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希望の種

 ボクにはママがいない。
ううん、ちょっと前まではいたんだよ。
でも、きっとボクが悪い子だから出ていっちゃったんだ。
神様、ボク、絶対にいい子になるから、ママを返してください。


 パパは忙しくてずっと仕事してる。
だから、ボクは保育園にずーっといるんだ。
夜、ボクがもう眠くなるころに、やっとパパは迎えに来てくれるの。
だから、ボクにはパパと一緒の時間もぜんぜんないんだ。

 保育園の先生もやさしいし、お友達といっしょもすごく楽しいけど、やっぱり、パパとママといっしょが一番うれしいよね。
だから、ボクはすごくいい子にしてる。ママが早くかえってくるようにね。
でも、ママはいつまでたってもかえってこない。どうしたらいいのかなぁ。

 今日は日曜日。パパがお休みで一緒にお買い物にきたよ。
小さなお店の前に、小さな植木鉢が置いてあったんだ。
やっと読めるようになったばかりのひらがなで、「きぼうのたね」って書いてある。
ボクは、お店の人に
「きぼうってなに?」
って聞いたんだ。
お店の人は
「お願いをしながら、この種をだいじに、だいじに育てると、願いが叶うのよ」
って教えてくれた。
ボクは、パパにお願いして、ひとつ買ってもらったんだ。
もちろん、お願いは「ママが戻ってきますように」

 ボクは毎日毎日お願いをしながら、希望の種に水をあげたよ。
そして、やっと芽が出てきたんだ。
やった!これでママがかえってくる!

 でも、やっぱりママはかえってこなかった。
なんで?ボクのお願いがたりないのかなぁ。
ママが戻ってきますように・・・ママが戻ってきますように・・・ママが・・・

 そんなある日、大ちゃんが話してるのを聞いたんだ。
「昨日、パパとママと3人できぼうの丘にいってきたんだ。チョー楽しかったよ!」
ボクはおどろいて
「きぼうの丘?それどこ??」
って大ちゃんに聞いたよ。
大ちゃんは電車で2ついった所だって教えてくれた。

 ボクは気づいたんだ。
きっと、「きぼうのたね」は「きぼうの丘」に植えないといけないんだ。
だって、保育園のトマトを育てるときにも先生が言ってたもん。
「土がちゃんとしてないと、立派なトマトにならないんだよ」って。

 次の日曜日、パパがお仕事でいないときに、ボクはスコップと「きぼうのたね」をもって家を飛び出した。
本当はおうちで留守番してなきゃいけないんだけど、ママが戻ってくるほうが大事だもんね。

 駅までは簡単。パパとママと3人で何回も行ったことがあるから。
でも、一人で電車に乗るのははじめて。
すごくドキドキする。
ボクは切符がいらないから、自動改札は素通り。
あれ?でも、どっちのでんしゃに乗ればいいんだろう?
ボクがきょろきょろしていると、おじいさんがやってきて、声をかけてくれたんだ。
「ぼうや、どうしたんだい?」
ボクが
「うん、ボクね、きぼうの丘に行きたいの。でも、でんしゃがわからなくて」
って言うと、おじいさんは
「きぼうの丘?それなら知っているが、パパとママは?」
って言った。
ボクは
「パパはお仕事、ママはいない。どしても行きたいの。お願いです。教えてください!」
って言ったんだ。
そしたら、おじいさんはしばらく考えていたけど、
「わかった、連れて行ってあげよう」って。
やった!これできぼうの丘に行ける!

 おじいさんに連れられてでんしゃに乗ったボクは、2ついった駅で降りて、おじいさんと歩き出した。
おじいさんは
「あそこはたしかにいいところだよ。ひなたぼっこしたり、かけっこしたりするには最適だ」
って言ってた。
でも、ボクはもっと大事なことがあるんだ。
かけっこもしたいけどね・・・

 おじいさんはきぼうの丘についたら、
「ここがきぼうの丘だよ。じゃ、わたしは用事があるからこれでね。バイバイ」
ってどこかにいっちゃった。
ボクは目の前にある公園と、大きなお山(保育園の校舎ぐらい大きいかも!)を見回して思ったんだ。
やっぱり、あそこが一番かな?
ボクは走って、お山の上まで駆け登り、スコップを握り締めた。
お願いも忘れない。
ママが戻ってきますように・・・ママが戻ってきますように・・・ママが・・・



風がやってきた。風は丘を駆け登り、頂上でくるりと回った。
小さな花がふわりとゆれる。
風はひとしきり花と遊ぶと、丘を駆け下りた。
丘の下には3人の親子が楽しそうに遊んでいる。
小さな男の子は笑顔で公園を走り回っている。
風は家族のそばをしずかに通り過ぎると、一人の老人の横でとまった。
老人は微笑んで、つぶやいた。
「願いが叶って、よかったね」

写真

「3か月!? ウソでしょう、先生?」
「残念ながら、本当です。主婦の方には多いんですよ。検診を受けずに何年も過ごしてる方が。
市で行っている定期健診などにはなるべく参加してほしいと思うんですが」
「でも、真紀子は、妻はまだ35ですよ?」
「若い方の方が進行が早いんです。体調を崩し始めたときに、早めに受診していただければ
もう少し違う対応もできたのでしょうが」
「そんな・・・・」
 
 真紀子の体調がしばらくすぐれないことは知っていた。何度「病院に行けよ」と言っても
「大丈夫よ」と言って、市販の痛み止めや胃薬で対応していたことも。
乳がんだった。
それも数か所への転移が見られ、もう手の施しようがないという。
3か月。それが僕らに残された時間だった。
 
 真紀子はすぐに入院し、抗がん剤による治療が始まった。少しでも進行を遅らせようという
のである。副作用により毛髪が抜けてしまうため、かつらを買い、そのほかにも、がんに効くと
いう薬や、怪しいブレスレットやあらゆるものを買い漁った。
それもすべて効果は見えず、時には激しい痛みを訴えることもあった。
それは横で見ていても想像を絶する苦しみのようで、「安楽死」という言葉を連想させるには
十分なものですらあった。
 
 それでも、ひと月ほどすると、一時帰宅を許され、久しぶりに、短い期間だが家族3人が
揃うことができた。
「おばあちゃん達に迷惑かけてない?」
真紀子が聞く。
「うん、と〜ってもいい子だって、ほめてくれるよ」
彩夏が笑顔で応える。
「ママ、もうずっと一緒にいられる?」
5歳の娘にも、真紀子が後数カ月しか一緒にいられないことは話してあるが、よく理解して
いないらしい。
「・・・病気がよくなったらね。」
それでも、真紀子は微笑みながらそう言った。
 
 
日常。ただ、ただ、過ぎる毎日がこんなに幸せだったなんて・・・。そう思うことのできる時間は
とても短く、早く過ぎてゆく。
明日、真紀子は病院へ帰っていく。
「ママのごはん、おいしかった?」
ベッドに横になりながら、真紀子が聞く。
「うん、世界で一番!」
彩夏は笑顔でうなずく。
「ねえ、ママ。早く帰ってきてね」
「うん。でもね、ママ、もうすぐ死んじゃうんだって。
そしたらね、もう、彩夏とも・・・・会えないの」
最後の声は震えていてよく聞き取れなかったが、真紀子は必死で涙をこらえていた。
「だって、ママと会えなかったら寂しいよ。春休みにも、い〜っぱい、遊びに行きたいし」
「うん、そうね。みんなでお出かけしたいね」
 しばらくの沈黙の後、真紀子が言った。
「ねえ、彩夏。ママの子どもに産まれてきてくれてありがとうね。すっごく楽しかったよ」
「うん、彩夏もママの子で良かった。
ママ、もしママが死んじゃっても、大丈夫だよ。大きくなったら、今度は、彩夏がママのこと
産んであげる。そしたら、また、会えるよ」
僕も、真紀子も涙が止まらなかった。
「彩夏。ありがとう。ママ、かならず、彩夏の子どもになって産まれてくるね」
「約束だよ」
「うん、約束」
真紀子が彩夏の小さな指とかわした指きりを、僕は決して忘れることはないだろう。
 
 そして、真紀子は病院へ帰って行った。
家族といない時間はどれだけ辛いだろうか。それでも、真紀子は今まで以上に元気に
見えた。
きっと、あの約束が力になっているのだろう。
 
 3か月が過ぎたある日、すっかりやせ細った真紀子はアルバムを見ながら僕に言った。
「ねえ、あなた。ひとつだけ、お願いがあるの」
「なんだい?」
「写真」
「写真?」
「そう。あなたと2人の、笑顔で撮った写真。うちにはそれがないの」
僕は写真が好きだった。
そして、自然が好きだった。
だから、家族であちこちに旅行をしては、一度に何百枚も写真を撮ったりした。
そして、その素晴らしい風景と家族を一緒に収めた写真はすべてアルバムにきちんと
整理してある。僕の宝物だ。
でも、僕自身が写っている写真は数えるほどしかない。それは七五三であったり、入園式
であったり、ひなまつりであったり。
すべて3人、もしくは父、母が一緒のものだ。
そもそも、付き合っていた頃から、一緒に写真に写ったことはなかったかもしれない。
僕は撮る方専門だったから。
2人だけの、笑顔の写真。
「うん、撮ろう」
僕は一旦家に帰り、カメラと三脚を用意した。
 
 病院へ戻ると、真紀子は着替え、化粧をして待っていた。
「あなた、はやく」
そう言ったときの真紀子の笑顔は、僕が好きになったあの頃と少しも変わっていなかった。
僕はカメラをセットし、真紀子と並んで、精一杯の笑顔を作る。
ちゃんとできていただろうか。
 
 
 
 病院のベッドの横で、僕は真紀子の手を握り続けていた。
「あなた、彩夏、ごめんなさい。頑張ったけど、ここまでみたい」
真紀子の手からはだんだん力が失われていく。
「何言ってるのさ。あの日から5カ月だぞ。すごいよ。本当に、すごいよ」
僕は涙を止めることが出来なかった。
「彩夏。しばらくお別れね。今度会ったときは素敵な女性になってるのよ」
「うん、約束、忘れないよ」
彩夏もしゃくりあげながら答える。
「またね」
その言葉を最後に、真紀子の手はするりと僕の手から落ちていった。
僕らはいつまでもそこから離れることが出来なかった。
 
 
 
「お父さん、またこんなに買ってきて!」
彩夏は僕の持った紙袋を見てあきれ顔で言う。
「まだ男の子か女の子かもわからないでしょ!」
そんなの決まってる。
だって、約束したんだから。
早く、おまえに逢いたいよ。
僕はサイドボードの上に飾った一枚の写真に、心の中で語りかけた。
「私もよ」
写真の中の彼女がそう言った気がした。

 旗を立てた。笑顔の旗。
身寄りを全て失って初めて持った夢。
「世界中の人の笑顔を見ること」

 どうすればいいのかは全然分からなかった。
毎日、公園で萎れた旗を眺めては考えた。
自分に出来ることは何だろう?
どうすれば、みんなを笑顔に出来るんだろう?

 ある時、僕のほかにも旗を掲げた人に出会った。
拳の描かれたその旗は、力強く風に靡いていた。
彼は僕を見かけると、寄ってきて、言った。
「君はいつもここでしょげているな。」
「いつも?」僕は聞き返した。
彼は呆れ顔で言った。
「そう、いつも、だ。気付かなかったのか?俺も毎日ここでトレーニングしていたのに」
全然気付いていなかった。
だって、自分のことで精一杯だったから。
僕は彼の旗を眺め、聞いた。
「その旗、すごく素敵だね。僕の旗はこんなに萎れている。なんでだろう?」
彼は僕の旗を覗き込み、答えた。
「何もしないからだろ。俺はいつか世界チャンピオンになるんだ。その為にはただ腐ってちゃだめだ。駆けずり回って、自分で風を集めなきゃな、旗は靡かねぇ。お前の旗はただ風を待ってるだけだ。そんなに都合よく風が吹くもんか。」
僕は言った。
「でも、何をしたらいいか分からないんだ。世界中の人々を笑顔にしたいんだ。でも、どうしたらいいか分からないんだよ!」
彼は拳を顎に当てながら答えた。
「とりあえず、あれなんかどうだ?なんだっけ?サーカスのピエロとかがよくやる、ほら、あのボールをいくつもぐるぐる回す、あれだよ。まあ、なんだっていいだろ。とりあえずそんな顔してちゃ誰も笑わねぇぞ。まずは自分が笑顔にならねぇと。」
「・・・ジャグリングのこと?」
「そんなんだったっけか?ま、なんでもいいや。とりあえずなんでもいいからやってみろよ。言っただろ、自分が駆けずり回らなきゃ風は集まらねぇ。生半可な気持ちで掲げたんなら、そんな旗捨てちまえ。俺の見てる夢は布団の中で見る夢とは違うんだ」
「僕だって・・・!」
彼は僕の言葉なんか聞かずに、くるりと後ろを向いて行ってしまった。
僕は、帰りに雑貨屋でビニールのボールを4つ買って帰った。

 それから、毎日家でジャグリングの練習をした。
でも、いくらやっても上手くならない。
3回、4回と続いても、すぐにボールは僕の手の届かぬところへ飛んで言った。
旗も、萎れたままだ。
毎日、毎日練習を続けた。
風よ、集まれ。

 ある日、僕は久しぶりに公園へ出掛けて行った。
今日も、彼は旗の下でトレーニングをしていた。
彼は僕に気付くと、近づいてきて、言った。
「お、ちゃんとまだ旗を持ってるじゃねぇか。どうだ、なんか見つかったか?」
僕は、おずおずとボールを出して、言った。
「これを、やってみようと思って」
彼はボールを見て、にやりと微笑んだ。
「やって見せろよ」
僕は答えた。
「でも・・・まだまだ全然上手に出来なくて・・・」
彼はイライラした口調で言った。
「いいから、早く!」
僕は、彼の気迫に押されるように、ボールを操り始めた。
3回、4回、5回・・・今日は調子がいいみたいだ。
「お、やるじゃねぇか」
彼もじっと僕を見ている。
でも、だんだんとボールはあちこちに飛んでいき始めた。
ボールが僕の頭上を越えて、後ろに落ちようとした時、僕はそれを掴もうとしてそのまま後ろに倒れた。
「いたた・・・」
彼のほうを見ると、彼はお腹を抱えて笑っていた。
「最高じゃねぇか!いいんだよ、失敗したって。失敗も笑いの一つだぜ!逆に上手なだけじゃ笑えねぇ。お前、意外と素質があるのかもよ」
僕はきょとん、と彼を見上げた。
「後は、お前も、もっと楽しそうにやることだな。自分の笑顔で相手を引き込んじまえよ。精一杯なのは分かるけどよ」
僕の、笑顔・・。
「じゃぁな!」
彼は、唐突にくるりと後ろを向いて去っていった。
おじいちゃんが死んでから忘れてた、僕の笑顔。
僕が失敗した時の、彼の笑顔。
僕は、自分の旗を見上げた。
少しだけ、風に靡いた気がした。

うさぎの恋 2

 でも、そんな日々は長くは続きませんでした。うさぎは森の中を探検しつくすと、もっといろんなところに行ってみたいと思うようになりました。ぬいぐるみにも相談してみましたが、何も返事はありません。うさぎはじれったい日々を過ごし、長い思案のすえ、とうとうひとつの答えを出しました。
「君は、僕が話しかけても何もこたえてくれないし、僕が行くところへも全然ついて来てくれない。それに、僕が何かをあげてもいつも喜んでいるのかもわからない。・・・もう君と一緒にいるのはつらいよ。僕はもう、旅に出るよ」
 そう言って、うさぎは茂みの中へ消えてゆきました。
 ぬいぐるみは、寂しそうにじっと茂みを見つめていましたが、やがて諦めたようにその目の輝きは消えてしまいました。
ただ、また、少女が迎えに来るのを待つ日々に戻っただけ、そう思うことにしました。

 うさぎは何度も何度もうしろを振り返りながら、ゆっくりと山を降りていきました。うさぎの通った後は、草花たちも元気をなくし、しおれてしまいました。鳥たちも、うさぎの上を通る時はさえずるのをやめました。

 そして、ついにふもとの湖まで降りてきてしまいました。この辺もまだまばらに樹木が残っていますが、ここからは町へとつづく整備された道路が伸びているので、森よりも人間の香りが強く残っています。この湖も、以前はたくさんのボートが波を立たせ、いつも笑顔とざわめきが溢れていましたが、キャンプ場の廃場と同時に貸しボートもなくなり、今ではここを訪れるのはもの好きな釣り人ぐらいです。周りに見えるのは朽ち果てたボートの貸し出し小屋だった建物と、湖にせり出している桟橋、そして、その上で釣りをしている人と彼らの乗ってきた車、めぼしいものはそれぐらいです。

 うさぎは人間の動きを警戒しながら左へぐるっと湖沿いに回り、人間からは見えないところへやって来ました。幸い人間たちは釣りに夢中で、だれもうさぎには気づいていないようです。ここはちょうど、湖水からたくさんの葦が突き出していて、人間のいるところからは死角になっています。うさぎは水辺に腰をおろすと、湖をのぞきこみました。
 透明な鏡は、湖の底を背景に、揺らめきながら一羽のうさぎを映し出しました。なんと情けない顔でしょう!自慢の耳はだらしなく垂れ下がり、目からあごの下にかけて、くっきりと涙の流れた跡が残っています。葦たちはそれを見て、カサカサと笑い声を立てました。うさぎは恥ずかしくなり、ちょっと離れたところに立っている1本の大きな木の裏側へちょこんと座りました。
 正面には、見るものを威圧せんばかりの雄大な山がそびえています。故郷のとなり山です。うさぎには、それはとても懐かしく、やさしく見えました。
(明日、一度故郷へ帰ろう・・・)
 きっとそこへ行けば何もかも忘れられる、そう思い、うさぎはその日はその木の根元で体を休めました。

 ぬいぐるみは泣いていました。実際に涙を流しこそはしませんが、体は小刻みに震え、心に浮かぶのは、今では少女のことではなく、あのうさぎのことです。月はそんなぬいぐるみをとても心配そうに覗き込んでいましたが、その青白い光でさえ、ぬいぐるみにはうさぎとの思い出の一部なのです。だから、ビー玉も、月のしずくの花も、だれもぬいぐるみを癒すことはできませんでした。

そして、朝を迎えました。
 霧の中で目を覚ましたうさぎは、なんだか体の調子がおかしいことに気づきました。頭ががんがんします。体の節々に鈍い痛みを感じます。昨日から何も食べていないのに、まったく食欲がありません。
 うさぎは病気になっていたのです。恋の病という名の。

 うさぎはまず、水を飲みに行きました。一晩うなされていたようで、喉がからからです。
 湖に近づくと、霧の奥で何か茶色いものが風に揺られています。うさぎははっと立ち止まり、それを見つめました。実際は、それは風に揺られる葦だったのですが、うさぎには、そう、風に揺られるぬいぐるみに見えたのです。
 うさぎは少し下がって、その光景を見つめていました。
そして、となり山のすそから、朝を告げる太陽が顔を出しました。

 その瞬間!

霧に包まれた世界は無数の光に飲み込まれました。光の乱反射は、うさぎにぬいぐるみの瞳を、ビー玉を、月のしずくの花を思い起こさせました。うさぎは呆然と立ちつくし、目には涙を浮かべ
「そうだ・・・そうだったんだ・・・・・・僕の心は・・そこに・・・そこにあったんだ!!」
と小さくつぶやき、駆け出しました。
 もううさぎにも、風に揺られる茶色いものがぬいぐるみではないことはわかっていました。
 だって、彼の行くところはひとつしかなかったのです。

 その日は、とても静かな夜でした。
 森の木々は、時々風のささやきに応えるかのように葉を擦りあわせましたが、そのほかはまるで森に住む動物たちがすべていなくなってしまったと思えるほど、森はひっそりと静まりかえっていました。
 山の頂上近く、1本の小さなあすなろの木の根元に、ひとつのうさぎのぬいぐるみがありました。その傍らには、うさぎのぬいぐるみに、得意げになにかを話している真っ白な一羽の雄うさぎがいます。
 今日もまた、月の光は彼らを照らしています。まるで、母親の微笑みのような、やさしさで。

うさぎの恋 1

 その日は、とてもしずかな夜でした。
 森の木々は、時々風のささやきに応えるかのように葉を擦りあわせましたが、そのほかはまるで森に住む動物たちがすべていなくなってしまったかと思えるほど、森はひっそりと静まりかえっていました。

 森は、山の中腹から山頂にかけて広がっていて、たくさんのヒノキが背比べをするように空へ伸びていました。山の麓、となりの山との間には小さな湖がありました。
 以前はキャンプ場として賑わっていたその山も、キャンプ場の閉鎖にともない、ほとんど人が近寄らなくなってしまいました。それに、人のたくさん住む町とはずいぶん離れていたのです。
やって来るのは、せいぜいとなり山の動物たちぐらいでした。

その山の頂上近くに、1本の小さなあすなろの木がありました。あすなろの木は、背の高いまわりのヒノキに囲まれて、あまり日の光もあたらず成長も遅かったのですが、月がちょうど中天にさしかかると、まるであすなろの木を憐れむかのように一筋の光が降りてきて、その木を照らすのでした。
そして、月の光に照らされたその木の根元には、ひとつのうさぎのぬいぐるみがありました。

それは、もともとある小さな女の子のものでした。
 家族とキャンプにきた女の子は、初めてのキャンプにとても興奮して、その日の記念に、
「いつか、絶対にまた来るからね。それまで待っててね」
と言い、ぬいぐるみをその木の根元においていったのです。

 それから、いくつもの季節が流れました。ぬいぐるみは、ずっとそこで女の子を待ちつづけましたが、いつまでたっても女の子はやってきません。それでも、ぬいぐるみは待ちつづけました。だって、ぬいぐるみは歩くことができなかったのですから。
 もともとは真っ白だったその毛も、今では汚れてすっかり茶色くなってしまいました。

 そして、ある静かな夜のことでした。
 その日はきれいな満月で、やはりいつものように、ぽっかり開いた天窓からそそぐ月の光があすなろの木を照らしていました。月はとってもきれいでしたが、ぬいぐるみは上を向いて月を見ることもできず、じっと、正面にある少し離れた茂みを見つめていました。
 すると、ふいに茂みがかさかさと揺れだしました。それでもぬいぐるみは何も思わず、前を見据えています。
 しばらくすると、茂みの中から真っ白な長い耳が飛び出しました。耳は左右をキョロキョロと向くと、一度茂みの中に引き込み、今度は中から一羽のうさぎが出てきました。
 見ただけで撫でたくなるようなふさふさで真っ白な毛並み、そして、先ほどの空に向かってまっすぐのびる長い耳、それに、まるでルビーのような赤い眼をした雄うさぎでした。うさぎはぬいぐるみを見ると、まっすぐに跳ねよってきて話しかけました。
「はじめまして。」
うさぎがそう言うと、ぬいぐるみは風に揺られ、小さくおじぎをしました。
「僕はいろんな世界が見たくて、となりの山から旅をしてきたんだ。でも夜になっちゃってね、泊まるところを探してるんだ。ここは君の家かい?へぇ、きれいなところに住んでいるね。」
うさぎは空を見上げ、そう言うと、つづけて
「今夜一晩、僕を泊めてくれないかい?」
と言いました。ぬいぐるみはうさぎの唐突さに少し驚きましたが、風に揺られ、小さくうなづきました。

うさぎはぬいぐるみのとなりに腰掛け、今まで旅してきたこと、旅先で見たものなどを得意げに、そして妙になれなれしくぬいぐるみに話して聞かせました。ぬいぐるみは風に揺られ、それに一つ一つ小さくうなずき返しながらじっと話を聞いていました。

こうして、静かな森にかすかな騒音を含みながら、その夜はふけていきました。

次の日の朝、うさぎは
「今日、僕は一日かけてこの辺の景色を見たり、向こうにあるっていうキャンプ場に行ったりする予定なんだ。それでさ、今夜、もう一晩、僕を泊めてくれないかな?」
と言いました。ぬいぐるみは風に揺られ小さくうなずきました。
 それを見ると、うさぎは楽しそうに飛び跳ねながら茂みの中に消えてゆき、ぬいぐるみはそんなうさぎを心なしか羨ましそうに見送りました。

 さて、うさぎは明るくなった森の中を軽快に跳ねてゆきます。のんきに鼻歌を歌いながら、あたりをキョロキョロと見まわしています。ヒノキやあすなろ、ブナなどたくさんの木々が立ち並ぶなか、枝を駆け回るリスの親子や、体をマントのようにして飛ぶムササビ、コツコツと秒を刻むキツツキ、冬に向けて落ち葉や木の実を一列になってせっせと運ぶ蟻の群れ。どれも、となり山で見慣れた景色とさほど変わりはありません。
 それでもうさぎは楽しそうです。だって、旅ってウキウキするものです。
 楽しみながら森を進んでいくと、なにやらさわさわと水の流れる音が聞こえてきました。うさぎは音のするほうへ耳を向けながら、木と木の間を縫うように跳ねていきます。

 やがて、うさぎは小さな崖の上に出ました。(崖といっても2メートルほどだったのですが)下には小さな小川と、もともとはキャンプ場であったと思われる川原がありました。うさぎは崖のところどころにせり出した岩を使いながら、器用に川原に下りていきます。昔のキャンプ場といっても、今ではその面影もなく、ただ大小さまざまな石が無造作にごろごろところがっているだけです。それでも、うさぎは楽しそうにあたりを見回して、川原を跳びまわった後、川べりできれいに光る丸い石をみつけ、それを拾ってどこかへ行ってしまいました。

 その日の夜、まだ月が木を照らす前にうさぎは帰ってきました。そして、今日見てきたもののことをぬいぐるみに話して聞かせました。森で見た動物たちのことやキャンプ場だった川原のことなど、ひとしきり話し終えると、うさぎはぬいぐるみの前に透明な丸い石を差し出しました。それはガラスでできたビー玉でした。
「これをキャンプ場で拾ったんだ。きれいだろう、君にあげるよ」
 ぬいぐるみは何も言いませんでしたが、風に揺られ何度も小さくうなづきました。
 そのとき、月がうさぎたちの上に顔を出し、その青白い光が彼らに降り注ぎました。ビー玉は、光を受けてまるで水晶のように輝きました。
「うわ・・・あ・・・」
 うさぎはうっとりとそれを見つめ、やがて顔を上げるとぬいぐるみのことをじっと見つめました。大きな丸い顔にぴんと張った長い耳、キュッと引き結んだ小さな口、そして、黒く輝く大きな目。ぬいぐるみもまた、うさぎのことを見つめ返していました。
 そして、うさぎは唐突に
「ずっと、ここにいてもいいかい?」
と、言いました。ぬいぐるみは少し驚きましたが、しばらくの沈黙の後、風に揺られ小さくうなづきました。
 うさぎはぬいぐるみを包むやさしい風に、ぬいぐるみのもの静かな様子に、そして、その気高さに魅せられてしまったのです。
 ぬいぐるみもまた、このやんちゃなうさぎに惹かれている自分を感じていました。

 次の日、うさぎはまたどこかへ出かけていきました。ぬいぐるみは、うさぎもまた帰ってこなくなるのではと気が気ではありません。それでも、ぬいぐるみは夜まで少しウキウキしながら、少し不安を抱えながらうさぎの帰りを待っていました。
 はたして、うさぎは夜には帰ってきました。今日は、森のふくろうに教えてもらった山の裏側へ行っていたのだそうです。山の裏側には、季節ごとにたくさんの花が咲き乱れ、樹木の数は少なく、たくさんの小さな昆虫や鳥たちが暮らしています。もちろんぬいぐるみはそんなことは知りません。
 それにしても、今日のうさぎはいつにもまして落ち着きがありません。しきりと空を見上げてそわそわしています。
 やがて、月が空を覆い、うさぎたちを照らし出すと、待ってましたと言わんばかりに飛び跳ねて、
「君に月のしずくの花を取ってきてあげるよ」
と言い、茂みの中へ消えていきました。

 残されたぬいぐるみは何がなんだかわからず、それでも、ただひたすらとうさぎの帰りを待っていました。そして、森の動物たちが住処からのそのそと這い出してくるころ、やっと、うさぎは手にひとつの白い花を持って帰ってきました。
「どうだい、きれいな花だろう。この花には、“永遠にあなたのもの”っていう意味があるんだって。森のホトトギスに教わったんだ。僕の気持ちだよ。ずっと君のそばにいるよ、ってね」
 うさぎは照れくさそうにそう言って、その白い花をぬいぐるみの足元に置きました。
 その花の花びらは細く、外側に反り返っていて、大きなおしべとめしべは、互いに寄り添うように花の中心から伸びていました。そして、花の中心、そのおしべとめしべの付け根にはまるで一粒の真珠のような大きなしずく を含んでいました。
「ちょっと遅くなっちゃったし、その花を捜すのも大変だったけど、君のためならなんともないさ」
 うさぎは誇らしげににそう言いましたが、薄明るい世界の中でよく見ると、うさぎのその綿毛のような毛は、ところどころ泥で汚れていて、けばだっており、自慢の長い耳からは、ほんのわずかですが、出血の跡がありました。まったくみすぼらしい姿でしたが、それでもぬいぐるみには、何よりも、そう、月のしずくの花よりも美しく、そして、誇らしげに見えました。それと同時に、「ありがとう」のひとことも言えない自分をもどかしく思うのでした。

 さて、次の日うさぎはぬいぐるみのそばで一日を過ごしました。森はまるで二人を祝福するかのように、鳥といっしょにすばらしいアンサンブルを奏でました。ビー玉と月のしずくの花は、二人のために精一杯輝きました。夕方にはほんの少しだけ雨が降りましたが、泥まみれの二人には、かえって気持ちいいぐらいでした。

 そして、次の朝が来ると、うさぎは好奇心に突き動かされるように、また森の中の探検に出かけてゆきました。出がけに、
「一緒に行くかい?」
と言いましたが、ぬいぐるみは風に揺られ小さく首を横に振りました。
 その次の日も、そのまた次の日もうさぎは朝になると出かけていき、夕方には帰ってきてその日に見たもののことを話し、必ず何かおみやげを持って帰ってくるのでした。

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