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その日は、とてもしずかな夜でした。 森の木々は、時々風のささやきに応えるかのように葉を擦りあわせましたが、そのほかはまるで森に住む動物たちがすべていなくなってしまったかと思えるほど、森はひっそりと静まりかえっていました。 森は、山の中腹から山頂にかけて広がっていて、たくさんのヒノキが背比べをするように空へ伸びていました。山の麓、となりの山との間には小さな湖がありました。 以前はキャンプ場として賑わっていたその山も、キャンプ場の閉鎖にともない、ほとんど人が近寄らなくなってしまいました。それに、人のたくさん住む町とはずいぶん離れていたのです。 やって来るのは、せいぜいとなり山の動物たちぐらいでした。 その山の頂上近くに、1本の小さなあすなろの木がありました。あすなろの木は、背の高いまわりのヒノキに囲まれて、あまり日の光もあたらず成長も遅かったのですが、月がちょうど中天にさしかかると、まるであすなろの木を憐れむかのように一筋の光が降りてきて、その木を照らすのでした。 そして、月の光に照らされたその木の根元には、ひとつのうさぎのぬいぐるみがありました。 それは、もともとある小さな女の子のものでした。 家族とキャンプにきた女の子は、初めてのキャンプにとても興奮して、その日の記念に、 「いつか、絶対にまた来るからね。それまで待っててね」 と言い、ぬいぐるみをその木の根元においていったのです。 それから、いくつもの季節が流れました。ぬいぐるみは、ずっとそこで女の子を待ちつづけましたが、いつまでたっても女の子はやってきません。それでも、ぬいぐるみは待ちつづけました。だって、ぬいぐるみは歩くことができなかったのですから。 もともとは真っ白だったその毛も、今では汚れてすっかり茶色くなってしまいました。 そして、ある静かな夜のことでした。 その日はきれいな満月で、やはりいつものように、ぽっかり開いた天窓からそそぐ月の光があすなろの木を照らしていました。月はとってもきれいでしたが、ぬいぐるみは上を向いて月を見ることもできず、じっと、正面にある少し離れた茂みを見つめていました。 すると、ふいに茂みがかさかさと揺れだしました。それでもぬいぐるみは何も思わず、前を見据えています。 しばらくすると、茂みの中から真っ白な長い耳が飛び出しました。耳は左右をキョロキョロと向くと、一度茂みの中に引き込み、今度は中から一羽のうさぎが出てきました。 見ただけで撫でたくなるようなふさふさで真っ白な毛並み、そして、先ほどの空に向かってまっすぐのびる長い耳、それに、まるでルビーのような赤い眼をした雄うさぎでした。うさぎはぬいぐるみを見ると、まっすぐに跳ねよってきて話しかけました。 「はじめまして。」 うさぎがそう言うと、ぬいぐるみは風に揺られ、小さくおじぎをしました。 「僕はいろんな世界が見たくて、となりの山から旅をしてきたんだ。でも夜になっちゃってね、泊まるところを探してるんだ。ここは君の家かい?へぇ、きれいなところに住んでいるね。」 うさぎは空を見上げ、そう言うと、つづけて 「今夜一晩、僕を泊めてくれないかい?」 と言いました。ぬいぐるみはうさぎの唐突さに少し驚きましたが、風に揺られ、小さくうなづきました。 うさぎはぬいぐるみのとなりに腰掛け、今まで旅してきたこと、旅先で見たものなどを得意げに、そして妙になれなれしくぬいぐるみに話して聞かせました。ぬいぐるみは風に揺られ、それに一つ一つ小さくうなずき返しながらじっと話を聞いていました。 こうして、静かな森にかすかな騒音を含みながら、その夜はふけていきました。 次の日の朝、うさぎは 「今日、僕は一日かけてこの辺の景色を見たり、向こうにあるっていうキャンプ場に行ったりする予定なんだ。それでさ、今夜、もう一晩、僕を泊めてくれないかな?」 と言いました。ぬいぐるみは風に揺られ小さくうなずきました。 それを見ると、うさぎは楽しそうに飛び跳ねながら茂みの中に消えてゆき、ぬいぐるみはそんなうさぎを心なしか羨ましそうに見送りました。 さて、うさぎは明るくなった森の中を軽快に跳ねてゆきます。のんきに鼻歌を歌いながら、あたりをキョロキョロと見まわしています。ヒノキやあすなろ、ブナなどたくさんの木々が立ち並ぶなか、枝を駆け回るリスの親子や、体をマントのようにして飛ぶムササビ、コツコツと秒を刻むキツツキ、冬に向けて落ち葉や木の実を一列になってせっせと運ぶ蟻の群れ。どれも、となり山で見慣れた景色とさほど変わりはありません。 それでもうさぎは楽しそうです。だって、旅ってウキウキするものです。 楽しみながら森を進んでいくと、なにやらさわさわと水の流れる音が聞こえてきました。うさぎは音のするほうへ耳を向けながら、木と木の間を縫うように跳ねていきます。 やがて、うさぎは小さな崖の上に出ました。(崖といっても2メートルほどだったのですが)下には小さな小川と、もともとはキャンプ場であったと思われる川原がありました。うさぎは崖のところどころにせり出した岩を使いながら、器用に川原に下りていきます。昔のキャンプ場といっても、今ではその面影もなく、ただ大小さまざまな石が無造作にごろごろところがっているだけです。それでも、うさぎは楽しそうにあたりを見回して、川原を跳びまわった後、川べりできれいに光る丸い石をみつけ、それを拾ってどこかへ行ってしまいました。 その日の夜、まだ月が木を照らす前にうさぎは帰ってきました。そして、今日見てきたもののことをぬいぐるみに話して聞かせました。森で見た動物たちのことやキャンプ場だった川原のことなど、ひとしきり話し終えると、うさぎはぬいぐるみの前に透明な丸い石を差し出しました。それはガラスでできたビー玉でした。 「これをキャンプ場で拾ったんだ。きれいだろう、君にあげるよ」 ぬいぐるみは何も言いませんでしたが、風に揺られ何度も小さくうなづきました。 そのとき、月がうさぎたちの上に顔を出し、その青白い光が彼らに降り注ぎました。ビー玉は、光を受けてまるで水晶のように輝きました。 「うわ・・・あ・・・」 うさぎはうっとりとそれを見つめ、やがて顔を上げるとぬいぐるみのことをじっと見つめました。大きな丸い顔にぴんと張った長い耳、キュッと引き結んだ小さな口、そして、黒く輝く大きな目。ぬいぐるみもまた、うさぎのことを見つめ返していました。 そして、うさぎは唐突に 「ずっと、ここにいてもいいかい?」 と、言いました。ぬいぐるみは少し驚きましたが、しばらくの沈黙の後、風に揺られ小さくうなづきました。 うさぎはぬいぐるみを包むやさしい風に、ぬいぐるみのもの静かな様子に、そして、その気高さに魅せられてしまったのです。 ぬいぐるみもまた、このやんちゃなうさぎに惹かれている自分を感じていました。 次の日、うさぎはまたどこかへ出かけていきました。ぬいぐるみは、うさぎもまた帰ってこなくなるのではと気が気ではありません。それでも、ぬいぐるみは夜まで少しウキウキしながら、少し不安を抱えながらうさぎの帰りを待っていました。 はたして、うさぎは夜には帰ってきました。今日は、森のふくろうに教えてもらった山の裏側へ行っていたのだそうです。山の裏側には、季節ごとにたくさんの花が咲き乱れ、樹木の数は少なく、たくさんの小さな昆虫や鳥たちが暮らしています。もちろんぬいぐるみはそんなことは知りません。 それにしても、今日のうさぎはいつにもまして落ち着きがありません。しきりと空を見上げてそわそわしています。 やがて、月が空を覆い、うさぎたちを照らし出すと、待ってましたと言わんばかりに飛び跳ねて、 「君に月のしずくの花を取ってきてあげるよ」 と言い、茂みの中へ消えていきました。 残されたぬいぐるみは何がなんだかわからず、それでも、ただひたすらとうさぎの帰りを待っていました。そして、森の動物たちが住処からのそのそと這い出してくるころ、やっと、うさぎは手にひとつの白い花を持って帰ってきました。 「どうだい、きれいな花だろう。この花には、“永遠にあなたのもの”っていう意味があるんだって。森のホトトギスに教わったんだ。僕の気持ちだよ。ずっと君のそばにいるよ、ってね」 うさぎは照れくさそうにそう言って、その白い花をぬいぐるみの足元に置きました。 その花の花びらは細く、外側に反り返っていて、大きなおしべとめしべは、互いに寄り添うように花の中心から伸びていました。そして、花の中心、そのおしべとめしべの付け根にはまるで一粒の真珠のような大きなしずく を含んでいました。 「ちょっと遅くなっちゃったし、その花を捜すのも大変だったけど、君のためならなんともないさ」 うさぎは誇らしげににそう言いましたが、薄明るい世界の中でよく見ると、うさぎのその綿毛のような毛は、ところどころ泥で汚れていて、けばだっており、自慢の長い耳からは、ほんのわずかですが、出血の跡がありました。まったくみすぼらしい姿でしたが、それでもぬいぐるみには、何よりも、そう、月のしずくの花よりも美しく、そして、誇らしげに見えました。それと同時に、「ありがとう」のひとことも言えない自分をもどかしく思うのでした。 さて、次の日うさぎはぬいぐるみのそばで一日を過ごしました。森はまるで二人を祝福するかのように、鳥といっしょにすばらしいアンサンブルを奏でました。ビー玉と月のしずくの花は、二人のために精一杯輝きました。夕方にはほんの少しだけ雨が降りましたが、泥まみれの二人には、かえって気持ちいいぐらいでした。 そして、次の朝が来ると、うさぎは好奇心に突き動かされるように、また森の中の探検に出かけてゆきました。出がけに、
「一緒に行くかい?」 と言いましたが、ぬいぐるみは風に揺られ小さく首を横に振りました。 その次の日も、そのまた次の日もうさぎは朝になると出かけていき、夕方には帰ってきてその日に見たもののことを話し、必ず何かおみやげを持って帰ってくるのでした。 |
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