(つづき)
走湯権現の「走湯」については、これは読んで字のごとくで、まさに「走り湯」という湯水の勢いよく流れるさまを表したことばです。『伊豆国風土記』(逸文)の「走湯[はしりゆ]」の記載を読んでみます。
普通尋常の出湯[いでゆ]ではない。昼のあいだに二度、山岸の岩屋の中に火焔がさかんに起こって温泉を出し、燐光がひどく烈しい。沸く湯をぬるくして、樋をもって浴槽に入れる。身を浸せば諸病はことごとくなおる。(吉野裕訳)
わたしもこの「岩屋」の洞窟の中に入ってみたことがありますが、その地熱と蒸気で、噴出口の写真はうまく撮れませんでした(写真1)。この走り湯はかつては「滝」となって熱海の海に落下していましたから(古絵図には「瀧湯」として描かれる)、走湯の霊神は滝神でもあります。
文武三年(六九九)、「妖言」の罪で伊豆(大島)に「配流」(島流し)されてやってきた役小角(役行者)でした。「伊豆山略縁起」は、次のように描写しています。
四十三代文武天皇三年戊戌、役行者、当国大嶋に配流の時、此山の巓[いただき]、常に五彩の瑞雲たなびくを遙[はるか]に見て、霊神の在[います]ことを知り、其年竊[ひそか]に此磯部に渡り来て、まづ霊湯に浴せんとしけるに、波底より金色八葉の蓮華湧出し、千手千眼の尊像、其中台に坐し玉ひ、菩薩天仙囲繞せり、又波間に金文の一偈[げ]浮び現れぬ、其偈に曰[いハく]、
無垢霊湯 大悲心水 沐浴罪滅 六根清浄
行者、此文[もん]を感得し、諸[もろもろ]の法を聴聞して、瑞喜[ずいき]に堪[たへ]ず、権現を崇尊し、三仙斗藪[とさう]の旧典を慕ひ、修歴遍路しければ、是を当山第四祖とす、〔行者、初到之地建草堂祀之、寛政中遷於下之檀上〕、此偈の意[こゝろ]をいはゞ、無垢霊湯ハ清浄の義、大悲心水は誓水のこゝろ、されば眼耳鼻舌身意[げんにびぜつしんゐ]の六根より造れる罪過も、沐浴すれば尽[ことごと]く消滅し、心の底までも垢を除くの謂[いはれ]あり、豈[あに]身にある病をや、況[ま]して深信[じんしん]の輩[ともがら]、いかなる三業の病にても、容易[たやすく]除愈[じよゆ]せざらんや、走湯[はしりゆ]の古歌数多[あまた]あり、鎌倉右大臣の歌に、
玉葉集 伊豆の国山の南にいつる湯のはやきは神の験[しるし]なりけり
金槐集 はしりゆの神とはむべもいひけらし早きしるしのあれば也けり
役小角が感得した「金文の一偈[げ]」については、この走湯は無垢霊湯の誓水(「大悲心水」)で、「眼耳鼻舌身意の六根より造れる罪過も、沐浴すれば尽く消滅し、心の底までも垢を除く」という縁起の作者の解釈はそのとおりでしょう。
小角は「(走湯)権現を崇尊」し、この権現が宿る、あるいは司る「霊湯」は、すべての罪滅と心身の清浄化を果たすものだと、「偈」に込めたようです。この罪滅清浄を神道的にいいかえれば、すなわち禊祓[みそぎはらえ]となり、走湯の霊神、あるいは走湯権現(の性格)を、小角はぶれることなく理解していたようです。
なお、役行者は走湯山の「第四祖」とされていました。ちなみに、第一祖は松葉仙人、第二祖は木生仙人、第三祖は金地仙人、第五祖は弘法大師(空海)とされます。
「走湯山之記」は、走湯山には「八またのおろち」がいて、役小角が「金杵」で「おろちをつたつた(ずたずた)」にしたあと「磐石」にて地下に封印したとする逸話を「偈」の話に加えています。スサノヲと役小角がだぶる話ですが、この「おろち」は、走湯山の地主神の龍体(大龍)をいったもので、出雲においても同じことなのでしょう。
役小角による「八またのおろち」退治譚のあとには、次のように書かれています。
是よりさきに松葉・木生・金地とて、ミたりの仙人次第に来り、御やつことなりて、数百年有しか、後には皆脱体羽化せしかは、人のめにこそ見えねとも、定て今も猶此山に徘徊して、神にミやつかへ奉らんかし、しかれは此小角を、第四代の別当とす、其後弘法大師詣て給ふに、御神現形ましまして、妙なる神道の深秘、仏法の奥儀をかたみに演説し給ふ
万治二年に松軒なる人物の手になる「走湯山之記」ですが、この記載を信じるならば、役小角の時代までは、走湯山(伊豆山)には大きな祭祀変動はなかったようです。伊豆の「御神」に、「妙なる神道の深秘、仏法の奥儀をかたみに演説し給ふ」た空海でした。空海によって、一方的な「神道の深秘、仏法の奥儀」を「かたみ」に授けられ封じられた神こそ、役小角の時代までは健在であった走湯(伊豆)の霊神(御神)だったとおもわれます。
「走湯山之記」は、「(走湯)権現を崇尊」していた役小角の心を後世に残そうとしたのでしょう。次のような文面もみられます。
彼偈(役小角の偈)を見れは、此湯(走湯)ハ、薩埵の大慈・大悲のミちあふるゝ所より流出くる瀧なれは、一たひゆあひかミあらふものは、うちつけに身もつよく心もすくやかに成て、諸病立ところに愈、後の世ハ無始劫来のつみとか、うたかたとともに消て、南方無垢世界に生ん事、疑あるへからす、かほと妙なる霊験をしる人、稀に成ぬれは、あはれ此文を瀧殿にかけて、普参詣のともからにしめさまほしき事也、
走湯の「瀧」は、諸病に効き、過去の一切の罪咎(「無始劫来のつみとか」)を消す、それほどの稀にみる霊験をもつとされます。松軒はまた「はやきハ神のしるしそと、音に聞へし走湯の瀧津流」とも書いていて、「走湯の瀧」は、罪滅浄化(禊祓)に顕著な霊験を有しているのでした。
この罪滅浄化(禊祓)に関わる走湯権現あるいは滝神をいうなら、空海以前に遠野郷へやってきた伊豆権現(瀬織津姫命)をおいてほかにありません。
「伊豆山略縁起」における「善悪・邪正を裁断し玉ふ」神を考えましても、「糺の弁天さん」の親称をもってまつられる、いわば正邪を糺す神として瀬織津姫の名を確認できますし(京都・下鴨神社の井上社=御手洗社)、さらに、『古事記』允恭天皇条に記載の、古代の真偽裁判法「盟神探湯[くがたち]」を司る神が「言八十禍津日」の神であったことを挙げてもよいです(八十禍津日神は瀬織津姫神の貶称神名)。
『伊豆国風土記』(逸文)は、「日金嶽に瓊瓊杵尊の荒神魂を祭る」としていました。この風土記がいつの時点の成書かは不明ですが、ここで「祭る」といっているのは、それまでの神に代えて「新たに祭る」ということで、これは、伊豆山祭祀に朝廷の力が暗に行使されたことを表すものとも読めます。
風土記に天忍穂耳尊ではなく「瓊瓊杵尊の荒神魂」と書かれていたことは、縁起を神道的に解釈・書き直しをしようとする者たちにとっては、かなり難儀な創作・改稿となっただろうことが想像されます。
空海以前の走湯神・伊豆御神の神徳の残像は、これまでみてきたように、縁起の全体からすべて消し去ることは不可能でした。縁起において罪滅浄化(禊祓)の神徳が強調されるとき、その上で祭神が忍穂耳尊や瓊瓊杵尊とされることになりますと、これはとても理にあわない、不自然なことになります。
『神道体系』神社編二十一は「走湯山秘訣氏人上首一人外不口伝」上・下(以下「秘訣」と略称)という秘伝書も収録しています。これは、空海の影響下につくられた各縁起とは一線を画すもので、伊豆山祭祀に携わってきた地元の「氏人上首」ならではの伊豆権現への思いがぎりぎりの表現となって書かれています。
記紀神話では、月神はツクヨミ(月読)とされますが、「秘訣」では、日神と並ぶ月神は天忍穂耳尊で、この神は湯の泉を「家」とし、月の鏡を「心」としているとされます。日神・天照大神は「国の皇主」、月神・天忍穂耳尊は「くにの政主」と役割が異なることが記されるも、日月が相並ぶとすれば、天照大神と天忍穂耳尊とが同格となります。「秘訣」上巻の作者は、「みつ(水)はもと月の精なり、火はもと日の精なり」として「水火和合」の思想を説いてもいます。記紀神話を念頭においてこれを読みますと、かなり不自然な話となりますが、天忍穂耳尊を仮に伊豆本来の神(瀬織津姫神)に置き換えて読んでみるなら、ここで述べられている月神のこと、また水火和合の思想はじゅうぶんに肯定できる内容です。「秘訣」の語りの主体は、月神の子である月光童子とされます。なお、月神は天忍穂耳尊でしたから、その子神・月光童子は瓊瓊杵尊ということになります。
以上は、後半が「白紙」となっている上巻の概要ですが、この文書の真骨頂はどうやら下巻にあります。
月光童子は、氏人の祖とされる日精・月精とともに久地良山(伊豆山の古名)巡りをするのですが、「久地良の山の巌窟」に入ってゆくと、そこには「みかつくのとの(三日月の殿)」と「みつ葉の殿」があり、前者には「御とし五十あまり」の謎の男神がいて、後者には「御とし四十路あまり」の「女体すまゐたまへり」とされます。
「秘訣」は、男神にはあまり関心がないようで年齢にふれるのみですが、この女体神については「十五はしらの神子」を従え、「世の政治、人のよしあしき法をのへたまふ、またいつくしみ、にくみすへき則をのへ給ふ」としています。この神徳は、先にみたところでいえば、地底における早追権現、および、地上における伊豆権現のそれでもあります。つまり、この謎の女体神は、早追権現・伊豆権現・走湯権現が共通して秘めている神と、等質の神徳をもっていることになります。
また、日金山(久地良山)の地底には、千の鱗に千の「明眼」をもつ「生身千手千眼」の大龍がいるとされていましたが(「走湯山縁起」第五の裏縁起)、「秘訣」においては「その身に千々のいろこ(うろこ)あり、いろこにしなしなの絵あり、耳・鼻・眼・口より湯の瀧なかる(流る)」と描写されます。走湯の湯瀧の根源が久地良山(伊豆山)の地下にあることを、ここでも述べたものでしょう。
この「秘訣」の巻末は、「日精・月精の氏人と共に、権現をかしつきたてまつる、これは氏人の中に、上首一人はかり、面授口伝すへし、筆のあとにもとゝめさるならひことなり、ゆめゆめしらすへからす」と閉じられます。ここで「かしつきたてまつ」られている「権現」は女体神(伊豆山の本源神)ですが、ではこの女神の名は何かといえば、それは「面授口伝」すべきもので、筆の跡にも留めることはない、つまり、書き残すことはしてはならないとのことです。「走湯山秘訣」の絶対的秘伝性は、ここに極まるといえます。明治期「祭神之事、古来一定仕ラス」とされた理由は、この「面授口伝」の絶対的秘伝性にあったのでした。
さて、「配流」という罪人の立場でありながら走湯の霊神(面授口伝の秘神)を尊崇した役小角と、「勅命」を奉じ「神道の深秘、仏法の奥儀」によって走湯の霊神を封印した空海は、あまりに鮮明な対極関係にあったようです。
『日本霊異記』によれば、小角は、昼は伊豆にいるものの、夜には富士山で修行したとされます。「走湯山縁起」第五(の裏縁起)は、伊豆山(日金山)の「八穴道」の一路が通じている聖地として富士山頂を挙げていました(「六路は富士山頂に通ず」)。
役小角は、飛行の仙術を駆使して伊豆から富士山へ通っていたのではなく、この「八穴道」の一路を通って富士山頂へ出かけていたのではないか──と、そんな想像もできなくはありません。あるいは、伊豆山の地主神(走湯の霊神)とともに、地底を疾走する小角さえイメージできそうです。
富士山頂には、富士山の天女がいて、伊豆山には、天扇をもつ天女(女体権現)がいて、さて、これらの天女神は、はたして異神であったかどうかという問いがやはり残りそうです。
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