
安川浄生『安倍宗任』(みどりや仏壇店出版部)によれば、安倍宗任の子・実任を「祖」とする安倍氏の末裔が現存するとのことです。その「本家」の安倍政任(正士)氏の系図には、実任は永保年中(一〇八一〜一〇八三)に肥前国松浦から豊後国追分郡白木へやってきて住み、その後、豊前国宇佐の冨山に移ったとあり、安川氏は「本家安倍政任(正士)氏系図によれば」として、以下の宇佐冨山における実任伝承・伝説を紹介しています。
(実任)あるとき秋天を待って山に猟す。冨山峰に行って、熊の集るを見る。実任静かに岩岸を伝い寄って射んと欲し、よくよく見れば、彼の熊、人影やさとりけん、ことごとく消散して行方知れず。実任、跡を尋ねんと巌に上る。思わざりきことにや石の上に弥陀、釈迦、観音の三仏、光明を放って照座あり、三郎奇異のこととして三仏を携えて宿所にかえり、四つ足堂に安置す。またその夜、夢の中に老翁来たりて告げて曰く、金幣三社は是英彦山大権現の御験しなり、汝、御許山の峰にこれを守護すべし、子孫久しく怠る勿れ。とありて夢覚むる。信心肝に銘じて当山の峰に草庵を結んでこれをまつる。実任、永長元年(一〇九六)正月薙髪して妙雲と号し、草庵を妙雲山東岸寺と号す。英彦山と同体の霊場なり。
原文に「英彦山」と表記されているとしますと、この系図文は、彦山が英彦山と名称変更される享保十四年(一七二九)以降の作となります。だからといって、これがそう古くない創作伝承だというのではなく、この「妙雲山東岸寺」の縁起に記される、実任の霊夢、つまり「老翁」の託宣として「汝、御許山の峰にこれ(彦山権現)を守護すべし、子孫久しく怠る勿れ」に、この伝承の核はあるにちがいありません。御許山は宇佐八幡信仰の要[かなめ]となる山で、そこに彦山権現をまつり守護せよとする託宣は意味深長といわねばなりません。
引用の系図伝承では、「実任、永長元年(一〇九六)正月薙髪して妙雲と号し、草庵を妙雲山東岸寺と号す。英彦山と同体の霊場なり」とありますが、この「妙雲山東岸寺」は廃寺となり、現在、宇佐冨山(宇佐市熊)における安倍家の菩提寺は勝光寺とされ、ここには実任の墓があります(写真1)。また、近くには熊地区の氏神である熊神社があり(現祭神の是非はここでは問いませんが)、境内の「特別献納者」の石碑に刻まれた献納者に多くの「安倍」の名がみられ、ここがいかにも安倍氏の里であることがよく伝わってきます(写真2)。
実任の本家系図の伝承では、実任は肥前国松浦から豊後国白木、そして豊前国宇佐へと移動したとされます。実任(妙雲)は、宇佐の地で没したようで、その終焉の地に到る前の豊後国の白木の地に着目しますと、ここにもたしかに実任(あるいは安倍氏)の伝承が色濃く残っています。
また、白木の地から豊後の山中にはいったところ(熊群山…写真3)にも、実任の開基伝承をもつ「熊群山東岸寺」がかつてありました。明治期の神仏分離によって、豊後の東岸寺は廃寺となり神社化するも、「熊群神社」の名で現存しています(写真4〜14)。
山田宇吉『安倍宗任と緒方惟栄』(私家版、大正十三年)は、実任は「天性遊猟を嗜[たしな]み、且つ彦山権現の信仰者であつたらしい」、「実任に関する事蹟は、遊猟を好みし事と、寺を建立せることの外は、多く伝はる処がない」、「実任の信仰は何[ど]ういふ動機から起つたものか、余り深い理窟[ママ]のあつたわけでもあるまい」などとするも、熊群山東岸寺縁起(別本)を参照してのこととおもわれますが、以下のような実任伝承を紹介しています。
実任は元永三年(即ち保安元年)二月十五日、一寺を熊牟礼山に開基し、之を熊群山東岸寺と名づけ、開山の僧は観雲和尚にて、又た実任の五男五郎と云ふものを剃髪させ、玉泉房と名乗らせて、之に住せしめたのであつた。熊牟礼権現の境内に十二坊ありて、其内の成光院[じゃうくわうゐん] といふのが、玉泉房旧住の遺蹟だといふことである。
明治期の「大分県神社明細牒」の熊群神社の項には、祭神を「事解之男命・伊弉冉尊・聖宮尊」の三柱とし、由緒の項には「元永年中安部宗任ノ末子同実任群熊ノ夢告アリテ勧請ス」とあります。これらの祭神は現祭神とは大きく異なっていますが(写真7)、それはおくとしても、熊群神社参道横の案内板には、庄内町観光協会・同自然保護対策審議会による、もう少し詳しい由緒が書かれていますので(写真8)、そちらも読んでみます。
由緒
人皇八代孝元天皇二十代(西暦二百十四年)の末裔安部三郎実任皇第七十二代鳥羽院の御宇の草創で彦山権現同体分所の神であるという。元永三年二月十五日安部三郎実任は豊後国阿南荘に幽邃な住居を作り猟漁を業とした。
此の地を猪の狩倉という(現在加倉)。弓矢を持って野山で狩をした時一匹の大熊が嶺より下りて来るので、実任之を射ようとしてみれば、数多の熊が群がっていた。実任は矢を放とうとしたが熊は忽ち姿を消した。その場所に行ってみると弥陀薬師観音の三尊妙瑞光明さんらんとして明[ママ]われたので、実任は引矢を投げ捨て台地に拝伏した。するとまた忽ち相を変じて三面の鐘[ママ]となった。実任は驚いて(後に此の地を御群の台という)当山に宮殿を建立し、三鐘[ママ]を奉祀した。更に彦山仏匠式部卿滕光に願って三法身を彫刻してもらって崇拝した。これから熊群山東岸寺二[ママ]所大権現と号し二月、六月、八月、十一月の十五日に祭礼をすることになった。
その後幾度か兵火(天正八年田北銘鉄[ママ]の叛、天正十四年島津、大友の合戦)風害にかかったが再建せられ府内藩の御祈願所として尊崇せられ、明治六年神社となった。
参道には有名な鬼の作った九十九段の石段がある。
伊藤常足『太宰管内志』豊後国七巻所載の「東岩寺(東岸寺)縁起」には、引用文中「三面の鐘」は「霊鏡三面」、これらの鏡は「彦山三所権現之神体」とあります。この由緒文にはいくつか誤記が目立つものの、実任がまつった熊群神が「彦山権現同体分所の神」とされることが注視されます。筑前国上座郡佐田村の実任伝承(「安倍貞任先祖及筑紫軍記」)では、この熊群山東岸寺縁起を踏襲した縁起が伝えられていました。
〔前略〕弥陀薬師観音の三尊光を照して坐しける、三郎(実任)甚だ奇異の思いをし、頓[やが]て守り奉り宿所に帰り僅かなる所に安置しける、三郎或る夜夢中に老翁来り告げ曰く三尊(弥陀薬師観音)は松島大明神、当所に移し尊ぶ可し必ず末葉を守るべしと、実任夙に起きて弥々[いよいよ]信仰肝に銘しつゝそれより当所に霊宮を建造しけり、熊群り居りたるより熊群山と称し松島大明神と崇め奉り朝三暮四のこん行(勤行)七三縄[しめなわ]の永き世新金の土も木も動かぬ御世の松島大明神かたかりし事共なり。
豊前国御許山南麓の実任伝承においては、実任は「弥陀・釈迦・観音」を本地とする彦山権現を「御許山の峰」に「守護」神としてまつり、豊後国熊群山の実任伝承においては、「弥陀・薬師・観音」を本地とする彦山権現を「熊群山東岸寺三所大権現」としてまつったとされます。引用の筑前国佐田の伝承においては、同じく「弥陀・薬師・観音」を本地とする松島大明神を熊群山にまつったとされます。これらは、伝承の錯綜のようにも一見おもわれますが、彦山の本地仏は、たしかに「弥陀・釈迦・観音」とも「弥陀・薬師・観音」ともされていました。また、「弥陀・薬師・観音」は熊野三所権現の本地でもありますが、これらの伝承から抽出できるのは、実任の彦山権現への強い執着ということでしょうか。
明治六年以降、熊群山東岸寺は熊群神社を名乗ります。かつての本地仏「弥陀・薬師・観音」の内、薬師如来は行方知れずのようですが、阿弥陀如来と観世音菩薩(十一面千手観音)は、境内の旧護摩堂に移されています。由緒によれば、これらは「彦山仏匠式部卿滕光」が彫ったとされ、素人目にも、なかなかの彫りの技が感じられる仏たちです。護摩堂のもともとの本尊は不動明王で、そこにかつての熊群山祭祀の本地仏や奉納仏が並ぶ様は圧巻です(写真9〜14)。なかでも、やや太めの十一面観音などは、熊群山の信仰が意外と庶民的であったことをよく伝えているようです(写真:白龍)。
(つづく)
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