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でも、そんな日々は長くは続きませんでした。うさぎは森の中を探検しつくすと、もっといろんなところに行ってみたいと思うようになりました。ぬいぐるみにも相談してみましたが、何も返事はありません。うさぎはじれったい日々を過ごし、長い思案のすえ、とうとうひとつの答えを出しました。
「君は、僕が話しかけても何もこたえてくれないし、僕が行くところへも全然ついて来てくれない。それに、僕が何かをあげてもいつも喜んでいるのかもわからない。・・・もう君と一緒にいるのはつらいよ。僕はもう、旅に出るよ」
そう言って、うさぎは茂みの中へ消えてゆきました。
ぬいぐるみは、寂しそうにじっと茂みを見つめていましたが、やがて諦めたようにその目の輝きは消えてしまいました。
ただ、また、少女が迎えに来るのを待つ日々に戻っただけ、そう思うことにしました。
うさぎは何度も何度もうしろを振り返りながら、ゆっくりと山を降りていきました。うさぎの通った後は、草花たちも元気をなくし、しおれてしまいました。鳥たちも、うさぎの上を通る時はさえずるのをやめました。
そして、ついにふもとの湖まで降りてきてしまいました。この辺もまだまばらに樹木が残っていますが、ここからは町へとつづく整備された道路が伸びているので、森よりも人間の香りが強く残っています。この湖も、以前はたくさんのボートが波を立たせ、いつも笑顔とざわめきが溢れていましたが、キャンプ場の廃場と同時に貸しボートもなくなり、今ではここを訪れるのはもの好きな釣り人ぐらいです。周りに見えるのは朽ち果てたボートの貸し出し小屋だった建物と、湖にせり出している桟橋、そして、その上で釣りをしている人と彼らの乗ってきた車、めぼしいものはそれぐらいです。
うさぎは人間の動きを警戒しながら左へぐるっと湖沿いに回り、人間からは見えないところへやって来ました。幸い人間たちは釣りに夢中で、だれもうさぎには気づいていないようです。ここはちょうど、湖水からたくさんの葦が突き出していて、人間のいるところからは死角になっています。うさぎは水辺に腰をおろすと、湖をのぞきこみました。
透明な鏡は、湖の底を背景に、揺らめきながら一羽のうさぎを映し出しました。なんと情けない顔でしょう!自慢の耳はだらしなく垂れ下がり、目からあごの下にかけて、くっきりと涙の流れた跡が残っています。葦たちはそれを見て、カサカサと笑い声を立てました。うさぎは恥ずかしくなり、ちょっと離れたところに立っている1本の大きな木の裏側へちょこんと座りました。
正面には、見るものを威圧せんばかりの雄大な山がそびえています。故郷のとなり山です。うさぎには、それはとても懐かしく、やさしく見えました。
(明日、一度故郷へ帰ろう・・・)
きっとそこへ行けば何もかも忘れられる、そう思い、うさぎはその日はその木の根元で体を休めました。
ぬいぐるみは泣いていました。実際に涙を流しこそはしませんが、体は小刻みに震え、心に浮かぶのは、今では少女のことではなく、あのうさぎのことです。月はそんなぬいぐるみをとても心配そうに覗き込んでいましたが、その青白い光でさえ、ぬいぐるみにはうさぎとの思い出の一部なのです。だから、ビー玉も、月のしずくの花も、だれもぬいぐるみを癒すことはできませんでした。
そして、朝を迎えました。
霧の中で目を覚ましたうさぎは、なんだか体の調子がおかしいことに気づきました。頭ががんがんします。体の節々に鈍い痛みを感じます。昨日から何も食べていないのに、まったく食欲がありません。
うさぎは病気になっていたのです。恋の病という名の。
うさぎはまず、水を飲みに行きました。一晩うなされていたようで、喉がからからです。
湖に近づくと、霧の奥で何か茶色いものが風に揺られています。うさぎははっと立ち止まり、それを見つめました。実際は、それは風に揺られる葦だったのですが、うさぎには、そう、風に揺られるぬいぐるみに見えたのです。
うさぎは少し下がって、その光景を見つめていました。
そして、となり山のすそから、朝を告げる太陽が顔を出しました。
その瞬間!
霧に包まれた世界は無数の光に飲み込まれました。光の乱反射は、うさぎにぬいぐるみの瞳を、ビー玉を、月のしずくの花を思い起こさせました。うさぎは呆然と立ちつくし、目には涙を浮かべ
「そうだ・・・そうだったんだ・・・・・・僕の心は・・そこに・・・そこにあったんだ!!」
と小さくつぶやき、駆け出しました。
もううさぎにも、風に揺られる茶色いものがぬいぐるみではないことはわかっていました。
だって、彼の行くところはひとつしかなかったのです。
その日は、とても静かな夜でした。
森の木々は、時々風のささやきに応えるかのように葉を擦りあわせましたが、そのほかはまるで森に住む動物たちがすべていなくなってしまったと思えるほど、森はひっそりと静まりかえっていました。
山の頂上近く、1本の小さなあすなろの木の根元に、ひとつのうさぎのぬいぐるみがありました。その傍らには、うさぎのぬいぐるみに、得意げになにかを話している真っ白な一羽の雄うさぎがいます。
今日もまた、月の光は彼らを照らしています。まるで、母親の微笑みのような、やさしさで。
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大事なものって失いかけた時に初めてわかるってことありますよね
2007/4/24(火) 午後 4:33 [ みに ]
この作品は7年ほど前に妻の20歳の誕生日に書いたものです。今回は私の30歳の誕生日に掲載させていただきました。 大切なものって、後で後悔しても戻ってこないんですよね。でも、日常の中にあると意外と気づかずに捨ててしまっていたりして。。そういう大事なものに気づける自分でいたいです。
2007/4/26(木) 午後 10:29 [ sophia ]