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神功皇后紀の記述で興味深いことの一つは、神に対する不敬を改めなかった仲哀天皇を「死」に至らしめた神、つまり、わが国最初の「祟る所の神」として、その筆頭に「神風の伊勢国の百伝[ももづた]ふ度逢県[わたらひのあがた]の拆鈴五十鈴宮[さくすずいすずのみや]に所居[ま]す神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命[つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと]」を挙げていたことです。この神は天照大神荒魂とも呼ばれ、皇大神宮(内宮)の第一別宮・荒祭宮や西宮市の広田神社ほかにまつられています。
書紀は、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(天照大神荒魂)と宗像祭祀との因果関係を直接には語りませんが、宗像神もまた「祟る所の神」であったらしいことを抽出していたのは、正木晃『宗像大社・古代祭祀の原風景』(NHKブックス)でした。正木氏は、履中天皇紀と雄略天皇紀を引いて、次のように述べています。
『日本書紀』の「履中紀」五年(四〇四)三月の条に、こう書かれている。筑紫(胸肩)の三神が宮中にあらわれ、天皇を詰問して、「なにゆえに、我が民を奪うのか。いま、汝にははずかしめをあたえるであろう」と語りたもうた。しかし、天皇はこれを無視した。すると、皇妃が突然、薨去してしまった。驚いた天皇は前非を悔い、筑紫で不正な行為があった事実を究明して、三神に、奪われていた民を返還したという。
また、同じ『日本書紀』の「雄略紀」九年(四六五)三月の条には、こう書かれている。天皇がみずから新羅を討とうとしたところ、胸方神がいさめて「行ってはいけない」と託宣したので、天皇は新羅討伐を中止したと書かれている。ということは、このころは、新羅討伐のような、対外的な戦争行為におよぶ際は、勅使をつかわして、胸方神の神意を聞き、それによって、行動を決定したらしい。
この二つの記述を見ると、大和政権にとって、宗像の神々は、その言葉を無視すれば、容赦なく「祟る」神であり、至高の権力者にほかならない天皇の行動まで、規制する強大な力をもっていたようだ。
五世紀に宗像大神が「三神(三女神)」であったとは考えられず、履中紀の「三神」表記は、神代紀のスサノオとアマテラスの「誓約」神話による誕生譚と整合させようとした書紀編者の推敲作為とおもわれますが、それはおくとしても、宗像大神の神威の別格性はよく伝わってきます。
正木氏は、地元漁民の伝聞を交えて、次のようにつづけています。
聞くところによれば、いまでも沖ノ島の周辺を漁場とする漁民のあいだでは、沖ノ島の神は、崇敬の念を失えば、たちどころに「祟る」神だと信じられているという。この「祟る」という性格は、慈悲を旨とするホトケには、絶対といっていいくらいない。しかし、神の場合は、崇敬の念をもって向き合わないと、その神威が高ければ高いほど、「祟る」力も強くなって、人間に跳ね返ってくる傾向がある。
どうやら、沖ノ島をはじめ、宗像三女神は、女神という優しげなイメージとはうらはらに、じつは恐ろしい神なのかもしれない。もっとも、そうでなければ、国家を外敵から守護することなど不可能なはずで、大和政権としても、それを承知の上で、宗像三女神の祭祀を、宗像氏に依頼したのだろう。
女神を女性と読みかえて、「優しげなイメージとはうらはらに、じつは恐ろしい」と日頃おもっている男性諸氏も多いかもしれません。「崇敬(ラヴ)の念」を失えば、当たらずとも遠からずということになりそうですが、「神」の話にもどしますと、宗像三女神は、もともと「国家を外敵から守護する」というように、その神威が「内」(天皇・朝廷)に向くことなく「外」(外敵・異敵)に向くようにつくられた神であったことを忘れてはいけないようです。
三女神誕生神話における、天照大神(日神)の「神勅」のことば──、「汝[いまし] 三[みはしら]の神、道の中に降[くだ]り居[ま]して、天孫[あめみま]を助け奉[まつ]りて、天孫の為[ため]に祭[まつ]られよ」ということばを、直接の祭祀者である宗像氏と「天孫」双方がその後も遵守するかぎり、三女神の神威の鉾先は天孫(天皇)に向けられることはありません。したがって、「祟る」という性格は、宗像三女神のものというよりも、三女神に分化される前の大元の宗像大神に因るものとみられます。
天皇・朝廷が畏怖する宗像大神の「祟る」という性格は、記紀神話で三女神を創作し、神威のヴェクトルを変換しても、それで完全に消えるはずもなく、この「祟る」という性格が、断片的ながらも表れたのが履中・雄略紀の記述でした。また、宗像大神における「祟る」神のイメージは、三女神創作の真意がみえないところでは、ことを正確に語らない神職から氏子大衆へと、その恐怖感のみが深層心理的に降りて生きつづけますから、引用にあったように、現代の漁民にもなお伝承されているとみることができます。
不敬という油断をすると、いつ「死」の報いを執行するかわからない神、正木氏のことばでいえば、「至高の権力者」といえども「容赦なく『祟る』神」ですから、天皇・朝廷権力者からすれば、宗像大神ほど危険な神はないといえそうです。
宗像大神を宗像三女神へと改変し、その危険な神威を無化せんとすることは、書紀編纂時点の朝廷関係者にとって、おそらく切実な創作課題だったことでしょう。しかし、この創作は、大元の宗像大神(の神威)への不遜ともいえる干渉であったことに変わりありませんから、「祟る」神に「祟られる」という恐怖は、以後、朝廷関係者の祭祀意識に宿命化されることになります。そういった「神」と間近に対面祭祀をせざるをえない現場の神職はたまったものではありませんが、三女神の背後から、三女神の名のもとに死んだはずの宗像大神が蘇ってくることは、天孫(天皇)の国家が崩壊することにつながりかねないという強迫的危惧感が、こういった我慢の祭祀を各地に継続させているようです。朝廷が、宗像大神を「日本之固」の神とみなしていたのは(天元二年(九七九)二月十四日大宰府へ下された太政官符)、その強迫的危惧感からすれば、たしかに正鵠を射る認識だったというべきかもしれません。
しかし、本来の宗像大神は、非権力的な場を生きる庶民個人には、「祟る」神として現れる道理はありません。「祟られる」という負の深層感情がないところでは、「祟り」そのものが成立しないからです。その意味で、神は「心」の投影ですし、あるいは、厳粛に公明正大、かつ中立的な存在でもありましょう。
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宗像祭祀の解読
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