都内のマンションに住んでいた人の話です。
斉藤さん(仮名)は、10年程前まで中〇〇の賃貸マンションに住んでいたそうです。
今はもうそこには、住んでいません。
その、マンションでの出来事です。
ある夜、会社から帰ってきた斉藤さんがマンションのエントランスに入ると、季節外れの重そうなコートを着た女
が佇んでいました。うつむいて。ぼーっとした感じで。
(うわ、ヘンな奴…。)心の中ではそう思っても、顔に出さずに中に入ろうとすると、その女が声を掛けてきました。
「〇〇さんの息子さんの部屋って、どこですか?」聞き慣れない、珍しい苗字を、その女は口にしました。
ギクリとしながらも、斉藤さんは「さ、さあ?あんまりご近所と付き合いがないので…」と答えました。
しかし、女の耳には入っていないらしく、「ここに住んでるのは判ってるんです。誰も教えてくれないんです。ここ
に住んでるのに、みんな〇〇さんの息子を隠してるんです。ここに住んでるのは、判ってるんです…」
女は、ぎらついている目を中空に彷徨わせながら、そう呟きました。
見ると、20代後半に見えるその女は、化粧もしておりません。
そして、尋常な表情ではありません。顔に血の気が無く、しかし、目は据わったまま血走って。
普通にしていれば美人の部類に入る顔立です。
しかし、エントランスの蛍光灯に照らされたその顔は、墓場から這い出てきた死人を思わせるものがありました。
それに…今日は一日中晴天だったのに、髪の毛がグッチョリ濡れている…。
女の着ている、かなり時代遅れの、こげ茶色のコートも、じっとりと湿っている感じでした。
(わわわ、やべえ!!このまま入り口開けたら、この女、入ってきちゃうよ…。)そう思った斉藤さんは、女の言葉を無
視して、路上に引き返しました。裏の駐車場のドア(斉藤さんは「裏口」と呼んでいた)から中に入ろうと思ったの
です。そのマンションもオートロックで、他人が勝手に入る事は出来ません。裏口も施錠されており、その鍵は住
人しか持っていません。斉藤さんは、自分も含めて、郵便受けに名前を入れる人が殆どいない事を思い出しな
がら、だからあの女は、ああやってマンションの住人に声を掛けてるんだな…と思いました。警察に通報した方
が…とも思いましたが、別に悪い事をしている訳でもなし、また、他人の厄介ごとに巻き込まれるのが嫌だったの
で、そのまま放置したそうです。(ストーカーって、ああ言う感じなんだ。しかし、〇〇の息子って人も、ヘンな女に
追いかけられて、困ってるだろうなぁ。)と、そんな程度にしか思わずに。
それから、しばらくの間。
忘れた頃に、夜のエントランスで、その女の姿を見ました。女は、エントランスの中にいたり、外に立っていたりし
ていました。いつもいつも、あの時代遅れのコートを着ていました。相変らず、中には入れない様です。女の姿を
見かけると、斉藤さんはそそくさと裏口に回って部屋に帰るのでした。
そんなある朝、マンションのエレベーターで、共働き風の若い夫婦連れと乗り合わせました。夫婦は小声で話し
合っています。
「だって、昨夜もいたんだよ…絶対おかしいよ、あの人。『〇〇の息子』って、もう何回も訊かれたんだよ。管理人
さんとかって、あの女の人の事知ってるのかな?」 「うーん、一度、言っておいた方がいいかもな…」
あの、コートの女の事を言っている様です。(やっぱり、みんなに訊いているんだ。)斉藤さんは、夫婦に話しかけ
ました。「あのぉ、それって、こげ茶のコート着た…?」
「そうそう。そうです。やっぱり、見ました?あの人?」と、奥さんの方が食いついてきました。駅までの道すがら、
警察沙汰にする前に管理人さんに言おうという事になりました。管理人さんは平日の昼間にしか来ないので、月
に何日か平日休みが入る斉藤さんが、管理人さんに言う事になりました。
そして、その平日休みの日。斉藤さんは初老の管理人を捕まえて、事の次第を話しました。
「―で、皆さん不安に思っているみたいですから、管理会社の方で何か対策を考えて貰えないかと…」
話を黙って聞いていた管理人さんは、「そうですか」と口を開きました。「実は、他の住人の方からも何件かそう言
う話は受けてまして。私も、夜に様子を見に来て、その女を確認した事もあるんです」元警察官の肩書きを持つ、
実直そうな管理人さんは、そう言いました。
「管理人さんも、見てるんですか?その時何か話しました?」
「ええ、話したというか、ただ一方的に『〇〇さんの息子がどうとか』って言うばかりで…。私も『ちょっと、あなた、
住民以外の人がこんな所にいちゃあいけんでしょ、今日は早く帰りなさい』と言うんだけども、聞こえてるのか聞
こえてないのか。押し問答にもならない。そしたら、すーっと出て行くから、ちょっと後をついて行ったんですよ」
「ほお!そこまでして頂いてたんですか。ご苦労様です、勤務時間外なのに・・・」
「いえいえ、まあ、責任上ですねぇ。でも、あの女の人、あそこ、駅に行く途中のコンビニの角があるでしょう?あ
そこを左へ曲がるんですよ」
「―え?じゃあ、駅に向かったんじゃないんですね?―と言う事は、この近所に住んでるのかな?」
「はあ。良く判りませんが…」
「って、管理人さん、尾行したんじゃ?」
「いえね、てっきり駅に行くと思ってたのに角を曲がったんで、私も早足で角をまがったんです。そしたら…いない
んですよ」 「―いない?って、いないんですか?」
「いないんです。姿が何処にもなかったんです。女の人が曲がってから、ほんの10秒かそこらですよ。私が角を
曲がったのは。そんな間に隠れるなんて無理でしょう?一応、辺りを探しましたけど、何処にもいないし」
「―気味悪いですね…。何者なんでしょうか、あの女…」
管理人さんも「さあ…?」と言いながら首をかしげるばかりです。
「あ、ところで、〇〇さんって、ここに住んでいるんですか?」斉藤さんは興味本位で訊きました。
管理人さんは、はははと笑って、「何だ、あの女と同じ事を訊くんですね。いやまあ、同じ苗字の方はお住まいで
すけど、その人がそうかは判りませんよ。プライバシーの問題もありますからね」
既に、管理会社には報告してありますから…と言う管理人さんの言葉にとりあえず納得しつつも、得体の知れぬ
不安と言うか、恐怖を感じる斉藤さんでした。
けたたましい、救急車のサイレンに、早朝からたたき起こされたのはそれから間もなくの事だったそうです。
自分の住むマンションに救急車が来たらしい事は判りました。急病人でも出たか、と思って寝直そうと思っても
窓の外からは、大声が響き、尋常ではない雰囲気が伝わってきます。
ベランダから下を覗くと、マンション脇の歩道に人が倒れ、頭の部分からおびただしい血液が、水溜りの様に広
がっているのが見えました。
(うわ、飛び降り?このマンションから?)
その自殺の短い記事は、夕刊に載っていたそうです。
死んだ男の苗字は、あの女が訊き回っていた、〇〇でした。聞き慣れない、珍しい苗字です。
記事によると、事件性は無く自殺と断定されておりましたが、斉藤さんは果たして本当にそうなのか?
と思わざるを得ませんでした。
あの、こげ茶のコートの女の存在が、どうしても頭にこびりついていたのです。
平日休みでコンビニに行こうとしていた斉藤さんは、管理人さんに声をかけられました。
「斉藤さん、ちょっとお時間あれば…」と、管理人室に連れて行かれました。
管理人さんは、これ…、と言いながら、引き出しから小さな紙片を取り出しました。それは高級そうな和紙で、
何やら梵字の様な、文字とも記号ともつかないものが書き込まれていました。やや煤けて、薄汚れた感じがしま
す。「何です?これ?」そう訊ねる斉藤さんに、管理人さんは更に申し訳なさそうに言いました。
「これ、この間掃除をしていた時に、エントランスの自動ドアの上辺りに貼ってあるのを見つけて、剥がしたんで
す。いや、ちょっと見ただけでは気づかない所に貼ってあったんですけどね。剥がしてからよく見ると、なにやら
有難そうなものだし、悪戯で貼った風にも見えないし。でもまあ、何であれ勝手に貼るのはいけないので剥がし
て、そのうち神社にでも持てって、焼いてしまおうと。ほら、あそこの神社、暮れにドンドン焼きをするから、そこに
くべようと思ったんですがね…」 「はあ…」 「でもね、気味悪いのは、これを剥がしたその翌朝に…〇〇さんが」
(↑)気付けば、本業を記事にするのを忘れておりました。いくつかストックがあるので、おいおい記事にします。