千時千一夜

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宗像祭祀の解読

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 脱「放生会」的に再構成された現在の秋季大祭ですが、この大祭の最後の神事は「高宮神奈備祭」と呼ばれているようです。『むなかたさま』は、次のように書いています。
 
高宮神奈備祭(十月三日)
「みあれ祭」でお迎えした宗像三神に、秋季大祭の無事斎行を感謝し、三神の神威の無窮を祈念して秋季大祭最終日の三日午後六時より、高宮祭場で行われます。このお祭りは約七百年前まで行われていた「八女[やおとめ]神事」を平成十七年に再現したものです。松明、提灯の明かりの中、宮司以下神職、巫女に氏子青年会員が参進して、祝詞奏上、神楽舞の奉奏そして静寂の中雅楽の調べが鳴り響き幽玄の世界そのものです。
 
 祝詞奏上・神楽舞・雅楽といった「幽玄の世界」に幻惑されかねませんが、神事の本質は「三神の神威の無窮を祈念」することにあると読めます。ここには、宗像三神の祭祀が定着・恒常化されたという認識があることはいうまでもありません。
 ところで、秋季大祭(みあれ祭)の最後の神事場として設定されているのは辺津宮本殿ではなく、高宮です。ここには宗像大社(辺津宮)祭祀の原点があるということなのでしょう。『むなかたさま』の説明を読んでみます。
 
イメージ 1高宮祭場
 辺津宮の後方には境内の森があります。昔からの樹相を今に残すものですが、森を抜けて進むと、一帯の右後方に木々に覆われた小高い丘があり、そこに神籬[ひもろぎ]・磐境[いわさか]の高宮祭場があります。しんと静まり返った森の中には、神さまを迎えてお祭りをする磐座[いわくら]が置かれ、神社にまだ御社殿というもののない時代、古代の宗像の祭りは、この磐座に神さまをお迎えして行われていた姿がそのままに残されています。
 ここはその昔、宗像の姫神イメージ 2が高天原から、降りてこられたところであるとも伝える古い祭場跡です。いまでもここでは、昔ながらの祭りが続けられています。まだ、神社が現在のような社殿の整った様式を整える以前から祭りの行われた神聖な場所です。
 
 高宮は「神聖な場所」である、それは、ここには「磐座」があり、ここは「その昔、宗像の姫神が高天原から、降りてこられたところ」だからだといった論法が読み取れます。ここで気づくのは、「その昔」、高宮(磐座)に降り立った「宗像の姫神」は三女神ではなかったということです。記紀神話や『先代旧事本紀』が辺津宮の神を三女神の一神としていることからそういえるというだけではありません。
 これは想像(イメージ)の世界の話ですが、秋季大祭(みあれ祭)で集合した三女神は、高宮の「磐座」に降り立った「その昔」の「宗像の姫神」の前に進み出ると、そこで神職関係者から「八女[やおとめ]神事」ほかの祝祭を受けているという光景が浮かびます。
 秋季大祭の最終神事が、辺津宮本殿ではなく高宮(磐座)で執行されることの語られぬ意味がここにはあります。高宮(磐座)は、三女神とかつての「宗像の姫神」との邂逅の場であることにおいて、その「神聖な場所」という定義をより深化させるといえます。
 ここで「その昔」にさかのぼってみます。
『宗像大菩薩御縁起』によれば、宗像大神(大菩薩)の託宣に、「吾は昔、五千九百余の従神を率ゐ、二千余万里の風浪を凌いで、異国の凶賊を征討した」とあります。ここにみられる「五千九百余」は修辞上の虚の数字かもしれませんが、そうであるにしても、津々浦々の神々を引率する神、つまり、神の中の神が宗像大神であるといった意識・認識が縁起の作者にあっただろうことは想像がつきます。ちなみに、平安期(九二七年)に成る『延喜式』神名帳は、全国の天神地祇三千百三十二座(二千八百六十一社)を収録していて、これら式内神の数よりも、宗像大神が率いる「従神」の数のほうがはるかに多いということになります。
 神々の盟主としての宗像大神を考えますと、もう一方の盟主であろう伊勢の天照大神はどういう位置づけになるかという問いも浮かびます。宗像大社(辺津宮)境内に掲げられた祭神説明板は、この伊勢・天照大神と自社祭神(宗像三女神)との関係に深くこだわっているようです。
 
御祭神について
当大社は天照大神の御子神
  田心姫神(沖津宮)
  湍津姫神(中津宮)
  市杵島姫神(辺津宮)
の三女神が、日本書紀に伝えられているように天孫降臨にさきだち天照大神の御神勅を奉じて鎮座されました。この九州北辺の要衝の地に三柱の女神が勅祭された意義はまことに尊く、道主貴[みちぬしのむち]の御別称が示すように国民道の祖神として歴代の皇室を守護され国家鎮護の御神徳を発揚され今日に至っております。また古くから皇祖天照大神をおまつりする伊勢神宮に対して裏伊勢とも称せられ皇室をはじめ国民の崇敬も厚いお社です。宗像大神をおまつりする神社は全国に六千余社ありますが、当大社はその総本宮であります。
                                                    宗像大社々務所謹誌
 
 宗像三女神(田心姫神・湍津姫神・市杵島姫神)は「天照大神の御子神」であり「道主貴[みちぬしのむち]の御別称が示すように国民道の祖神」だとあります。その上で皇室守護・国家鎮護の神徳が称揚され、「古くから皇祖天照大神をおまつりする伊勢神宮に対して裏伊勢とも称せられ」たとあります。
 丹後半島の籠神社をはじめ「元伊勢」を自称する社は全国に多くありますが、「裏伊勢」の呼称をもつのは宗像大社のみでしょう(もっとも清明界・陽を専らの建前とする伊勢の神宮祭祀と対極の幽冥界・陰の祭祀をつづける出雲大社は、これも別様の「裏伊勢」と呼ぶことは可能ですが)。
 出雲祭祀ほどの冥[くら]さはないにしても、伊勢(神宮)祭祀に対して「裏」の祭祀を本質とするのが宗像祭祀としますと、その「裏」の内容とはなにかということになります。
 宗像三女神が「天照大神の御子神」であるかぎり「裏伊勢」には相当しませんが、高宮に降り立った「その昔」の「宗像の姫神」を想像しますと、つまり、三女神背後(裏)の「姫神」に焦点を合わせますと、この神は天照大神背後(裏)の「姫神」でもあるという両祭祀に共通する秘祭構造が浮かび上がってきます。
 この構造を可視化するために社殿祭祀で語るならば、皇大神宮(内宮正殿)の背後(裏)に鎮座する荒祭宮を挙げることで、みえてくることが多々あります。天武・持統時代に皇大神宮(内宮正殿)が立ち上がる前は、現在の荒祭宮の祭祀地で、向かって左に荒祭宮、右に高宮がまつられていました。ここで誤解のないように添えておきたいのは、荒祭宮は最初からこういった社名ではなかったはずだということです。皇祖神をまつる社殿ができ、祭神も天照大神荒魂と変更規定されるのと連動するように、社名が荒祭宮となったと考えるのが自然です。
 では、荒祭宮の前の社名は何だったのかとなりますが、ここで参考となるのが、皇大神宮別宮とされ、並祭祀を今につづける瀧原宮・瀧原竝宮でしょうか(三重県度会郡大紀町滝原)。瀧原宮は天照大御神和御魂、瀧原竝宮は天照大御神荒御魂をまつるというのが現在の祭神表記ですが、この社名の命名法を、高宮と並んでまつられていた荒祭宮に応用しますと、「高竝宮」あるいは「高宮竝宮」とでもなりましょう。しかし、高宮が外宮のほうへ遷された(撤去された)時点で、「竝宮」(並宮の呼称)は成り立たなくなります。天照大神荒魂(天照大御神荒御魂)という神名規定とともに社名も変更がなされたものとおもいます。
イメージ 3 宗像祭祀の現在は、たとえば『むなかたさま』の記述を読むかぎり、高宮は一つしかないように書かれますが、厳密には、現在の高宮はかつての下高宮で、背後の宗像山頂上には上高宮があり、両高宮をもって高宮祭祀が営まれていました。『宗像神社史』の、次の記述は重要です。
 
 昭和三十年四月一日に整地して、現在のやうに下高宮祭場を磐座式祭場として整備したが、古代はとにかく鎌倉時代以降、ここに社殿が設けられ、江戸初期延宝三年に、辺津宮の諸社が、第一宮境内に整備されるまでの、下高宮の状況は、現状とは全く別であり、その向きも違つてゐる。〔中略〕下高宮も附属の北崎明神社も、共に旧参道の位置と里人の口碑とから推せば、西北に面してゐたとすべきである。これは第一宮・上高宮と同様の向きである。昭和三十年ここを整地する以前の写真を見ても、下高宮と北崎明神社との址だけは、神聖地として、一段高く壇をなして残されてゐた。双方ともその叢林・萱を伐つたり、ここに入り込んだりすると、祟りがあるとされてゐた。
 
イメージ 4 現在、「宗像大社の教科書」「バイブル」として編纂された『むなかたさま』は、こういった高宮の重要な履歴を無視・等閑視しています。社殿をもたぬ古代祭祀への悠久のロマンふうに語られる高宮祭場ですが、これは、戦後に整地・整備された人工的な祭祀空間だったようです。
 神社史は、現高宮祭場とは「全く別」であった当時(中世)の社殿配置の推定復元図を載せてもいます。それによると、向かって左に北崎明神社、右に下高宮が同格のごとく、並びまつられるように描かれています。「附属の北崎明神社」とは書かれるも、北崎明神社が単純な「附属」の社でないことがみえます。「下高宮と北崎明神社との址だけは、神聖地として、一段高く壇をなして残されてゐた。双方ともその叢林・萱を伐つたり、ここに入り込んだりすると、祟りがあるとされてゐた」という「里人の口碑」が語ることも、この北崎明神社の高宮祭祀上における特別の重要性を告げるものといえましょう。
 現高宮祭場が醸し出す古代ロマンの幻惑を除けてみつめなおしますと、そこは、かつての下高宮と北崎明神社の祭祀空間でした。ここで当然のごとくに浮かぶのは、「北崎明神とは何か」という問いです。
 神社史は中世(以前)の北崎明神の神名は不明とするも、江戸時代の延宝四年(一六七六)に成る「宗像宮末社神名帳」の記載を再録しています。そこには「北崎四所明神 玉柱屋姫命〔四神〕」と書かれ、「四所明神」の内実はおくとしても、筆頭祭神に「玉柱屋姫命」の名がみられます。この玉柱屋姫命については、これも皇大神宮の別宮とされる志摩市磯部町の伊雑宮祭神に関して、次のような指摘がすでになされています(『円空と瀬織津姫』下巻)。
 
 伊雑宮の御師・西岡家に伝わる文書には、中世以降に伊雑宮の祭神とされた「玉柱屋姫命」については「玉柱屋姫神天照大神分身在郷」と書かれるも、同じ箇所には「瀬織津姫神天照大神分身在河」とあり、玉柱屋姫命(神)は「郷」に在るときの名、瀬織津姫神は「河」に在るときの名で、いずれも「天照大神分身」だという。つまり、玉柱屋姫と瀬織津姫は鎮座顕現する場による呼称のちがいにすぎず、両神は異称同体という認識が記されている。
 
 玉柱屋姫命(神)と瀬織津姫神が「異称同体」であることは、内宮の地でかつて高宮と並んでまつられていた「高宮竝宮」(仮称)こと荒祭宮の神とも「異称同体」ということになります。それが、宗像においては、高宮(下高宮)と並んでまつられていた北崎明神社にみられることは、これもなにごとかです。
 宗像大社(辺津宮)祭祀から消えた大宮司秘祭の貴船神、放生会における枢要の皐月神、そして北崎明神──。皇室守護・国家鎮護の神徳のもとに、あるいは宗像三女神という表層祭祀の背後(裏)で隠しまつりつづけてきた神に、共通して神宮祭祀の基層神が重なり、あるいは見え隠れしています。戦後における高宮祭場の新たな整地・整備は、北崎明神の祭祀消去において、古代祭祀のロマン幻想とは裏腹に、宗像本来の神に対する背徳の匂いを漂わせています。

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