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羽田の大鳥居

羽田の大鳥居。
 
撤去しようとすると、祟りが降りかかり、事故が起こると言われている事で有名です。
 
 
戦後間もなく羽田に進駐してきた米軍が、空軍基地として使用するために空港の拡張工事を行いました。
 
その折、この地にあった穴守稲荷神社も移転させられたのですが、その一の鳥居だった大鳥居を撤去しよう
 
とした所で事故が相次いだのです。
 
(↓)終戦直後の羽田空港。
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まず、大鳥居の上で作業していた米兵3人が立て続けに落下。一人が死亡し、二人が重傷となりました。
 
続いて撤去作業にあたったところ、米兵の一人が重機の操作を誤り、機械に挟まれて死亡。
 
米軍は高額報酬をエサに日本の土建業者に作業をやらせようとしましたが、原因不明の発作に見舞われるもの
 
や怪我人が相次ぎ、工事は中断してしまいます。
 
 
「これは羽田の守り神であるキツネ様の祟りだ」と噂され、遂にGHQもあきらめて
 
その場に大鳥居を残した…とされております。
 
 
そして、羽田の大鳥居は戦後長年、旧空港ターミナルビル前の駐車場に鎮座しておりました。
 
 
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(←)駐車場に建つ大鳥居。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
強力な祟りを為す大鳥居ですので、随分古いものなのかと思いきや、実はこの大鳥居は割りと最近造られた
 
ものでした。
 
羽田空港の前身である羽田飛行場が正式に開港されたのが昭和6(1931)年。その2年前の昭和4年に、
 
京浜電鉄(現在の京急グループ)から穴守稲荷神社に奉納されたのが、この大鳥居。
 
昭和に造られた鳥居だけあって、コンクリート製です。
 
 
穴守稲荷神社は文化元年の頃(1804年頃)、新田を守る堤防に祠を建てたのが始まりと言う事で、江戸時代か
 
ら参詣客で賑わっていたそうです。
 
明治時代には、この地に鉱泉が湧き出たこともあって旅館、料亭、酒屋が立ち並び、春には潮干狩、夏には海
 
水浴場の地となって賑わい、競馬場もあって町は栄えていました。
 
 
京浜電鉄の蒲田〜穴守間も、元はと言えば穴守稲荷への足として敷設されたもので、そんな縁があっての大鳥
 
居奉納なのでしょう。
 
 
(↓)『京浜電鉄遊覧地案内図』。
年代不明(たぶん明治35年頃のもの)だが、「大鳥居」 「穴守」などの駅名が読めます。
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(↓)昭和7(1932)年発行のパンフレット。今風に言うと、スパ・リゾートですね。楽しそう
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(↓)京浜電鉄デ51形電車。大正13(1924)年製造。こんなのがトコトコ走ってたんでしょうね〜。
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さて、穴守稲荷神社は、近在の人から寄進された土地に”大人しく”移ったのに、昭和生まれの大鳥居だけが
 
祟りを為すのか。ちょっと調べてみて、こんな風に考えました。
 

 
米軍が羽田空港を拡張する際、予定地には羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町という三つの町があり、
 
約1200世帯・約3,000の人々が暮らしておりました。
 
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終戦から1ヵ月を経た昭和20(1945)年9月21日の事です。基地の整備を急ぐ米軍は、当事の蒲田区長との連名
 
で緊急命令を出し、鈴木町、穴守町、江戸見町の住人は、24時間以内に立ち退いて土地を明け渡せと要求しま
 
した。いや、要求ではなく、強制接収です。敗戦国の民ゆえ、あまりと言えばあまりな命令にも逆らう事が出来
 
ず、ただただ24時間では余りに時間が無さ過ぎると交渉した結果、僅かにもう1日の時間延長、都合48時間の退
 
去期間を勝ち取っただけでした。
 
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敗戦直後で男手も足りない中、殆ど着の身着のままで生活圏を追われた人々は、どのような想いだったのでし
 
ょう。「住民は木材払底の折から、なんとかして家屋を取りこわし、その材木をもって他へ移住したいと努力した
 
が、なにぶんその立ち退き時間がわずか48時間であるのと、家屋を解体する人手もなく、また運搬の機材も皆
 
無に近い有り様だったから、ほとんどの人が家財をとりまとめて退出するのに手一杯であった…」と、立ち退いた
 
住民の一人は懐述しています。
 
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(←)羽田の町から立ち退く人々。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
命令から48時間後、退去地域へ渡る橋には米軍のMP(憲兵)が立ち、我が家に戻ろうとする住民に対し、
 
威嚇射撃までしたそうです。
 
 
そして、住民退去の後、一夜にして町は跡形もなく破壊され、消滅しました。圧倒的な機械力と人員を擁した
 
米軍第808飛行場建設隊によって。
 
 
ただ、廃墟となったその中に唯一残っていたもの、それが赤い大鳥居だったのです。
 

 
米軍の工兵に死傷者が出たのは、突貫作業の中で碌な重量計算や地質調査も行わないまま、大鳥居の撤去を
 
しようとした為かもしれません。(実際、大鳥居にロープを架け、ジープで引っ張って引き倒すと言う、随分乱暴な
 
方法をとっていたらしい。)ところが、他の鳥居と違って大鳥居は重いコンクリート製だったので、ロープが切れて
 
事故に繋がったとも考えられます。
 
工事を請負った日本の土木会社の作業員に異変が起きたのは、実は「祟り」を言い訳にしたサボタージュだった
 
のかもしれません。もしそうだとすると、占領者に対する、ささやかな抵抗だったのでしょう。
 
 
さらには、大鳥居撤去の際に怪我人や死者が続出した…との正式な記録はどこにも残っておりません。
 
ただ、巷間そう言われているだけです。大鳥居が残されたのは、着陸する飛行機の目印にする為だったと言う
 
説さえあります。
 

 
しかし、実際に事故があろうがなかろうが、どうでもいいのです。
 
大鳥居が、そこに残っていたと言う事実さえあればいいのです。
 
理不尽な命令に従わざるを得なかった住民の目には、消え去った町の跡に立つ大鳥居は、かつて住んでいた
 
思い出深い町の象徴であり、米軍の力に屈しなかった魂のシンボルと写ったのではないでしょうか。
 
 
以前記事にした将門の首塚と同じく、圧倒的な力で自分達の土地や文化や信仰を踏みにじるものに対する
 
庶民の力なき抵抗として、「大鳥居の祟り」の伝説は生まれ囁かれてきたと、そんな気がします。
 

 
平成11(1999)年、更なる空港拡張工事の為、撤去が検討された大鳥居ですが、地元住民の強い希望で
 
約800m離れた場所に移転される事になりました。費用は住民の集めた募金(約2,000万円)があてられました。
 
そして一人の怪我人も無く無事移転作業は完了し、現在に至ります。
 
 
先日、そんな羽田の大鳥居に行って参りました。
 
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時代に翻弄された地を見守ってきた大鳥居は、多摩川のほとりに静かに佇んでおりました。
 
暗くて見えませんが、現在の大鳥居には「平和」と記された額が掲げられております。
 
(↓)現在の大鳥居の位置。
 

 
 
 イメージ 6(↓)また負けた…
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

呪いの赤いベンツ

1914年6月28日、視察の為サラエボを訪れていたオーストリア皇太子フェルディナンド大公夫妻が、歓迎パレー
 
ドの最中に射殺された事件。世にいう「サラエボ事件」です。
 
この暗殺事件をきっかけに、第一次世界大戦が勃発しました。
 
そして、同時に、恐ろしい「呪い」の連鎖が始まったのです…。
 
 
その時大公夫妻が乗っていた車は、当時の最新型だったベンツ540でした。
 
そして、そのボディーは赤く塗装されていました。
 
-そう、滴り落ちる血のように、真っ赤に…。
 
 
(↓)「赤いベンツ」に乗り込むフェルディナンド大公夫妻。
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「サラエボ事件」の後、この赤いベンツは、事件当時警備係として大公夫妻に同乗していたポチオレック将軍が所
 
有する事となりました。―これが「呪い」の始まりでした。
 
前線で指揮をとっていたポチオレック将軍は3個師団を失う大敗を喫し、前線から召還されてしまいます。
 
その屈辱に将軍は精神を病み、赤いベンツの所有者となってから20日後に死亡しました。
 
 
次に赤いベンツの所有者となったのは、ポチオレック将軍の部下だったドスメリア大尉ですが、その僅か9日後、
 
赤いベンツを運転していた大尉は、農夫2人を轢き殺した挙句に立木に激突、首の骨を折って死にました。
 
 
第一次大戦が終わると、赤いベンツは新生ユーゴスラビアの某州知事が所有するところとなりました。
 
州知事は赤いベンツを修復し、愛用しておりましたが、4ヶ月の間に4回もの事故に見舞われました。事故で右腕
 
を失った知事は「この車は死神に取り憑かれている…」と恐れおののき、赤いベンツを解体する事にしました。
 
 
しかし、友人の医師が解体に反対したので、州知事は二束三文で赤いベンツを医師に売り渡しました。呪いなど
 
信じない医師は格安で手に入れた赤いベンツに大喜びでした。しかし、半年後、路上で横転した赤いベンツの下
 
から、圧し潰れた医師の死体が…。
 
 
赤いベンツは再び修復され、あるオランダ人宝石商のものになりましたが、1年後に再び売りに出されました。宝
 
石商が謎の自殺を遂げたからです。この頃には「呪いの赤いベンツ」は人々の耳目を集めるところとなっており、
 
宝石商の身に何が起こるのか、注目されていた中での事件でした。
 
 
赤いベンツはある医師に引き取られましたが、ベンツの呪いを恐れたのか、患者がさっぱり寄り付かなくなってし
 
まった為、スイス人のカーレーサーに売却。
 
 
現実主義者のレーサーは呪いなどは全く気にせず、アルプス・ドロミテのレースに赤いベンツを改造して出場し
 
ました。しかし、そのレース中に横転、車から投げ出されたレーサーは首の骨を折って、即死してしまいました。
 
 
次に赤いベンツを手に入れたのはドイツ人の実業家でしたが、僅か2日後に石壁に衝突して、死亡しました。
 


 
しかしなんとまあ、死にも死んだりですねぇ。
 
ポチオレック将軍から数えても、ひい・ふう・みい…8人ですよ、8人(+重傷1名)!!
 
ところが、「赤いベンツ」の呪いはこんな程度では終わりません。
 
終わるどころか、まさに暴走を始めるのです。
 


 
いくら世の中広し、好事家多しといえども、さすがにここまで来るとおいそれと手を出す人もいなくなり、赤いベン
 
ツに買い手はなかなかつきませんでした。(この期に及んでまだ売ろうとする根性は大したものですが…。)
 
 
しかし、物好きというのはやっぱりいるようで、今度はサラエボの農場主が赤いベンツのオーナーとなりました。
 
呪いの噂を良く知る農場主は、運転には最大の注意を払い、数ヶ月が経っても事故一つ起こしませんでした。
 
「なんだ、やっぱり呪いなんて無かったんだ」と、そう思い始めた農場主でしたが、ある朝突然エンストして動かな
 
くなった赤いベンツを修理工場に運ぼうと、通りがかりの荷馬車に引いて貰って街に向ったところ…。
 
赤いベンツのエンジンが突然かかり、赤いベンツは暴走を始めました。赤いベンツは荷馬車を蹴散らして、農場
 
主と荷馬車を引いていた農夫を即死させ、自らも道路下に転落してしまいました。
 
 
それでも修理工場まで運ばれてきた赤いベンツを、よせばいいのに、修理工場の経営者が買い取りました。
 
経営者は、因縁つきの車をそのまま乗る気にはならず、赤い塗装を青に塗り替えました。しかし、そんな小手先
 
では呪いが鎮まる筈も無い。ある日、結婚式に参列する為、友人4人と”青い”ベンツを飛ばしていたところ、突然
 
車が暴走し、対向車に正面衝突!!乗っていた経営者と友人達合わせて5人の命が失われました。(一挙に5人は
 
新記録ですな。)
 
 
その後、再び修理されたベンツですが、もはや買い手は無く、オーストリア政府が接取して、ウイーンの博物館
 
に展示される事となりました。博物館の案内係のブルナーはこのベンツを大切に管理していましたが、第二次大
 
戦が勃発すると、連合軍の爆撃で博物館は崩壊してしまいました。
 
 
そして、瓦礫の中からは、赤いベンツの残骸どころか破片一つ見つからず、ブルナーの遺体も発見されずじまい
 
だったそうです。
 
 
長い長い旅を経て、ここでようやく、「赤いベンツ」の呪いは、終わったのです…。
 


 
こうして数多くの人命(合計16名+重傷者1名)を道連れにし、消えていった「呪いの赤いベンツ」。
 
別名、「死神ベンツ」とも言われております。
 
 
事故で人が死んだ中古車が…などと言って、「呪いの○○(車名が入る)」なんて怪談がよくありますが、
 
その手の先駆けみたいなお話です。
 
 
しかし、しかしですよ。
 
ホントにあったんでしょうか、こんな連続事故死事件が!?
 
いくらなんでも、出来すぎたハナシに思えませんか???
 

 
−と言う訳で、ちょっと調べてみました。
 
(ここから先は「謎は謎のままがいい」と言う方はお読みにならないで下さい。)
 
 


 
調べた結果、「呪いの赤いベンツ」の話は、ガセネタ法螺話だった…と言うことがほぼ判明致しました。残念!!
 
 
どういう事か申しますと。
 
まず、このハナシ、最初と最後が大きく間違っています。
 
 
その、最初の大きな間違いとは…。
 
呪いの車は、ベンツ540ではない!!
 
と言う事です。
 
ベンツ540シリーズは、1936年にデビューした車なので、1914年のサラエボに存在する訳がありません。
 
 
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(←)ベンツ540K。
 
ナチス高官御用達の高級車ですね。その筋のマニアの
 
方々にとっては御馴染みの車です。
 
 
 
 
 
 
 
 
では、違う型のベンツかと言うと、そうではなく、呪いの車は、ベンツですらありません
 
 
この車は、オーストリアの自動車メーカーGraef & Stift社のoffener Tourenwagen(製造期間1901年〜1918年)と
 
言う車なのです。
 
呪いの…だろうが、死神…だろうが、ベンツってのは大間違いの嘘っぱちでした。
 
(↓)Graef & Stift offener Tourenwagen。
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 イメージ 9(↓)四面図。
 
 
 
そして、最後の大きな間違いとは…。
 
呪いの車は、現存している!!
 
と言う事です。ウイーンの軍事史博物館に、博物館の目玉として、堂々と展示されているのです。
 
連合軍の空爆で云々…と言うのも、大間違いの嘘っぱちでした。
 
 
(↓)ウイーン軍事史館博物所蔵の車。赤い囲みは、「サラエボ事件」の弾痕。
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そして、「呪い」のハナシには、もう一つ、大きな間違いが。
 
そう、画像をご覧になって、もうお判りでしょう。
 
呪いの車は、赤くない!!
 
のです。
 
 
「呪いの赤いベンツ」のハナシは、最初と最後が大間違いで、色まで間違っている。
 
とすれば、間の「呪いの逸話」も全て与太だと思った方が良さそうです。
 
 
事実、軍事史博物館の車は、「サラエボ事件」でつけられた弾痕が残るほどオリジナルな状態で展示されており
 
ます。当然ですが、そこには何度も転売されて事故と修復を繰り返した痕跡は全く残ってはおりません。
  
 
つまりは、「呪いの赤いベンツ」は、都市伝説の中にしか存在しないモノだったのです…。
 


 
ベンツでもなく、赤くもなく、爆撃で失われた訳でもないこの車が、何で「呪いの赤いベンツ」の主人公になってし
 
まったのか?
 
 
この辺の訳の判らなさって、つくづく、都市伝説の醍醐味だと思います。
 
 
どこからこのハナシが出てきてどうやって広まったかなんてのを調べると面白そうですが、お子さんの夏休みの
 
自由研究にいかがですか?
 
イメージ 7
 

 
 


 
 
 
(↓)結構、達成感があるなぁ、この記事。「調べてやったゼ!!」みたいな。
イメージ 6
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
超常現象ネタの一ジャンルとして、「過去からやってきた乗り物ネタ」があります。
 
 
やたら古い飛行機が飛んできたかと思うと、それは〇〇年前に謎の消失を遂げた飛行機だった…と言う類のオ
 
ハナシ。そのハナシの内容によって「UFOネタ」に分類されたり「異次元ネタ」に分類されたり「タイムスリップネ
 
タ」に分類されたりします。
 
 
その中でも割と最近流布したのがこの「キングバード50」です
 
いくつかのサイトを見てみましたが、このネタも元になったテクストは一つの様で、ほぼ同じ内容が繰り返されて
 
おりました。大体こんな内容です。
 


 
2001年12月23日午前0時ころ、グリーンランドのトゥーレ空軍基地の管制官は、猛烈なブリザードの中を一機の
 
正体不明機が近づいていることに気づいた。雪嵐が吹き荒ぶ悪天候なので、どこかの飛行機が緊急着陸を求め
 
て飛来したと判断した。未確認機がトゥーレ沖100海里まで接近した時、現在では使われていない周波数で未確
 
認機から管制室にコールがあったが聞き取れなかった。奇妙なのは周波数だけではなく、未確認機は速度が遅
 
すぎ、高度も低すぎる事だった。
 
イメージ 2
(←)トゥーレ空軍基地。
どっちかと言うと「チューレ空軍基地」と言った方が馴染みがあるのですが…。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「現在位置は基地より10海里・・・基地が見えるはずなんだが・・見えない。闇を照らしてくれ。」
 
未確認機から無線連絡が入り、基地では未確認機の到着に備えすぐに全ての非常灯を照らしレーダービーコン
 
も機能を始め、受け入れの準備を万全に整えた。その時点では未確認機が基地のレーダーは未確認機の機影
 
を捉えていたのだが、その後未確認機は突如スクリーンから姿を消してしまった。最大瞬間風速50mを越える暴
 
風雪の天候を考えると、墜落したことが予想されたが、捜索に向かえば二次遭難の恐れがあり天候の回復を待
 
って行うことになった。

 
夜明けとともにブリザードも弱まり、捜索が始まった。そして数時間後、トゥーレ空軍基地から約12海里の地点で
 
未確認機は発見された。未確認機は機章からアメリカ空軍のものと思われたが、乗務員は全員死亡していた。
 
墜落の原因は燃料切れ、機体には特に破損もないことから不時着には成功したようだった。乗務員はトゥーレ基
 
地が近いことを認識していて、機内にとどまって救助隊の到着を待っていたようだが、最低温度マイナス52度を
 
記録するなか、全員が凍死してしまったのだ。

 
捜索隊のエドガー・バーネット大尉が航行日誌調べると、先ほどまでのトゥーレ空軍基地とのやり取りと、不時着
 
した後までのことが書かれていた。そして、この爆撃機はボーイング社製B50Dスーパーフォートレス爆撃機・
 
キングバード50であり、53年前の1948年12月22日にアメリカ・ニュージャージー州のマクガイア空軍基地を飛び
 
立ったと記録されていた。そして、目的地はここトゥーレ基地だった。53年の時を経ていたが、飛行時間は予定よ
 
り2時間遅れていただけだった。

このキングバード50の当時の航行記録を調べてみると、53年前にバミューダ海域で消息を絶った飛行機である
 
ことが分かった。このキングバード50は、トゥーレ空軍基地に収容された後、3日後にはアメリカに送り返された。
 
イメージ 1(←)B-50D爆撃機。あのB-29の改良型です。

 
つまりは、53年前に失踪した爆撃機が現れたと。
 
事実であれば、こんな不思議な事はありません。
 
事実であるとするならば、キングバード50の機体はどこに保管されてるのか?
 
まさかスミソニアンの未整理の倉庫に放り込まれているのか???
 
で、ちょっと調べてみました。
 
 
英文のサイトで1948年の軍用機を含む航空機事故を調べたら、1948年12月22日・23日でB-50Dが墜落もしくは
 
行方不明になった事故は一切記載されておりませんでした。
 
さらに、B-50Dを調べると、最初に配備されたのがニューメキシコ州のウォーカー空軍基地で、それは1949年の
 
事。つまりは1948年にB-50Dが飛び、そして失踪すると言う事ははあり得なかったのです。
 
さらにつじつまが合わないのは、キングバード50のクルーがトゥーレ基地を目指していた点。何故なら、トゥーレ
 
に爆撃機基地の建設が開始されたのは1951年7月の事であり、しかも計画は極秘裏に行われたので、1948年12
 
月に失踪したとされる彼らがトゥーレ基地の存在を知る筈はないのです。(それ以前からもトゥーレには基地があ
 
ったが、気象観測基地に過ぎず、滑走路も小規模な物があるのみだった)それに、ニュージャージーの基地から
 
グリーンランドを目指したのに何故反対方向のバミューダで失踪するのか…。
 
 
―と言う訳で、どうやらキングバード50の機体は最初から何処にもないと言う結論に達してしまいました。
 

 
つまるところ、「キングバード50」も昔から繰り返し流布されてきた「幽霊船」「幽霊飛行機」の類話でしかなかった
 
のですが、何故こんなハナシが出来上がったのでしょうか?推測するに、アラスカで氷付けになっていたB-29の
 
話(それを蘇らせて飛ばそうとしたいたアメリカ人のおっさん達がいた)や、1968年1月に発生したトゥーレ基地近
 
くでのB-52墜落事故(核爆弾を搭載した爆撃機が墜落したブロークンアローな事故)が「幽霊飛行機」の話に組
 
み込まれて、現代の怪談に仕立て上げられたのではないかと思います。
 
 
似た様なハナシに「サンティアゴ航空513便事件」とか言うのもありますが、こちらもちょっと調べるとガセだと判る
 
シロモノ。この手のハナシのミソは乗ってた人が皆死んでる所です。生きてたら、その人達はどうなったんだと勘
 
ぐられますからね。
 
 
こう言った過去から航空機等がやってくるハナシを「逆バミューダ現象」と言うそうですが、逆も何もバミューダ・ト
 
ライアングルの消失自体がガセですから。ちゃんちゃん。
 

 
イメージ 3
 
ああ、やっと終わります…。
 

まとめ

今や、中国ではカトリック信徒の数が共産党員の数を大幅に超え、党も相当な警戒心を抱いている様です。
 
バチカンは表向きは「内政不干渉」の立場をとっておりますが、国際政治の舞台ですから、表もあれば裏もあ
 
る。自由主義諸国の対中国戦略の一環をバチカンが担っているのは間違いないところですが、その辺は当ブロ
 
グの趣旨ではないので割愛します。
 
 
2005年5月13日、ファティマでバチカン国務省長官アンジェロ・ソダーノ枢機卿が声明を出しました。
 
「1989年に相次いで起きた事件【TO注:ソ連・東欧諸国の民主化運動を指す】ソヴィエト連邦においても東欧
 
諸国においても、無神論を標榜していた共産主義体制の崩壊をもたらしました。このためにも教皇は、心の底か
 
ら聖なるおとめマリアに感謝しておられます。しかし、世界のほかの地域における、苦しみの重荷を背負う教会
 
とキリスト者にたいする攻撃は、残念ながらまだ終わっていません。ファティマの『秘密』の第三部にかかわると
 
思われるいろいろな出来事は、もはや過去のことに思えるにしても、聖母マリアから20世紀の初めに呼びかけれ
 
た回心と償いへの招きは、今日もなお時代性と緊急性を残しています…」
 
 
前回の記事をお読みになって、「第一・第二の秘密」と「第三の秘密」の大きな違いにお気づきになった方も多い
 
のではないでしょうか。そう、「第一・第二の秘密」は聖母マリアが言葉で告げたのに対して、「第三の秘密」は
 
「バチカン崩壊」の抽象的なイメージをルチアに見せただけ。色々な解釈の余地が十分に残されているのです。
 
これは何故かと言うと、「第三の秘密」はまだ成就していないからだと思います。共産主義は未だ存在してお
 
りますから、バチカンはまだまだとうぶん「ファティマの秘密」を完結させる訳にはいかないのです。
 
 
「世界のほかの地域」に、中国が思いっきり入っている事は言うまでもありません。バチカンの戦いはまだまだ続
 
くのです。
 

 
1917年に、ポルトガルの寒村で起こったとされる奇跡。
 
 
ルチアが出会ったのは本当に聖母マリアだったのか?それとも彼女の幻覚に過ぎなかったのか?
 
聖母出現が本当だったとしても、預言された内容は本当に公表された通りだったのか?
 
それは誰にもわかりません。
 
全てを知る唯一の存在、ルチア・ドス・サントスは、2005年2月13日、心不全で死去。97歳でした。
 
後を追う様に同年4月2日、教皇ヨハネ・パウロ2世が死去。
 
 
合掌…じゃなかった、アーメン。
 

 
このネタを調べていて、私に判った事実は只一つだけです。
 
それは、「ファティマの秘密」は共産主義の勃興と共に生まれ、以後バチカンによって、それぞれ絶妙な
 
タイミングで世に示され、反共産主義のツールとして使われてきたと言う事。
 
 
―あ、あともう一つ。UFOとかじゃぁないって事。
 
(おわり)
 
 

(参考)沢山あってめんどくさいので、今度入れます。
 
 
イメージ 1
(←)このネタにはもっともっとオカルト探求心を刺激する要素(例えばフランシスコの遺体を移動するために掘り起こしたら、顔が腐ってなかった…とか)があるのですが、その辺はまた別の機会に…。
 
 
 
 

特別付録!! 「ファティマ関連年表」

1914728日 第一次大戦開戦。
 
1917223日 ロシア2月革命。ロマノフ王朝崩壊。
 
1917513日 ファティマでの第一回目の聖母マリア出現。
 
1917713日 聖母マリアが「三つの預言(ファティマの秘密)」をルチアに伝える。
 
19171013日 6回目にして最後の聖母出現。「天空の奇跡」が示される。
 
19171025日(旧暦) ロシア10月革命。
 
19181111日 第一次大戦終結。
 
1919年 コーバ・ダ・イリヤに礼拝堂が建てられる。
 
191944日 フランシスコ病没(享年11歳)。
 
1920220日 ヤシンタ病没(享年7歳)。
 
19221230日 ソビエト社会主義共和国連邦樹立。
 
19301013 ファティマの聖母出現をバチカンが奇跡として認定。
 
1938125日〜26日 西ヨーロッパ一帯に夜空を真っ赤に覆う様なオーロラが出現。
 
193991日 ドイツのポーランド侵攻により第二次大戦勃発。
 
1941831日 ルチアが第一・第二の秘密の内容をしるした「第三の回想録」を教皇に送る。
 
1942年 バチカンが「ファティマ第一・第二の秘密」を公表。
 
1943年 ルチアが「第三の秘密」を教皇に送ったとの説あり。(異説あり。以下参照)
 
1945815日 第二次大戦終結。
  
1946513日 教皇ピオ12世がファティマを訪れ聖母像に「平和と世界の元后」との王冠を贈る。
 
1940年代後半 チェコスロバキア・ハンガリー・ブルガリア・ポーランド・ユーゴスラビア・ルーマニア・東ド
          イツ等、次々と共産主義国家が成立。
 
1950625日 朝鮮戦争開戦。
 
1951年11月18日 バチカンの新聞に「太陽の奇跡」の写真が掲載される。
 
1956-1957年 第三の秘密が教皇ピオ12世に渡ったとされる説あり。
 
196012月 ベトナム戦争開戦。
 
19621015-28日 キューバ危機。冷戦の緊張が核戦争寸前にまで高まる。
 
1960年代半ば 教皇パウロ6世が「第三の秘密」を開封するも、失神?して再度封印したとされる。
 
1969-1979年 デタント(緊張緩和)の時代。
 
1979年 ソ連がアフガン侵攻を開始。東西は再度緊張し、新冷戦の時代が始まる。
 
1980年 西側諸国がモスクワオリンピックをボイコット。
 
198152日 「第三の秘密」の公開を要求したハイジャック事件発生。
 
1981513日 教皇ヨハネ・パウロ2世暗殺未遂事件発生。
 
1984年 東側諸国がロサンゼルスオリンピックをボイコット。
 
1985年 ソ連でペレストロイカが始まる。
 
1988年 ソ連軍がアフガンから撤退。ソ連の世界に対する影響力の低下が顕在化する。
 
1989119日 ベルリンの壁崩壊。
 
198912月 ブッシュ(パパ)、ゴルバチョフによるマルタ会談で、冷戦の終結が宣言される。
 
1989-1990 東ドイツ・ハンガリー・ポーランド・チェコスロバキアなどソ連の衛星国が民主化。
 
19911226日 ソビエト最高会議が連邦解体を宣言。ソ連崩壊。
 
199413日 「第三の秘密」の内容をルチアが書き記したとの説あり。
 
2000513日 バチカンによって、フランシスコとヤシンタが列福(聖人に次ぐ福者の地位に上げられ
           る事)される。その後のミサにおいて、「ファティマ第三の秘密」を公表。
 
2000628日 バチカンは、イタリア国営放送にて正式に「ファティマ第三の秘密」の内容を発表。
 
2005213日 全ての発端であり、全てを知る唯一の証人であるルチア死去。
 
2005年4月2日 教皇ヨハネ・パウロ2世死去。 
 
2005年5月13日 ファティマにて バチカン国務省長官アンジェロ・ソダーノ枢機卿が声明。
 
 
 
 
さて、できれば今回で終わらせたいネタですが、どうなることやら…。
 


 
「ファティマ第一・第二の秘密」はそれぞれ第一次世界大戦の終結と第二次世界大戦の勃発を、そして長年封印
 
されていた「第三の秘密」は教皇ヨハネ・パウロ2世の暗殺未遂事件を的中させていたと言われておりますし、実
 
際その通りではあるのですが、調べて行くうちに意外な事実に突き当たりました。
 

「第一・第二の秘密」が公表されたのはいつ?

 
何となく、1917年の「ファティマの奇跡」の時には、公表されてたんじゃないの?と言う雰囲気があるのが「ファテ
 
ィマ第一・第二の秘密」です。
 
しかし、ところがどっこい。「ファティマ第一・第二の秘密」は、「奇跡」から25年も経った1942年にバチカンに
 
よって公表されていたのです。
 
1942年と言えば、とっくに第二次世界大戦は始まっており、このタイミングで「これこれこうで、この事は預言され
 
ていました」と言われても、後出しジャンケンみたいで釈然としません。ジュセリーノじゃなんだから。
 
 
また、「第三の秘密」も教皇暗殺未遂事件から19年後に公表された訳で、やっぱりこれも、「預言」は兎も角
 
「予言」としては賞味期限切れですね。「予言」と言うのは、文字通り物事が起こる前に予め言うから意味がある
 
のですから。
 
 
「ファティマの奇跡」の数年後、フランシスコとヤシンタはスペイン風邪で相次いで亡くなります。残されたルチア
 
は14歳で修道女学院に入り、その後は修道女となり、世間からはほぼ完全に隔離された人生を送る事になりま
 
した。シスター・ルチアは「聖母マリア」との約束を守り、「ファティマの秘密」を決して他人に伝えなかったそうで
 
す。しかし、司教の奨めとイエスの許しを得て(シスター・ルチアは修道院に入ってからも度々イエスやマリアと
 
邂逅すると言う神秘体験を重ねていたそうです)1941年8月31日に「第一・第二の秘密」の内容を示した「第三の
 
回想録」を書き綴り、レイリア−ファティマ地区の司教宛に送ったと言われております。つまり、「第一・第二の秘
 
密」が明文化されたのも、第二次世界大戦が始まってからだったのです。
 
25年もの間、聖母マリアの言葉を一言一句全て憶えていたとは、さすがにシスター・ルチアは只者ではない!!!
 

何故そのタイミングで公表されたのか? 

しかし、どうしてバチカンは1942年に「第一・第二の秘密」を公表したのでしょうか?
 
それは、「秘密」の内容を読むと合点がいきます。ちょっと長いですが、引用してみます。
 
 
1917年7月13日、「聖母マリア」は3回目の出現の折に、ルチアにしばし地獄のイメージを垣間見せ、こう仰ったそ
 
うです。
 
「…戦争がもうすぐ終わろうとしています。しかし,もし人々が神に背くのをやめないなら,ピオ11
 
TO注:在位期間192226-1939210日】が教皇である間に,もう一つの,もっとひどい戦争が
 
始まるでしょう。ある夜,まだ見たことのない光がやみを照らすのを見たら,それは,戦争や飢餓,教会と教
 
皇に対する迫害による世の罪のために今まさに神が,世を滅ぼそうとしておられる大いなる徴(しるし)で
 
あると悟りなさい…」
 
とまあ、ここまでが第一次世界大戦終結と第二次世界大戦の勃発を予言しているくだりです。そしてさらにマリア
 
様は、こう仰ったそうな。
 
「それを防ぐために,わたしの汚れない心にロシアを奉献することと,償いのために毎月初めの土曜日に聖
 
体拝領をするよう,わたしはお願いにまいります。もし,わたしのこの要請を受け入れるなら,ロシアは回心
 
,平和が訪れるでしょう。さもなければ,ロシア,戦争と教会への迫害を推し進めながら,自分の誤りを
 
世界中にまき散らすでしょう。
 
善良な人々は殉教し、教皇は非常に苦しみ,多くの国々は滅ぼされるでしょう。けれど,最後には、わた
 
しの汚れない心が勝利するでしょう。教皇は,ロシアをわたしに奉献,ロシアは回心し,世界に平和の時
 
が与えられるでしょう」
 
実は、カトリック信徒にとっては、「ロシアがカトリックを迫害する、ロシアを回心(神の道に心を向けること)させな
 
くてはならない」と訴えている後半部分の方が重要なのです。(「第一の秘密」を戦争の終結と勃発、「第二の秘
 
密」を共産主義によるカトリックの迫害、と捉える向きもあります。)当時のロシアと言えば、共産主義のソ連。
 
神論の共産主義とカトリックの関係は常に戦闘的だったのは歴史の常識です。
 
1942年と言えば、破竹の勢いでロシアに侵攻していたドイツの押せ押せムードにも翳りが見えてきた頃。
 
親ナチだったバチカンが、「おいおい、まずいんちゃうんけ?」と焦りだした頃でしょう。(ちゃうんけ?と言ったかど
 
うかは知りませんが。)
 
そのタイミングで「マリア様がロシアを回心させろと仰った」と言うメッセージを世界に発信するとは…。
 
多分に政治的な匂いを感じざるを得ません。

「第三の秘密」公表の背景

そして、第二次世界大戦が終結。バチカンの天敵である共産主義は生き残り、東欧諸国をはじめ世界のあちこ
 
ちで共産主義国家が成立していきました。共産主義が世界を制覇し始めたのです!!
 
やばい、やばいぞバチカン!!
 
−と、そんな中でついに東西両陣営が直接戦火を交える事になってしまいます。
 
1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発。
 
その翌年に、例の「太陽の奇跡」の写真が公表されました。またまたタイミング良過ぎ〜!!と思うのは私だけで
 
はありますまい。
 
 
さて、そんな中、「ファティマ第三の秘密」が一体いつ書き記され、バチカンに送られたかは今ひとつはっきりしま
 
せん。資料によって書いてある事が違うのです。しかし、ヨハネ・パウロ2世がシスタールチアに宛てた手紙の中
 
に「1957年以来教理庁に保管されている云々」との一節があるので、一応その年に「第三の秘密」がバチカンに
 
渡ったとみなしておきます。
 
ルチアは「第三の秘密」を記した時に聖母マリアから1960年まで開封してはならないと告げられたとしましたが、
 
時の教皇パウロ6世がそれを開封したのは1960年代半ばだったとされております。パウロ6世はその内容に驚
 
愕・失神し、再度封印したとの逸話が残っています。(どうでもいですが、何で1962年のキューバ危機の時に、開
 
けて読まなかったのが不思議です。「世界滅亡」一歩手前までいった事態だったのに…。)
 
 
その後、デタントがあったりソ連のアフガン侵攻があったりオリンピックをボイコットしたりしなかったりと、冷戦時
 
代には色々な事が起こりました。バチカンは常に反共であり、中でも1978年10月に第264代ローマ教皇となっ
 
たヨハネ・パウロ2世は、ポーランド出身と言うこともあって宗教の枠組みを超えた積極的な反共外交を行い、東
 
欧民主化勢力の精神的支柱となり、シンボルとなりました。
 
 
対する共産側も黙っちゃいない。バチカンに息のかかった者を送り込む工作をする位では気が済まず、遂に実
 
力行使に出ます。「教皇暗殺を強行するでぇ!!」と言ったかどうかは知りませんが。
 
1981年5月13日教皇ヨハネ・パウロ2世が、サンピエトロ広場で狙撃され、辛くも一命を取り留める事件が発生。
 
背後にはKGB他東側の諜報機関の存在がありました。この日は「ファティマの奇跡」の記念日であり、教皇はフ
 
ランシスコとヤシンタの追悼ミサを執り行っていたのです。
 
 
そして色々何やらあった末、1985年からゴルビーがペレストロイカをおっぱじめ、ソ連軍はボロボロになってアフ
 
ガンから撤退し、もうソ連は世界に強い影響力を発揮できる力がないことがバレバレになり、何だかんだで、1991
 
年12月26日、ソ連は解体されました。相前後して、ソ連の衛星国と呼ばれた東欧諸国は相次いで民主化。
 
 
バチカンは、無神論者との戦いに一つの勝利を収めたのです。
 
 
そんな混乱も一段落し、、ソ連に代わって台頭してきた共産主義の大国がありました。
 
中国です。
 
共産主義がサタンの次に嫌いと言うバチカンが、中国を黙って見ている訳がない。表と裏から中国に浸透し
 
ていったのが2000年前後。中国4000年の歴史と言いますが、バチカンだって2000年の歴史。いい勝負です。
 
 
その2000年5月13日、バチカンは聖母と邂逅し夭逝したフランシスコとヤシンタを列福(聖人に次ぐ地位に引き上
 
げる事)し、その後のミサで、ルチアが書き記したとする「ファティマ第三の秘密」を公表しました。
 
その内容はこうでした。
 
「すでに述べたあの二つの啓示のあと,私たちは,マリアの左側の少し高いところに,火の剣を左に持った
 
一人の天使を見ました。この剣は,まるで世界を火で焼き尽くさんばかり,火花を散らして光り輝いてい
 
ました。しかし,その炎は、マリアが天使に向かって差し伸べておられた右手から発する輝かしい光に触
 
れると消えるのでした。天使は,右手で地を指しながら大声で叫びました。「悔い改め,悔い改め,悔い改
 
め」。それから私たちには,はかりしれない光〜それは神です〜の中に,「何か鏡の前を人が通り過ぎると
 
きにその鏡に映って見えるような感じで」白い衣をまとった一人の司教が見えました。「それは教皇だと
 
いう感じでした」そのほかにも幾人もの司教と祭司,修道士と修道女が,しい山を登っていました。その
 
頂上には,樹皮のついたコルクの木のような粗末な丸太の大十字架が立っていました。教皇は,そこに到
 
着なさる前に,半ば廃墟と化した大きな町を,苦痛と悲しみにあえぎながら震える足でお通りになり,通りす
 
がりに出会う死者の魂のために祈っておられました。それから教皇は山の頂上に到着し,大十字架のも
 
にひざまずいてひれ伏されたとき,団の兵士たちによって殺されました。彼らは教皇に向かって何発
 
もの銃弾を発射し,矢を放ちました。同様に,他の司教,司祭,修道士,修道女,さらにさまざまな地位や立場
 
にある多くの信徒たちが,次々に殺されていきました。十字架の両腕の下には二人の天使がい,おの
 
おの手にした水晶の聖水入れに殉教者たちの血を集め,神に向かって歩んでくる霊魂にそれ注ぐのでし
 
た。」
 
シスター・ルチアは「白い法衣をまとった司教」は教皇を意味すると確信していると述べ、1981年のヨハネ・パウロ
 
2世が狙撃された事件の予言だと説明しました。しかし、この「預言」と言うかルチアの見たビジョンは明らかにそ
 
れだけではなく、無神論者(=共産主義者)によって蹂躙壊滅させられるバチカンであり、バチカンが代表するキ
 
リスト教世界の崩壊そのものです。バチカンのみならず、全てのカトリック信徒にとってはまさに悪夢の事態。
 
 
「ファティマ第三の秘密」の公表は、そんな恐ろしい予言を乗り越えて、我々は共産主義に打ち勝ったのだ!!と言
 
う、ひとまずの勝利宣言だったのです。
 
 
「第三の秘密」を公表したラッチンガー枢機卿はこうコメントしました。「普遍の運命などない。信仰と祈りは歴史
 
に影響を与えうる。最後には、祈りは弾丸より強く、信仰は軍隊より強いということだ
 
−これは、見方によれば1989年の天安門事件を皮肉っている様にも聞こえ、そうだとすれば、バチカンの中
 
国に対する宣戦布告であったのかもしれません。(−と言うのは穿ち過ぎでしょうか?)
 

 
と、言う所で、文字数制限になってしまいました。
 
まだ続くのか…ハァ…。
 
イメージ 1(←)中日やばし!!―別に応援している訳ではないが…。
 
 
 

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