千時千一夜

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▲神倉神社とゴトビキ岩(徐福はかつて神倉山頂にまつられていたという…『太古のロマン徐福伝説』)
 
イメージ 2 明応八年(一四九九)に成る河野氏の秘伝的家伝書『水里玄義』ですが、本書の特徴の一つとして、その編纂を第三者(河野教通の家臣・土井美作守通安)がおこなっていることが挙げられます。土井通安はときに批評的な感想を交えながらも、河野家の家伝・秘伝をそのままに伝えようとしているようです。
 通安は「序」において、「書の体たるや、心を以て先となして形これにつく、それ、形は見るへからす、故に内伝有りて真説を述へ、外伝有りて飄説を記せり」と書いています。ここでいわれている「内伝」が秘伝部分に相当するとおもわれます。なお、「飄説」の「飄」はつむじ風のことで、これは、世に流布する一般論と理解でき、通安は、一般論を添えるも、河野家に伝わる内伝(秘伝)の「真説」をここに述べると宣言しているようです。
 なお、書名の命名については、「大守刑部侍郎公(諱は教通、法名は道基)、意[こころ]を家譜に寄せて年あり、或は堂上貴客を会し、或は旧里の老翁に対し、深きを問ひ遠きを探し、遂に功を成し、ようやく就きて水里玄義と名つけたり」と書いています。主君・河野教通の「家譜」に関わる真説の探索は「深きを問ひ遠きを探し」とあり、真摯な姿勢が伝わってきます。この真摯な探索の結果としての「水里玄義」とのことです。「水里」は河野の二字の扁をとったものとしますと、河野家の玄義=奥義というのが書名の意味ですから、この玄義は、先の内伝の「真説」をいいかえたものとも読めます。
 河野氏の家譜に関わる内伝・真説・玄義を考えるとき、これは家譜一般にもいえることですが、その「祖」を明らかにすることからはじまります。越智氏の流れを自認する河野氏が、この越智氏の「祖」をどう「内伝」してきたかは興味あるところです。これは、当然ながら、神まつりの基盤を考えることとも関わりますが、次のような「内伝」と「外伝」の記述は、現代にも通用する歴史的な問いかけを含んでいて、本書の大きな価値を構成しています。
 
越智姓
神饒速日命より出つ。伝に曰く、秦の徐福吾が朝に来たりて裔をととめ、其の孫功有りて与州越智郡を領す故に越智を以て姓となす、云々と。福(徐福)の廟は熊埜[くまの]神の前に在り。姓氏録に云ふ、秦忌寸[はたのいみき]、神饒速日命より出つ、越智直[あたい]も同神に出つ、熊野連[むらし]は同神の孫味饒[うまにき]田命の後なりと。
古説かくの如く、徐福と饒速日と一祖両説にしてかつ和漢を隔つ、これ不審を生する所なり。然りといへとも、秦・越智・熊野は一気同統にして二説符合せり。一説に曰く、穂積臣は漢司将軍の裔なりと。本朝の史[ふひと]を考ふるに、則ち饒速日の後の伊香我色命の裔なり、これ漢司将軍は徐福なるか。又、一遍上人は河野通広の子なり。初め時宗を興す時、熊野に詣てて祈誓す、これすなはち今に於てかの宗鎮寺となすは熊野権現なるなり。又、与州宇和郡土井氏は紀州穂積氏なり、云々と。
これを以て考ふるに、則ち熊野に依るもの多し、上古は深説有るにや。然りといへとも、両説一意にしていまた是非をわかたす、後賢を待つのみ。
 
 序文にある「内伝有りて真説を述へ、外伝有りて飄説を記せり」ということばは、この引用部分のためにこそあったのではないかとおもいたくなるような内容です。
 越智氏の出自について、「伝に曰く、秦の徐福吾が朝に来たりて裔をととめ、其の孫功有りて与州越智郡を領す故に越智を以て姓となす」とあります。この「伝」が内伝に相当します。
 一方、外伝は「姓氏録(新撰姓氏録)に云ふ」に相当し、「秦忌寸、神饒速日命より出つ、越智直も同神に出つ、熊野連は同神の孫味饒田命の後なり」が抽出・引用されています。編纂者・土井通安が、ここに秦忌寸をもってきたのは、秦氏は徐福の末裔であるという認識ゆえかとおもいます。このことは、九世紀に中国の斉州開元寺の僧・釈義楚が著した『義楚六帖』に、日本の真言宗の僧・弘順大師から聞いたこととして、「徐福ここ(富士山)にとどまりて蓬萊といえり。今に至るも子孫皆秦氏という」とあることと一致するものです。徐福の末裔は「皆秦氏」を名乗っているというのは、ある種「常識」だったようです。
 河野家の家伝(内伝)では、越智─河野氏の祖は「徐福」と伝わっているのに、外伝(公的な書・姓氏録)では、それが「神饒速日命」とされている、このくいちがいはいったい何だろうということになります。
 編纂者・土井通安もよくよく考えた末のことでしょう、「徐福と饒速日と一祖両説にしてかつ和漢を隔つ、これ不審を生する所なり。然りといへとも、秦・越智・熊野は一気同統にして二説符合せり」と、「徐福と饒速日と一祖両説」論を提示しています。通安は、別の箇所でも「饒速日・徐福はひとり姓の上に就きてこれを云ふのみ」と書いていて、あたかも饒速日と徐福を同体異名とみなそうとさえしています。
 それでも通安には一片の不安は残っていたようで、「上古は深説有るにや。然りといへとも、両説一意にしていまた是非をわかたす、後賢を待つのみ」と、保留の姿勢を述べ、後の世の賢察にまかすとしています。
 この家伝でさらに興味深いのは、「秦・越智・熊野は一気同統」という指摘に加え、「一説に曰く、穂積臣は漢司将軍の裔なりと。本朝の史[ふひと]を考ふるに、則ち饒速日の後の伊香我色命の裔なり、これ漢司将軍は徐福なるか」と、穂積臣が徐福の真裔にあたるかとしていることです。
 ここに列挙されている「秦・越智・熊野」そして「穂積臣」は、いずれも、その祖は「神饒速日命」だというのが日本側(姓氏録)の言い分です。これらの氏族は、総じて物部系氏族といえます。
 ここで「物部」をあえて出すのは、『日本書紀』の神武神話において、先住の長髄彦[ながすねひこ]から奉斎を受けながらも、ついには、長髄彦を裏切るかたちで神武天皇に帰順・服従した神として、次のように饒速日が描かれていたことによります(宇治谷孟現代語訳)。
 
饒速日命は、もとより天神が深く心配されるのは、天孫のことだけであることを知っていた。またかの長髄彦は、性質がねじけたところがあり、天神と人とは全く異なるのだということを教えても、分りそうもないことを見てこれを殺害された。そしてその部下達を率いて帰順された。天皇は饒速日命が天から降ったということは分り、いま忠誠のこころを尽くしたので、これをほめて寵愛された。これが物部氏の先祖である。
 
 先住の王であろう長髄彦は「天神と人とは全く異なる」ことを理解しない、ゆえに饒速日によって「殺害」されるという物語の展開にはやはりどこか無理があります。殺害の根拠として、あまりに薄弱だからです。こういった神武神話にみられる物語の虚飾・潤色部分をすべて剥いでみますと、ここには、天皇の思想に「帰順」した先住の太陽神がいて、それを奉斎する物部氏もまた「帰順」するのは当然であるという「正史」の編纂・創作思想があるのみです。
 饒速日を「先祖」とする物部氏が『日本書紀』に記されていたこと、これに、河野家の「内伝」を重ねますと、物部氏のルーツは徐福にあるということになります。これは、徐福の裔の一派が物部氏を構成するということでもあります。
 徐福伝承は列島各地にみられますが、この伝承をもっとも色濃く今に伝えているところは、佐賀県の金立山一帯と和歌山県の熊野でしょうか。前者は徐福の上陸地に比定され、後者は徐福の終焉地の伝承をもっています。金立山の東、佐賀平野をはさむように聳える高良山は物部氏の祭祀霊場ですし、熊野も同じくです。
 引用の家伝には「与州宇和郡土井氏は紀州穂積氏なり」、「則ち熊野に依るもの多し」とあり、編纂者の意識の重点は、紀州熊野に置かれているようです。
 
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▲阿須賀神社と徐福ゆかりの蓬莱山(境内に徐福之宮をまつる)
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イメージ 5 紀元前三世紀、童男童女三千人および百工(あらゆる職人)を引き連れ、秦の始皇帝の圧政から脱出するようにして、船団を組んで渡海してきた徐福一行です。これは、たんなる渡来ではなく集団移民というべきですが、そのタイミングを考えますと、稲作を中心とする弥生文化の開花期に重なっています。
 中国側の近年の研究の蓄積は、徐福は伝説の人ではなく歴史の人として確定していますし(池上正治編訳『不老を夢みた徐福と始皇帝』勉誠社)、その「東渡」の地である日本側におイメージ 6いても徐福伝承は濃厚です。もし日本側で伝承・伝説以上に明かされていないことがあるとすれば、それは、徐福あるいは徐福一行の「氏族」に関わる「その後」でしょう。
 この「その後」に、物部氏あるいは物部系氏族をみることで、矛盾することは特にみつかりませんし、それどころか、多くのことが符合してくる、解けてくるといってもよいかとおもいます。河野家の秘伝的家伝書にみられる「内伝」証言は、このことを示唆して余りあるといえます。
 徐福の故国は、秦(始皇帝)イメージ 7に滅ぼされた黄海沿岸部の斉[せい]の国で、ここには「太古からの神々であり、斉の地方の伝統的な神たち」である「斉の地の八神」がまつられているとのことです(林仙庭・李歩青「徐福東渡の動機について」前掲書所収)。この「八神」は、「四時(四季)の主、陰の主、月の主、陽の主、日の主」の五神に「東平[とうへい]の兵の主、臨淄[りんし]の天の主、泰山の地の主」の三神を加えたものらしく、これらが徐福がいた時代にはすでにまつられていました。
 日本では、徐福自身、雨乞いの神・医薬の神・農業の神などとしてまつられますが、徐福がイメージ 8奉斎していたのが故国「斉の地の八神」としますと、そこには「日の主」が含まれますから、日本において徐福と饒速日を無媒介な等号で結ぶことはむずかしいかとおもいます。朝廷の祭祀思想は、徐福が奉斎する「日の主」をニギハヤヒと呼び、それを徐福の末裔であろう物部氏の「先祖」として神話内に取り込んだ可能性があります。また、天孫ニニギの兄弟としてニギハヤヒと近似の神名である「天照国照彦火明命」の名を記し、それを「尾張連らの遠祖」などともしています(第八の一書)。
 いずれにしても、皇祖神・天照大神の下位に置かれたニギハヤヒという男系太陽神でした。物部氏あるいは徐福の末裔氏族のなかには、それを認めない者もいたはずで、その思いが、先住の海人族の奉斎する太陽神と合体させた「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」という最大級の賛辞を並べた神名の創作となるようです。この名を記す『先代旧事本紀』にみえる、ニギハヤヒの降臨に随伴する神々の多さは半端ではなく、そこでの神々の集団降臨は、さながら、徐福一行の大船団の列島への到来のイメージと重なります。日本の古代史最大のタブーといってもよい徐福の存在です。弥生文化の一切の種をもち大挙して渡海してきた徐福一行が、日本の歴史のなかで顕彰も検証もされることがないというのは尋常ではありイメージ 9ません。
 中国最古の史書(司馬遷『史記』)は、徐福は渡海したあと「王となり帰らず」と書いています。日本では、徐福の到来は孝霊天皇時代と伝承されますが、紀元前三世紀に、日本に統一国家はまだ存在しませんから、八世紀の「正史」の作者は、徐福を孝霊天皇として「万世一系」の皇統譜に組み込んだことも考えられてきます。

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