千時千一夜

お読みいただき深謝します。

全体表示

[ リスト ]

イメージ 1 イメージ 2 イメージ 3 イメージ 4 イメージ 5 イメージ 6 イメージ 7 イメージ 8 イメージ 9

イメージ 9

(つづき)
 常願寺川流域あるいは立山信仰における瀬織津姫祭祀には、二つの異祭祀の傾向がありました。一つは、滝神祭祀(勝妙滝社、滝社)、もう一つは祓戸神祭祀(祓度社、祓戸社)です(『富山県神社祭神御事歴』)。このうち、「滝社」以外は、大正十三年以降のいつの時点かはともかく、現在、廃絶・消滅しています。立山信仰の内部には、瀬織津姫神を「滝神」とみる勢力と「祓戸神」とみる勢力がいたようです。
 常願寺川流域における瀬織津姫祭祀について、三川神社の短い由緒以外で自前の由緒のことばをもっているのが、この「滝社」です(写真1〜3)。
 ガラス越しの撮影で少し読みづらいですが、「滝社御由緒」から創祀に関する由緒部分を引用します(写真4、■は判読不明字)。

滝社御由緒
 本社は応永二年(一三九五年)の創建にして、神亀二年(七二五年)僧行基の作と伝えられる不動尊磨崖仏の東方三枚滝を背にして■■され、瀬織津姫神を祭神とし、五百有余年の歴史と共に近在■■崇敬殊に厚く、相殿に内宮天照大神、外宮豊受大神の二柱を伊勢の国より勧請し上滝村の産土神として奉斎される。〔後略〕

 立山近在では、行基作の「不動尊磨崖仏」で著名なのは大岩不動(真言宗大岩山日石寺:中新川郡上市町)ですが、この滝社にも行基伝承があったようです。行基は「三枚滝」の西に不動尊を磨崖仏として彫ったとされますが、これは現在摩滅していてよくは判別しづらい状態です。
 それはともかく、この「三枚滝を背にして」、瀬織津姫神を祭神とする滝社が創建され、それは「応永二年(一三九五年)」のことというのが、創祀伝承の骨格です。その後、いつの時点かはわからないものの、「相殿に内宮天照大神、外宮豊受大神の二柱を伊勢の国より勧請し上滝村の産土神として奉斎」というのが、滝社がもつ主な祭祀経緯です。
 この「三枚滝」は、「不動滝」とも呼ばれているようです(道路端の案内板)。行基がもしほんとうに「不動尊磨崖仏」をここで線刻したとしてですが、それは、この滝があったゆえの行為だったはずです(わたしは、この行基伝承は、のちの付会と考えます。理由は後述)。現在みられる三枚滝(不動滝)は水量少なく、しかもとても小さな滝で(写真5)、聖域の滝とはほど遠いイメージですが、それでも、ここは「滝社発祥の地」でした(写真6)。標柱には、滝社由緒として「滝社は滝の精の神であり大川寺の守護神であった」とも書かれています。
 瀬織津姫神を、中央の祭祀思想に盲従して大祓神(祓戸神)などとするのではなく、あくまで「滝の精の神」とするのは、この神についての正統な理解といえます。
 また、滝社(瀬織津姫神)は「大川寺の守護神」ともあり、これも念のため大川寺ご住職に確認したところ、「守護神」云々については「知らない」とのことで、少しちぐはぐな印象が残りました。それはおくとしても、寺号の「大川」は、現在の常願寺川のことをいいます。
 滝社の祭祀経緯で興味深いのは、主祭神・瀬織津姫神の相殿に「内宮天照大神、外宮豊受大神」を勧請していることでしょうか。瀬織津姫神は、内宮においては、皇大神宮(内宮)第一別宮・荒祭宮の神でもあり、その別宮神と内宮・外宮神とが同居祭祀しているというのは、ほかにあまり例がありません。
 こういった勧請意図とは何だったのかを考えると話が長くなりますが、勧請した人物が、伊勢の基層祭祀によほど通じていただろうことは想像できます。「外宮豊受大神」の祭祀を仮にはずしてみますと、そこには、瀬織津姫神と天照大神の祭祀がみえてきますし、「外宮豊受大神」にしても、その故地である丹後半島・籠神社の祭祀をみると、この神は宗像の姫神というのがルーツで、これも瀬織津姫神と無縁の神ではなくなってくるからです。
 滝社(の祭祀)は、日本の神まつりとは何かを考える上で、示唆することすこぶる多いのですが、もう一つ、この社の沈黙の主張で唖然とすることがあります。それは、滝社の神紋を、ここは「桜」としていることです(写真7)。滝社には、瀬織津姫神が伊勢の桜神でもあったことを熟知していた人物がいたようです。
 さて、これほどの、ある意味「仕掛け」を施しているのが滝社です。その社名にしても、ふつうなら「滝神社」としてもよさそうなものですが、ここは「滝社」なのです。つまり、「滝=神」で、ことさらに「神」を挿入する必要はないといった主張が、その社名の命名からもうかがえます。
 常願寺川流域で、「滝=神」とみなしうる神滝があるとすれば、それは「称名滝」をおいてほかにありません。この称名滝の古名が「勝妙滝」で、ここには、現在は廃絶されて存在しませんが、大正期までは「勝妙滝社」が鎮座していて、その滝神こそが瀬織津姫神でした。
 称名滝の古名である「勝妙滝」については、『今昔物語』に、次のように記されてもいました。

ソノ地獄ノ原ノ谷ニ大ナル滝アリ、高サ十余丈ナリ、コレヲ勝妙ノ滝ト名付ケタリ、白キ布ヲ張レルニ似タリ。

 勝妙滝社と滝社が同じ神をまつるというのは、それなりの祭祀意図があったものと考えます。
 滝社創建時、社殿は「三枚滝を背にして」建立されました。これは、社殿背後の滝を拝むということで、つまりは、「三枚滝」を御神体とする祭祀を意味します。しかし、この「三枚滝」は小さな滝で、現代の眼からすれば、あまりにみすぼらしい滝です。この貧相な滝が、なぜ滝社にとって重要だったのでしょう。
 滝社の現在の社殿は、境内の「三枚滝」を拝むようには建立されておらず、拝する先は東方、つまり立山です。もっと正確にいえば、立山の手前断崖にかかる勝妙滝(現在の称名滝)を拝むように建立されています。
 勝妙滝(称名滝)は落差三五〇辰箸いβ腓な滝です(写真8の左の滝)。ちなみに、熊野の那智大滝は落差一三〇辰如⊂〔滝にみる壮大な水の光景は圧巻です。この滝は常時水を落下させていますが、雪解けと梅雨時にだけ姿を現すため「幻の滝」といわれる「涅槃滝」もあり(写真8の右の滝)、こちらは落差五〇〇辰箸里海箸任后
 那智大滝にしても立山勝妙滝にしても、その滝神は瀬織津姫神でした。立山信仰には、熊野修験が、その信仰の一角を陣取っていた可能性があります。
 さて、滝社の「三枚滝」です。往時はそれなりの勇姿をもった滝だったはずですが、それをわざわざ「三枚滝」と命名した人物がここにはいたわけです。現在の貧相な「三枚滝」(不動滝)にも、それなりの「三枚」を想像しうる滝の段差がみられますが、この「三枚」を構成する滝の段差は、実は勝妙滝にもいえます(写真を比較してみてください)。
 滝名「三枚滝」は、勝妙滝のミニチュア的な姿をしていた、つまり、勝妙滝へ参拝するには山路あまりに険阻かつ遠く、また、芦峅寺の姥尊信仰地を容易に通過することもかなわず、上滝村の人々にとって、滝社は勝妙滝社の里宮、三枚滝は勝妙滝の「里滝」とみなされていたのではないかと想像されます。三枚滝が、滝社の御神体とみなされたほんとうの理由があるとすれば、やはり、勝妙滝の存在を欠かして考えるのはむずかしいようにおもいます。
(つづく)


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事