
筑後川の支流の一つ・田手[たで]川の上流に吉野ヶ里遺跡がありますが、遺跡のすぐ南に、また田手川沿いに田手神社(田手太神宮とも)が鎮座しています。ここには、瀬織津姫神の異称の一つである撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(社での表示は「天疎」が略されています)の名での祭祀がみられます(写真1〜7)。佐賀県神職会『佐賀県神社誌要』(大正十五年)は、以下のような由緒を掲げています。
村社 田手神社 神埼郡三田川村大字田手(現:三田川町田手)
祭神 撞賢木厳之御魂向津媛命
天智天皇筑紫に暫く皇居せられし時に、御心願ありし此地を撰ひ、皇大神の荒魂撞賢木厳之御魂向津媛命を奉斎ありたりと、又一説に斉明天皇とも伝ふ、後嵯峨天皇寛喜年中(寛元年中の誤記…『三田川町史』)、陶荘司次郎矩武なる人、筑紫御笠の郷にありしか志を得す、仁治年間此地に逃れ来り住しけるに、年四十四に至るも子なし、されは伊勢大神宮に心願して一子を挙け大に悦ひ、神恩の辱きことを感謝し仙壽丸と名つけたり、此児極めて怜悧身体強健姓を杉と改め杉十郎熈傳と称す、而して此地に大神の荒魂を斎きし所あるを知り、其跡を尋ね荒廃せる霊地を修め社殿を建てゝ再興せむとし、屢勢州に赴き願へるも許されす、遂に三十三回の多に達したれは、其誠心に感せられ、神璽、瑤鏡、宝剣の三種を下賜せられ茲に始めて所思を遂けたりと、此三種の神宝社殿に安置す、天文の頃より疱瘡の流行ありて万人大に悩みけるか、神徳により平癒せし者多かりしより、疱神として霊威四方に響き、疱瘡流行の初に当り祈願し、終息に至り奉賽御蔭参りと称へ、遠くより参詣するもの夥しく、為に社前市をなす、是即ち今の田伝宿にて後田手と改む。社格制定に当り村社に列せらる。合祀により応神天皇外三柱の祭神を追加せり。
明治四十年二月十五日神饌幣帛料供進指定
氏子総数 三百十五戸
一読、この由緒書には興味深い話が三つ含まれているようにおもえます。
一つは、「天智天皇筑紫に暫く皇居せられし時に、御心願ありし此地を撰ひ、皇大神の荒魂撞賢木厳之御魂向津媛命を奉斎ありたりと、又一説に斉明天皇とも伝ふ」とあるように、社の創祀に天智天皇あるいは斉明天皇が関わっている点。
二つは、社が鎌倉時代に再興されるにあたって、「杉十郎熈傳」(境内案内では「杉野隼人」「杉野十郎煕伝」)が三十三回も伊勢神宮に再興願いに通ったという尋常ならざる熱意とその実現経緯が語られていること。
三つは、祭神「皇大神の荒魂撞賢木厳之御魂向津媛命」が疱瘡神(「疱神」)としての神徳をもっていること。
まず、社の創祀時を「天智天皇筑紫に暫く皇居せられし時」と限定していることについてですが、これは、天智二年(六六三)八月二十七〜二十八日に起こる、いわゆる「白村江の戦い」に向けての筑紫行だったとおもわれます。
このあたりの歴史経緯を『日本書紀』にみてみますと、斉明六年(六六〇)九月五日に遡りますが、唐・新羅軍の侵攻によって滅亡寸前の百済の現状、しかし、武将の鬼室福信らが孤軍抵抗中であるとの知らせが、百済使によって斉明天皇の元にもたらされます。書紀は、「是歳[このとし]、百済の為に、将に新羅を伐たむと欲[おもほ]して、乃ち駿河国に勅して船を造らしむ」と、百済救援の意志表示と準備にかかったことがわかります。
翌斉明七年(六六一)一月六日には、斉明天皇・中大兄皇子・大海人皇子が難波より征西の船出をし、しかし途中、「伊予の熟田津[にぎたつ]の石湯行宮[いはゆのかりみや]」(道後温泉)に滞在し、三月二十五日に「娜大津(博多港)に至る。磐瀬行宮に居[おはし]ます」と書かれます。この時点から、約二年半が、天智一行の九州滞在時間となります。同年七月二十四日には斉明天皇が没し、以後、中大兄皇子(のちの天智天皇)が日本軍(官軍)の最高責任者となります。
天智元年(六六二)には、「是歳、百済を救はむが為に、兵甲[つはもの]を修繕[をさ]め、船舶[ふね]を備具[そな]へ、軍[つはもの]の粮[くらひもの]を儲設[ま]く」と書かれ、天智二年(六六三)三月には、諸将を派遣して「二万七千人を率[ゐ]て、新羅を打たしむ」と、開戦が本格化していく様がわかります。白村江で待機する唐の軍船は「一百七十艘」と書かれるも、先に日本の軍船も「一百七十艘」を派遣したことが書かれていて、こういった同数が書紀内に記される点をみますと、戦記物特有の潤色を感じさせますが、それはともかく、同年八月二十七〜二十八日の白村江の戦いにおいて、日本軍(官軍)は歴史的大敗を喫することになります。この大敗後の九月七日には、百済が完全に歴史の舞台から消滅します。
仲哀記や神功皇后紀を読みますと、また、広田神社(西宮市大社町)の縁起を重ねますと、倭国において最強の神威・神力をもつ神として、天照大神荒魂こと撞賢木厳之御魂天疎向津媛命がありました。斉明あるいは天智天皇は、古代史最大の海外戦争に赴くにあたって、この神の神威・神力に加護を求めたことはありうることで、それが田手神社の創祀の背景にあった事情だったと想像されます。
神社の境内案内(由緒)には、「天智天皇筑後に暫く皇居された時、清浄晴沙の地を選んで、この地に皇太神宮、撞賢木厳之御魂向津媛命(天照皇太神宮)を勧請し、荘厳な一宇を建立された」と書かれています。広い九州のなかで、ここが特に「清浄晴沙の地」であったのかどうかは現在の感覚ではぴんとこないところもあるのですが、あるいは、南九州における親新羅の心情をもつ隼人たちのことを考えて、この神をここに手厚くまつって背面の憂慮を防いだものかもしれません。
さて、白村江の戦いにおける敗戦、同盟国百済の滅亡を経て、天智天皇は相当な危機意識をもちながら大和へ撤退したことが考えられます。それは、同時に、新たな国家構想を伴うものでもあったはずで、それが近江国への遷都だったとおもわれます。また、この撞賢木厳之御魂天疎向津媛命という神を、国家祓の大神、つまり大祓神として策定するというのも(天智八年、佐久奈度神社由緒)、その構想に含まれていたものとおもわれます。
撞賢木厳之御魂天疎向津媛命にとって、日本の国家観が変貌する過程は、その厚遇祭祀とは対極の過程を生きるということだったはずで、それが、この神をまつる田手神社においては、「その後、時代の変遷と共に一時荒廃を招いた」という境内案内のことばに表れています。
同境内案内によれば、杉野隼人(杉野十郎煕伝)が神の一恩に報いるために神社再興を果たしたのは文応元年(一二六〇)とされます。天智天皇が筑紫へやってきた時点からいいますと、およそ六百年後となります。九二七年に成る『延喜式』神名帳には田手神社の名はなく、延喜時代にはすでに社は「荒廃」していたものかもしれませんが、杉野隼人の、その再建の熱意は『佐賀県神社誌要』や境内案内に余すところなく書かれています。
この境内案内の記載日は「平成十年一月吉日」とあり、記載者は「第三十四代当主 杉野進」とあります。かつて並々なる執念のもとに神社再興に尽力した杉野隼人の末裔が現在も田手神社に深く関わっていることは貴重です。
祭神「撞賢木厳之御魂向津媛命」が、「疱瘡」という病をなおす神徳があると伝えられていたことについては、この神の異称である瀬織津姫神が疫病魔退散の神徳を有して各地に伝えられていたことと共通するものでしょう。たとえば、「豊日別宮伝記」(大分県中津市『闇無浜神社─由緒と歴史』所収)には、こんな記述もありました。
欽明天皇七年〔丙寅〕四月、国中疫癘[えきれい]有り。故に当宮に祈る。大神(瀬織津姫神)告げて曰く、中津川に出でて祓除すべし。亦、神符を授く、人々にこれを掛けしめよと(此の神符、神家に有り)。国中の家々これを用ふ。疾疫忽ち癒ゆ。
天智時代、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は「天照皇太神宮」の代表神(の一神)としてまつられていたはずで、その名残りが、田手神社の鳥居扁額が「太神宮」と書かれることに表れています。「天照皇太神宮」が天皇家の祖神(アマテラス)をまつるようになるのは、天智・近江朝のあと天武・持統朝以降のことで、この新たな神宮祭祀の創祀によって、田手神は神宮においては本殿背後の第一別宮・荒祭宮に「天照大神荒魂」の名で封印祭祀がなされることになります。
しかし、当地では、天照大神ではなく、その「荒魂」こそが現在も「太神」なのでしょう。『三田川町史』は、「田手神社(田手太神宮)」の項で、疱瘡神としての祭神の神徳を記したあとに、次のようにつづけています。
なお鍋島藩時代は領民の領外に出ることを防ぐため、伊勢参宮は、領内の神宮に代参することを布[ふ]れたが、佐嘉伊勢屋町の伊勢神宮と田伝宿の田手太神宮が指定されたので、氏子は神社のお札を領内各地に配って廻ったといわれる。
神宮(内宮)における皇祖神をまつる正殿と背後の荒祭宮の二本立て祭祀が地方の祭祀に少なからぬ影響を与えている姿が浮き彫りにされています。両宮にともに敬意を払うという鍋島藩の「代参」の命令が意味することは、「田伝宿の田手太神宮」(田手神社)の祭祀が先行していて、当社への崇敬が領民に根づいていたということなのでしょう。
なお、『佐賀県神社誌要』によれば、田手神社近くの八幡神社(神埼郡蓮池村大字見島〔現:佐賀市蓮池町見島〕)の境内社「神明宮」の祭神としても「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」の名がみられます。見島八幡神社の境内社「神明宮」の由緒は不明ですが、これは田手神社(田手太神宮)の分社とみてよかろうとおもいます。「神明宮」が八幡神社の境内社となるのがいつのことかもはっきりしませんが、しかし、現在の見島八幡神社には「神明宮」という境内社はなく、その代わりというべきか、境内社の石祠群に混じって「太神宮」の石祠がありますので、これが撞賢木厳之御魂天疎向津媛命の分社後の現在の姿だとおもわれます(写真8〜12)。
瀬織津姫神とはいわずに「撞賢木厳之御魂向津媛命」の名で祭祀をつづける田手神社ですが、春・秋の大祭の間に、夏の大祭として「夏越大祭大祓 七月二十六日」を設けています(境内案内)。この大祭が、自社祭神ともっともゆかり深い神事であることはいうまでもありません(佐賀郷土資料・写真:白龍)。
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