(宝治の乱)」です。
 
勢いに乗った北条側は、もう一つの有力御家人である千葉氏も打ち滅ぼし、ここに北条の独裁政権が確立した
 
のです。
 
(秦村の名誉の為に付け加えると、秦村は穏健なばかりではなく、武勇でも名を馳せており、承久の乱でも数々
 
の戦功を残しております。特に弓の名手だったとか…。)
 
 
頼朝公の墓より法華堂跡を見下ろす…。兵どもが夢のあと…ですか。
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頼朝公の墓所のすぐ近くに、三浦一族のやぐら(鎌倉時代の横穴式墳墓兼慰霊所)が残されております。
 
墓所入り口から八幡宮と反対方向へほんの2〜30m行くと、特に何の案内板も無い灯篭が並んでおります。
 
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頼朝の重臣・大江広元らのやぐらへ向かう参道入り口
 
なのですが、その間を行くと…、殆ど何の整備もされ
 
ていない空虚な土地が広がっておりました。
 
ちょっと、夜は来れない雰囲気です。
 
さらにその先に行くと…。
 
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質素な鳥居が見えてきます。訪れる人影も無く、ここはもう観光地・鎌倉ではありません。
 
鳥居の脇にぽっかりと黒い口をあけるやぐらがありました。ここにも何の案内板もありません。
 
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三浦一族のやぐらです…。何か、背筋が寒くなるような、それでいて静謐な空気が流れ出てきている様な…。
 
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合掌。
 
 
さて、三浦一族のやぐらから鳥居をくぐって石段を上がります。最近よく石段を上がったり下がったりします。
 
足腰が強くなってきた様な気がします。
 
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石段の上には、大江広元・毛利季光・島津忠久の墓といわれる3つのやぐらがあります。
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大江広元は頼朝の信頼厚かった鎌倉幕府初期の功労者。有名なので解説は省略。
 
毛利季光は、大江広元の息子で、相模国毛利荘(現在の厚木周辺)を領していたので毛利姓を名乗りました。
 
毛利と言えば…そう、戦国時代の中国地方の覇者・毛利元就を輩出した毛利家のご先祖様です。
 
この方、娘が時頼に嫁いでいて、自分の妻は秦村の妹。宝治の合戦は義理の息子と義理の兄の戦いと言う事
 
になり、板ばさみになって悩んだ様です。最初は北条方に付こうとしたのですが、嫁に「兄を捨て、執権に味方す
 
るとはそれが武士のすることですか!!」と諌められて、「そりゃそうだ」と変心して三浦に味方し、秦村らと共に法華
 
堂で戦場の露と消えました。この時、越後国にいた季光の四男・経光の血筋が残り、その子孫が安芸国に移っ
 
て、後の毛利家へと繋がっていったそうです。
 
 
島津忠久は、母が源頼朝の乳母の娘とあって、頼朝の信頼も厚く、薩摩・大隈・日向の守護職となりました。
 
九州・薩摩の島津氏の祖となる人です。一説によると、頼朝の御落胤だとか…。そんな縁があって、頼朝公の墓
 
所を江戸時代の薩摩藩主が建てる事になったのですね。
 
 
しかし、時代を遠く離れて武家政権を崩壊させ明治維新の大きな力となった薩摩・長州の祖が共に頼朝公の
 
縁者であり、武家政権の始まった地に墓を並べているのは歴史の皮肉なのでしょうか…。
 
 
まあ、島津忠久の墓は頼朝公の墓を整備する際に造られ、大江広元の墓と毛利季光の墓は江戸幕末期の
 
文政6(1823)年に長州藩家老村田清風(藩革新派のドンで、吉田松陰らを育てた人物)が整備したものですか
 
ら、それぞれの根拠はかなり怪しいらしいですが。


 
―と言う訳で、本日の第一スポットを後にする取材班。
 
折角の好天なので、もう一箇所行って見る事にしました。
 
蛇足ですが、頼朝公の墓所や三浦一族のやぐらにお化けが出るとの噂も聞きませんので番外編と致しました。
 
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(↑)「宝治の合戦」は時頼が景盛と共謀して画策したと言う見方もありますが、私は時頼が嫌いじゃないので、
ちょっと「いいもん」風の解釈を採りました。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ここの所、「心スポ」記事が多いです。
 
季節が良いので、お散歩がてらに「心スポ」を廻るのにハマっているのです。
 
全く、妙な趣味です。
 


 
さて、鎌倉の「心霊スポット」として有名なものの一つに「泣塔」がございます。
 
刻まれた銘から、文和5(1356)年に建てられたとされる、宝篋印塔(墓塔・供養塔などに使われる仏塔)です。
 
鎌倉市指定有形文化財に指定されている史跡です。
 
由緒は不明ですが、この地は新田義貞の鎌倉攻めの際、最初の激戦地となった州崎古戦場である事から、
 
戦死者の慰霊碑であると言う説があります。また、州崎の戦いに敗れて配下90名と共に自刃した鎌倉幕府第16
 
代にして最後の執権・北条(赤橋)守時の供養塔とも言われています。
 
別名「陣出の泣き塔」とも呼ばれ、鎌倉七不思議の一つにも数えられております。
 
泣塔にまつわる怪奇現象は古くから様々伝えられております。
 
 
昔、この石塔を近くの寺に移した折、石塔が住職の夢枕に立って元の場所に戻してくれと泣いて頼んだ。
 
(石塔が夜な夜なすすり泣いた…とも。)
 
それからこの石塔は「泣塔」と呼ばれる様になったとされています。
 
また、泣塔のある土地を買ったものは必ず没落した為、土地の買い手がつかなくなった…とか、やはり夜な夜な
 
男女のすすり泣く声がする…塔を動かそうとすると必ず怪我人や死者がでる…などとも云われています。
 
戦時中の昭和17(1942)年、海軍がこの地に工場造営を開始したのですが、泣塔を動かそうとした者が次々と不
 
審死し、工事現場では度々怪奇現象が起こったそうです。祟りを恐れた地元住民の要望もあり、泣塔周辺は造
 
営区域から外されたと言う事実もあります。
 
その後も幽霊が出る、祟りに遭うなどの噂が流布し、周辺の開発が遅れるほどの影響も出たそうです。
 
海軍さえも畏れさせ、開発をも阻む泣塔。なかなかパワフルな「心霊スポット」です。
 
今日は天気がよくありませんが、行ってきました。
 


 
泣塔は鎌倉の梶原にあります。湘南モノレールの湘南深沢駅から歩いて10分もかからないでしょう。 【地図】
 
以前はJR大船工場の敷地内で、拝観にはJR東日本の許可を取らなければいけなかったのですが、2006年に
 
工場が閉鎖され、泣塔周辺は鎌倉市が買収しています。
 
 
さて、そぼ降る冷たい雨の中、現地に到着した取材班。
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現地は、広大な工場跡地が多目的公園となっていまし
た。右手奥のこんもりとした森に泣塔があります。
 
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泣塔の森はそこだけ時間が止まったかの様に、周囲の景色から切り離されております。確かに、手を触れるのを畏れられてきた事が判ります。
 
恐る恐るアプローチを開始する取材班。
 
 
 
 
 
 
 
 
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泣塔周辺は、ぐるりと一周フェンスで囲われておりました。唯一の通用口には南京錠がぶら下がっています。
 
入れません
 
「確か、今では誰でも入れるってどっかのサイトに書いてあったのに…。」予想外の展開に戸惑う取材班。
勝手に入れない様にするとは、よっぽどヤバイ場所なのか!?
 
 
仕方ないので、フェンス越しに取材を試みます。
 
木々の間から、見えました!! 泣塔が!!
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―間近でないので、いまひとつ迫力に欠けますが…。
 
そう言えば、鎌倉の友人によると、子供の頃に地元では「泣塔を見ると、1週間以内に幽霊が出る」と言われてい
 
て、心底ビビッていたそうです。とすると、私のところにも近いうちに幽霊がやって来るのでしょうか???
 
怖い様な、楽しみの様な…。
 
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泣塔の背後にやぐら(洞窟式のお墓)が見えます。このやぐらに反響する風の音がすすり泣きに聞こえるのでは
 
ないか…との合理的仮説もありますが、そんな事はどうでもよくなる空気が漂っております。昼間でも、結構コワ
 
イ…。入れなかった事を半ば感謝するヘタレ取材班。
 
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雨降る肌寒さと、だだっ広い広場で独りで泣塔と向かい合うストレスに負け、塔に向かって手を合わせた後に
 
そそくさと現地を立ち去る取材班でした。
 
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さて、車に戻って人心地ついた取材班は、ついでに、泣塔が移されて夜泣きした(赤ん坊みたいに言うなって)と
 
されるお寺に向かう事にしました。手広の交差点から西鎌倉に向かった右側にある青蓮寺と言うお寺さんです。
 
 
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正式には、飯盛山仁王院青蓮寺と号する真言宗のお
寺です。
 
弘仁10(819)年に、 弘法大師が東国を巡暦した際、鎌倉に滞在して17日間の護摩の秘法を修された時、美しい天女があらわれ護摩の助法や斎食の給仕をしたと。
お陰で大師は無事修法を終える事ができ、その事を聞かれた天女は一粒の仏舎利を大師に奉り、その姿は忽ちのうちに見えなくなり、翌朝眼を覚ますと、側の池には青色の美しい蓮華が咲きほこっていた。
 
この開山の縁起から青蓮寺の名がとられたそうです。
 
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(←)境内の池。伝説の青い蓮にちなんでか、青いのぼりが立っていました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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(←)青い不動明王。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
こちらのご本尊は鎌倉時代作の木造弘法大師坐像(国重要文化財)。この木像は両膝等の関節が鎖によって
 
結ばれ、動かすことのできる珍しい仏像で「鎖大師」と呼ばれています。秘仏で、年5回の開帳の時しか拝観はで
 
きません。ちなみに「青蓮寺の鎖大師」は、泣塔と共に鎌倉七不思議に並んでおります。
 
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今となっては、境内の何処に泣塔が置かれたのかは判りませんが、耳を澄ませば、泣塔のすすり泣きが聞こえ
 
てくる様な気がしました。
 
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おまけ。北条守時について。
イメージ 7(←)泣塔近くに建つ「州崎古戦場跡の碑」
 
元弘3(1333)年5月15 日〜16日に分倍河原で幕府軍を破った新田義貞の軍勢は、鎌倉目指してまっしぐらに進軍して来ました。北条守時は執権自ら6万余騎の大軍を率いて、巨福路坂から州崎で防衛ラインを構築します。州崎の戦いは熾烈を極め、日に65度も切り結ぶと言う凄まじさ。守時の軍勢は討たれ、逃げ出し、最期には僅か三百騎しか残っていませんでした。5月18日、矢折れ刀尽きた守時は、作法通り見事に腹を十字にかっさばいて、戦場の露と消えました。高時らが東勝寺で自刃し、鎌倉幕府が滅亡する4日前の事でした。
 
常識的に考えれば、執権たる者、不利となれば一時退却して軍を立て直すのが普通の様に思えるのですが、何故守時は州崎を死に場所に選んだのか。実は守時は、執権とは言え北条得宗家の血筋ではなく、実権は得宗の高時らが握っておりました。鎌倉を滅ぼした足利高氏(尊氏)は妹婿にあたり、高氏が幕府に反旗を翻して京都の六波羅探題を攻めた時には高時から謹慎を申し付けられています。
 
「太平記」では、高氏と通じているのではないかと嫌疑をかけられた守時が、それを振り払うために死を覚悟の上で州崎に出陣したとされています。守時の心中を察した義貞は、その振る舞いに涙しつつ、守時と戦ったそうです。守時は、鎌倉武士としての誇りを守る為に、この地で死んでいったのです…。
 


 
さて帰ってきてから、鎌倉市役所に問い合わせた所、泣塔を拝観する時は文化財課に申し出るとフェンス通用口
 
の鍵を貸して下さるとの事でした。(最初に調べておけば良かったです…。)
 
今度は鍵を借りて、泣塔に迫ってみたいと思います!!
 


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(←)だんだん鎌倉巡りから抜け出せなくなってきました。
 
杉本寺のすぐ近くに「鎌倉宮(かまくらぐう)」というお社があります。
 
縁結び・開運のご利益で有名です。
 
明治天皇の勅命により明治2年に創建され、天皇自ら命名された由緒正しき神社です。
 
ついでと言ってはなんですが、ちょっと寄ってみました。
 
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情緒溢れる閑静な住宅街をしばらく歩くと、もう鎌倉宮です。
 
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境内の木々も色づき始めていて、鎌倉宮が紅葉でも有名な事を思い出させてくれました。
 
境内の食堂の方に聞いたところ、11月下旬が見ごろとの事でしたので、その頃また鎌倉散策に来ましょうか…。
 
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鎌倉宮は「大塔宮」とも呼ばれ、大塔宮と言えば後醍醐天皇の第三皇子である護良親王(もりながしんのう、
 
または、もりよししんのう)の事。武芸を好む剛勇の人と伝えられています。
 
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(←)護良親王出陣図
 
護良親王は、比叡山の僧兵や高野山・熊野・吉野の野伏(山に寝起きする修行僧)、悪党を率いて鎌倉倒幕活動を行い、鎌倉幕府が倒れると自ら望んで征夷大将軍・兵部卿となりました。
建武体制下で、気性の激しい護良親王は足利尊氏らと対立します。後醍醐天皇は、尊氏の頭を抑えるために護良親王を征夷大将軍の位につかせて(鎮守府将軍の尊氏よりも上のポスト)武士の頭領としたので、武家政権の再興を目論む尊氏にとって護良親王は目の上のタンコブ、最大のライバルだったのです。
その後、尊氏らの讒言により謀反の罪を着せられた護良親王を後醍醐天皇も庇いきる事が出来ず、尊氏の勢力下にある鎌倉に配流。東光寺の土牢に幽閉された後、殺害されました。
 
 
 
 
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(←)京都大原三千院に伝わる、護良親王のものとさ
 
れる薙刀。ますます京都に行きたくなってくるTO。
 
 
 
 
 
 
 
 
 護良親王は死して怨霊と化し、様々な祟りを成したとされております。太平記では、長い嘴と羽を持つ天狗の姿
 
で現れる護良親王を見る事ができます。いわば、鎌倉における祟り神の代表格が護良親王なのです。
 
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鎌倉宮は護良親王が土牢に幽閉され、殺害された東光寺跡に造営され、その御霊を祀り鎮めております。
 
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(←)護良親王が9ヶ月もの間幽閉されていた
 
土牢。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
―ちなみに、食堂の「稲葉うどん」は絶品でした。(600円)
 


 
鎌倉宮から5分ほど歩いた所に、護良親王の墓所があります。
 
ここはもともと理智光寺と号するお寺の跡地(明治元年に廃寺)で、それを記す石碑が残っております。
 
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護良親王は建武2(1335)年、中先代の乱で鎌倉が陥落する
 
どさくさに紛れて、尊氏の弟・直義の命を受けた淵辺義博の手
 
によって殺されました。御歳28歳。
 
 
しかし、勇猛で鳴るお方が只黙って殺される訳もありません。
 
 
太平記の記述によると、護良親王は首を切ろうとする淵辺の刀
 
を口で強く咥え、遂にその刀は折れてしまったと。最後に淵辺
 
は脇差しで護良親王を仕留め、首を切り落としたものの、
 
その首と言ったら死してなお刀を噛み締め、目はあたかも生き
 
 
ているかの如く自分を睨みつけている。恐れをなした淵辺は、首を藪に捨ててしまったそうです。
 
何事も大げさな太平記の中ではありますが、かの将門公もかくやの死にっぷり。
 
祟らない訳がありません。
 
 
その捨て置かれた首を理智光寺の僧が回収して埋葬したのがここなのです。 
 
 
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墓所入り口に建つ石碑。現在、この墓所は宮内庁の管理下に置かれております。襟を正して、御参り致します。
 
しかし、平日とはいえ好天の鎌倉を散策する観光客は多かったのですが、こちらにはひと気がありません…。
 
それも当然。まずもって鎌倉観光のガイドブックには載っていない筈ですから。
 
 
―さて、墓所に入ると、ひたすら長い石段が、深い森の中へと伸びています。
 
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もう既に、この時点で、登って来んじゃねえよ系のメッセージをひしひしと感じる取材班。
 
しかしこれが単なる観光なら引き返しも出来るのですが、オカルトブログ主催者の辛いところって奴で、
 
事こうなれば、敢えて行くしかございません。
 
 
と、思った途端に、石段の脇に曰くありげな井戸を発見。やめてケロ。
 
ぜぜぜ絶対に夜は来ないぞ!!と心に誓う取材班。
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よっしゃ行くでぇ!!―と気合を入れて石段を登り始めますが…。
 
その気合も数秒で萎える。何故なら―
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明らかに、この森の空気は外とは違う!!
 
鈍感0感の取材班にもそう思わせる、この圧力!!
 
荘厳ながらもほの暗い空間がこの身を圧し包む…様な感じです。
 
静かでいいなあ…なんて呑気に思っていたのは最初だけ。
 
真っ昼間なのにもかかわらず、独りで入ってきた事を後悔しました。
 
杉本寺とそう離れていないのに、同じ様な森で何故こうも空気感が違うのか?
 
ついつい、何度も後ろを振り返ってしまいました。
 
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この重い雰囲気が、画像で伝わるでしょうか…?
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心と足がいいかげん疲れてきた頃、やっと石段が途絶えました。 
 
(あと30秒石段が続けば、後も見ずに逃げ帰っていた事でしょう。)
 
さあ、いよいよ、護良親王の墓前に来てしまったのです。
 
これから上は陵墓の為、立ち入る事は出来ません。
 
立ち入り禁止でなくても、立ち入る勇気は取材班には毛ほどもございませんが。
 
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闖入者を無言で見下ろす護良親王(の墓)…。
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ああ早くこの場から脱したい!!
 
そう思いながらも、反面しばらくここに佇んでいたい。
 
そんな不思議な空間に身を晒してしまった取材班。
 
それはもう、渾身の力で精一杯、心をこめて、誠心誠意拝みました。
 
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さようなら、有難うございましたと逃げ帰る取材班。
 
 
石段を早足で降りる取材班の脳裏には何故か、”お供えしている菊の花って誰が替えてるんだろう?宮内庁の
 
外郭団体かなんかが、その辺の花屋さんに丸投げしてるのだろうか?これって、「仕分け」られちゃったりするの
 
かな?そう言えば蓮舫ってREMPOって書くとREMBOみたいでカッコイイのにな”などと、この場合どうでもよく
 
って世知辛くも馬鹿ばかしい思考が渦巻いたりするのでした。
 

 
 中先代の乱が尊氏によって鎮圧され、護良親王殺害が露見すると、尊氏と後醍醐天皇の対立が決定的にな
 
り、建武の新政は挫折。天皇の命を受けた新田義貞が尊氏討伐に乗り出します。箱根竹ノ下で両雄がぶつか
 
り、ここから時代は南北朝の動乱に入っていきます。

 
太平記には、南北朝動乱期において護良親王の怨霊は、やはり同じく怨霊と化した後醍醐天皇や新田義貞と共
 
に、楠正成を裏で操っていたと言うような事が書かれています。余程尊氏らに対する恨みが強かったのでしょう。
 
自らの非業の死をもって南北朝動乱のきっかけとなった護良親王。天狗道に堕ちた者は、日に三度熱い鉄を呑
 
む苦役を強いられる代わりに、世に戦乱をもたらす神通力を発揮すと言われております。動乱の中で足利一
 
族が分裂し身内同士で殺し合いを繰り広げたのも護良親王らの祟りと見做され、怨霊譚が後世に語り継がれ
 
たのです…。
 
 
最後に、ケを落とす為に、ハレの画像を…。 (洒落てる場合かっつーの)
イメージ 15
 
 

 
こちらも、お化けが出ると言う話を聞かないので「番外編」としましたが、はっきり言って、お化けの一つや二つな
 
どモノの数ではないと思わせる、圧倒的な雰囲気(霊気?)を感じさせられる場所でした。
 
私にとって、以前訪問した高時腹切りやぐら【記事はこちら】と双璧を成す「鎌倉最怖スポット」になりました。
 
この場合の「怖」は、畏怖の「怖」である事は言うまでもありません。
 

 
 
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(←)鎌倉って、いいなあと、今更ながらに思いました。
 
 
 
 
波乗り娘さんから頂いたコメントに触発されて、行ってきました。
 
今回の訪問地は鎌倉市二階堂にある「杉本寺」です。
 
 


 
杉本寺は、鎌倉最古の寺と云われ、734(天平6)年に行基が創建したと伝えられております。鎌倉開幕より450
 
年以上前に建てられた古刹です。関東を歩いていた行基が鎌倉に至り、大蔵の山中で「ここに観音様を置こう」
 
と発起し、自らが彫り上げた十一面観音を安置した事にはじまります。
 
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金沢街道に面する参道には「十一面杉本観音」の白いのぼりがたっています。
 
車通りの多い金沢街道から一歩山内に入ると、染み入る様に静かな空間が広がります。
 
空は青く、濃い緑のそこかしこには色づいた木々が。
 
なんて気持ちの良い場所なのでしょう。(あれ?)
 
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石段を登ると茅葺の仁王門が建っております。いかにも「鎌倉最古」チックな雰囲気が漂っておりますが、この山
 
門は江戸時代の享保年間の築だそうで、鎌倉にしてみれば比較的新しいものと言えるでしょう。
 
仁王門には当然仁王様の像が。お馴染み「阿吽」のポーズをキメています。運慶作とも云われているようです
 
が、実はこちらも山門と一緒に造られた可能性が高いのでは?などと思いつつ境内へ。
 
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門をくぐると右手に大蔵弁財天を祀る祠があり、小さいながらも弁天池もありました。イメージ 10
 夜きたら、何か出そう。
 
 
正面に伸びる本道への石段は現在は立ち入り禁止。角が磨り減り、苔むしており、このお寺の長い歴史を感じ
 
させます。この階段が、杉本寺の大きな見どころの一つでしょう。
 
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脇の石段を登っていくと、やはり茅葺の本堂が現れます。
 
鎌倉の歴史を1300年のあいだ見続けてきた風格を感じさせる佇まい。(このお堂も創建当時に建てられたもので
 
はありませんが、まあいいって事で。)
 
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堂内にはご本尊である十一面観音や毘沙門天、不動明王、地蔵菩薩におびんずる様などなど、多くの仏像が
 
安置されておりました。靴を脱いでお堂の中にあがることが出来、仏像を間近で拝む事ができるのもおススメポ
 
イントです。
 
こちらの十一面観音には数々の霊験が伝わっており、その代表例がこんなお話。
 
文治5(1189)年のこと、隣家の失火のため、全山が炎に包まれた。時の住職浄台法師は、本尊を救い出すため、本堂に入ろうとしたところ、呼び止める声が背後から聞こえた。振り返ってみると、大杉の根元に三体の観音が光明を放って立っていた。歓喜した法師は、後に堂宇を再建。それ以降、杉本の観音と呼ばれるようになったという。 
 


 
さて、波乗り娘さんが杉本寺の境内で異質な空気をお感じになるのも無理はないと言うか、それなりの曰くがこ
 
の場所にはあるのです。
 
 
このお寺の背後の山中には、その昔「杉本城」と呼ばれた山城があったそうです。
 
杉本城は1333年に鎌倉幕府が滅亡した後の、南北朝初期(1337年)に、足利一族の斯波家長が築いたもの考
 
えられております。鎌倉府執事を務めた家長は、奥州から鎌倉に攻め入った南朝側の北畠顕家の大軍に圧さ
 
れ、杉本城に篭るも敵わず、この地で自害して果てました。
 
あわせて、家長の家臣達も自刃。その数300人とも云われております。
 
 
本堂の脇には、無数の五輪塔が並んでおり、これは杉本城で滅んだ斯波一族の供養塔だと考えられています。
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これらの五輪塔は、それぞれ周囲のやぐら(当時のお墓)に祀られていたのがやがて埋没・流出し、それが集め
 
られてこの地に祀られたものだそうです。
 
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波乗り娘さんは、もしかしたら斯波一族の無念を、600年の時を越えてお感じになったのかもしれません…。
 
杉本城があった裏山には、現在は立ち入ることが出来ませんが、耳を澄ますと往時のもののふ達の鬨の声が
 
聞こえる様な気がしました。
 
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さて、杉本寺の木々の間からは素晴らしい眺望が。
 
この上なく天気が良かったので、遠く富士山も望むことが出来ました。
 
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清清しい秋の空気を満喫し、取材班は杉本寺を後にするのでした…。
 
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しかし、「十一面杉本観音」の白のぼりがやや多すぎる様な…。
 
せめて本堂のまわりにこれが無ければ、もっともっと静謐感が漂う様な気がするのですが…。
 


 
 
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(←)杉本寺にお化けが出ると言う噂も無い様なので、「番外編」と致しました。
 
杉本寺は、鎌倉観光には外せない場所だと思います。
 
 
 
 
 
 
明け方までの、冷たく激しい雨は何処へやら。

またまた水曜日は、真っ青な空から降りそそぐ暖かな陽光に満たされております。

これは、今日も行かなくては!!―そう、「心霊スポット」に!!


と言う訳で、取材班(アビエータ氏は頑なに参加を拒否)は鎌倉に向かいました。

本日の目的地は、「鎌倉最怖」の呼び声も高いアノ場所…。

北条高時腹切やぐら]です!!


さて、現地取材の前に、予備知識を少々…。

まず、「やぐら」とは、平たく言えば鎌倉期のお墓兼供養所の事です。

山肌の崖をくり貫いた横穴式の墳墓で、中には石仏や五輪塔等が置かれております。

なぜこの様な埋葬様式がとられたかと言うと、鎌倉幕府の発展と地理的条件が深く関与しています。


中世期、武士などの上流階級の埋葬方法は法華堂と呼ばれる堂を建てそこに葬るという方式をとって

いたそうです。

しかし、鎌倉幕府の権力が確定し、経済都市としても発展すると、当然ながら人口が急増。

三方を山、一方を海に囲まれて、元々平地の少なかった鎌倉で、そうそう法華堂ばかり建てられると、

お堂だらけになり、邪魔でしょうがない。

と言う訳で、山間の崖をくり貫いて墳墓を造る様になったそうです。

「やぐら」と言うのも、「岩窟(イワクラ)」の訛であるとされています。


ちなみに、「やぐら」は上流階級のお墓としたら、一般庶民は何処に埋葬されたのか?

実は、鎌倉周辺部の谷あいに投げ棄てられていたそうです。

その様な場所は「地獄谷」と呼ばれ、特定の一箇所ではなく、その様な場所が幾つか存在したとか。

今となっては、場所ははっきり判りませんが(判っていても、公言は出来ませんよね。そこに住んでいる

人だっているんだから…)極楽寺や建長寺の辺りは「地獄谷」だったと云われております。


そして、今回の目的地である「北条高時腹切やぐら]は、その名の通り、元弘三年(1333)の新田

義貞による鎌倉攻めにより追われた執権北条高時が、一族郎党870余人と共に最期を迎えた…とされる場

所です。


当然の如くですが、「武士の霊が出る」と言われ(そりゃ、ここで出なけりゃ何処で出る…と言う感じで

すが)霊感の強い人は、目はかすみ、足は硬直し、傍にも寄れぬほどの圧倒的な霊気を感じるそうです。



さて、前置きが長くなりましたが、そろそろ行って参りましょう。
場所はこの辺です
鎌倉のメインストリートである若宮大路から東に一本入った小町大路をぶらぶらと歩いていきます。
イメージ 1

お、ここで曲がるんだな。


閑静な住宅地を歩いていると、味のある橋が…。
イメージ 2

「東勝寺橋」とあります。大正13年の竣工!!関東大震災の復興期に架けられた橋だそうです。

随分古い橋では有りますが、鎌倉にあると、まだまだ新築に毛が生えた程度にしか感じません。

なにせ、周囲には築600年とかがゴロゴロしているのですから…。


橋を渡り、坂道を辿って行くと、「東勝寺跡」に到着。
イメージ 3

もっと寂しい処かと思っていたら、目の前は普通の宅地でした。

さて、この先が「腹切やぐら」です。

舗装が切れ、山道に入った途端に…。
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―到着しました…。

「霊がいるから、無闇に入るな」と言う意味でしょうか?

確かに、今までに無い、圧力と言うか、何とも表現し難い空気が満ちております…。

襟を正し、敬虔な気持ちで、聖域にお邪魔します。


―こちらが、「腹切やぐら」です。
イメージ 5

緊張の為か、ぶれてしまいました…。

丁重に手を合わせ、お賽銭を置いた後、中に入って見ました…。
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中から外を。高時一族は、ここでどの様な想いで、最後の風景を見たのか…。
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いたたまれず、すぐ外へ。
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その日、東勝寺には新田軍に追詰められた14代目執権高時を筆頭とした北条一族が集まってました。

栄華を誇った鎌倉は既に炎上。

東勝寺にも新田軍の軍勢が迫って来ます。

北条配下の猛将長嶋高重が東勝寺に戻って来るや

「もはやこれまで…憎き義貞に首を獲られる前に、早く自害を」

激戦を戦い、血まみれで見る影も無い重臣の言葉に、高時はその場でただ黙り込んだのでした。

主君の躊躇を見た高重は、実弟の新衛門に酎をさせ、ぐいと杯を飲み干すと、

「私が手本を見せましょうぞ!」と叫ぶや自分の腹を十字に斬り、見事な最期を遂げました。

その姿に意を決した北条の者々は次々と高時の前で自害して果てます。

遺骸が敵の手に陥ちる事を防ぐ為に東勝寺には火が放たれました。

燃え広がる業火の中、最後まで一族の死を見守っていた高時も遂に切腹。

源頼朝が開いた鎌倉幕府滅亡の瞬間でした…。
通りがかったハイキング客も「何ここ?」「気味が悪い〜」と言いながら、「やぐら」に近寄れないまま

行ってしまいました。

さて、改めて丁重に手を合わせた後、坂を下って「宝戒寺」へ。
イメージ 9

「宝戒寺」は、北条氏屋敷跡と云われています。倒幕後、後醍醐天皇は北条一族の霊を慰める為に、1335

年(建武2年)足利尊氏に命じてこの地に寺を建立させたそうです。

境内から、「腹切やぐら」の方を望む…。
イメージ 10

最期に慰霊のお参りを済ませ、取材班は、現場を後にするのでした。

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