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今日の肝炎訴訟の和解でも明らかなように、エセ人権弁護士による商売としての訴訟が続発するようになり、いわば「ごね得」社会になってきているのは大変憂うべき事態です。これは政府や国家の責任意識の低下と、達成不能な平等主義の幻想から来る商売としての訴訟増加と言う問題を抜きに考えることは不可能で、ここには大きなモラルハザードの問題があります。この背景には消費者契約法の理念に見られるように消費者と業者など商取引における個人間の交渉能力の格差を問う一方で、社会的な発言力の格差を是認するという歪んだ理念の問題も存在し、俗に言われる学者や思想家の奢りと理性に対する過信がこういった全体主義的問題に拍車をかけているのは間違いないところです。

他方この個人的な交渉能力を問わなくすると言う方向性はコミュニケーション能力や交渉能力の衰退をもたらしているような気がしてなりません。私自身、仕事柄トラブル対処ということが極めて多いです。これは自己弁護をさせていただけるなら、職業的な業界のモラルの低さや仕事の出来る出来ないという問題もありますが、工事等という物に絶対という話はなくもちろんコストをかければよりリスクの少ない物は出来ますが、確率を低下させることに過ぎないわけですし、そのコストとのトレードオフという問題も常に存在していることは考えなければいけません。また消費財ですから使い方によっては早く壊れたり消耗することもあるわけです。人間のやることに絶対と言うこともありませんしね。ですからトラブルやクレーム処理といった物は常に存在し、こちらがクレームを入れる側、逆にクレームを受ける側になる事も多々あるわけです。

ところが最近クレームを入れる側に立った場合に、「会社の規定ですから出来ません」という返答が返ってくることが多いのです。これは極めてふさわしくない返事に他なりませんが、これだけ多いとどこかでそう言う指導をしているのではないかという疑念に駆られてくることになります。この発言の何処がおかしいかと言えば、「会社の規定」という物はローカルルールだと言うことです。ローカルルールという物は極めてその意義が大きく、社内規定に準じた活動を行わない人間に対してはそれなりの制裁を科すことは認められていますし、また業界的な話をすれば地区協定という物は公的規定より重要になるわけです。もちろんこれはより大きなルールに違反しない範囲でと言うことにはなりますが、とにもかくにも当事者同士で行われた合意の元での契約という意味もありますから、安易に規定違反を行えば債務の不履行と言うことにもなります。

しかしながら「会社の規定」というのは契約関係でない社外の人間には従う必然性のない話で、会社を代表して相手の要求を拒否していると言うことに他なりません。もちろん会社を代表して拒否するというのであれば何ら問題のない発言ですが、どうもそう言う意識で言っているわけではないようなのです。この場合相手側としては要望の拒否により戦略の立て直しを図ることになり、取引の予定であれば当然その中止の検討になりますし、既に契約が成立している場合には債務不履行と言うこと、クレームの場合には要求拒否と言うことで完全な利害の対立構造が発生し、より大きなコミュニティーにおける調停、すなわち行政か司法の介入という状況が必要になる事になります。しかもクレームなどで自らの非を認めているような状況になっていても「会社の規定ですのでこういう形でお願いします」・・・・・馬鹿じゃなかろうかと思います。普通はお願いする、または許しを請うわけですから強制ではなく「こういう対応で御納得頂けないでしょうか?」という提案形式でしょう。

もちろん理不尽な要求や自らに非のないことまで問われるいわれはないわけですからその場合は当然突っぱねて構わないわけですが、常にそう言うことではすまないのは当然の話でその辺を「うまくやる」必要性というのは常に存在します。

さらにこれが行政の場合には「国の規定として」または「役所や自治体の規定として」と言うことになり、当然国家や自治体に対する賠償訴訟と言うことになるわけですが、そう言った結果として訴訟の増大を招いているような傾向は確かに存在します。

これは大企業病の一種であり当事者意識がないためにより大きな存在を盾に逃げている話でもあり、規模が大きくなればなるほどこの傾向は強いように感じます。もちろん最悪なのは公務員で例えば書類請求などをする場合に「規定です」と言う返答の何と多いことか?他の自治体の同じ部署では大丈夫だった書類が、「請求書類はこの文言でないと認められません」etc。少なくとも客商売をする人間の感覚から言えば失格も良いところです。そりゃ頭に来て裁判にもなりますし、感情的にもつれますから容易に解決も出来なくなりますよ。

少し前であればワンクッション置いて「決裁権がないので上司に相談させて下さい」などなどもう少しやり方があったと思います。もちろん対応が総責任者の場合などは後ろにもう誰もいないわけですからその場で判断を下さざるを得ないのは当然ですが、そうなると困るので少し下の人間が最初に対応することも多いわけでその辺の感覚がどうも薄れてきているように思えてなりません。

これは何処に問題があるのか?おそらく現場及び最前線にだけ問題があるわけではないでしょう。今の政治などを見ていても政治家はまったく責任を取らないわけで、現場に問題を押しつけて逃げている上司や上層部や蔓延していることが、相談しても失点として評価を下げるだけという認識に陥っているのではないでしょうか?これは対外的なコミュニケーション能力とともに社内的なコミュニケーション能力の低下と言うことでもあり由々しき問題です。

仕事をしているときは埒があかなければ、相手方を上司などに対応者を切り替えさせますし、私自身はそれが出来る立場なのでよいのですが、下だけで対応させていたらどうなるのか空恐ろしくなります。

トラブルのない関係という物は常に目指すべき境地でありますが、理想とほど遠い現実の前にはクレームというのは改善と効率化への手がかりでもあります。一方でそう言った認識があってもそれが社内的に吸い上げられなければまったく意味のない話です。責任感の欠如という物はそのコミュニティー多面的に浸食していくことになります。国会特に民主党議員などを反面教師にしながらその辺を国家全体で見直す時期に来ているのではないでしょうか?

前回に続いて暴力についての考察です。実はこの概念は長いことドイツやフランスの政治学や法哲学で何世紀も議論している内容です。そんな話を私なんぞが短くまとめてしまうのもどうかと思いますが、先日の「暴力装置」発言での政治の中での政治学および法哲学の退化が目を覆わんばかりの状況だったためにちょっと触れておこうと思います。

さて何でこんな自然法概念が出てきたかというと原因として宗教改革があげられます。それまでカトリック教会の下、地域のおける権威や法秩序は一つだったわけですが、そうではなくなったことによる法概念の再構築を迫られることになりました。その最たる物が暴力であるわけです。

中世の宗教改革前のカトリック教会の下では法概念が宗教観と同等の概念をなしていたわけですから、カトリック的な意義を持つ物が正しい法としてあれば良かったわけです。すなわち聖書のカトリック的解釈が可能であれば法としての権威付けが可能であったことを意味します。例えば「汝殺すなかれ」と言うことに関して個人の裁量による殺人は論外ですが、神の権威に裁かれるのであれば構わないわけです。

「仮説」広場ですから少し脱線すると、中世の戦争において、異教徒との戦いを除けばほとんど相続問題を起源とすること、また捕虜に対する身代金制度という西洋特有の発想が生まれたのも、こういった発想から来て物だとさえ思えます。この身代金制度と言うのは、騎士道を語る上では欠かせない話で、ある種の名誉と富をかけたギャンブル性が戦争の目的にまでなったようなものです。例えば有名なのは百年戦争ですが、国王であるジャン2世やシャルル5世(税制改革を行ったことで近代の軍隊の国家像の先鞭をつけた人物ですが)の配下で総指揮官であったベルトラン・デュ・ゲクランあたりが身代金を払って捕虜の立場から解放されるなどと言う、日本人の感覚ではまるで理解されないようなことが現実として起きているわけです。これは行政能力の限界と封建制による領主の権力の大きさを考慮にいれると、生存権や生活権の拡大を図ると言う発想ではとうてい起こりえない話です。要するに滅ぼすために戦争をしているわけではないのです。もっとも身代金という発想は独立してしまっておりイスラム教徒相手の戦闘である第三回十字軍でリチャード獅子心王はサラディン相手に身代金の要求などをしていたりします。

話を戻しますが宗教改革が起こると異端審問と殲滅戦が起こるようになります。そもそもカトリックの法はカトリック教徒の間だけで通用する法ですから改宗しないのであればアウトローと言うことで排除の対象になります。こうなってくると一つの地域に二つの法概念と言うことになり、最終的で破滅的な解決策を避けるためには、今までの概念にない形での法概念を樹立する必要が出てくることになります。これが自然権であり、法秩序が出来る前の自然状態のままの権利認識から法概念を再構築しようと言うことになるわけです。自然権の下に構築された自然法の概念では、有名な物に社会契約論というのがありますが、結果的にこれは自然権の補完または、拡充する物でなければならないことになり、もし万が一自然権を確保できない法律であれば従う必要性がないことになってきます。従う必要がないと言うことは言い換えれば社会契約論における国家との契約は当然ながら債務不履行と言うことで破棄されることにあり、これが暴力革命を支える重要な理論的なバックボーンになったわけです。

しかしながらこういった暴力革命及び手段としての暴力が致命的な悲劇を引き起こすことは経験則的にも明らかであり、生産設備の破壊などからも功利主義的見解から行けば社会全体の最大効用を低下させることにも繋がります。すなわちこういった見解の下に立てば「汝殺すなかれ」も「右の頬を叩かれたら・・・・」という暴力の否定こそがまさしく神の救いと言うことになるわけです。断っておかなければならないのは、自然法は自然権から来る物の神の否定ではないことです。神の与えたもうた物の中から、すなわち聖書研究などに権威を求めている点では神と離別しているわけはないのです。また過去の法体系である、ギリシャ哲学や、ローマ法の概念も取り入れています。

こういった合理主義や「理性」の限界という考え方は経済学をやった人間からすればすぐにナッシュ均衡における囚人のジレンマとパレート最適の概念を思い出すことになると思います。すなわち合理的な判断の下での決断は必ずしも効用の総和を最大にしないのです。ゲーム理論は20世紀の理論ではありますが、経験則的に何とかしようとしてきたわけで、また限定合理性という概念も、合理主義の危険性を認識する上では考えておかなければなりません。この場合において合理的な結論から一段俯瞰した立場における法の設定が必要になることになり、果たしてそれが人間に可能であるのかといった問題まで含めて、そう言った議論を永遠にやってきたのが独仏の政治学者連中であるわけです。

さてもう一つ忘れてはいけないのが法の持つ力に他なりません。道徳や倫理と違い法という物は強制力を持ちます。例えば戦争で負ければ国民全体の効用の如何を問わずに強制的な圧力を受けますし、罰則のない刑法はその意味を持ちません。一方で例えば先述の革命に関して言えば革命が起こってしまえば革命前の違法行為は合法化できますし、そこまで行かなくても例えば政権交代によって行われる法制度の改革によって容易に受益者が変更されると言うことは、それが普遍的な物を根拠にする自然法概念からも、絶対遵守が基本の「神の教え」にとっても相容れない発想と言うことになります。前回少し触れたドイツ語のGewaltという単語が暴力であり権力でありその双方から切り離すことの出来ない理由がこの問題なのであり、そうすると法の源泉を何処に求めなければいけないのかと言うことにも繋がってくることになります。

こう言ったことに折り合いをつけてきたのが今日の西洋政治学や法哲学であり、暴力に関して言えば、「汝殺すなかれ」を理想としながら、手段としての自衛権や抑止戦略と破滅的な報復の暴力にならないレベルでの交戦権とはといった実効性の理論を平行して打ち立ててきたわけです。

翻って日本の現状を考えてみると思想の上で何百年退化したのかという目眩にさいなまれることになります。神道にとってはともかく日本のもう一つの文化や思想の源泉である仏教においても、殺生は禁じられてきた行為です。にもかかわらず太原雪斎や武田信玄のような僧侶兼任の戦国武将はもとより、その高い教養や文章力があったとはいえ、アドバイザーとして日本の権力及びその武力とともにあった、理想はともかく現実の中での必要性を認識し棲み分けてきたわけです。

ところがこういった議論を経ないまま策定された憲法や戦後教育によって、この併存概念を綺麗さっぱり破壊し尽くしてしまい、暴力という言葉、おそらくこれを強制力と言っても同様の対応が起きたと思いますが、だけで拒絶反応を起こす平和ボケしてしまった国民と政治家の現状を見るにつけ、考えるという行為と長きにわたる文化的英知の喪失を痛感するに至ったわけです。

現状のEUがその成功か不成功かはともかくとして成立し得たのは、こういった宗教観をこえて広汎に受け入れられる法概念の下地があったからに他なりませんし、宗教改革でもっとも血を流した独仏が中心的な役割を演じた所以でもあります。一方で経済的視点から東アジア共同体に向けた活動などと言いながらその下地も持たずに議論しようとすることのなんたる浅薄さか・・・・・。

こんな状況で改革などという話になるから、自民党も民主党も同じように口だけで挫折するのでしょう。

個人的精神の安寧のために改善の糸口ぐらいは欲しくなりますが・・・・・

どこぞの健忘長官の発言ついでの考察です。

今日は知人からボジョレーヌーボーが届いたので早めに仕事を切り上げ読書をしながら飲んでいるという贅沢をしているわけですが、せっかくなので仮説広場の更新とともにマックス・ヴェーバーを取りあげていきたいと思います。まあ社会学は専門外なので変にツッコミを入れられると困りますが^^;

さて前提としての暴力という言葉の意味合いですが、社会学での「暴力装置」と言った場合これは純粋な腕力のみならず強制力を持つ力という意味があります。共産主義を含む暴力的社会主義革命にかなり批判的であったマックス・ヴェーバーやその後のマルクス系列と言って良いジョルジュ・ソレルの「暴力論」、またそこから対応するヴァルター・ベンヤミンの「暴力批判論」と展開される暴力に関する考察としてこれは革命運動のただ中にあった西洋社会学の中では基本となる概念に他なりません。これには労働運動などでたびたび行われたストライキ権なども、立場の違いを超えて行動しないことによって対価を求めるのであれば、脅迫という概念になり暴力と定義できる言う共通認識も出来ています。

そう言う意味においてこの発言自体はまったく間違っていません。逆にこの暴力装置なくして国家が成り立つと思う方がどうかしてます。この暴力装置には軍隊だけでなく警察機構も入るわけで、もしこんな物が必要ないと思うならそれこそ9条信者と同じように、自衛隊不要論が出てきてもおかしくありません。この言葉にアレルギー反応を起こすことの方が日本のお花畑を象徴しているようで恐怖を覚えます。

しかしながら仙谷官房長官の発言は、国民、とくに民間人の表現や思想の自由に対する侵害と暴力装置のあり方を混同させることであって、特有の「俺が法律」理論に基づいた破綻した論理構造に他なりません。またに暴力装置として批判するのであれば、まあこれは本筋ではないのでしょうが、権力の一部である暴力装置を自らの手足を批判するように文句をつけているわけで、手段としての暴力の掌握により暴走しつつある権力のさらなる拡大を企図するとともに現状の統治能力の不備を暴露したことでもあるわけです。また撤回していることで理論の底の浅さを露呈しました。

さて社会学に話を戻しますが、問題なのはこの暴力装置とどう向き合うのかと言うことになります。まあツッコミを入れられて説明もせずに撤回してしまうあたり、健忘長官もろくに理解はしていないのでしょうが、彼らの生きていた当時20世紀初頭は革命の嵐が吹き荒れていたこともあり、マックス・ヴェーバーは目的が正当であるなら直接的手段としての暴力の行使はあって然るべしと言うことになります。これは内部への力のみならず戦争暴力に対しても同様です。

>人が心情倫理(神の言葉や一般的社会通念)の準則の下で行動するか、それとも人は、予見しうる結果の責任を負うべきだとする責任倫理の準則に従って行動するかは、底知れぬ深い対立である。

といって、暴力はもちろん唯一の問題解決の手段ではないが、性善説のみでは抗いえない問題の存在を説いているわけです。

一方でマルクスの影響の見られるソレルやベンヤミンになってくると、国家暴力(force)とそれに対する革命的暴力(violence)とにわかれ(暴力論の原題がReflexions sur la Violenceであることからもどちらの立場に立ったかわかると思いますが)更に利益配分の変更を求めた政治的ゼネストと、国家暴力の打破まさしく革命ですがその後の法秩序の再構築を目的としないプロレタリアゼネストにわけ考察しています。これは結果的に国家暴力の打破で終わっている点でアナーキズムの色合いが出てくるのですが、組合ごとの利益配分の変更が主眼になってくるというサンディカリスムからの脱皮を図る上で、国家社会主義の重要な思想的根拠になったのは言うまでもありません。

話はそれましたが、直接的であれ逆説的であれどちらにせよ法の維持に関して、暴力の介在が必要であるまた存在していると言う見解には相違がないのです。

民間発言に対する事務次官の通達まで含めた今回の一件は、社会通念による支配から、恐怖や利益誘導による支配への目に見える移行という意味でも甚だ腐敗の根源を助長する色を帯びたことを暴露した内容だったとお思います。

>デマゴーク(煽動的民衆指導者)の態度は本筋に即していないから、本物の権力の代わりに権力の派手な外観を求め、またその態度が無責任だから、内容的な目的をなに一つ持たず、ただ権力のために権力を享受することになりやすい。
権力は一切の政治の不可避的な手段であり、従ってまた、一切の政治の原動力であるが、と言うよりむしろ、権力がまさにそういうものであるからこそ、権力を笠に着た成り上がり者の大言壮語や、権力におぼれたナルシシズム、要するに純粋な権力崇拝ほど、政治の力を堕落させ歪める物はない。単なる「権力政治家」の活動は派手かもしれないが、実際は空虚で無意味な物に終わってしまう。

ヴェーバーの「職業としての政治」(1919)からの引用ですが、100年前でも見事に今の民主党を言い切った言葉だと思います。ヨーロッパはこのあと、無能な社会主義への反動から、「イタリア戦闘者ファッシ(Fasci Italiani di combattimento)」同年結党からファシズムやナチズムへと移行するわけですが、それこそ谷垣風に今流行の2.26事件を例に挙げれば、政治の腐敗が法秩序を崩壊させたのであって、先に法秩序の崩壊が政治を腐敗させたのではないことを注意しなければなりません。有権者を含めまた法の執行も含めて行為者は人であって法秩序はあとで来ることを見逃してはなりません。

今回の件では言葉叩きが先行し、無能な民主党へのメディアの離反という意味では大いに結構なのですが、麻生や田母神も「自衛隊は暴力装置」という言葉自体を問題視していますし、逆にこれは法秩序の回復よりは反動への足がかりにもなり得てどこか恐ろしい感じがします。とくに無能政権から急進的全体主義政権では希望がありません。

私自身が思う本質的な解決策は法秩序の回復なのだと思うのですが・・・・・・

ここのところ大分ご無沙汰していたのですが久々の仮説広場です。前回の記事の日付が昨年の9月ですから半年以上あいています。理由としては昨年末から仕事で他のところに小さい文章を書いていたりしていたために、すっかり筆(?)が遠のいてしまったなどと言うこともあるのですが純粋にサボっていたと言うことに違いはありません。それにしても仕事の文章はブログと違って文字数制限がある上に推敲しなければならなかったりするために大変ですね。それほどたいしたこともしていないのですがプロの物書きさんの苦労がわかりました^^;

さて今回のテーマは財政政策と公共事業の限界について特に長期的視点からのアプローチです。私はブログでもわかるように保守派を気取っていたりするのですが、元々自由主義者と言うこともあって経済政策の面でも右派ですから政治保守経済の左派の現状での主流派とは毛色が違ったりします。経済政策の右左と言ってもアメリカを中心とした自由主義国家(内容が自由主義というわけではありません)の中での左派というのはいわゆるケインジアンであり社会保障の拡充と国家により産業の保護、所得の再配分を念頭に置いた体制です。社会主義的と言われる事もありますが共産主義までは行かないわけです。特にソ連崩壊以後は共産主義の失敗は明確な事実として認知されましたから今更共産主義と言ったところで誰も振り向かないわけですから、経済学今更マルクスを持ち出しても社会や思想、概念に与えた影響は否定しませんが、現在では古典以上の意味を持たないわけです。

それぞれの経済政策のメリットデメリットは第2回や第3回で述べてきたわけですが、日本の経済は社会主義的政策によって成り立ってきたと言うことは疑いようのない事実だと思います。ピークになったのは田中角栄の列島改造だと思いますが、国民総中流という言葉で象徴されるように比較的所得格差の少ない状況が達成されてきたわけです。保守、特に高齢層はこの時代を懐かしみながら格差の是正や中流階級の育成をと言うわけで、これが今の保守の主流派と言っても良いと思います。これは公共事業を中心として所得の再配分を行ってきた結果ですが、しかしながら負の遺産として出来た積み重なる財政の負担などもありもはや以前の政策は通用しなくなっていることを認識すべきでしょう。

公共事業には財政政策で言われる乗数効果と早期のインフラ整備による競争の優位と言う大きなメリットがあります。短期から中期にかけてはこの影響はかなり大きくなりますし、最低限の流通が確保されるだけのインフラがなければ産業の下地もないわけですからこれは戦後の高度経済成長下では大きな効果があったと言えます。また競争の原理から言っても市場の占有が早い方が競争には勝つというデファクトスタンダードの理論や企業や設備の誘致からも、早期の投資が経済活動を優位に導くのは当然のことになります。

一方で道路や港湾、鉄道、電気、水道など前倒しで整備していった結果、整備対象の喪失という状況が発生してくることになりました。穴を掘って埋めるだけでも失業の減少と有効需要の発生により財政政策としては有効というのがケインズ流ですからもちろん整備対象が全くなくなるわけではないのですが、当然ながら必要性の高いところからはじめていった結果、残ったのはあまり効果のない場所や、作ったところで維持費ばかりがかかるようなところばかりになってしまったわけです。このことは結局のところ公共事業費や維持コストとして社会的負担になるわけですから税率に跳ね返るなど競争力を落とすことになります。

一方で整備が終わったのならきれいさっぱりやめてしまえと言う短絡的な発想はなかなか出来ないのが現実です。これは公共財の需要の変化に比べて労働市場という物が極めて硬直的であるためです。たとえば鉄筋コンクリート造の建物の耐用年数を50年とすれば(税法の償却期間は47年)、前半の25年間に全部作ってしまったとすると後半の25年は全く仕事がないことになってしまうわけです。こうなってくると当然仕事がなくなるわけですから失業者の拡大から不景気に陥ることになります。結果的に供給力から需要を決めてくると言うことになるのですがこれはかなり歪んだ考え方です。

例を挙げてみると50年かけて総額100の社会資本整備をやる予定を25年にするのであれば年間4の整備を行い対する費用は借り入れを起こし一年あたり2+金利分だけで済みますが、供給力4を基本としてしまった場合、総額200の整備を行い費用は4+金利分が発生することになります。当然同じ200の社会資本を整備するとしても必要性の高い物から行うわけですから、残りの100は無駄になるとは言わないまでもその効用は極めて低下した物となるのは当然のことになってきます。本来であれば毎年2だけの支出で済んだ物が2倍以上の負担になったあげくに効果は2倍以下と言うことになるわけですから社会的コストの増大はかなり悲惨な話になってくることになり、当然ながらその負担を強いられる地域では別の地域に比べ不利な競争を強いられることになってきます。

この最たる物が地方の雇用のためとして作られた港湾や空港、道路と言うことになるわけですが、財政の負担を先送りしたことに加え、本来行うべき雇用の調整をやらずに需給ギャップを先送りし続けてきた結果ツケが回ってきていると言うことも出来るのだと思います。財政負担が限界になり公共事業費の削減と言うことになれば当然ながら供給過剰の発生と労働力の過剰供給、それによる労働市場の競争の激化が起こることになり失業の発生や賃金の低下は避けられない話になってきます。

国際競争のない経済モデルであるのならば公的部門の拡大による過剰サービスと言うことでも成立する可能性はあるのですが、貿易損度は低いとは言っても必要な資源を外国に頼っている以上は貿易を切り離すことは現在の日本では不可能なことですし、また思想や概念の硬直化による成長性の阻害にもつながりやはりこれも困難だと思います。また公共事業は建設国債いわゆる資本整備であるわけですが、社会保障制度に赤字国債を発行するようになってくるとこれは雇用や供給の面はともかく社会負担増加という意味では完全に負担の増加でしかないわけですから論外と言うことになってきます。むろん本来発生するであろう消費を公的部門により効率的に供給できるのであればそれはパレートの改善と言うことでかまわないのですが、赤字国債でまかなおうというのは資本の再配分ですらありません。

こういった話が単純な財政政策による安易な雇用の創出に反対する理由と、今更30年前には簡単に戻れないという理由なのですが皆さんはどうお考えでしょうか?基本に立ち返り必要な物を必要なだけ作るという概念に戻るべきではないでしょうか?戦後行われた大規模な社会資本整備の更新が発生していく前にもう一度考えていくべき話なのだと思いますが。

今回は情報の非対称性という話を中心に行おうと思います。Wikiの説明では以下のようになりますが、だいたいこんな認識でよいかと思います。

経済学では、市場における各取引主体が保有する情報に差があるとき、その不均等な情報構造を情報の非対称性 (asymmetric information) と呼ぶ。情報の非対称性は、人々が保有する情報の分布に偏りがあり、経済主体間において情報格差が生じている事実を表している。

最近の記事では更新料判決の時にちょっと話題にはしましたが、情報というのは各主体によって保有している量や質が異なるというのは当然のことです。第10回で触れたように人間はラプラスの魔のようにすべての情報を所有していることはありませんし、また情報取得には時間や資金、道具というコストが必要なわけですから、当然その対価は発生してしかるべきと言うことになります。逆に情報格差が存在していなければほとんどの商売は成り立ちませんし、たとえば流通業など存在自体が必要なくなり、運送業のみが存在を許されるようになるでしょう。また流通業だけでなく情報格差が存在しないならば、教育の必要もありませんし、弁護士や税理士、コンサルタントといった職業も存在しないことになります。

典型的な社会主義者や共産主義者はこれらを職能にあわせて決められた賃金により分配すればよいと言い、情報の非対称性を悪と見なしますが、そもそも情報の非対称性がなければ仕事自体がないわけですから矛盾した発想といえます。また技術の習得にかかるコストを計量するのも困難なため、同一職業同一賃金という発想もかなり問題をはらんだ話でもあります。ここにおいて自由主義的発想では成果主義という事を中心に据えてくるわけですが、当然ながらこれは生存権を保証する水準になる物でも何でもないというのは周知の事実です。またこの救済での財政赤字と金融緩和はさらなる過剰流動性での不安定化を招くのも事実でしょう。

一方で成果を望まなければ発展の概念が存在しないので、時間がたって競争社会と比較したときに、社会の後進性を認識せざるを得なくなると言う問題をはらんでいると言うことになります。また社会主義的計画を前提に生産された財が生存権を満たす水準にまでなるという保証も全くないのも現実問題として存在します。

さて良く話題に上るのは瑕疵(隠れた傷)と言った物と情報の非対称性というものの整合性(たとえば中古車販売業者が事故歴や走行距離を隠して売るような行為になります)になりますが、これは錯誤させて販売するという認識で詐欺行為といえ、明確に区別することが可能で、それを持って情報の非対称性までも悪と見なすのは現実を無視していると言わざるを得ません。

話がそれたので本題に戻すと、情報の非対称性という物が情報化社会と労働力の流動化の進展とともになくなりつつあるまたは低下しているのではないかという仮定と、それによる商品価格の低下すなわちデフレという問題が今回の主要テーマです。

日本は一部の例外はある物の、この20年物価は下落していると言われています。もちろん統計的な問題で、たとえばただ見るだけのテレビが、薄くなったから値段は上がったけど、別商品との認識で値段が下落し続けていると言うようなこともありますから、そういう認識を忘れてはいけないと思います。一般的にわかりやすいものでは缶ジュースも100円から120円に、アイスやカップ麺も値上がりしています。ただ一方で最近注目されているプライベートブランドの発生などで値下がりしている分野も存在します。ブランド志向の強い日本人は多いですが、さすがに2割程度の価格差があれば比較の対象には当然なってきます。昨今ではコンビニまで出品しているわけですから、今後さらにこの傾向は強まると思います。またパソコンなども今では10万円を切るのが当たり前でネットブックなど低価格商品も出てきている訳ですからね。結果的に見て全体としてみれば感覚的な物価水準はそれほど上昇していないように思えます。

パソコンの値下げなどもそうですがこの原因は送受信により、部品単位での価格の競争が発生した結果ではないかと思います。むろんそれまでも情報の取得に対して常に各主体の努力はありましたが、全体的に情報の取得コストが低下して、情報を独占していた流通業者または担当者が排除されたと言うことになります。また情報取得コストが下がれば情報への対価も当然減少していくことになり、メディアの苦境もこの影響と言うことも出来ます。

さて情報の非対称性の低下の原因は前述のネットの発達による物も大きいですが、一方、日本でこれだけデフレが進行するのは労働力の流動化の影響という日本独自の理由が大きいと思います。たとえば流通などは担当ごとに独自のルートを確保していると思いますが、これは会社のシステムを形成する物です。もしこの担当が競合他社に移動すれば、当然移動先の安いルートをそのままに、移動元の安いルートがあればその部分は利用しようとするでしょう。これは例に挙げた流通だけでなくコスト管理全体に当てはまることだと思います。分解と組み替えと再構築という理論の発展と似たようなプロセスだと思いますが、バブルの崩壊とともに発生した終身雇用の終演とともに、集積された情報の分散が起こった結果なのではないのかと思うのです。

さてこの結果起こるのは競争の影響が大きい完全市場では価格の低下、また単純な価格競争を避けるためには商品やサービスの差別化への圧力、そして契約や市場の占有による独占的立場の取得と言うことになってきます。完全市場による価格の下落を受け入れた場合、利潤は需給のバランスと、裏切りのジレンマの発生によりほとんど発生しないレベルにまで落ち込むことになります。商品が差別化されていて需要があれば、これは独占と変わらない立場ですから、もちろん代替材という概念はあってもその代替効果次第では余剰として利潤を受け取れることになります。これは不完全市場への移行を目指すと言うことでもあります。最後が市場の占有になりますが、これは強権的立場による新規参入の制限と言うことでもあり、ある程度規制されて当然の概念でしょう。この場合市場の開拓を目指す2番目と、市場の発展を阻害する3番目は分けて考えるべき事柄のように思います。

現状がデフレになっていると言うことは一番目の代替効果の高い物の競争の激化の影響が強いと言うことになります。製造業も赤字の会社が多くなっていますが、これは人材を含めた情報の流出を防げていないと言うことでもあります。人材の交代による情報の取得は競争の強化に繋がりますが、逆はそのまま競合の強化に繋がるわけですから、これはきわめて重要な問題で安易なリストラがもたらす、見えにくいマイナス面だと思います。実際技術者が退職して途上国へ行っているという事実があるわけですから、自分で自分の首を絞めているような物で、いくら開発費を使っても安価で利用されるだけと言うことにもなります。

いろいろ述べてきましたが、私は人材の流動化による情報の拡散を責めているわけでは別になく、単純に約20年前の日本社会が情報の偏在によって高物価体質であったと言いたいだけなのです。この仮定が正しいとすれば、デフレはある意味必然で、流通業者の数もかつてはかなり多く非関税障壁と言われたくらいですから、この解消も必然と言うことになります。単純に新自由主義は失敗したから社民主義だと言ってみたところで、デフレ不況という問題は解決しませんし、消費者主導などという理論によってくれば問題はますます悪化することに繋がるでしょう。

情報の蓄積と独占こそが競争を優位に導き、利潤を生み、利潤があるから分配が出来る。この概念を忘れて資本主義を行おうとすれば、矛盾で破綻するだけでなく、利潤を失い先進国としての地位も失うことになると認識すべきだと思います。技術者等の個人に対して情報の非対称性を善しとして、国や企業に対して悪しとするのは大いなる矛盾だと思いますが。裁判などもそうですが、途上国への技術援助などももう少し細心の注意を払うべき事柄のように思いますが・・・・・・・

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