歴史の謎!!コーナー

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義経、北へ行く。

 源義経は平泉では死なず、蝦夷地を経て中国大陸に渡り、ジンギスカンになった!! ―と言うオハナシ。

このオハナシのミソとしては、奥州平泉は布川館で義経が死んだとされる1189年から、ジンギスカンが台頭してくる1190年代半ばが程よく繋がっていると言う点です。代表的な根拠は、ざっと、以下の通りです。
①ジンギスカン(Gin Gis ken)の名は源義経の音読み(Gen Gi Kei ゲンギケイ)がなまったもの。モンゴル語ではSとEは無声音なので、「Gin Gi Kn」となりギンギケ(ン)と読め、つまりゲンギケイとなる。
②ジンギスカンはハーンに即位した時、9本の白旗を掲げていたが、これは自らの名「九郎」と、源氏の白旗にちなんだもの。
③ジンギスカンは、源氏の家紋と同じ「笹竜胆」の紋章を使用した。
④義経もジンギスカンも、騎馬を用いた戦術を得意とする。

へぇ、そうかいなと妙に納得しつつも、眉唾クサイなぁと思っておりましたが、ちょっと調べてみると、思った
以上に眉唾でした。一つづつ、見ていきましょう。
①ジンギスカンはゲンギケイがなまった?
「ジンギスカン」との表記は、本来の発音とは違います。だからそれをローマ字に分解して無声音だ何だと言っても、単なる語呂合わせにしかならないのです。だいたい「カン」は遊牧民の君主が名乗った称号で、名前ではないし。そもそも、何で源義経をゲンギケイなどとみょうちきりんな読み方をしなければいかんのか。
②9本の白旗は「九郎」と「源氏の白旗」を表わした?
ジンギスカンが掲げたのはこれ(↓)。
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四駿四狗(ししゅんしく)と言うそうです。
源氏の白旗とは似ても似つかないシロモノです。
 
9本あるのは、8本が「4頭の駿馬・4匹の狗」と讃えられたチンギス・ハーンの8人の側近を表わしており、真ん中の一番デカイので自分を表わしたからで、「九郎」とは何の関係もありません…。
 
 
 
 
 
 
③笹竜胆の紋章は?
左が今もウラジオストックなどに残るジンギスカンの紋章。右が源氏の家紋とされる「笹竜胆」。
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似てはいますが、左の方は笹はともかく、竜胆の花と見るには少々苦しいかも。
 しかし、似てる似てないの以前に、そもそも義経は「笹竜胆」の紋を使用していなかった!!のです。
当時、「笹竜胆」の紋は同じ源氏でも村上源氏・宇多源氏の公家流の一部が使っていたのみで、太平記や吾妻鏡にも頼朝や義経がこの紋を使ったとの記録は残されておりません。
 「笹竜胆」が源氏のシンボルとなるのは江戸時代になってからで、源平ものの芝居なんかをする時に無紋ではサマにならないので、演出として「笹竜胆」が使用されたからだそうです。同時期に清和源氏の末裔達の間で「笹竜胆」が家紋として使われるようになったそうな。それで今では「源氏=笹竜胆」のイメージがあるのですが、それはあくまでイメージで、史実とは違うのです。
④騎馬戦術が得意?
同じく騎馬を使う戦術でも、義経とジンギスカンではその運用方法が全く違います。
義経は迅速な兵力移動の為に騎馬の機動力を活用して奇襲を仕掛けたのに対し、ジンギスカンの戦術は騎馬による集団戦法で敵を殲滅させると言うもの。両者の戦術思想は全く異なります。
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(←)平家物語の名場面「敦盛」。
戦いに入ると、「やあやあ我こそは」と名乗りをあげ、基本タイマンで組討をする。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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(←)テュルク・モンゴル系の騎馬軍同士の会戦。騎馬で隊列を組み、一気に突撃!!
これには、やはり単騎での勝負が基本だったヨーロッパの騎士もお手上げだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
―と言う訳で、義経がジンギスカンになったと言う線はまずなさそうですが、そんな事はまあいいとして。
義経=ジンギスカンと言うハナシはどこから出てきて、どうやって広まったのでしょうか。
 
話の源は結構古くて、義経が衣川館で自刃してすぐ「義経生存伝説」の芽が出ています。
義経の死から約1年後の吾妻鏡には、「義経の軍勢が攻めてくるとの噂が鎌倉に広まり幕府が警戒した」とありますから、この頃すでに義経生存はかなりのリアリティーをもって語られていた事が判ります。
何故なら…。
義経の首は死後43日も経ってから鎌倉口まで運ばれて来たので、腐敗が進み、そうでなくても炎上した館から回収された首は焼け焦げで人相もよく判らない状態だったそうです。お陰で、首実検した梶原景時もホントにこの首が義経のものか判断がつかず、「まあ、そう言う事にしておこう」的な処理となりました。
そんなんなので、「あの首、ホントに義経だったの?実は生きてんじゃないの?」―との疑念が鎌倉の人々の間に広がっていたのでしょう。
 
義経が生きているとなれば、その後は何処で何をしていたのかと思うのが人の常。
 
室町初期には「義経が蝦夷地(北海道)に渡った」とする話が残っており(『松前征略』)、また、「御曹司島渡り」という御伽話が庶民に親しまれたと言います。これは、生きていた義経が北方各地を巡る冒険譚です。
奥州藤原氏は、平安時代から北方貿易を営んでいたので、義経が逃げるとしたらその貿易ルートを辿った北しかないとは誰もが思う事でしょうから、伝説上の義経も北へ向ったのです。
 
時は下って、江戸時代。
 
(眉唾ながらも)清和源氏の流れをくむとされる徳川の世になり、武士庶民を問わず義経人気が高まっておりました。義経は清和源氏の時代を切り開いた大功労者であり、天才的戦術家であり、薄幸の美男子であり、女にモテモテだった悲劇のヒーローですから。
 
そんな中で、幕府が公式に編纂を命じた歴史書の中に、異説としながらも義経生存説がとりあげられるようになります。(林羅山・鵞峯親子『本朝通鑑』1670年)そして、水戸光圀の『大日本史』には、義経が海を渡って蝦夷地(北海道)に行ったとの異説が紹介され、蝦夷地に渡った義経はアイヌの神オキクルミになったと書かれております。
 
異説と断りながらも、公式に編纂された歴史書に義経北行説が書かれた背景には、南下を狙うロシアの脅威がありました。アイヌの神と義経が同一であるとする事で、蝦夷地が日本の「領土」である事をアイヌの人たちに認識させようとしたのです。アイヌ民族支配を強化し、ロシアに備える方便として、義経伝説が利用されたのです。
 
この時点ではまだ北海道に留まっていた義経に、いよいよ日本海を渡らせたのが、沢田源内と言う人。
1710頃?源内が「中国の史書『金史』の別本に義経の息子が大陸に渡って金の将軍になったと書かれている!!」と言い出しました。そして、「義経は蝦夷地から大陸に渡り、子孫が清朝の祖になった!!」(『鎌倉実記』加藤謙斎1717年)となり、「清朝から渡来した『図書集成』には、中国の清王朝の先祖は源義経で、清という国号は清和源氏からとったものだと書いてある」(『国学忘貝』森長見1783年)となって、だんだんハナシが膨らんできます。
 
実はこの辺は今で言えば「トンデモ本」で、『金史別本』は沢田源内が捏造した偽書であり、森長見のネタ元は単なる伝聞情報で、実際に『図書集成』を閲覧した蘭学医から「そんな記述はなかった」と完全否定されてしまっております。
 
普通なら、ここらで与太話も尻すぼみになりそうなものですが、そうはならないのが義経伝説の凄いところ。
清朝は満州族のたてた国であり、金朝ともつながる。材料が出揃ったところで遂に真打登場となります。
 
実は、「義経=ジンギスカン」を最初に唱えたのは、シーボルトなのです。
シーボルトは通訳から義経生存→北行→大陸渡航のハナシを聞き、義経が死んだとされる1189年からジンギスカンが歴史の表舞台に踊りだす1190年代半ばまでが丁度よい間隔である事に気付き、「義経が大陸に渡ったとするならば、もしかしてジンギスカンになったのとちゃうやろか?」と考えました。そして伝承・民話・先駆者の研究をつぶさに見ていった結果、「やっぱ、そうやで!!」と思うに至ったのです。ちなみに、例の9本の白旗なんかはシーボルトが最初に目をつけたディテールです。シーボルトは『日本』の第1巻第1編第5章(1832年)に「義経=ジンギスカン」を書いています。ここに来て、遂にかやっとか、義経は晴れてジンギスカンとなったのです。

江戸の幕府が倒れ、文明開化の明治時代。
 
有能な外交官にしてジャーナリストにして歴史家にして後には政治家になる末松謙澄が、留学したケンブリッジ大の卒論で「義経=ジンギスカン」説を発表します。明治12(1879)年の事でした。英文で書かれた論文は和訳され『義経再興記』として出版されました。
これは、ロンドンで味わった日本人蔑視に憤慨した氏が、「日本は世界史に燦然と名を輝かす英雄ジンギスカンを生んだ国であり、お前らヨーロッパ人に馬鹿にされる覚えはないんじゃぁ!!」!とばかりに唱えたとされる説で、氏の想いはそのタイトルによーく現われております。
氏の論文のタイトルは、『The Identity of the Great Conqueror Genghis Khan with the Japanese Hero Yoshitsune(大征服者成吉思汗は日本の英雄源義経と同一人物なること)』でした。
 
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(←)末松謙澄さん。
(どうでもいいですが、日本人ってエライんだぞと世界に示すにも、わざわざ他の国の英雄にこじつけないとお国自慢の一つも出来ないのかと情けなくなるような気もしますけど…。)
 
 
 
 
 
 
 
その後、末松論文の影響を受けた牧師、小谷部全一郎が大正13(1924)年に出した『成吉思汗ハ義経也』が大ヒットし、この説が改めて大衆に浸透したのでした。
 当然、歴史学者からはこの説は完全否定されますが(だって、論拠が最初に挙げたようなネタばっかりだったから、仕方がない)、小谷部氏も負けずに続巻を出して対抗します。
 
はっきり言って「トンデモ」でしかない小谷部氏のハナシがなんでこんなにウケたのか。
 
それはやはり当時の時代背景が強く影響していたようです。
その頃の日本はシベリア出兵に失敗し、大陸雄飛の夢がしぼみかけていました。
義経がジンギスカンとなって大陸を支配したと言うネタは、日本の大陸進出にとって絶好のプロパガンダであり、
小谷部氏が行った大陸での調査を全面バックアップしたのは日本陸軍でした。
 しかし、軍が積極的にこの説を押し広めたと言うより、庶民の方で勝手に飛びついたと見る方が、この場合は妥当な様です。それだけ、当時の日本人は大陸進出に夢と憧れを持っており、義経が窮地から脱して大陸に渡ったとの話をロマンを持って受け入れたのだと思います。

古来英雄は死して祟り、それを防ぐために御霊として祀られましたが、ある種の英雄は逆に「不死」として伝説が語られます。御霊を祀るのは時の為政者ですが、英雄を不死としたのは庶民であり、義経の他にも源為朝、豊臣秀頼、明智光秀、西郷隆盛等の例があります。しかし、その中でも日本の英雄からアジアの英雄に昇華された義経は特異な存在であり、それだけ庶民人気が高い事の証明でしょう。
 
時に為政者は、そんな庶民感情を利用するので、与太話を語るにも多少は気をつけなくてはいけませんが。
 
しかし、庶民の感情と国家の思惑の中で、北海道に行かされたり、大陸に渡らせられたり、神にされたりジンギスカンにされたりと、死後も大忙しだった義経さん。草葉の陰で苦笑いをしていたのではないでしょうか。
 
「やれやれ…ですなあ。」             「いや、全く。」
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と言いつつも、色々調べる内に、ジンギスカンはともかく、義経は衣川では死なず、せめて北海道までは逃げ延びたのではないかなぁと感じ始めているTOでした。その辺は、また機会があれば、記事にしたいと思います。

『トンデモ日本史の真相』(原田実著/文芸社) 『逆説で斬る!!義経』(井沢元彦/宝島社)
 
(↓)ラミちゃん、辞めないで〜!!
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妖刀村正

のりちゃんさんから頂いたコメントに触発されて記事にします。
 


 
古今、「妖刀」と呼ばれる刀剣は数多かれど、「Top of 妖刀」 「妖刀の王様」 「妖刀の中の妖刀」 「五つ星妖
 
刀」 「行列の出来る妖刀」 「遠くのお客さんもわざわざ買いに来る妖刀」 「広告も載せてないのに大人気の妖
 
刀」 「セレブ主婦が選ぶ妖刀400年連続No1」…しつこいか。
 
―と、まあ、「妖刀」として、恐らく最も有名な銘は「村正」でしょう。
 
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「村正」は室町時代に伊勢国桑名で始まった刀工の名で、その一派が打った作品の銘の事です。
 
銘とは、簡単に言うと、つまりは「ブランド」です。ルイなんとかとか、シャネなんとかとか、プラなんとかとか、そう
 
いった感じでしょうか。村正は、刀だけでなく脇差や槍もよく打ちました。
 
 
村正ブランドは、室町期に初代が立ち上げ、徳川幕末まで続きました。
 
初代村正は、かの名工正宗に師事したともいわれております(正宗は鎌倉期の刀工なので、かなり眉唾です
 
が…)。
 


 
正宗の元での修行時代、あまりに切れ味にこだわりすぎる村正を案じた正宗は、ある時、互いが鍛えた刀を川
 
面に突き立てました。刃は上流を向いています。正宗の刀は、水流を分けるのみで、流れてきた落ち葉は刀を避
 
ける様に下流へ去っていく。かたや村正の刀は、落ち葉を吸い寄せ、それを真っ二つに斬る…。
 
 
これを見た正宗は「斬れるだけでは真の名刀とはいえない。斬れ味にこだわり過ぎる心は邪気となって刀に宿
 
り、斬らなくてもいいものまでを斬ってしまうのだ」と諭しました。しかし、村正は「斬れることこそ刀の真髄」と言い
 
残し、正宗のもとを去ったといいます。

そんな寓話が残る程、村正ブランドの最大の売りは、その畏しいまでの切れ味だったと伝えられております。
 
一旦鞘から抜くや血を見ずにいられぬと、そんな風にいわれております。

 


 
村正が、妖刀といわれるようになったのは、関が原を制し戦国に覇をとなえた徳川家に数々の禍を為したから。
 
 
徳川と村正の因縁は、まずは家康の祖父・松平清康から始まります。
 
若くして三河を平定した清康が、尾張の織田を攻める最中、守山城攻略戦の内に家臣である阿部正豊に後から
 
袈裟に懸けてズンバラリンとやられてしまったのが発端。正豊が振りかざしたのは、言わずもがなの村正。その
 
切れ味は評判を損なう事無く、傷は右の肩先から左の脇腹まで達していたといいます。敵城の大手門まで攻め
 
上ったところでの暗殺事件により、松平軍は撤退、その後勢力は衰えていきます。「守山(森山)崩れ」といわれ
 
る事件です。清康は享年25歳でした。
 
 
さらに、家康の父・広忠も家臣・岩崎弥助に暗殺されたそうで、その時の刀も村正だったとか。
 
さらにさらに、家康嫡男の信康が切腹する折に介錯したのも村正。
 
さらにさらにさらに、家康自身も村正の槍を検分している時に手を滑らせ指に怪我をしたり。
 
 
そんなこんなで、村正は妖刀の名を欲しいままにするのです。
 
 
反面というか当然、徳川家に恨み反感を持つ者はこぞって村正を所持したそうです。
 
真田、島津、鍋島、福島といった豊臣恩顧の大名達も密かに所有し、時代は変わって明治維新を迎えては西郷
 
隆盛や、有栖川宮熾仁親王も村正を帯刀していたという話が残っております。嘘かホントかは判りませんが、
 
由井正雪も村正愛用者だったとか。大塩平八郎はどうだったんでしょうか?
 


 
しかし、しかし。
 
何でいちいち徳川家の一大事に村正が出てくるかと言うと、それは単に、徳川家臣団で村正愛用者が多かった
 
と言うだけみたいです。伊勢は三河と距離も近く、流通ルートも確保されていたので、三河武士団の武器供給元
 
として重宝されていたのです。いきおい、徳川武士団の中で村正は制式兵装みたいなものになる。
 
つまりは、刃傷沙汰が起これば、使われるのは当然ほとんどが村正な訳で、当たり前と言えば当たり前な話。
 
 
例を現代に移し変えると、警察で発砲不祥事が起きればそれはほぼ100%ニューナンブによるもので、いわゆ
 
るそんな感じのハナシなのです。
 


 
実際、家康は特に村正になんのこだわりも持っていなかったようで、生涯傍に置いていたそうです
 
 
家康に天下をもたらしたのは、団結屈強で鳴る三河武士団。
 
その武士団が村正を使っていたのなら、むしろ家康の天下獲りを支えたのは村正だと言う事もできましょう。
 
家康側近中の側近、本多忠勝の振るった名槍「蜻蛉切り」も村正ブランドだったそうですし。
 
日本史上稀有の実利者である家康が、巷間噂される村正の妖刀性を鼻で笑った事は想像に難くありません。
 
 
刀は斬れてこそなんぼ。家康は、そう思っていたのかもしれません。だとしたら、それは、初代村正の遺志と相
 
容れるものです。
 
 
しかしながら、それだからこそ、庶民の間で「村正」の噂に尾ひれがついて広まり、血を好む妖刀として、今
 
に伝わっているのであろうかと。つまりは、妖刀村正は後世の創作ネタであると、そう思うのです。
 


 
ちなみに、国宝指定されている刀剣一覧の中に、村正は一振りもありません。それは見てくれが悪いから。
 
村正の刃には大きな波紋が波打ち、刃の両面の波紋が揃っていることが大きな特徴ですが、華やかで美しい正
 
宗に対すると地味な印象は拭えません。
 
 
対して正宗は、幾振かが国宝となっております。しかしその実、見てくれ(芸術性)ばかりで実用性が乏しいとも
 
いわれているそうです。
 
 
つまるところ、村正の美しさは、千利休が言う所の”用の美”なのでしょうか。
 
村正が用を為す時は、それは人の血が流れる時ではありますが…。
 
(↓)徳川美術館所蔵 「刀 銘 村正 徳川家康所用」
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(↓)クリックしてもいい事がある訳でもないが、悪い事が起こるわけでもないです。
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両面宿儺

今から約1,600年前、仁徳天皇の時代。飛騨国に、両面宿儺(リョウメンスクナ)と言う怪物がおりました。


身の丈およそ七尺あまり(約2m)、頭の前後に二つの顔を持ち、手足も4本ずつあると言う異形。

動きは素早く、怪力無双。

手下を引き連れては里で略奪を繰り返し、人々を恐れさせておりました。豊作でないと略奪もできないの

で、日照り続きの時には二つの口で山に吠え雨を呼び、冷害が出ると二つの口から噴出した炎で悪霊を払

いました。その為、飛騨国では常に豊作に恵まれたそうです。里を荒らし、帝に逆らう両面宿儺に業を

煮やした朝廷は、終に討伐軍を派遣。500日も続いた激戦の末、多くの手下を失った両面宿儺は、討伐軍

の大将・武振熊命に捕らえられます。両面宿儺の戦いぶりに敵ながら感嘆していた武振熊命は助命を申し

出ますが、両面宿儺はそれを拒否し、潔く討たれる道を選んだとされております。

イメージ 1(←)両面宿儺
























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両面宿儺の話は、日本書紀の仁徳記に書かれています。

原文は短いものです。


『六十五年、飛騨国有一人。曰宿儺。其為人、壱体有両面。面各相背。頂合無

項。各有手足。其有膝而無膕踵。力多以軽捷。左右佩劒、四手並用弓矢。是

以、不随皇命。掠略人民為楽。於是、遣和珥臣祖難波根子武振熊而誅之。』


(仁徳)65年、飛騨に宿儺と言うこれこれこんな姿をしたヤツがいて、言う事を聞かなかったので武振熊

が退治した。

と、ごくアッサリした記述。この原文に色々な逸話が肉付けされて出来たのが、「朝敵・両面宿儺」の伝

説なのです。

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日本書紀では朝敵になっている両面宿儺ですが、地元の飛騨地方や美濃地方では、英雄として敬われてお

ります。高山市丹生川町の千光寺や善久寺は、両面宿儺を開基としており、「両面さま」「両面僧都」と

尊称しているそうです。縁起では両面宿儺が飛騨国に仏教を伝えたとされています。他、飛騨・美濃の多

くの古寺でも両面宿儺を信仰の対象としています。


仁徳天皇の時代に日本に仏教が伝わっていたとは考えにくく、仏教を伝えたと言うのは後世に付け加えら

れたものでしょうが、言い換えればそれだけ両面宿儺が飛騨の人々に尊敬されている事の証です。


蛇足ですが、両面宿儺を退治したとする武振熊も、仁徳天皇より前の時代に活躍した人物で、元ネタ自体

も整合性がとれていない部分があります。

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さて、古代の神話・伝承にはほぼ必ずモデルとなる人物なりが存在しますが、両面宿儺のモデルとなった

のは、どんな人物だったのでしょうか。


飛騨国は古代から建築・大工技術に優れ、両面宿儺の本拠地である高山市の丹生川町一帯は、近代に至る

まで飛騨木地師の本拠地でした。奈良時代以降には東大寺の造営や平安京の建設にも飛騨工が従事した

とされております。

日本書紀では、両面宿儺の姿を「膝はあるが膕(ひかがみ=膝の後ろの窪み)と踵(かかと)がなく、力

が強くしかも軽く早い」と表現しています。これは脛当てを強く巻き、草鞋の上に「つまがけ」(山の

急斜面を登る際、つま先で駆け上がり易くする道具)をつけた姿とも考えられます。これは当時の山林技

術者の姿です。また、両面宿儺が日照りや冷害を追い払ったとする伝承は、両面宿儺が優れた農業技術者

であり、劣悪な天候から農作物を守った事を示しています。


近代の研究から、上古の美濃を開拓したのは古代鴨族で、山城北部から近江南部・伊勢北部を経て美濃西

部に入ったことが分かり、これが全国の「木地師」とも深い関係をもつことが分かってきたそうです。


両面宿儺はこの古代鴨族の一人で、山林・農業技術に長け、善政を敷く飛騨の王だったのではないでしょ

うか。伝承では、両面宿儺は美濃国で討伐軍を待ち伏せたとされておりますので、美濃も両面宿儺の統治

下にあったのでしょう。


仁徳天皇の世(5世紀前半)は、朝廷が政治的・社会的に秩序を確立しつつある時代です。飛騨国にも朝

廷の影響力が及んでいたのでしょうが、両面宿儺は飛騨への支配力を強めつつある朝廷に立ち向かった為

に、朝敵として歴史に名を残す事になったのだと考えられます。


丹生川はその名が示す通り、丹砂(硫化水銀)の産地だったとみられ、朝廷はその鉱物資源を狙って飛騨

に侵攻してきたのかもしれません。

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両面宿儺の異形は、インドや中国の武神の姿が移入したものとか、双子の王だったとか、諸説言われてお

り、定説はありませんが、両面宿儺のまさに三面六臂の活躍ぶりが象徴されている様な気がします。


イメージ 2(←)円空作の両面宿儺像。善政を敷く優しき王と、烈火のごとく討伐軍と戦う武人と言う二つの顔を表現している様に思えてなりません。

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ここの所、UFOネタが多かったので、たまにはこんなのもいいかなと…。


ちょっと触発されて、歴史ネタを。
 
 
戦国ブームの昨今ですが、総合人気ナンバーワンと言えばやはり織田信長でしょうか(TO独断)。
 
信長は、天正10(1582)年6月2日、本能寺に逗留中を明智光秀に襲われ討ち死にしました。
 
圧倒的な敵勢に末期を悟った信長は、自ら火を放ち、紅蓮の炎の中で敦盛を一指し舞い、その後自刃したと伝
 
えられています。
 
イメージ 1(←)イエズス会の画家が描いた信長の肖像画。
戦国一の美女と謳われたお市の方の兄貴だけあって、かなり渋めの男前です。しかし、声はやたら甲高かったとか。鬼太郎の目玉オヤジみたいな声だったのでしょうか?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
―しかし、実は信長は本能寺の変を生き延びていたと言う説があります。
 
その根拠として良く挙げられるのが、信長の死体が発見されなかったと言う事実。
 
本能寺を制圧した後、光秀勢は必死になって信長の死体を捜しましたが、終ぞ見つかりませんでした。
 
また、自ら第六天魔王と称し、強大な既存権力をことごとく蹴散らしてきた信長にしては少々あっさり過ぎる死に
 
方や、ヒーローを死なせたくない心情が「生存説」が流布する土壌にあるのでしょう。
 


 
では、本能寺を脱出した信長はどうなったのか?諸説ありますが、幾つか拾ってみると…。
 
○「薩摩に逃げ延びた説」…薩摩に落ちた信長は、途中で襲われた傷がもとで間もなく亡くなったとされてます。コレは、小林久三の『消えた信長』が元ネタでしょう。話としては面白いですが、薩摩まで逃げる途中に秀吉率いる対毛利遠征軍がいるのだから、ソッチに合流した方が早いと思います。
 
○「秀吉に幽閉された説」…と言う訳で、秀吉軍に合流した信長が、天下人の野心に燃えた秀吉に裏切られて、大阪城に幽閉されたと言う説。「本能寺の変=秀吉黒幕説」と同時に語られる事が多い様です。
 
○「外国に逃げた説」…鉄船でフィリピンまで逃げたとか、イエズス会の手引きで海外逃亡したとか。
 
どれもフィクションの域を出ない話ばかりですが。
 


 
数多くの「伝説」に包まれてるのが信長ですので、こんな話も生まれやすいのでしょうか。
 
しかしながら、後世に伝えられている信長像と言うのは、史実とはかなり違います。
 
 
他人に厳しく、短気で癇癪持ち、冷酷で残忍。お陰で光秀の恨みを買い、謀反を招いた…と言うのは後世の創作
 
の様です。「鳴かぬなら 殺してしまえ 時鳥」と言う有名な歌も信長本人の作ではありませんし。
 
その他、数々の信長残酷話も、その多くが創作もしくは信頼性の低い資料が出処である事が判っています。
 
また、敵対勢力に対する残虐行為も、戦国の世としてはとりたてて非道と言うほどのものでもなく、大体が他の
 
武将もやっている様な事ばかりです。何で信長ばかりが残虐残虐と言われるのか良く判りません。
 
 
反面、他国との盟約を信長側から破った事は一度も無かったり、姻戚関係にある武将には直接の攻撃を仕掛け
 
なかったりと、律儀な面が多く見受けられます。
 
また、最初は敵対していたり一度は裏切った人物でも有能でさえあれば家臣として重用し、どんな身分の人とも
 
親しく付き合い、旦那の愚痴を言うねね(秀吉の正室)を手紙で優しく宥めたり、お盆には安土城をライトアップし
 
て庶民を楽しませたりと、優しく親しみやすい面も信長には沢山あります。
 
あまり語られることはありませんが、信長の本拠地である尾張・美濃などは、信長が領主になって以来ずっと善
 
政が敷かれておりました。 
 
 信長の人物評価は、人により様々ですが、「敵対者には容赦は無いが、身内には気遣いを見せる意外にいい人」
 
と言うのが私の持つ信長の人物像です。
 


 
さて、信長の死体が見つからなかった理由は、これまた諸説あります。
 
その諸説がある中で、最も信憑性が高いと思われるのが「信長爆死説」です。
 
本能寺は、織田軍の補給基地としての機能が持たされており、当時大量の爆薬が保管されておりました。
 
それが誘爆して死んだか、自刃後に爆発したか、兎も角信長の死体は爆散してしまったと考えられています。
 
信長らしい散り際だと感じるのは私だけでは無いと思いますが、如何でしょう。
 

 
話し変わって、もし信長が本能寺を脱出していたら、その後の戦国絵図はどうなっていたのでしょうか。
 
 
実は、明智勢の包囲網は思われるほど完全ではなく、織田長益(信長の弟)なども京を脱出しています。
 
堺にいた家康一行も、命からがら三河に戻っています。
 
長益は安土城を経て岐阜まで逃げのびているので、本能寺の包囲を突破さえすれば信長も本拠地に逃げ込め
 
た可能性は十分にあります。 光秀の家臣にも信長を尊敬し慕う者も多かったそうで、信長の本能寺脱出を助け
 
はしないまでも見逃す位の事はしたかもしれません。(梶原景時が頼朝をわざと見逃したみたいな感じで…)
 
 
と言う訳で、これから信長シンパTOの大妄想『信長大脱走』を書こうかと思いましたが、歴史ファンにブン殴られ
 
そうなのでやめときます。
 
私の妄想では、信長があのまま天下布武を成し遂げていたら、トンでもない世界になっていた可能性があると。
 
そう思うのですが…。
 
 
 
 
 
 
 
書いてる私も暇人なら、喋ってるお二人も暇人。ついでに読んでるアナタもお暇人…

てな訳で、続きです。

ご隠居;前回はあんまり上手くオチなかったねぇ。

熊さん;そうかい?まあ、このブログ主じゃあ、あんなモンだろうよ。寒いオヤジギャグは得意らしいけどな。あんまり寒くって、地球温暖化に歯止めをかける切り札だって言われてるらしいぜ。

ご隠居;差し詰め歩く小氷河期って処だね。まあ、そんな事より先を急ごう。書き手が眠くならないうちにね。―で、お前さんが言った、「二十五日様」とか「海難法師」とか「七人ミサキ」ってのは、神様じゃなくて怨霊だって話だが。

熊さん;だって、見たら死ぬとかって、そんなんだろ?

ご隠居;では、伊豆七島の伝承から行こうかね。「二十五日様」とか「海難法師」とかだ。
まず少々注意しなくてはいけないのは、伊豆七島に伝わる伝承は、伝わるうちに混合されて一つの怨霊譚の様になってしまってるって事だ。つまりは、「悪代官を謀殺した25人の若者が、累が及ぶのを恐れた島々の人達に見捨てられた上に遭難して死んだ。その怨霊が旧暦1月25日にやって来る」ってヤツだ。

しかし、本来「二十五日様」と「海難法師」は別の話なんだ。「海難法師」伝承の起点は大島の泉津であり、それに対して、「二十五日様」は神津島のものなんだ。
「海難法師」は「悪代官を謀殺し、諸島の人々から見棄てられた若者達の怨霊」もしくは「謀殺された悪代官自身の怨霊」なのだが、「二十五日様」は「神々が伊豆の島々を伝わって神津島に来訪し、その後三宅島に渡る」と言うものなんだ。それに呼応して三宅島では、「神津島から渡ってきた神々が三宅島の『ハヨウの平』で鞠遊びをするので、24日は海を、25日は山を見てはいけない」と言われている。

熊さん;ほうほう。なるほど、「二十五日様」ってのは、ご隠居の言う「来訪神」って感じだな。

ご隠居;その通り。神津島では「二十五日様」とは毎年恒例の神事であり、海から渡ってくる来訪神を迎える神聖な儀式なのだよ。実際、神津島では物忌奈命神社の神職が「二十五日様」の深夜、来訪した神を案内して島内の道祖神を回わるそうだ。
―当然、大島はじめ他の島々でも古来同様な神事が執り行われていたのだろうが、江戸時代に起きたとされる悪代官謀殺の怨霊を鎮めるべく御霊信仰と習合し、「海難法師」へと変化したのではないか。

熊さん;御霊信仰って、怨霊を神様に祀り上げて逆にご利益を貰おうって都合の良い考えの事だな。

ご隠居;そう言っちゃ身も蓋もないがね。まあ、そんな所だ。
どちらにしても、来訪神を迎える神聖な儀式なので、俗世の人間は関与してはいけない。だから当夜は物忌みをして、決して外出はせず、早く床に就くんだ。
特に子供などに物忌みを徹底する為、「見たら死ぬ」とか「物忌みを守らなかった者に災厄が降りかかる」とか、様々な脅し文句がちりばめられていったのだろうね。三宅島では1月25日を別名「首(こうべ)様」と言い、殺された馬の首が24日の夜から島中をうろつき廻り、これに会うとその場で絶命すると言う、空恐ろしい話が伝えられいる。三宅島の子供達が恐怖におののいていた事は想像に難くないねえ。

熊さん;へぇ。馬の首がねえ。胴体はどうしちゃったんだろうね。鍋にされて食われちゃったのかね。

ご隠居;何言ってんだい。1月の話だよ。

熊さん;1月だったら何だってんだい?

ご隠居;桜は早すぎます。



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