事件の裏の怪

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 次のページ ]

幽霊カーブ

某鉄道会社の方から聞いたお話です。

差障りがあるので、会社名・場所などは伏せさせて頂きます。


その方、Hさんは鉄道の運転士さんです。

Hさんの勤める鉄道会社のある路線に、内輪で「幽霊カーブ」と呼ばれている場所があるそうです。


昭和20年代、ブレーキの故障した列車がカーブを曲がりきれず脱線し、大勢の死者を出した場所です。

今も、事故の慰霊碑が残っています。


そこでは、運転士や車掌が人魂を目撃したり、保線要員が姿の見えない人に声をかけられたりする

と言う噂が囁かれておりました。


ある夜、Hさんが回送電車に乗務していた時。

「幽霊カーブ」に差し掛かると、線路脇に大勢の人影が並んでいるのが、ぼんやりと見えました。

勿論そこは一般の人が入り込める場所ではありません。保線員が居るとの申し送りも無い。


Hさんは、目の錯覚だろうと、無理やりにでも思い込もうとしました。

しかし入庫後に、後ろの運転台に居た車掌が駆け寄って来て、震える声で言ったそうです。


Hさん、さっき『幽霊カーブ』で、出ましたね…。皆、血まみれで…。

「八丈島の忌み話」

1952(昭和27)年の事。

伊豆諸島の一つ、太平洋に浮かぶ八丈島で、土木作業中の死亡事故がありました。

島内の山中で林道建設中の作業員数名が土砂崩れに遭い、1人は一命を取り留めたものの、7人の死者が

出たのです。


「犠牲者が7人…。まさか…。この昭和の時代に…。」

島に密かに伝わる、ある「伝承」を知る島民の間には「これは、祟りではないか」と戦慄が走りました。

その「伝承」とは、江戸の昔から、「山中では決して口外するべからず」と定められ、

島民の間に密やかに口伝えされたこんな「忌み話」でした。
江戸時代、全てを自給自足で賄う八丈島は、度々飢饉に見舞われていた。
ある時の飢饉で、島民が食うや食わずの状態の中、上方から江戸に向かう船が難破し、7人の僧侶が
八丈島に流れ着く。
僧侶達は飢えに苦しみながら島内を彷徨い、ようやくある村に辿り着いた。
流人の村人達は、助けを求める僧侶達を、「余所者に施す余裕は無い」と村外に放逐するばかりか、遂には惨殺するに及んだ…。
「7人の符号」に、島民は殺された僧侶の祟りでは…と思ったのです。

事故の直前(数日前との説もあり)、作業員の一人が「昔、ここ辺で7人の坊さんが島民に殺されたそう

だ」と島の伝承を話し、島の人が諌めるのも聞かず、その伝承を嘲る様な掛け声をかけながら、作業をし

ていた…との噂も立ちました。



さて、時は移って、1995(平成7)年8月。

そんな事故の記憶も薄れ掛けた頃、八丈島で奇妙な「事件」が発生します。


厳重に施錠された町営の火葬場から、子供のものを含む身元不明の人骨が七柱発見されたのです。

人骨は、最近焼かれたものではなく、死後十数年は経過していると鑑定されました。

誰の仕業かも、人骨の身元も、全く不明のままに「事件」は謎だけを残して幕を降ろしました。

当時、新聞や週刊誌、ワイドショー等で騒がれた為、記憶にある方も多いのではないかと思います。


再び「7」の符号が起こったばかりか、身元不明の人骨と言う不吉な事件に、島の人々が戦慄を覚えた

であろう事は、想像に難くありません。


―以上が「八丈島の七人坊主の祟り」として有名なお話の概略です。




と、ここで終わっても良かったのですが、1周年感謝フェアと言う事で、もう少し調べてみました。


この手の「伝承」は、現代になって捏造されたモノであるケースが多いのですが、「七人坊主」のお話

は、かなり昔から存在していました。大正15年に発行された「民族」(小寺融吉 著) の中で、八丈島

の話として次の様な民話が紹介されております。
八丈島に漂着した7人の坊主を島人が惨殺した。
怨念がその地に宿り、坊主と呼ぶと、7人の坊主の姿が夢現と現われた。
つまり、「山中で口外してはいけない、七人坊主惨殺話」と言う云われは、実際に存在していたのです。


ただし、この「七人坊主惨殺話」には疑問点も多く見受けられます

話だけを聞くと、荒くれの流人が住む村で、僧侶達が惨殺された…と言う風なイメージを抱きます。


確かに八丈島は流刑地として知られてはいます。

島流しの島とは、遥か昔から流人たちが何千人も流され、荒涼とした無人島にコロニーを作った。つま

り、島流しの島には流人しかいないと言う様な一般的なイメージがありますが、さにあらず。


八丈島の場合、流刑地となったのは、江戸初期からで、流人第一号は関ヶ原で西軍についた宇喜多秀家父

子です。その後、江戸時代を通じて流刑地となりますが、その間に八丈島に流された流人の総数は、

約1900人程でしかありません。当時、流人は八丈島に着くと、地役人、名主などの出迎えを受け、

くじ引きで各村に振り分けられて住まいを定め、島抜けを企まない限りは、島内では原則自由に生活でき

たそうです。(結婚は許されませんでしたが、島内の女性と同居する事まで認められていました。)

つまり、流人だけの村、と言うのはあり得なかったのです。


更に、流人というと、荒くれ者ばかりと言うイメージもありますが、八丈島の場合は、余りに遠い為、

知能犯や政治犯、はたまた身分の高い者等といった、各時代毎のエリートが多く流されておりました。

こそ泥や強盗程度の犯罪者を、高い費用と遭難のリスクをかけて連れて来るには遠すぎたのです。


そして、流人となった者達は、全国各地から高度な知識や技術を八丈島にもたらしました。

例えば…
師民部:多数の仏教彫刻を作った。
狩野春潮:絵師で南京船漂着図を作成した。
菅野八郎:奥州の百姓で、養蚕技術を伝授した。
太田道寿:島の医療の改善に尽力した
加藤稲五郎:為替手形を島に広める。
丹宗庄右衛門:芋焼酎の造り方を伝授した。(ちなみに芋だけの焼酎は独特の匂いがするため、現在では芋と麦のブレンド焼酎になった)
平川親義:明治になって夜学学校を開設し、初等教育に尽力した。
近藤富蔵:択捉島を日本領土だとした探検家近藤重蔵の長男で、人殺しにより島に流された。明治になって放免され『八丈実記』72巻を作成した。(ちなみに、この人は八丈島に流された最後の流人です。)
等など。

その為、当時から八丈島の文化・知的水準は、離島としてはかなり高かったそうです。(勿論現在も)

また、甘蔗(サツマイモ)が普及してからは、飢饉も薄らいでいたとの事。


そんな文化水準の高かった八丈島で、幾ら食糧不足とは言え、七人もの僧侶を惨殺すると言う事が

あったのか?流人が絡んでいたとしても、むしろ、僧侶を助ける事によって、特赦を期待する方が普通で

はないのか?

そんな気がします。(実際、江戸時代を通じて500人程の流人が特赦・恩赦にあずかっています。)


更に色々と調べてみると、僧侶達は殺されたのではなく、村落から放逐されただけだ、と言う説もある事

が判りました。実は、僧侶の一人が伝染病に罹患しており、伝播を恐れた為だとか。

僧侶には気の毒ですが、閉鎖された孤島で伝染病が広がると、島民が絶滅しかねません。

八丈島の島民たちは、止む無く僧侶を山中に追いやったと考える方が納得がいく様な気がします。


では、何故この様な「忌み話」が生まれたのか?

「七人〇〇」と言うと、思い浮かぶのが「七人ミサキ」です。「七人ミサキ」とは…
七人ミサキ(しちにんミサキ)または七人みさき(しちにんみさき)は、高知県を初めとする四国地方や中国地方に伝わる集団亡霊。災害や事故、特に海で溺死した人間の死霊。その名の通り常に7人組で、主に海や川などの水辺に現れるとされる。
七人ミサキに遭った人間は高熱に見舞われ、死んでしまう。1人を取り殺すと七人ミサキの内の霊の1人が成仏し、替わって取り殺された者が7人ミサキの内の1人となる。そのために七人ミサキの人数は常に7人組で、増減することはないという。(ウィキペディアより)
同類の怪として、「七人同行(しちにんどうぎょう)」「七人童子(しちにんどうじ)」と云われるモノ

もあります。何となく、「七人坊主」とイメージが重なる様な…。



―と、言う訳で…、長々と書いてきて、やっとオチですが。


流れ付いた僧侶(何人だったかは兎も角)を、止む無くとは言え非業の死に追いやった負い目がある所

に、中国地方もしくは四国出身の流人がもたらした「七人ミサキ」の妖怪話が重なり、「七人坊主惨殺

話」の原型が出来たのではないのかなと、私はそんな気がします


では、冒頭の事故・事件は何なのか…?それは私には判りません。

只の偶然と言えばそれまでだし、曰くがあると言えばありそうだし…。

ただ、不謹慎ながら、興味深い話である事は否めません。


ちなみに、色々調べている内に、某巨大掲示板に八丈島の話としてこんな書き込みを見つけました。
何でも、夜、友人達とクッチャべってたら、坊主頭の集団が現れたそうです。
坊主頭なので野球部員と思い、「野球部出て来いよ!」と叫んだら 
消えたそうです。「もしや、お坊さんの霊・・・・」かと焦り 
車を急発進させたら、エンストを起こしたそうです。
また、以前何度か登場した、釣りバカの同僚の、こんな体験談も…。
八丈島に釣りに行った時。夜釣りをしていたら、何処からか、読経の声が聞こえた。
何人かの坊さんが合唱する様にお経を読んでいた…。

―やっぱり、何かあるんでしょうか…?
ある日、奈良県明日香村で、ある人が芋やショウガを貯蔵する為の穴を竹やぶの中に掘った。
直径は60センチほど。
穴の底で凝灰岩の四角い切り石が見つかった。
イメージ 4

有力者の墓である事を示唆するその切り石は、貯蔵穴から顔をのぞかせたまま、取り立てて人目を引く事も無く、静かに時を過ごした。

10年程を経た昭和45年。農業振興と観光開発を兼ねた舗道を村内に通す話が持ち上がり、説明会に出向いた村観光課の職員が、地元の住民から切り石の話を聞きつけた。

村観光課の課長は、住民から聞いた話を関西大学助教授の網干善教氏や県立橿原考古学研究所の関係者にその話を伝えた。

話を聞いた網干氏は「これは大変なことかもしれない…」と、直感的に思った。



―それが、戦後最大の考古学的発見と言われた「高松塚古墳」発掘のきっかけでした。

そして、あの「祟り」の始まりでも…。


 

高松塚古墳。皆様良くご存知の、直径約18mの巨大な円墳です。
イメージ 1

奈良県の明日香村にある、7世紀終わりから8世紀初め頃の古墳です。

鮮やかな壁画(国宝)で知られ、またその壁画が(アホな役人のせいで)カビに侵されている為、石室を

解体し、修復をしている事も有名です。詳しくは高松塚古墳(ウィキペディア)をご参照頂ければと思います。


さて、その高松塚古墳の発掘調査後、「日本版ツタンカーメンの呪い」とでも言うべき事態が起こってい

た事は、意外に知られていない様です。

(因みに、本家「ツタンカーメンの呪い」は当時のマスコミの悪ノリによるでっち上げでしたが。)


1972年(昭和47年)3月21日 発掘調査中の高松塚古墳から、彩色された壁画が発見される。

〃 年 5月21日 明日香村観光課長M氏が肺癌で死去。M氏は、貴重な観光資源である高松塚古墳の発掘調査に熱心で、国や県からの発掘予算獲得に尽力した。M氏はこの日、突然苦しみだし、そのまま亡くなったと云う。

〃 年 8月21日 古墳近くに在住のKさんが突然苦しみだし、2日後に死去。Kさんは、古墳の発掘の手伝いをしていた。Kさんは、古墳の第一発見者だとも云われる。(冒頭の穴を掘った人か?)

1973年(昭和48年)8月21日 古墳のある地区の総代(自治会長)MSさんが交通事故で死亡。MSさんは古墳の発掘を積極的に支援しており、MSさん抜きでは発掘が出来ないとまで云われていた。

〃 年 月日不詳 古墳に最初に鍬を入れた発掘関係者であるNさんが自殺。物置小屋で農薬を飲んで死亡した。Nさんは日頃から悪夢に悩まされていたと云う。

1974年(昭和49年)1月4日 画家のWさんが交通事故で死亡。Wさんは壁画の模写を担当していた。Wさんが事故に遭ったのは、模写が完成したお祝いのパーティーの帰りとも有名な「女子群像」を書き写している時だったとも云われる。


―と、偶然にしては出来すぎの様な事件・事故が立て続けに起こったのです。

当初、亡くなった方の命日が壁画が発見された「21日」に集中している為、戦慄を覚える関係者も

少なからず居たとの事です。
イメージ 2

イメージ 3

                       ↑高松塚古墳の発掘風景

調べてみると、高松塚古墳が発見された場所は、古来地元では「古宮」と呼ばれる忌地だったそうで、

橘家紋を持つ九軒の家が代々祀っていたそうです。


また、高松塚古墳の正式な所在地は「明日香村上平田4444番地」となっています。

選りによって、何故そんな縁起の悪い地番を付けたのか、お役人の心理が計りかねますが、

一説によると、「死に番」を国有地に付け、そのまま放置していたと言われております。


また、高松塚古墳の被葬者は未だ特定できておりませんが、石室内から頭蓋骨が発見されていない事や

刀身の無い鞘だけの刀が埋葬されていた事から、余程の怨念を持つ者をこの古墳に「封印」したのでは無

いかと言う説もあります。


更に、盗掘の痕跡も残されている割には、多くの副葬品が手付かずで残っている所を見ると、もしかする

と、盗掘者も「祟り」に遭って盗掘を中止したのかもしれないなあ、なんて気もしてきます。



ともあれ、発掘開始後の高松塚古墳に対する「仕打ち」ともとれる文化庁の失政・怠慢・隠蔽・責任回避

によって、先人達が残した貴重な文化財が、今や目も覆うような状態になっているのは、皆様ご存知の

通りです。


いにしえの怨霊も、祟るなら、文化庁の役人に祟ればいいのに…。





(念の為申し上げておきますが、「発掘関係者が次々と死んだ」という話のウラ(新聞記事や客観的な文書などによる裏付け)は一切取れておりません。今の所、「そう言う噂もありますよ」と言った程度のお話です。情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、是非お教え下さい)






 

開く トラックバック(2)

乗ったらあかん

「飛行機で来たらあかんよ。新幹線にしとき!!飛行機に乗ったらあかん!!」

大阪のおばあちゃんが、また電話をかけてきました。


―その夏、東京に住むKさん一家は、お父さんの実家がある大阪に帰省する予定でした。

いつもは新幹線で帰るのですが、その時はKさんのたっての希望で飛行機のチケットを取っていました。

ちなみに、Kさんとは、私の会社と取引のある保険会社の担当者。

当時はまだ小学校にあがったばかりだったそうです。


Kさんは飛行機に乗るのは初めてで、それはそれは楽しみにしておりました。

しかし、おばあちゃんが余りにしつこく言うので、仕方なくお父さんは飛行機をキャンセルし、

新幹線を取り直しました。


Kさんは泣いて駄々を捏ねましたが「来年は必ず飛行機にするから」と宥めすかされてしまいました。


そして当日。大阪のおばあちゃんの家に着き、おばあちゃんの手料理で夕食を食べていると、TV

に臨時ニュースが流れました。


『日航ジャンボ機が行方不明。墜落した模様…』


それは、正に、自分達が乗る筈だった、東京発大阪行き日航123便。

昭和60年8月12日夕方の出来事でした。


ニュースの続報では、事故がどんどん大惨事になっていく。

Kさんは子供心に「もしかしたら、おとうさんもおかあさんも、ぼくも死んでたかもしれない」と

思うと、心底ぞ〜っとしました。


お父さんもお母さんも「おばあちゃんが止めてくれなかったら…」と絶句。

おばあちゃんは「死んだじいちゃんが夢枕に立って『飛行機に乗せたらあかん』と言うとったから。

じいちゃんに感謝せなあかんよ」と言ったそうです。

比良山の幽霊飛行機

ちょっと前の話ですが、関西在住の方ならご記憶にあるかもしれません。

小型飛行機らしき物が、滋賀県の比良山中に墜落するのが目撃されたにもかかわらず、

捜索すると、飛行機墜落の痕跡が全く発見されなかったと言う事件です。

新聞各紙・TV・ラジオでも大きく報じられました。
「飛行物体墜落?深まる謎 滋賀県警、捜索打ち切り」
2006年12月21日21時44分

滋賀県大津市の比良山系で20日夕、「飛行機が落ちたのでは」という通報を受けた滋賀県警は21日も山中を調べたが、何も見つからず、捜索の打ち切りを決めた。

通報のあった時間帯に、京都市内で飛行物が撮影されていたことや、米航空宇宙局(NASA)のスペースシャトルと国際宇宙ステーション(ISS)を目視できたことが判明したが、いずれも関連はわからず、謎は深まるばかりだ。
イメージ 1
            赤い尾を引きながら飛んでいくのが目撃された物体            (=20日午後5時ごろ、京都市左京区で、久能木利武さん提供) 通報は大津市内(TO注;大津市大物在住)の女性がブーメランの形をした飛行機のようなものが急降下するのを目撃したというもの。 21日になって、通報の前後の時間帯に、京都市左京区の久能木利武さん(72)が飛行物を撮影していたことが判明。 久能木さんは「赤い火の玉と2本の短い飛行機雲状のものが見えた。かなりの速度で、建物の陰に入って見えなくなった」と話した。 また宇宙航空研究開発機構(東京)によると、20日夕にシャトルと宇宙ステーションが近畿上空を飛んでいたという。 久能木さんが撮った写真を見た倉敷科学センター(岡山県)の石井元巳・天文技師は「飛行機と飛行機雲に夕日が反射している可能性が高い。シャトルや人工衛星なら、離れたところにあるので、点のように見えるはず」と説明する。 しかし該当する飛行機はなく、県警幹部は「通報者の証言は具体的なのに…」と首をかしげている。 【ASAHI.COM】
20日午後5時ごろ、大津市大物の住民が「琵琶湖西側の比良山系で煙が見える。飛行機でも落ちたのではないか」と110番した。
大津北署などによると、目撃したのはこの住民の家族で「琵琶湖から京都方面に、軽飛行機が飛んでいた。急に高度を下げ、山に隠れてから煙が見えた」と話しているという。【共同】
県警がヘリを差し向けるのと同時に、県知事は自衛隊に対し「航空機捜索に関する災害派遣」を要請。

2機の航空自衛隊機が捜索に出動しましたが、捜索活動の末、何も発見できずに帰投。

地上では、機動隊員らが山中に入り、墜落地点の確認を急ぎましたが、同じく何も発見できずでした。

滋賀県からの問い合わせに対して、伊丹空港事務所からは、その時刻に比良山付近を飛行していた

機体は無いと言う返答がありました。


すわ、UFOの着陸か!?と、その筋でもちょっとした騒ぎになった様です。

しかしその後、この事件は具体的な続報も無かった様で、UFO説もいつの間にか立ち消えた感じです。


さて、そこで。これを単にUFOだ、と言っても私のブログらしくないので、ちょっと調べてみました。


まず、写真を見る限りでは、これは飛行機であると断言出来ます。

機体と飛行機雲が西日を浴びて輝いている。

現に、目撃した人は「軽飛行機」とはっきり証言しています。

宇宙人来訪の線は薄そうです。


では、この「消えた軽飛行機」の正体とは!?


調べてみると、この事件から遡る事24年。1982年1月にこんな事故がありました。
国土交通省 航空事故調査報告書概要を要約

1982/01/15発生 セスナ式172E型JA3212 
滋賀県大津市 

▼航空事故調査の経過 

航空事故の概要 

日本産業航空株式会社所属セスナ式172E型JA3212は、昭和57年1月15日、高浜から大津に向かって飛行中、13時30分ごろ、滋賀県大津市葛川坊村町比良山系スリバチ山南東斜面(標高970メートル)に墜落した。 
同機には、機長ほか乗客2名が搭乗していたが、全員死亡した。
同機は大破したが、火災は発生しなかった。

▼認定した事実 
JA3212は、昭和57年1月15日、八尾空港から出発して、八尾空港へ帰投する約2時間30分の飛行をする予定であった。
機長は八尾空港に飛行計画を提出しているが、これによれば、同機は、11時40分に八尾空港を出発して、園部、高浜及び大津を経由して14時10分に同空港に帰投することになっていた。

事故現場付近の目撃者の口述によれば、同機は、13時30分ごろ、スリバチ山上空付近において積雲上高度2,000メートルを南東方向に飛行中、急降下右旋回の状態となって降下し、スリバチ山頂上から約50メートル下の南東斜面(勾配約30度)に機首方位約295度、降下角約60度で墜落したものと認められる。

公表年月日/報告書番号 
昭和58年2月7日 航空事故調査報告書 58−1
JA3212機は、先述の「消えた軽飛行機」と殆ど同じ方位から、殆ど同じ地点に墜落しています。

つまり…「消えた軽飛行機」の正体とは…

JA3212機の、幽霊だったのでは



―と言う、珍説は如何でしょうか?

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 次のページ ]


.
TO7002
TO7002
男性 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

ブログバナー

過去の記事一覧

1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
検索 検索

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
最大10万円分旅行クーポンが当たる!
≪10月31日まで≫今すぐ応募!
衛生対策製品クレベリンの姉妹ブランド
クレベ&アンドハンドジェルが新登場
今だけ。お試しキャンペーン実施中!
抽選で150,000名様に当たるチャンス!
マツモトキヨシで期間中何度でも使える
100円引きクーポン<Yahoo! JAPAN>

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事