千時千一夜

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宗像祭祀の解読

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イメージ 1 宗像辺津宮(惣社)祭祀にとって、重大神事あるいは二大神事といわれるのが、五月五日の五月会[さつきえ]と八月十五日の放生会[ほうじょうえ]です。これらの重儀は、共通した祭事場(社殿)でおこなわれます。今は跡地しかありませんけれども、社殿名は時代の変遷とともに「浜殿(社)」「浜宮」「五月ノ浮殿」「皐月[さつき]社(五月社)」などと呼ばれていました。
 現在の釣川河口(左岸)には、社標に「宗像大社浜宮」と記される石祠があり、また、右岸の五月松原には「宗像大社五月宮」の跡地もあって紛らイメージ 8わしいのですが、『宗像神社史』は、「現在の神湊の浜宮(辺津神社)は古くは木皮社のことで、ここは浜降り修祓の行事を行ふ宮であつて、五月祭はここで行つたのでなく、江口の五月松原〔今の五月神社跡〕で行はれたものである」と、かつてあった「五月神社」への着目を促しています。
 五月会という神事名に関連する、その名も五月神社(かつての浜宮・浜殿社)ですが、この神事の概要をまずみておきます(『宗像神社史』下巻)。
 
 五月会の大神事は、この浜殿における神幸祭をもつて、イメージ 6最高潮に達する。元来は五月五日の端午節供の祝祭であるが、これが本来のサツキ、即ち早苗を植ゑる信仰と、外来の節供とが相重つて、一層盛大になつたものである。この日、田植・田楽の行はれてゐるところにこそ、この五月会本来の信仰を見出すべきである。その他この日を迎へるために行はれる武技・競技の如きは、この節供にともなふ京風の競馬会が、ここに移入されたものと看做すべきものである。
 正平年中行事に「五社神輿御幸、五月会大神事」、鎌倉期御供下行事に、浜殿の祭典イメージ 7を「五月会」、応安神事次第〔戊癸本〕にこれも同じく「五月会」〔甲本には「浜殿事」といつてゐるのは、五社の神輿が浜殿に神幸集合して開催される祭典が、「五月会」の頂点であつたことを示すものである。
 
 五月は早苗を植える季節で、田の予祝神事が基本であるものの、「浜殿における神幸祭」、つまり「五社の神輿が浜殿に神幸集合して開催される祭典」が五月会の最高潮・頂点であるとされます。ここでいう「五社の神輿」とは、宗像五社(第一宮・第二宮・第三宮・織幡神社・許斐神社)の神輿をいいますが、それらが浜殿(五月神社)に「神幸」することに、宗像・五月会の大きな特徴があります。
 織幡神社については先にふれました。これに加え、許斐神社を含めて宗像五社といいますが、許斐神社は熊野神をまつるとされます。もう少し正確にいいますと、文永二年(一二六五)の太政官符には「許斐熊野権現之本地弥陀如来」とあり、阿弥陀如来を本地とするのは熊野本宮神(熊野大神)で、その祭祀の初源をたずねるならば、これも宗像大神と縁深き神を秘めています。
 この宗像五社の神々が浜殿(五月神社)に「神幸集合」するという行幸行為が、いったい何を意味しているのかは、やはり重要な問いとなります。
 ところで、浜殿(五月神社)でおこなわれたのは、五月会・八月放生会の二大神事ばかりではありませんでした。神社史は、「浜宮の性質」として、次のように述べています。
 
 浜宮の性質について見るに、正平年中行事によると、第一大神宮では八月十四日五社〔第一宮・第二宮・第三宮・織幡・許斐〕の神輿がこゝに御幸あり、第二大神宮では五月五日に同じく御幸のことがある。また末社浜殿では、五月二日にこゝで温湯沸の神事が行はれる。次に応安神事次第によると、五月会と八月放生会とにこゝに御幸、三月春外祭と六月晦日の和儺[なごし]祓に、こゝで祓のことが行はれた。吉野期年中神事目録では、五月会と八月放生会とに、こゝに神幸のことが見える。以上を綜合すると、浜宮は一般祭祀上でいふ浜下りの祓を修するとともに、神幸の行はれるところであるといふ二つの性格を兼ね備へたものといつてよい。
 
イメージ 2 宗像祭祀にとって、浜宮(五月神社)が、いかに重視されていたかが、歴史時間的にも鮮明に伝わってくる記述です。五月会・八月放生会という二大神事のほかに、特に「三月春外祭と六月晦日の和儺祓に、こゝで祓のことが行はれた」とあります。
「三月春外祭」というのは、かつての出雲大社でも盛大におこなわれていた「三月会」という祓の神事でしょうし、「六月晦日の和儺[なごし]祓」もまたそうです。これらの両神事からいえるのは、浜宮には「祓」に関わる神がいなくては道理が合わないということのようです。
イメージ 3 しかし、延宝四年(一六七六)に成る「宗像宮末社神名帳」は、浜宮の神を「浜宮明神」とし、その祭神は「田心姫尊・湍津姫尊・市杵嶋姫尊」としていて、少し理解に苦しむ祭神表記をしています。また、幕末に成る『筑前国続風土記拾遺』にしても、皐月社(五月社)について「皐月松原に在。古へ田嶋の神の頓宮の地にして、五月五日大祭有。競馬をも執行す。今に小祠を建て、宗像三神を勧請し、毎年形計の祭をなせり」と、江戸期末には社の衰退が記録されると同時に「宗像三神」を祭神とする旨が記録されるのみです。
イメージ 4 神社史は、これらの記録を受けて、「近頃まで、こゝには宗像三神を祀る皐月神社があり、社地付近には往時の祭祀土器が多数散在し、特に社地から西南三十間程のところは、今も「土器山」といはれ、古くこゝに神幸のあつた際、供奉人等が神酒をいたゞいたところであると伝へられてゐる」とまとめています。
 往時、いくつもの神事の場であった皐月神社の地は、それら神事への奉仕者にとっては直会[なおらい]の場、あるいは神との団欒の場でもあったようです。
 そのように親しまれていた皐イメージ 5月(五月)神社は「近頃まで」存在していました。では、いつ、その姿を当地から消したのかですが、神社史は、これについては、大正十四年四月に、近くの「辻八幡宮」に合祀されたとしています。
 なお、五月会等の神事場には移動があったようで、神社史は「初めは田島宮社頭の釣川の川辺、後には釣川の河口に移つたことが知られる」と添えています。辺津宮はもともと海浜宮で、海岸線の後退にともない、この神事場の移動がみられるということのようですが、田島宮(辺津宮本社)から現在地へ離れても、本社神輿たち(神々)が浜殿・皐月(五月)神社へ「神幸集合」するという神事行為は不変でした。
 神社史の記述からは、皐月(五月)神社の祭神は「宗像三神」、あるいは宗像五社の神々以上にはみえてこないのですが、大正十四年、皐月(五月)神社を合祀した「辻八幡宮」の側からみると、その祭神構成に、別の一石が投じられることになります。
 昭和十八年に初版刊行された『宗像郡誌』(上巻)は、「辻八幡社」「神湊村大字江口字皐月にあり」、同社には「境内神社五社」があるとして、そのなかの皐月神社の項を、次のように書いています。
 
皐月神社 
祭神 瀬織津姫命 宗像三柱神 速秋津姫命 神功皇后
由緒 祭神瀬織津姫命、宗像三柱神、速秋津姫命ハ無格社皐月神社トシテ、大字江口サツキニ祭祀アリ。古ヘ田島宗像宮ノ頓宮地ニシテ、五月五日大祭アリ。競馬ヲモ執行シアリシト。又祭神神功皇后ハ大字江口字原ニ、無格社原神社トシテ祭祀アリシヲ、大正十四年四月一日許可ヲ得テ合祀ス。
 
 神社史の記述からだけではみえませんでしたが、皐月神社には、かつて宗像大宮司が私祭(秘祭)していた貴船神、その貴船神が秘める瀬織津姫という神の名が明記されています。あるいは、織幡神は保留とするにしても、熊野本宮の初源祭祀にいる神の名がみられるというのも重要です。
 現在、辻八幡宮を訪れても、どの境内社が皐月神社なのかは分明でなく、また、祭神表記もありませんから、この『宗像郡誌』の記録はとても価値があります。
 宗像五社の神々がそろって、浜殿・皐月神社へなぜ「神幸集合」するかという問いの答えが、ここにはあるといえます。
 

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