千時千一夜

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 宮崎市内の地図を見ていますと、橘・小戸・阿波岐原といった地名が目につきます。これらの地名は、『古事記』が記すところの伊邪那岐命の禊祓のシーン、つまり「竺紫[つくし]の日向の橘の小門[をど]の阿波岐原に到り坐[ま]して、禊ぎ祓ひたまひき」を典拠としていることは明らかです。『日本書紀』は、同箇所を「筑紫の日向の小戸の橘の檍原[あはきはら]」と記していて、小戸(小門)、橘、檍原(阿波岐原)は、イザナギの禊祓におけるキーワード的地名といってよいかとおもいます。
 これら三地名には、それぞれ所縁の神社がまつられています。小戸(小門)については、その名も小戸神社、橘については、橘大神をまつる宮崎八幡宮、檍原(阿波岐原)については、阿波岐原町鎮座の延喜式内社・江田神社です。
 これら三社の由緒等を先にみておきます。
 宮崎市鶴島町に鎮座するのが小戸神社(祭神:伊奘諾大神)です(写真1・2)。同社の縁起書「日向国之小戸神社由緒略記」には、「第十二代景行天皇の勅により創建と伝える」と記され、古くは「旧宮崎市街地全域を小戸と称し」たと書かれています。また、「太古伊奘諾大神が禊祓をされた“祓の神事”由縁の地」、「古くより大淀川河口の沖合小戸の瀬は、小戸神社御鎮座の清浄地」だったが、「寛文二年の西海大地震」によって、「上別府の大渡の上」への移転を余儀なくされ、その後また変遷あるも、「昭和九年橘通り拡張により御由縁深き大淀川の辺りの現社地へ遷座し現在に至る」と、その変遷経緯を記しています。
 小戸神社の最初の鎮座地は「大淀川河口の沖合小戸の瀬」だったようです。ここは埋め立てがなされるも、現在は宮崎市小戸町という名で、由緒深い地名ということだからなのでしょう、その名(小戸)を町名として残しています。
「橘の小門」あるいは「小戸の橘」と記される「橘」ですが、宮崎市内を南北に走る幹線通りとして「橘通」の名がみられます。また、小戸神社の戦前の鎮座地は「橘通二丁目」でした。この橘ゆかりの「大神」をまつるのが宮崎八幡宮です(写真3・4)。
 宮崎八幡宮の由緒記によれば、祭神は、次のように記されています。

  誉田別尊(応神天皇)・足仲彦尊(仲哀天皇)・息長帯姫尊(神功皇后)
  伊邪那岐命・伊邪那美命
  橘大神

 創建由緒については、「宮崎八幡宮は今より九百年前の永承年中(西暦一〇五〇)頃にこの地方の開拓にあたった海為隆が、昔しよりお祀りしていた橘大神と共に、宇佐八幡大神をこの地に勧請し、開拓にあたったと言われています」と書かれています。
 橘大神の祭祀がすでにあったところへ「宇佐八幡大神」が勧請されたわけですが、ここに「宇佐八幡大神」の大元神(御許神)である比売大神の名がないという不思議を指摘できそうです(後述)。また、「この地方」の地主神ともいえる「橘大神」の名がありますが、では、この「橘大神」とはどんな神様かという関心が湧いてくるのはわたしだけでないでしょう。しかし、社務所からの応答は、古い神様であるものの詳細は不明とのことです。
 この謎の橘大神ですが、戦前の神社記録を集めた『宮崎県神社誌』をみますと、主祭神は現行表示の五柱神と同じですが、表示最後の「橘大神」の名はなく、その代わりというべきか、相殿の項に、次のように書かれています。

  相殿 荒御魂神 和御魂神直日ノ神

 この相殿神は、現行の表示にはみられませんので、これが現在「橘大神」と表示されている神の内実ということがわかります。「和御魂神直日ノ神」と対偶関係をもつ「荒御魂神」とは、『古事記』の禊祓の伝でいえば「八十禍津日神・大禍津日神」、『日本書紀』の伝でいえば「八十枉津日神」となります。この「禍(枉)津日神」とは、瀬織津姫神の貶称神名「八十禍津日神」と同体である「天照大御神荒御魂神」(内宮第一別宮・荒祭宮の神)のことで、この「天照大御神荒御魂神」から「天照大御神」を削除して、ただ「荒御魂神」と表示していたのが宮崎八幡宮の戦前表記でした。橘大神には、少なくとも「荒御魂神」こと瀬織津姫神が秘められていることになります。
 ところで、『宮崎県神社誌』の表紙には、その題字について「宮崎県知事木下義介閣下御染筆」とあり、この県知事・木下義介の赴任時期は昭和六年(一九三一)から昭和八年(一九三三)ですから、この時期の「神社誌」ということがわかります。もう少し添えておくなら、昭和天皇の「御大典」(天皇即位の大典)があった昭和三年(一九二八)に向けて神社祭神・由緒の再洗い出し(祭神の再変更を含む)が全国的になされていましたから、その結果をまとめたのが、この『宮崎県神社誌』とおもわれます(ちなみに、遠野の早池峰神社の由緒書が、明治維新時に継ぐ二度目の没収をなされたのもこのときです…『エミシの国の女神』)。
 さて、三社め──。宮崎市阿波岐原町産母[やぼ]に鎮座するのが江田神社です(写真5)。「江田神社由緒記」によれば、同社祭神は「伊邪那岐尊・伊邪那美尊」とのことですが、「但し伊邪那美尊は安徳天皇寿永二年正月配祀」と注記されていて、主祭神は伊邪那岐尊ということになります。同社の由緒を読んでみます(適宜句読点を補足して引用)。

本神社は太古の御創建にして、其の創立の年代は詳かならざるも、此の地一帯は古来所謂日向の橘の小戸の阿波岐原として伊邪那岐の大神禊祓の霊跡と伝承せられて、縁起最も極めて深き社ならむ。禊祓の際、天照皇大神、月読尊、素佐鳴[ママ]尊と住吉三神の神々が御降誕あらせられたる霊域の地と伝え、即ち上代に於ける中ツ瀬と称せる御池、本社を去ること約五丁の東北に現存す。後、世人入江を開墾して江田と称し、里人俗に産母様と称えて今日に至る。〔後略〕

 江田神社の「約五丁の東北」には「上代に於ける中ツ瀬と称せる御池」があるとのことです(写真9)。この「中ツ瀬」の名残りらしい「御池」には、江田神社とは別に「みそぎ御殿」なる社殿があります。
 檍原ではなく阿波岐原という表示から、江田神社あるいは「みそぎ御殿」は『古事記』を典拠とする祭祀を展開していることがわかります。『古事記』は、イザナギが「日向の橘の小門[をど]の阿波岐原」の「中ツ瀬」の禊祓で誕生した多くの神々の筆頭神を「八十禍津日神」と記していました。江田神社とは別に祭祀される「みそぎ御殿」のユニークなところは、「天照皇大御神」を筆頭神として全九柱の神宮祭祀関係神をまつっていて、最後に、『古事記』記すところの八十禍津日神ではなく「瀬織津姫命」と表の神の名を表示しているところでしょう(写真6)。
 なお、江田神社の主祭神は「伊邪那岐尊」とされるにもかかわらず、ここは「里人俗に産母様と称え」ているとされます。鎮座地の字名にも「産母」がみられます。配祀神の伊邪那美尊が「産母様」といわれるならば、それなりの説明は一応つきますが、同社由緒記は、由緒の最後を、「古くより近郷近在の人々が当社を産母様と尊称してお祓い縁結び安産の守護神として最も崇敬しているお社であります」と結んでいます。
 阿波岐原町産母の西隣りには村角[むらすみ]町橘尊という地名もみられます。江田神を「産母様」というのは地母神(地主神)のイメージを伴います。「お祓い縁結び安産の守護神」という神徳をみますと、伊邪那美尊の神徳にあてはまるのは「縁結び」一つで、この三つの神徳をすべて備えているのは、むしろ当地の地主神・橘大神こと瀬織津姫神とみたほうが無理がありません。江田神社も、どこか風通しのわるい祭祀を展開しているようです。
 以上、小戸(小門)、橘、檍原(阿波岐原)ゆかりの三社を概覧してきました。小戸神社の古祭地は「大淀川河口の沖合小戸の瀬」でした。ここは現在、宮崎市小戸町と表示されていますが、同地に、神社本庁には非所属・非登録とおもわれる松熊神社が鎮座しています(写真7)。
 大淀川の最源流部(鹿児島県曽於郡末吉町:現在、曽於市末吉町)には、そこにも「桜谷」の地名がみられます。現在、大淀川河口部の「小戸」に鎮座する松熊神社の境内案内によれば、小戸神社と同じく景行天皇時代の創祀で、また小戸神社と同じく「松熊山」に鎮座していたとのことで、祭神は伊邪那岐神、伊邪那美神、速秋津彦神、瀬織津咲神と表示されています(写真8)。
 この「瀬織津咲神」の「咲」は瀬織津比弯世痢庠廖廚誤転記されたものかとおもわれます。あるいは、意図的に「咲」をつかった可能性もないわけではありませんが、いずれにしても、イザナギの禊祓の伝承地に、八十禍津日神でも八十枉津日神でもなく、いわば本来の神名がわかるように祭祀されていることは、先にみた、江田神社と一線を画す祭祀をしている「みそぎ御殿」と同様に貴重といえます。日向国一之宮・都農神社を頂きとする「神話の国宮崎」(「小戸神社由緒略記」のことば)で、日向姫(天疎向津媛)を消さずにきた気骨祭祀が垣間見られるのは、多少の安堵といったところでしょうか。
 最後に、宮崎八幡宮が「宇佐八幡大神」を勧請したとき、当地に比売大神のみを勧請しなかった理由についてですが、ここに興味深い記録があります。生野常喜『日向の古代史』(私家版)は、東大阪市の枚岡神社および奈良市の春日大社の祭神の一神「比売神」についての疑問を抱き、次のような聞き取りを収録しています。

比売神は宇佐神宮を始め県内(宮崎県内…引用者)でも数社見られるので、宮崎県神社庁参事の黒岩竜彦氏に照会したところ、早速奈良の春日神社まで問い合せて下さり、比売神は、宗像神社の祭神で天児屋根命の妻となられた方だとご返事をいただいた。

 春日神社(春日大社)の認識では、同社の「比売神」は、「宗像神社の祭神」と同体とのことです。また、「天児屋根命の妻」という対偶関係ですが、これは、神武天皇東遷時に宇佐(表記は「菟狭」)へ寄ったとき、「勅[みことのり]をもて、菟狭津媛[うさつひめ]を以て、侍臣[おもとまへつきみ]天種子命に賜妻[あは]せたまふ。天種子命は、是中臣臣の遠祖[とほつおや]なり」という『日本書紀』の記述が反映したものです。勅命によって中臣氏の遠祖神の「妻」とされたとあるように、この記述は、中臣=藤原氏の意向を受けた書紀編纂・創作者の露骨な作為が読める箇所の一つです。
 宇佐神宮(宇佐八幡)の比売大神は宗像三女神と同体とされます。春日大社の「比売神」が、瀬織津姫神を秘した抽象神名であったことは、すでに複数の記録があり、また考証されていることでした(本ブログおよび『円空と瀬織津姫』上・下巻)。
 宮崎八幡宮が、橘大神(荒御魂神)、つまり、瀬織津姫神の既祭祀地に「宇佐八幡神」の比売大神のみを勧請しなかった理由は、当地に、すでに宇佐の比売大神と同体神が先行してまつられていたからです。したがって、比売大神を「勧請しなかった」のは、「勧請する必要がなかった」というのがありていのところなのでしょう。
「日向の橘の小門(小戸)の阿波岐原」の地主神「橘大神」の祭祀にも、日向姫(天照大御神荒御魂神=撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)の祭祀が根底にあったことはとても重要です。(資料提供・写真:日向の白龍)


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