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実任の父・宗任が投降し、伯父・貞任が戦死した前九年の役の最終戦である厨川の柵の戦いの実態をうかがうには、京の地で書かれた作者不詳の『陸奥話記』を参考にするしかありません。これは官軍側の立場、つまり勝者側の視点で書かれた軍記文学といってよく、安倍氏側からもし書かれる機会があったとすれば、まったく異なった内容・表現になったはずだろうことをおもった上で、厨川の柵の戦いの場面を読んでみます。
『陸奥話記』が記す厨川の柵の戦いの場面は、おそらく三つの小場面に分けることができるようにおもいます。最初は、安倍氏側の優勢を描き、次に柵の攻略に行き詰まった官軍の将軍・源頼義の秘策とその功、そして、柵の陥落による斬首・投降の記録です。
まずは第一段落ともいうべき、安倍氏陣営の優勢を描いた部分──(原文は優れた漢文で、以下の読下し文の引用は、梶原正昭校注『陸奥話記』現代思潮社版による)。
(康平五年九月)十四日、厨川の柵に向ふ。十五日酉[とり]の尅[こく]に到着、厨川・嫗戸[うばど]の二柵を圍む。相去ること七八町許[ばか]りなり。陣を結び翼を張りて、終夜之を守る。件の柵、西北は大澤、二面は川を阻[へだ]つ。河の岸三丈有余、壁立[へきりつ]途[みち]無し。其の内に柵を築きて、自ら固うす。柵の上に樓櫓[ろうろ]を構へて、鋭卒[えいそつ]之に居る。河と柵との間、亦た隍[みぞ]を掘る。隍の底に倒[さかさま]に刃を地上に立て、鐵を蒔く。また遠き者は弩[いしゆみ]を発して之を射、近き者は石を投げて之を打つ。適[たまたま]柵の下に到れば、沸湯[ふつたう]を建[た]てゝ之を沃[そそ]ぎ、利刃[りじん]を振ひて之を殺す。官軍到着の時、樓上の兵官軍を招きて曰く、「戦ひ来れ」と。雑女[ざうじよ]数十人樓に登りて歌を唱ふ。将軍之を悪[にく]む。十六日の卯[う]の時より攻め戦ふこと、終日通夜。積弩乱発[せきどらんぱつ]し、矢石[しせき]雨の如し。城中固く守りて之を抜かれず。官軍死する者数百人。
厨川の柵の西北には大きな沢があり、「二面は川を阻[へだ]つ」とあります。厨川は雫石川の古名といわれ、西から流れくる雫石川と北からの北上川との合流部の高台につくられた、まさに自然地形を活かした難攻不落の要害が厨川の柵だったようです。しかも柵と川の間には堀(隍[みぞ])をつくり、その底には刀を逆さに立てて渡ることができないようにしていて、攻撃する側の官軍は難儀し、甚大な被害をこうむったことが描かれています。
攻めあぐんだ官軍の将軍(源頼義)は、秘策をおもいつきます。
十七日未[ひつじ]の時、将軍士卒に命じて曰く、「各村落に入り、屋舎を壊[こぼ]ち運び之を城の隍[みぞ]に填[み]てよ。又人毎[ひとごと]に萱草[かやくさ]を苅り、之を河岸に積め」と。是に於て壊[こぼ]ち運び苅り積むこと、須臾[すゆ]にして山の如し。将軍馬より下り、遙かに皇城を拝し誓つて言く、「昔、漢の徳未だ衰へず。飛泉[ひせん]忽ち校尉が節に応ず。今、天威惟[こ]れ新[あらた]なり。大風老臣が忠を助くべし。伏して乞ふ八幡三所、風を出し火を吹きて彼の柵を焼くことを」と。則ち自ら火を犯し、「神火」と称して之を投ぐ。是の時鳩あり、軍陣の上に翔[かけ]る。将軍再拝す。暴風忽ち起り、煙焔[えんえん]飛ぶが如し。是より先に官軍の射る所の矢、柵面樓頭に立つこと猶ほ蓑毛[みののけ]の如し。飛焔[ひえん]風に随つて矢の羽に着く。樓櫓・屋舎一時に火起る。
源頼義は、柵陥落の策が功を奏するように、「遙かに皇城を拝し誓つて」自らの忠臣ぶりを訴え、そして「八幡三所」の加護を祈ると、その願いが聞き入れられた象徴として、八幡神の神使いとされる「鳩」が軍陣の上を翔たと表現されています。厨川の柵は、頼義の祈願に応えた八幡神の「神火」によって炎上したと書かれるわけですが、ここには、養老四年(七二〇)に起こった隼人の乱を鎮圧するために、その鎮圧の加護に加担した八幡神と同じ姿があります。
『八幡宇佐宮御託宣集』は「石清水記に云く」として、「凡そ垂迹の後、託宣せしめ給ふ事は、只朝廷を守り扶け奉るべき事よりの外、更に一事無し」と、八幡大菩薩(八幡大神)の朝廷守護を絶対使命として生きようとする性格を記していましたが、かつての「朝敵」隼人が、ここでは奥州安倍氏ということになります。
厨川の柵の炎上に伴う城内の阿鼻叫喚の描写は、まさに「文学」の表現というしかありませんが、『陸奥話記』は、頼義が、自らを裏切って安倍方についた藤原経清(藤原清衡の父)には憎悪を込めて、苦痛を長引かせるためでしょう、わざわざ「鈍刀」による斬首刑に処したとし、貞任の最期については、次のように描写しています。
貞任は、剣を抜きて官軍を斬る。官軍鉾[ほこ]を以て之を刺す。大楯に載せて、六人して之を将軍の前に舁[か]く。其の長[たけ]六尺有余、腰の囲[まはり]七尺四寸、容貌魁偉[ようぼうかいゐ]にして、皮膚は肥白[ひはく]なり。将軍罪を責む。貞任一面して死す。
この戦争は、安倍氏側からすれば、頼義側から仕掛けられた受け身の戦で、『陸奥話記』の作者もそれはわかっていたのでしょう。頼義将軍が官軍に逆らった「罪を責」めると、貞任は「一面して死す」と書かれています。貞任の無念がよく伝わってくる表現というべきでしょう。なお、『陸奥話記』がいかにも軍記「文学」だなとおもわせるのは、この貞任の死につづく場面描写かもしれません。
又弟重任を斬る。〔字は北浦六郎。〕但し宗任は自ら深泥[しんでい]に投じ、迯[に]げ脱[のが]れて已[すで]に了[をは]んぬ。貞任が子の童[わらは]、年十三歳。名づけて千世[ちよ]童子と曰ふ。容貌美麗なり。甲[よろひ]を被[き]柵の外に出でて能く戦ふ。驍勇[げうゆう]祖の風あり。将軍哀憐[あいれん]して之を宥[ゆる]さんと欲す。武則(清原武則)進みて曰く、「将軍小義を思ひて巨害を忘るゝことなかれ」と。将軍頷き、遂に之を斬る〔貞任は年卅四にして死去す。〕城中の美女数十人、皆綾羅[りようら]を衣[き]、悉く金翠[きんすい]を粧[よそほ]ふ。烟[けぶり]に交つて悲泣[ひきふ]す。之を出して各[おのおの]軍士に賜ふ。但し柵破るゝの時、則任が妻[め]独り三歳の男を抱き、夫に語つて言ふ、「君将[まさ]に歿せんとす。妾[せふ]独り生くることを得ず。請ふ、君の前に先づ死なん」と。則ち乍[たちまち]に児を抱きて自ら深淵に投じて死す。烈女と謂ひつべし。其の後幾[いくばく]もあらず、貞任が伯父安倍為元〔字は赤村介。〕・貞任が弟家任帰降す。又数日を経て、宗任等九人帰降す。
貞任の十三歳の子「千世童子」は「容貌美麗」ではあったが、その勇猛さには「祖の風」がある、つまり、この少年戦士には、安倍氏の祖から受け継がれた威風が備わっていたとされるも、後の憂いの種を絶つためについに斬ったとされます。また、先に「雑女[ざうじよ]数十人樓に登りて歌を唱ふ。将軍之を悪[にく]む」と書かれていた「雑女」は、柵の陥落後は「城中の美女数十人、皆綾羅[りようら]を衣[き]、悉く金翠[きんすい]を粧[よそほ]ふ。烟[けぶり]に交つて悲泣[ひきふ]す。之を出して各[おのおの]軍士に賜ふ」と書かれ、この「美女」たちと対比するように、則任の妻の貞操を死守した「烈女」ぶりが讃嘆されています。
これらは、読む者の涙腺と好奇の感性に訴える通俗性をうまく表現していて、『陸奥話記』が「史記」ではなく「話記」と題される所以でもありましょう。安倍氏の悲運が、のちにいかようにも情的に伝説化される可能性の種子をすでに孕んでいるのが『陸奥話記』です。しかし、本書が史記の面も捨象していないのは、たとえば「国解[こくげ]に曰く」として、国司から太政官あるいは所管の中央省庁へ上奏される公文書を引用していることにみえます。厨川の柵の陥落から三ヶ月後にあたる十二月十七日の「国解」には、安倍氏側の死者および降伏者の報告がなされたようです。
同(康平五年)十二月十七日の国解[こくげ]に曰く、「斬獲の賊徒、安倍貞任・同じき重任・藤原経清・散位平孝忠・藤原重久・散位物部維正・藤原経光・同じき正綱・同じき正元なり。帰降の者、安倍宗任・弟家任・則任〔出家して帰降す。〕・散位安倍為元・金為行・同じき則行・同じき経永・藤原業近・同じき頼久・同じき遠久等なり。此の外、貞任の家族は遺類有ることなし。但正任一人は未だ出で来らず」と云々。
十二月十七日時点では行方知れずであった安倍正任でしたが、「後に宗任帰降の由を聞きて、又出で来り了[おは]んぬ」と書かれています。『陸奥話記』は、ほかに頼時の弟・良昭も行方知れずとするも、彼は出羽国で捕虜となったと補記しています。伯父の関係を除く貞任の兄弟にみられる降伏者は、宗任・家任・則任・正任の四人となりますが、宗任の子についての記述(公的記録)はないようで、あるいは「帰降の者〜等なり」の「等」に含まれているのか、これは確定的にはいいづらいところです。ただ、頼義の憎悪を一身に受けて斬首された藤原経清の子(のちの清衡)は、この厨川の柵の戦いのときは九歳で、この経清の子らしき名も「国解」は記していないことを付記しておきます。
実任が厨川の柵の顛末を実体験的に心に焼きつけたかどうかはわかりませんが、一歩引いても、父・宗任からの体験を耳にして追体験していたことはありえましょう。『陸奥話記』は、源頼義の朝廷への忠義思想と八幡信仰については記すも、安倍氏側の信仰については一言の記述もしていません。軍記という性格上、敗者側の信仰にまで言及しないのは当然なことではありますが、しかし、ただの敗者ではなく「朝敵」「賊徒」と規定された敗者側にとって、その後もなお生きてゆかねばならぬ者にとっては、信仰は自身をよりつよく支えるものとなってゆくはずと考えます。宗任も実任も出家した伝承をもっていて、この出家の深因・遠因としては、奥州における安倍一族・一党の凄惨な死別・離散があっただろうことは、想像しうるのではないでしょうか。
写真:松島湾の夜明け(「西行戻しの松」から撮影)
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