千時千一夜

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伊豆山祭祀と空海

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『神道体系』神社編二十一には、伊豆山祭祀に関する縁起書が複数収録されていて、それらを読んでいると、全体にかなり高度・複雑な神仏習合、また神々習合のさまが、さながら曼荼羅模様のごとくに展開されている印象を受けます。
 この高度・複雑な習合思想を伊豆山に持ち込んだ人物は、平安期・嵯峨天皇の時代に鎮護国家の最前衛の仏教徒として頭角をあらわしてくる空海をおいてほかにいないだろうとおもわれます。
 わたしがこのように空海を名指しするのは、以下のような文面が縁起書(「伊豆山略縁起」)に確認できるからです。

弘仁十年己亥、弘法大師、社殿に詣し、結檀念誦し玉ふこと三夜に及ぶ〔中略…後述〕大師重[かさね]て勅命を奉じ、当山を管[つかさど]り、詳[つまびらか]に清規を定め、初[はじめ]て密法を修して、深秘を高雄の僧正及[および]杲隣[こうりん]大徳に附属し玉ひ、其後天長二年乙巳、中本宮・其余社頭・僧房を経営して、永く鎮護国家瑜伽の道場と成せしより、今に其法則[ほっそく]を守り、深密の行業、神殿の秘事、日々の修法、護国の勤念[ごんねん]懈[おこた]ることなし、

 弘法大師こと空海は、弘仁十年(八一九)に伊豆山にやってきて、それも「勅命」によって伊豆山を管轄し、こまかな社則(「清規」)を定めたとされます。また、ここで初めて「密法」を修め、その「深秘」の極意を弟子たちに伝えたようです。空海は天長二年(八二五)にもやってきて、伊豆山の「中本宮」ほかを経営し、ここを「鎮護国家瑜伽の道場」と定めたとされます。
 縁起の作者は、空海が定めた「其法則[ほっそく]を守り、深密の行業、神殿の秘事、日々の修法、護国の勤念[ごんねん]懈[おこた]ることなし」と、空海の教えを忠実に継承していることを、半ば誇りをもって書いてもいます。空海が「鎮護国家」のために定めた「法則」や「深密の行業」・「神殿の秘事」が具体的にどのようなものかは、部外の者には、うかがうことが容易ではありません。
 しかし、「勅命」を奉じた空海による伊豆山祭祀への干渉といった視点で再読してみますと、伊豆山祭祀は、空海の登場を画期として、大きな変動を蒙っただろうことは想像できます。
 遠野郷に伊豆権現(瀬織津姫命)が伝えられたのは大同元年(八〇六)とされます。この伝承を信じるならば、空海が伊豆山祭祀に手を加えた弘仁十年(八一九)から天長二年(八二五)という時間の「前」に相当していますから、空海以降、伊豆山から「瀬織津姫命」の祭祀が消えたのではないかという仮説を立ててもそれほど無理はなかろうとおもいます。
 明治四年(一八七一)に国家に提出された「伊豆国加茂郡伊豆山神社書上」は、「社伝ニハ、正殿ヲ忍穂耳尊、相殿二座ヲ栲幡千々姫命・瓊々杵尊ト称シ来リ、其外区々之諸説等モ御座候」、しかしながら「祭神之事、古来一定仕ラス」とし、正殿は火牟須比命、左相殿は伊邪那岐命、右相殿は伊邪那美命とすることを「右確定支度(右確定したく)」と申請しています(結果、受理されます)。
 平安期から江戸期までの神仏・神々習合の各縁起の内容は、ここで全否定されることになりますが、そもそも「祭神之事、古来一定仕ラス」の淵源はといえば、やはり空海にまでさかのぼって考えてみる必要がありそうです。
「神社書上」は、社号については「旧称」として伊豆御宮、伊豆大権現、走湯大権現の三つがあったとし、さらに「社地沿革」の項では、「上古ハ日金山鎮座」、「次牟須夫峯ニ遷座」、「次亦今之社地ニ遷座」と、その変遷を記しています。また、それぞれに割注のかたちで、以下のような補足説明をしてもいます(個々の鎮座・遷座ごとに改行、それぞれの割注を〔 〕で記します)。

上古ハ日金山鎮座〔本宮ト称ス、是所謂伊豆ガ根ニテ、今之社地ヨリ乾六十町許山嶽上、今ニ至リ、小祠存ス〕
次牟須夫峯ニ遷座〔中ノ本宮ト称ス、社地ヨリ北八町許山中、今ニ至リ、鳥居礎・敷石等存シ、且小祠アリ、祭日六月晦日〕
次亦今之社地ニ遷座〔因テ新宮ト称ス〕

 これを読みますと、社地の変遷ばかりでなく、それに対応するように社名の変遷もあったことがわかります。曰く、本宮→中ノ本宮→新宮(現在の伊豆山神社)の順です。ここで想起されるのは、「伊豆山略縁起」の記述です。縁起は、空海が「中本宮」ほかを経営し、「永く鎮護国家瑜伽の道場」となしたと書いていました。この「中本宮」は「中ノ本宮」のことですが、「神社書上」の割注(補足説明)は、この「中ノ本宮」の項の末尾に「祭日六月晦日」と記しています。つまり、空海が「鎮護国家瑜伽の道場」とみなした中本宮は「六月晦日」を祭日としていたのでした。
 この「六月晦日」は、いうまでもなく「六月晦大祓」の日です。伊豆山の社則(「清規」)を定めたのは空海でしたから、この大祓の日を、新たな伊豆御宮(中本宮)の祭日と定めたのも空海ということになります。
 明治期、たしかに「祭神之事、古来一定仕ラス」だったかもしれませんが、「古来」、本殿あるいは山頂から降格祭祀がなされ、しかも大祓の神と限定されてきたのが瀬織津姫という神でした(岐阜県・野宮神社、白山史料にみる瀬織津姫神の項を参照)。伊豆山においても同じことがいえるだろうと考える理由は、空海の登場以前に、自身の守護神として伊豆権現(瀬織津姫命)をもって伊豆から遠野までやってきた四角藤蔵がおり、今もこの神をまつりつづける遠野・伊豆神社の存在があるからです。
 空海は「勅命」によって伊豆山へやってきて、そこで「鎮護国家」の名のもとに新たな社則(「清規」)を定め、しかも「密法」の「深秘」まで伝えたとされます。
 空海の真言密教の全体像を解読するのは至難ですが、そのエッセンスを抽出することは不可能ではないとおもわれます。「走湯山縁起」巻第五は、巻末に、空海による「真済面授口伝」なる名で、次のように記しています(筆者読み下しで引用)。

海底大日印文五箇口伝、中心伊勢大神宮、内胎蔵大日、外金剛界大日〔已上中台〕、南方高野丹生大明神〔宝珠〕、西方熊野〔蓮花〕、北方羽黒〔羯磨〕、東方走湯権現〔円鏡〕、
日本是大日如来、密厳花蔵浄刹也、四仏を四方に安じ、天照大神を中心に処す、此海底印文、皆大龍の背に在るなり、

「走湯山縁起」巻第五の作者(延尋)は、弘法大師が弟子「真済」に語ったことは「面授口伝」(の秘伝)で、今廃忘を嘆くがゆえにこれをおそれながら注すとしています。
 最澄というよりも円仁といったほうがよいでしょうが、天台密教は、内宮の秘神を神仏習合の方法でどう封印するかに腐心しました。これはまだ単純といえなくもありませんが、空海の真言密教は、同じ封印でも、自身の密教理念の中心にまず大日如来を据え、しかも、この大日如来を胎蔵界と金剛界の二種に分化させるという複雑な仮構をなしたというのが大きな特徴です。さらにいえば、胎蔵界大日如来を内宮に、金剛界大日如来を外宮にあてはめ、四方東西南北に守護神・権現を配することをしたようです。これは、四神(玄武・青龍・朱雀・白虎)の外来思想を空海流にアレンジした印象を受けますが、それはともかく、空海は、南に丹生大明神、西に熊野権現、北に羽黒権現、東に走湯権現を配したのでした。いや、正確には「四仏を四方に安じ」とあり、走湯権現の本地仏についてのみいえば、これは千手観音だったようです。
 それにしても、この「真済面授口伝」を読みますと、空海が「伊勢大神宮」をいかに重視していたかがよく伝わってきます。この「伊勢大神宮」あるいは「天照大神」は、少なくとも東方においては走湯権現(本地仏:千手観音)を守護神・守護仏とする必要があったわけで、ここに「伊勢大神宮」「天照大神」を根本的に脅かす伊勢の地主神がそのままにまつられつづけることはあってはならぬことでした。空海の「鎮護国家」の思想をありていにいえば、こういうことになります。
 ところで、引用の「海底大日印文五箇口伝」という深秘の印文は「皆大龍の背に在る」とされていました。この「大龍」とは何なのでしょう。
「走湯山縁起」巻第五は実は二種類あって、先に引用した縁起とは別の「裏縁起」とでもいうべき、「深秘」につき「不可披見」の添書きをもつ別縁起に、この「大龍」が出てきます。
 内容を要約していいますと、日金山(久地良山…伊豆山)の地底には「赤・白二龍」がいる、尾は「筥根(箱根)之湖水」(芦ノ湖)に、頭は「日金嶺之地底温泉沸所」にあるとされるように、まさに「大龍」です。この龍は背には「円鏡」があり、これは「東夷境所」を示現する「神鏡」だとのことです。また、この龍には「千鱗」があり、その鱗は「千手持物之文絵」を表すもので、それぞれの鱗の下には「明眼」があるともされます。そして、その正体は「生身千手千眼也」と明かされます。
 伊豆権現=走湯権現の本地仏・千手観音は、ここでは「千手千眼」と記されるも、これは、白山における十一面観音の前身として現れた九頭竜神と酷似する発想です。要するに、伊豆山においては、地主神の謂いとして「大龍」があるようです。
 この地主神「大龍」については、表縁起のほうでは、「根本地主」として二神あり、一は「白道明神」、本地は地蔵菩薩、その体は男形である、二は「早追権現」で女形、本地は大威徳明王であるとされ、この表縁起では龍体の表現は消え、神仏習合の複雑な表現に置換されます。ちなみに、大威徳明王は、不動明王を中心とする五大明王の一つで、六面六臂六脚の異形明王です。
 天平元年(七二九)に伊豆権現が善光寺如来ゆかりの戸隠山に失踪したとき、霊湯(走り湯)は涸渇したとされ、権現が伊豆山からいなくなったのは「当山の人、信力薄きが致す処なり」と、伊豆権現に代わって託宣したのが白道明神でした。この白道明神(男形)と一対の関係にあるのが早追権現(女形)で、この早追権現が伊豆権現と重なってきます。
 縁起第五(の表縁起)は、早追権現は、日々夜々、日金山地底の「八穴道」を往来しているから「早追」といい、この権現は、天下の善悪吉凶、王臣政務の是非を取捨勘定するとされ、早追権現がただならぬ神徳を有していることを伝えています。
「伊豆山略縁起」は、「山中の秘所は、八穴の幽道を開き、洞裏の霊泉は、四種の宿痾を愈[いや]し、二六時中に十方[じつはう]の善悪・邪正を裁断し玉ふ事、是権現の御本誓なり」と明記していて、ここでいう「権現」は伊豆権現=走湯権現のことです。
 この「二六時中に十方の善悪・邪正を裁断し玉ふ」という神徳は、早追権現のものでもあり、伊豆権現と早追権現という等質の神徳を有する二つの権現の名がみられることに、伊豆山における権現祭祀の複雑さが象徴的に表れています。これらに、異なった本地仏をあてはめ、さらに複数の眷属神を配し、それらにもさまざまな本地仏をあてはめてゆきますから、その権現祭祀の複雑度はいや増すことになります。
 しかし、伊豆権現と早追権現がもつ「善悪・邪正を裁断し玉ふ」という神徳は、もともとをいえば、空海が自身の「鎮護国家」の思想と密教(「深秘」の「密法」)理念を融合させた必然として、伊豆山祭祀の表層から消去した「神」のものでした。
 この「神」が、地底で(まさに「地主神」ですが)、権現として表現されるときは「早追権現」、地上で(走り湯の)権現として表現されるときは「伊豆権現」または「走湯権現」となるということなのでしょう。
 伊豆山における、空海が伝えた「習合の秘訣」(「伊豆山略縁起」)はたしかに複雑怪奇とさえいえるものですが、少なくとも、伊豆権現と早追権現については、地上地底という明暗の位相における「神」を基体とした上での「権現化」をいったもので、この両権現に秘されている(封印されている)神が異神であるということではありません。
(つづく)

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