千時千一夜

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宗像祭祀の解読

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 九州北部の神社祭祀の特徴の一つに貴船神社が各地にまつられているということがあります。高原三郎『水(雨)の神の系統と分布の研究』(私家版、大分県立図書館所蔵)によりますと、貴船神は、福岡県に九五九社、大分県に四八一社、熊本県に一〇社、鹿児島県に九社、長崎県に八社、宮崎県に六社、佐賀県に五社が確認できるとのことです。福岡・大分の二県で一四四〇社という多さで(九州全域の九七%)、この二県に限られた貴船神の集中祭祀は尋常ではありません。なお、この調査は、神社本庁所管の神社明細帳(昭和二十八年)に基づくもので、福岡・大分両県については「明治の神社明細牒や郷土資料で小社まで補記」したと注されています。他県も同じように追加調査をすれば「補記」分として増えるかもしれませんが、それにしても、祭祀分布に大きな変動があるとはおもえません。
 福岡・大分両県に、なぜこれほど貴船神が集中してまつられているのか──。ちなみに、京都にある貴船神社本社ですが、こちらの社伝では、全国への分社は五〇〇余社としていて、福岡・大分両県で一四四〇社という異例の祭祀数ですから、九州北部では、貴船神が一人歩きしてまつられている、あるいは、一人歩きして民衆祭祀の場でまつられているということになりそうです。
 高原氏の研究タイトルにみえるように、貴船神は「水(雨)の神」として知られます。宗像大神もまた「水」の神徳をもちますから、祈雨・晴雨に関わる水神祭祀を望むならば、なにも京都の貴船神をまつらずとも、地元の宗像大神をまつることで足りたはずです。しかし、宗像大神は、本来の「水」の神徳よりも、朝廷から「鎮護国家之霊神」といった国家神的性格を強く期待される傾向にあり、また祭祀側もそれを自認していましたから、雨乞いなどの民衆祭祀の場に降りてくるにはそぐわない神だったのかもしれません。あるいは、漁民の神ではありえても、農民の神となるには一線が引かれていたということかもしれませんが、いずれにしても、これは宗像大神にとっては不幸ともいえる神格の限定だったことにちがいはありません。
 ところで、宗像大神を三女神として「惣社」にまつるも、自らの屋敷の「丑寅(艮)」の方位、つまり「鬼門」には「氏人擁護之誓」のもとに「貴船大明神」をまつっていた宗像大宮司でした(『宗像大菩薩御縁起』)。ここでいう「氏人」は大宮司のことですが、これは大宮司屋敷の鬼門の神、かつ大宮司の守護神(擁護神)として貴船大明神をまつっていたと理解できます。つまり、辺津宮惣社の三女神祭祀という公的祭祀(公祭)に対比させますと、これは明らかに「私祭」といえます。
 宗像大宮司にとって「貴船大明神」とはどのような神であったのかについては、『御縁起』ほかが直接的に語ることはありません。つまるところ、貴船神とは何かということになりますが、これについて考えるには、ほかのアプローチが必要のようです。
 昭和六年(一九三一)から同十九年(一九四四)にかけて、伊東尾四郎の編纂による『宗像郡誌』全三巻が刊行されます(一九七二年に名著出版より復刻版が刊行される)。上巻の第一章には、宗像郡内の神社が、官幣大社(宗像神社)から村々の無格社に至るまで網羅的に収録されています。伊東の編纂姿勢は、私見を交えず、あくまで資料・史料によって、その記録を残すといった方法だったようで、江戸期から昭和前期に至る、各社の祭神・由緒の変遷をみるには好著です。
 神社収録における脱漏の問題についてはここで判断できませんけれども、宗像郡内に限定しても、貴船神社は相当数まつられていたことがわかります。ただし、その多くが明治期から昭和前期にかけて他社に合祀されたり、境内社とされたりしていて、しかも「由緒不詳」がほとんどといった特徴があります。貴船神は、村々の小祠にまつられていたということのようですが、多くの由緒不詳の貴船神祭祀のなかで、例外的に長い由緒がみられる社があります。「津屋崎町大字津屋崎字古小路にあり」とされる波折神社です。
 寛政五年(一七九三)、福岡藩黒田家家臣・加藤一純の編著で、『筑前続風土記附録』が藩主に献上されます。同書は「波折宮」の名で、次のように書いています。
 
波折宮〔コシヤウジマチ浦〕〔神殿五尺間三間社、拝殿二間半三間半、祭礼九月十九日、石鳥居一基、奉祀惣ノ市。〕
産神也。祭る所住吉明神、志賀明神、貴船神なり。社家の説に、神功皇后此神を祭り給ひし所なりといふ。或云。古しへ此浦の漁夫三人、海洋に出てゝ釣りせしに、俄に風起りて浪高く、船覆らんとす。時に漁人風難を凌ん事をいのりけるに、海中より三神出現し、護助し給ひ、浪花[ナミ]を折て〔折とは凌といへる意なるへし。〕やうやく鼓嶋に漂着し、風波の穏かなるを待けり。時に又神出現し給ひ、飢を救ひ給ふ。かくて其神は立さり給ひぬ。其跡に船中に三つの霊石を得たり。漁夫等奇異の思ひをなし、奉持して神体とあがめ、社を建て斎きまつれり。因て波折宮と号すとなん。〔後略〕
 
 ここにみられる貴船神は、住吉明神・志賀明神とともに神功皇后の祭祀に関わるらしく、難破した漁夫三人を救った神としての由緒が語られています。ここでの貴船神には「水(雨)の神」といった要素はあまりないようで、神徳的にいえば、航海守護の神といってよいでしょう。
 文化十一年(一八一四)から幕末にかけて、加藤一純と同じ黒田家家臣・青柳種信の編著による『筑前続風土記拾遺』が刊行されます。こちらは社号を「浪折神社」とするも、ほぼ前記『附録』と同内容を掲げ、「所祭住吉明神、志賀明神、貴布禰明神也」と、貴船神は「貴布禰明神」と表記されます。また、明神たちの「奉祀は此浦の巫女なり」と書かれているのが特徴です。
 以上、江戸期の史料をみるかぎり、貴船神・貴布禰明神は波折神の一神だったことがわかります。郡誌は、その後の明治期・大正期の史料は割愛するも、昭和前期の「神社帳」を収録しています。ここでは、貴船神の名は消え、意外とも当然ともいえる神の名が表記されることになります。
 
一、祭神 住吉大神 瀬織津姫神 志賀大神 菅原神 宇気毛知神
 
「神社帳」は、由緒の項を「伝曰、往昔息長足姫命三韓ヨリ凱陣シ給ヒシ時、此三神鼓嶋ニ現シ給ヘリ、因テ姫命此海辺ノ河原ニ神籬ヲ造リテ、斎祠アリ」と書き出し、江戸期の由緒に記されていた難破譚を再録しています。
 昭和前期、波折神は、住吉大神以下五柱神として記載されていますが、「神社帳」は由緒記載のあとに、「菅原神」と「宇気毛知神」については「大正五年十一月二日許可ヲ得テ合祀セリ」と明記していますから、江戸期までの貴船神・貴布禰明神は、昭和前期には「瀬織津姫神」と表示されたことがわかります。
 貴船神は、神道世界の一般認識からいえば、タカオカミ・クラオカミといった名で表示されることが多く、それを瀬織津姫神とする波折神社の祭祀事例は例外的にみえます。しかし、ほかに同例がないわけではありませんから、以下、それらにもふれておきます。
 宗像神社は、古来、宗像郡内の末社七五社、一〇八の神々を所管祭祀するとされます。ここで興味深いのは、この津屋崎・波折神社は、その末社群から除外されていたことです。ただし、波折神社は、田野郷鎮座の同名社もあり、こちらが末社扱いとなっています。
 天応元年(七八一)に辺津宮が惣社化されると、それまでの辺津宮は第三宮(地主宮)として境内社化されます。『宗像大菩薩御縁起』は、惣社の田心姫を中心とする三女神祭祀に加え、中殿には湍津姫を中心とする三女神祭祀を記すとともに、この第三宮(地主宮)にも、市杵嶋姫を中心とする三女神祭祀を記しています。その配祀神の第一神(田心姫)の眷属神として「小神浪折〔本地観音〕」の名がみられます。
『宗像神社史』(上巻)は、「延宝末社帳」なる延宝時代(一六七三〜一六八一年)の神社調べには「浪折明神 神直日命」との記載があり、下って明治八年(一八七五)の「宗像神社辺津宮末社取調書」には「浪折神社 住吉大神・志賀大神・貴船大神」と書かれるようになるといった変遷記載を収録しています。神社史は、さらに、明治八年以後の「明細帳」(郡誌の「神社帳」)の記載を要約して、「(浪折社)祭神を瀬織津姫命・住吉神・志賀神とする。大正十三年十月八日、許可を得て、同村(池野村)の依嶽神社(旧村社)の境内社として合祀された。現在同社の向つて右後方の三小殿のうち、右端の社がそれである。旧址は向田野のウヱダケにある」と、その合祀過程の詳細を明らかにしています。
 神社史にみられる、「浪折明神 神直日命」→「住吉大神・志賀大神・貴船大神」→「瀬織津姫命・住吉神・志賀神」といった祭神変遷からいえるのは、浪折(波折)神はもともと一神だったこと、それと、ここでも貴船大神が瀬織津姫とみなされていたということです。
 貴船神として瀬織津姫神をみなす事例は、以上の二例ばかりではありません。
 福岡県豊前市久路土字白旗森に鎮座する石清水八幡神社に、明治四十三年(一九一〇)に合祀された貴船神社があります。この貴船神社の由緒について、『豊前市史』(下巻)は、次のように記しています。
 
貴船社  元村社  広瀬字ワサ田
 諸社御鎮座祭記縁記に「豊前国上毛郡黒土庄広瀬村社 貴船社祭神瀬織津姫・高龗・素盞嗚尊 一、瀬織津姫神者古時日向小戸檍原ヨリ御影神也龗・素盞嗚尊者人王五十九代宇多天王[ママ]丁巳歳在神託同殿合祭也〔後略〕」
 
 福岡県外にまで視野を拡げれば、瀬織津姫神と貴船神を同神とする祭祀事例がないわけではありませんが、宗像大宮司の鬼門の守護神としての貴船大明神がどういった神を秘めていたかを断定するには、以上の三例でじゅうぶんかとおもいます。宗像三女神の一神・湍津姫神と同体ともされる瀬織津姫神を、宗像大宮司が特に「私祭」していたこと──、このことが何を示すかは、ここに多くのことばを費やす必要はないでしょう。公祭と一線を画す私祭は「秘祭」に相当するはずです。この「秘祭」がその後どう変遷していったかは、諸書がよく語ることではないようです。
 ちなみに、『宗像大菩薩御縁起』は、田心姫と市杵嶋姫については、その神威・霊験の説明をしていませんでしたが、湍津姫については、次のように書いています。
 
第二神者、示玉於居於中海之息。今号大嶋是也。厳重之奇瑞多之。居玉中瀛。是於奉号湍津姫。
 
 玄界灘の中海の大嶋(大島・中津宮)にいる(宗像)神は「厳重之奇瑞」が多く、これを湍津姫と名づけ奉るといった内容です。「厳重之奇瑞」を示す神として、湍津姫が特定されていることから、宗像氏男大宮司に強烈な託宣をしていた「宗大神」とは、この神だったとみてよいのかもしれません。

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