彦山権現の深層にある神は、伊勢・白山・熊野と深い縁で結ばれていました。また、御許山の宇佐神(比売大神)ともそうです。さらにいえば、奥州においては、この神は「松島大明神」とも呼ばれる神でもあったことは重要におもえます(千時千一夜「彦山信仰と安倍氏」、「円仁と円空──北の旅の終焉地・松島へ」『円空と瀬織津姫』上巻、所収)。
山田宇吉氏は『安倍宗任と緒方惟栄』で、「実任の信仰は何[ど]ういふ動機から起つたものか、余り深い理窟[ママ]のあつたわけでもあるまい」などと無理解の極みを正直に書いていました。これは、彦山や御許山の「神秘」の神に対する無理解を遠因としてのことばと読めます。江戸時代初期、蝦夷地・奥州における円空の地神供養の旅の最後は松島の地で、彼はそこで、松島明神(松島の地主神)をおもって、仏像の儀軌にない釈迦如来を獅子の上に乗せるという破天荒な像を彫っていました(松島・瑞巌寺宝物館所蔵)。円空が、その信仰生涯を捧げたのが松島の地主神でもあった神(姫神)でした。しかし、円空のこの信仰については、実任のそれと同じく、いまだ無理解の夜にあるようです。
彦山の最古の縁起書『彦山流記』は、彦山山頂の信仰的光景として、とても印象的な描写をなしていました。
抑[そもそも]当山は、巒岩[らんがん]の石薜蘿[へきら]の松、色を千歳の春に増し、齢[よわい]を万代の秋に送る。磥峨[らいが]の峯、流砂の谷、雲霧腰を廻り、瀧泉頂きに灑[そそ]ぐ。
硬派の漢語がちりばめられていますが、彦山山頂(写真7)には「瀧泉」が降りそそぎ、いつも浄域・聖域をなしているということが書かれています。この「瀧泉」は、彦山祭祀が「神秘」とする神の性格を象徴する語といってよく、この「瀧泉」を司る神にこそ、実任は奥州安倍氏本宗の信仰を重ねていたものとみられます。
さて、実任が御許山南麓に移る前に住んでいたとされるのが、豊後国の白木の地でした(現:大分市神崎町白木)。ここには、安倍伝説を圧縮したような縁起をもつお寺があります。龍岸寺の寺名を改めた龍雲寺といいます(写真1〜6)。また、この寺を別当寺としていた鬼神社もあります。なぜ「鬼神」なのかという問いも浮かんでくるところですが、この白木の地には、貞任の末裔の来住伝承もあって、白木から広がったのでしょう、大分県には貞任・宗任の裔が渾然となって多くのアベ氏を名乗って現在に至っています。
安川浄生『安倍宗任』は、「奥州六郡の太守安倍貞任の嫡流」を家伝としてきた安田幹太氏の著『安部系図覚書』を要約して、貞任の子の白木来住に至る驚くべき伝承を紹介しています。
康平五年秋半ば、最後の決戦を控えて混乱する厨川の陣屋を後に、一人の童児を擁して西に走る兵士の一団があった。率いるところの将は厨川城主安倍貞任の長臣山田太郎貞矩、奉ずるところの幼児は貞任の二男千賀麿、三歳であった。一行は追手の眼を逃れ、越後を越えて北へ、佐渡に渡り、その地において島の有司安田蔵人光定に身を寄せた。千賀麿を迎えた光定は、これを厚く遇し、猶子として安田三郎貞言と号せしめた。
千賀麿貞言は佐渡に止まること十五年、長じて後、叔父宗任が西国にあることを知って会せんことを思う。筑前名島(福岡市)に閑居していると聞きてその地に至る。亦命をうけて豊後に来り、日出浦に着き、実任の在所に至り、それより追分白木に赴いて仮住す。実任の世話によって権守惟用に紹介され、惟用は情厚くしてこれに扶助を加えた。そこで白木において食地に寄する。由緒を以て家号を安田とし、居所地を亦安田と改めて村号とした。
安倍氏の末裔が安倍氏を名乗らないところに、この所伝のリアリティがあるといえます。『陸奥話記』は、前九年の役のあとの「国解」記載として、「貞任の家族は遺類有ることなし」と書いていましたが、貞任の子の一人は厨川の柵の戦火の前に脱出していたようです。
この貞任の子が叔父の宗任を西国に訪ねてやってくるというのもありうることで、さらに、どんな内容かは不明であるものの、「千賀麿貞言」は宗任の「命をうけて」豊後の実任のところにやってきたとされます。また当地では「実任の世話」によって「権守(緒方)惟用」の優遇のもと「白木において食地に寄する」ともされます。
安川浄生氏は「安田氏の註」として、その後の貞任の末孫の転変のさまも記していて、これもリアリティがあります。
豊後追分安田に本拠を置いた安田氏は、始祖の貞言から二代目、貞隆を経て、三代目述嗣のとき、初めて豊後守護大友能直[よしなお]に仕え、白木において二千貫の食地を与えられた。その後は平穏無事に十八代貞享に及んだが、十九代貞近のとき守護大友氏に対する田原・田北両家の叛乱に連座して本拠喪失の厄に遭遇することになった。本拠追分を失った一族は、乱を逃れて豊後高田山中、宇佐神宮領草地荘に至り、ここに武門をすてて農となった。時に天正八年(一五八〇)五月。草地安田の始祖である。
系図・家伝内容の真偽を見分けるには、そこにどれだけ「負」の事実の記載がみられるかどうかにあるだろうとわたしなどはおもっています。日本という国は偽系図の王国といっても過言でなく、その典型はいうまでもなく、日本の「正史」(『日本書紀』)にみられる万世一系の家系図・皇統譜の創作・虚構でしょう。この偽系図が相対化されることがないうちは、庶民が庶民の数だけ偽系図を創作しても、だれも非難することはできないはずです。
さて、白木が、安倍氏と深い縁故の地であることがみえてきました。龍雲寺境内には貞任の供養堂があり(写真4)、ここには、貞任・宗任の位牌(写真5)や貞任像(写真6)があります。この宝珠山龍雲寺(かつての龍岸寺)は、謎めいた「鬼神社」の別当寺として創建されたのでした。
山田宇吉『安倍宗任と緒方惟栄』は、龍雲寺(龍岸寺)について、次のように書いています。
今の龍雲寺は、最初宗任が其兄貞任の遺骨を供養するために創建したもので、宝珠山龍岸寺と称したのは、仏教の功徳は、提婆[だいば]と雖も捨てず、龍女と雖も作仏[さぶつ]の彼岸に到達せしむ、況んや一時朝敵の汚名を負へる、貞任の極楽往生を辞[いな]むものならんやと云ふ、意味であることは前に東岸寺縁起別本の文を引いて、それを示した通りである。
宝珠山龍岸寺の創建意図が、貞任の「極楽往生」のためというのは、山田氏のうがった解釈です。このことは、平泉・中尊寺の創建意図が、奥州の戦乱で亡くなった敵味方双方の供養にあったことを対比させてみれば瞭然で、したがって、宗任が兄一人のために龍岸寺を創建したなどということは考えにくいですし、もっといえば、安川浄生氏も指摘するように、この創建者は宗任ではなく実任であった可能性の方が高いといえます。あるいは、宗任の「命」を受けた貞任の子「千賀麿貞言」であった可能性も捨てきれません。龍雲寺の貞任供養堂にある貞任と宗任の位牌の戒名ですが(写真5)、貞任のほうは「宝山院殿月心常観大居士」、宗任のほうは「珠林院殿中峰円心大居士」とされます。院殿号が贈られるというのは最高の讃辞を表していますが、龍岸寺の山号「宝珠山」が、貞任の「宝山院」の「宝」と宗任の「珠林院」の「珠」とを組み合わせて成ったものであることは明らかで、これ一つをとっても、龍岸寺の創建者を宗任とする不自然さを指摘できるかもしれません。
さて、「宝珠山龍岸寺と称したのは」という、寺名の呼称のことについていえば、「龍女と雖も作仏[さぶつ]の彼岸に到達せしむ」という山田氏の解釈は正確ではありません。山田氏が典拠とした「東岸寺縁起別本の文」をみますと、「仏光普く照らして龍女岸に到る、(ゆえに)寺を宝珠山龍岸寺と号す」(筆者読下し)と書かれ、龍女が仏土の彼岸にたどりつく仏の威光をおもって龍岸寺という寺名ができたことが記されています。したがって、「龍女と雖も」といった一例を軽く示す解釈では、寺号命名の本旨を読み誤ることになります。
寺号命名や寺の創建意図の核心には、おそらく「龍女」とはなにかという問題があるようにおもわれます。一般的な仏教説話では、地主神・地母神が龍女となって仏教に帰依し救いを求める、あるいは仏教の守護神となるといった定型譚が語られることが多いわけですが、安倍氏が創建した龍岸寺においてもそれがいえるのかどうかという点については、一考するに価値ある問題を孕んでいるようにみえます(写真:白龍)。
(つづく)
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