千時千一夜

お読みいただき深謝します。

全体表示

[ リスト ]

イメージ 1 イメージ 2 イメージ 3 イメージ 4 イメージ 5 イメージ 6

イメージ 6

 滝ノ沢神社(花巻市東和町東晴山16-56)の紹介です。
 この神社の近くには民家が一軒あったものの、今は廃屋で、社を訪ねてゆくには少し難儀します。神社と滝が山中にひっそりとあり、周辺は、まるで隠れ里といった印象がつよいです。
 この滝ノ沢神社は、今は人々から忘れられかけた社となっていますが、意外な伝承をもっています。
 瀬織津姫神を集中してまつる早池峰─遠野郷ですが、遠野の西隣の東和町に、明治期まで不動尊(と十一面観音)を主尊とする丹内権現(明治期に丹内山神社となる)があります。同社は本殿背後の「アラハバキ大神の巨石(胎内石)」を御神体としていることで知られる古社ですが、同社の由緒をまずは読んでみます。

 この神社の創建年代は、約千二百年前、上古地方開拓の祖神多邇知比古を祭神として祀っており、承和年間(八三四〜八四七)に空海の弟子(日弘)が不動尊像を安置し、「大聖寺不動丹内大権現」と称し、以来、神仏混淆による尊崇をうけ、平安後期は平泉の藤原氏、中世は安俵小原氏、近世は盛岡南部氏の郷社として厚く加護されてきたと伝えられる。さらに、明治初めの廃仏毀釈により丹内山神社と称し現在に至っている。(丹内山神社境内案内)

 丹内山神社の祭神は「多邇知比古」とありますが、この神名「タニチヒコ」は、丹内を「タニチ」と読みかえ、それにヒコ(彦神)を付加してつくられた神名のようです。
 これも、明治以降の、いわば「公的」な由緒表現とみられますが、由緒の実質的骨格は、「承和年間(八三四〜八四七)に空海の弟子(日弘)が不動尊像を安置」し、その不動尊を「大聖寺不動丹内大権現」と称して「神仏混淆による尊崇」がつづいたということにあるようです。
 この公的由緒は、丹内山神社の「創建」伝承を「約千二百年前」「承和年間(八三四〜八四七)」としていますが、この社の創祀はもっと前にさかのぼります。
 丹内山神社を訪ねると、まず境内にある「御神木爺杉の根株」の巨大な切株に眼がとまります(写真左)。説明板には、「この杉の根株は、根元回り12.12メートル、高さ約60メートル、樹令2000年の古木と伝えられています。大正二年、延焼により焼失」云々と書かれています。株の中央は空洞となっていて、「樹令2000年」というのは、それほどの古木・神木と理解してよいのでしょう。ともかく、この神木の存在一つをみても、「承和年間(八三四〜八四七)」をはるかにさかのぼる祭祀がここにあったことを想像できます。
 丹内山神社は、上記由緒とは別の由緒案内も境内に掲げていて、ユニークです。本殿(明治期までは本堂。写真2)背後にまわりますと、そこには、アラハバキ大神ゆかりの巨石があり(写真3)、これが、同社祭祀の実質的な「御神体」です。この巨石の説明板には、次のように書かれています。

アラハバキ大神の巨石(胎内石)
千三百年以前から当神社霊域の御神体として古から大切に祀られている。地域の信仰の地として栄えた当社は、坂上田村麿、藤原一族、物部氏、安俵小原氏、南部藩主等の崇敬が厚く、領域の中心的祈願所であった。安産、受験、就職、家内安全、交通安全、商売繁昌等の他、壁面に触れぬようにくぐりぬけると大願成就がなされ、又触れた場合でも合格が叶えられると伝えられている巨岩である。

 明治期に丹内山神社の祭神が「多邇知比古」とされたときの創建年代は「約千二百年前」と書かれていましたが、「アラハバキ大神の巨石(胎内石)」の説明では「千三百年以前から」と、百年の時間差がさりげなく記されています。田村麻呂の東北遠征がちょうど「約千二百年前」にあたりますが、その前のアラハバキ大神に対する信仰が当社の始まりだということなのでしょう。おそらくこのことに関わるはずですが、前者の由緒には登場していなかった崇敬氏族として「物部氏」の名があるということは注意しておいてよいかとおもいます。
 さて、不動尊と習合していたらしい丹内山大神については、遠野の民俗学者である伊能嘉矩によって、貴重な古老伝が紹介されていました。以下は、丹内山大神の出現についての記述です。

 当社(丹内山神社)の大神は地祇なり。同郡(和賀郡)東晴山邑滝沢の滝に出現す。赤子にして猿ヶ石川を徒渉し、岸上の峻山に這ひ登り、其の巓の円石を秉[と]りて誓つて曰く、「当に今此石を以て礫に擲[な]げ、其の落ち止まる地を以て我が宮地と為すべし」と。則ち礫に擲ぐ其の石現地に落ち止まる。因りて万代の領地と定め、該石を以て神璽と為して後世に伝ふ。然るに蒙昧の世、其の祭式を伝へず、惟り奇物あり天然の小石数十今に境内に存す。按に大神円石を愛し、以て神璽と為す。故に神愛を追慕して奉納を為す所か。近世に至る此の例あり。其の這ひ登る山を赤児這[アカゴバヒ]山と謂ふ。今赤這と謂ふは訛れるなり。郷民其の巓を小峻森[チヨンコモリ]と称して之を敬ふ。(「谷内権現縁起古老伝」…伊能嘉矩『遠野のくさぐさ』)

 丹内山神社境内には「早池峰山拝石」があります(写真4)。この「谷内権現縁起古老伝」には、丹内山大神は「同郡(和賀郡)東晴山邑滝沢の滝に出現す」とあります。伊能嘉矩は、この「滝沢の滝」の神について言及していませんが、ここに鎮座しているのが、早池峰大神でもある「瀬織津姫命」です。この神を「東晴山邑滝沢」の地でまつるのが滝ノ沢神社で、社殿横には「滝沢の滝」(不動滝)があります(写真5)。
 滝ノ沢神社は現在の社名のようで、扁額には「瀧神社」とあり、いかにも滝神の祭祀であることを告げています。また、同社には「不動明王」と書かれた額もあり、丹内山神社の神仏混淆時代の権現称号「大聖寺不動丹内大権現」へとつながっているようです。
 丹内山神社の境内由緒だけではみえてきませんが、この滝沢の「瀧神」(瀬織津姫命)こそが、丹内山大神でした。
 滝ノ沢神社の社守をしている方の談では、「滝沢の滝」(不動滝)は大きな崩落があって昔の面影が今はなくなってしまったが、昔はすばらしい滝だったとのことです。たしかに、滝壺には大きな岩があり、その崩落のさまを今に伝えているようです(写真6)。
 ところで、アラハバキ大神の巨石の説明で、丹内山大神の崇敬氏族のなかに「藤原一族」とありました。これは、奥州藤原氏のことですが、その初代・藤原清衡が、この丹内山神社(大神)をことのほか崇敬していたことが、これも境内案内に記されています(東和町観光協会作)。

丹内山神社と藤原清衡公の由来
 当神社は地方開拓の祖神として栄え、延暦年間、坂上田村麻呂が東夷の際に参籠される等、日ごと月ごとに霊験あらたかで、嘉保三年(一〇九六)頃から当時の管領藤原清衡公の信仰が篤[ママ]に厚く、耕地二十四町歩を神領として寄進され、また山内には御堂百八ヶ所を建立し、百八躰の仏像を安置した社と伝えられています。藤原清衡は隣の郡である江刺の餅田の館に居住していたことから、当神社に距離も近く、毎年の例祭には、清衡自ら奉幣して、祭りを司っていたと言われています。その後は、安俵城主小原氏(平清義、時義、義清)、更には、南部藩主南部利敬公の崇敬が厚く、藩主の祈願所として栄え、現在に至っています。

 これを読むと、丹内山神社の実質的な「祭主」は藤原清衡であったようです。奥州藤原氏初代・清衡の丹内山大神への崇敬は、三代・秀衡にも顕著にみられます(宮城県・荒雄川神社)。瀬織津姫神と奥州藤原氏のただならぬ関係は、伝承だけでいえば、その前の安倍氏の早池峰信仰にまでさかのぼります。早池峰大神・丹内山大神こと瀬織津姫神(と背後のアラハバキ大神)は、安倍氏─奥州藤原氏の累代にわたる崇敬・信仰の対象神だったと考えられます。

この記事に


.


みんなの更新記事