千時千一夜

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 福岡県八女郡立花町田形と同郡黒木町湯辺田には、矢部川をはさんで二つの釜屋神社があります。両社は同時にまつられたものではありませんので、まずは古いほうの田形・釜屋神社からみてみます(写真1〜5)。『八女郡史』(大正六年)は、詳細な由緒を記しています。

釜屋神社  無格社  同村(光友村)大字田形字釜屋
 祭神は罔象女神、瀬織津姫命、速秋津姫命の三柱とす、矢部川の下流南岸に水の隈あり、一大磐石岸に峙ち、磐根三四丈、高さも亦相等し、流水之に激し、深淵にして臨む可からず、是を山下手継の淵に比するに、更に一層の奇勝を覚ゆ、急流北衝、崖下に抵て西折す、崖上に叢祠を建つ、即ち本社なり、其神徳河伯の難を除き、且つ牛馬の病に奇応あり、士民の神仰他に越えたり、社家の記によれは、嘉応年中、薩摩国根智の城主、勅に依て当国上妻郡黒木城主となりて、黒木大蔵大輔源助能と云ふ人、河上に此社を建て、水祖の神を祭り、これを釜屋大明神と崇め、武運長久、領地安泰の祈願所とす、殊に水徳の広大なる事を重んじ、神領及祭祀を修営す、毎年十一月廿八日(一に十八日)の神事には、風流、流鏑馬、神楽等を執行す、〔中略〕其後米柳の封界を分つに及びて河水を挟て、北岸湯辺田村にも此神を勧請して社檀を建つ、〔後略〕

 釜屋大明神は嘉応年中(一一六九〜一一七一)に、薩摩国の「黒木大蔵大輔源助能と云ふ人」によってまつられたとあります。この田形・釜屋神は「罔象女神、瀬織津姫命、速秋津姫命の三柱」で、その神徳は「河伯の難を除き、且つ牛馬の病に奇応あり」とあり、また水徳広大で「水祖の神」ともされます。現在の神社由緒板には、瀬織津姫神とともに大祓神の一神と通説される「速秋津姫命」の名は表示されておらず(写真4)、大正期から戦後現代にかけて祭神の変遷があったようです。その上でいいますと、では「水祖の神」とみられていた神とは「罔象女神、瀬織津姫命」のうちどちらの神なのかといった問いも浮かんでくるところです。
 この田形・釜屋神社からは、矢部川の北対岸に大きな樹勢の木の神域がみえます(写真6)。ここに湯辺田・釜屋神社が鎮座しています(写真7〜12)。『八女郡史』は、次のように由緒を記しています。

釜屋神社  無格社  同村(豊岡村)大字湯辺田字神道
 祭神は罔象女神、瀬織津姫神、速秋津姫神の三柱とす、南田形釜屋宮と矢部川を隔て南北に対峙せり、元和七辛酉年、久留米柳川二封に分れ、北湯辺田は有馬家領となり、南田形は立花家領に帰したれば、当地には幸ひ往昔より楠神木有りたれば、寛永二乙丑年、新に社殿を建築せり、社職大石対馬は、柳川領釜屋宮の社を嫡子丹後に譲り、退隠して本社の社職を勤む、これ田中氏時代なりと云ふ、天正の頃、黒木の家臣椿原式部、当社へ参詣の砌り、酒興の上、大石の子孫対馬丹後兄弟と口論し、対馬兄弟は妻子を残し、暫く筑前国糟屋郡別府村付近に立退き、其後本郷に帰りしと云ふ、伝説によれば当社神木を慶長年間根伐せしに、不思議なる神変ありて中止せりと、其斧跡今猶在りと云ふ、旧藩時代には、祈祷所にて今尚遠近信仰の社なり、例祭は九月十五日、(開基帳には十一月十三日とあり)〔後略〕

 湯辺田・釜屋神社には推定樹齢約六〇〇年といわれる楠の大木(神木)があります。この神木をはさむように拝殿と本殿が建立されていて、釜屋神の神木としてこの大楠はみられているようです。もっとも、湯辺田・釜屋神社の創建は寛永二乙丑年(一六二五)と大楠の樹齢からすればはるかに新しく、寛永二年以前は、対岸の田形・釜屋神の神木だったのでしょう。
 ところで、湯辺田・釜屋神社境内には、明治初年時の神仏分離にともなう政府への神社報告書写しをもって同社由緒表示に代えています(写真12)。

 当社は桓武天皇の延暦元年(七八二)本分村に祀られていた中瀬神社を黒木助能が建磐竜神と相祀り、田形村に移し、釜屋宮と改めた。祭神は祢都波能売神(水神)。寛永二年(一六二五)神木のある現地に社を建て、湯辺田村の氏神釜屋宮と称する。

 明治期初頭、祭神は「祢都波能売神(水神)」の一柱で、それが大正六年の『八女郡史』においては「罔象女神、瀬織津姫神、速秋津姫神」の三柱、そして現在は、少なくとも、田形・釜屋神は「罔象女神、瀬織津姫神」の二柱とされます。湯辺田・釜屋神社の境内案内は黒木町教育委員会によって作成されたもので、教育委員会は大正期の『八女郡史』の記載、および現在の祭神も並記すべきでしょう。この境内案内のみですと、湯辺田・釜屋神社には「祢都波能売神(水神)」のみがまつられていることになります。
 明治期初頭というのは「王政復古」の号令のもと皇国化が再編され、瀬織津姫神にとって、その神名消去・変更の猛威が全国的に荒れ狂った時代です。『八女郡史』が著された大正時代は、俗に大正デモクラシーといわれるように、多少民主的な揺り戻しのあった時代でもありました。そのおかげというべきでしょうか、郡史に瀬織津姫祭祀が復権表示されたものとおもわれます。つまり、明治期初頭、瀬織津姫神は一旦は「祢都波能売神(水神)」と変更されるも、神社氏子衆の内部における祭神の記憶はその後も消えておらず、ために水神が二神(あるいは三神)並ぶという妥協表示が現出したものとみられます。
 黒木町教育委員会による案内表示は、祭神説明に関しては欠落を指摘せざるをえませんが、しかし、この案内には、郡史が記していなかった貴重な由緒が記されています。曰く、釜屋神社は、延暦元年(七八二)に本分村にまつられた「中瀬神社」が元の社名で、それを「黒木助能が建磐竜神と相祀り、田形村に移し、釜屋宮と改めた」とされます。
 イザナギの禊ぎゆかりの「中瀬(中ツ瀬)」が元の社名とすれば、その祭神はミヅハノメではなく、禊祓いの神である瀬織津姫神とみるしかありません(ブログ・宮崎県「橘大神と瀬織津姫神」参照)。さらにいえば、「水祖の神」にしても、列島の真水の大元水として神話伝承される「天真名井」を高千穂で司る神もまた瀬織津姫神でしたから、水祖神をいうなら、これも瀬織津姫神となります。
 さて、中瀬神を「建磐竜神と相祀り、田形村に移し、釜屋宮と改めた」のは黒木助能(黒木大蔵大輔源助能)とのことで、建磐竜神は阿蘇山の男神ですから、あるいは黒木助能は、阿蘇の姫神祭祀を再現しようとしたものかもしれません。それはともかく、天保十二年(一八四一)に成る伊藤常足『太宰管内志』(歴史図書社による復刻本)は、この釜屋神社に一項を割いて、郡史記載の田形・釜屋神社の由緒の元となる『筑後地鑑』なる書を引用紹介しています。伊藤は末尾で、「社家の伝説に黒木氏を薩摩より来たりしと又源姓なる由記せるはうけがたき事なり似たること有て其名を取ちがへなどにてもあるへし」と、黒木助能が薩摩からやってきたこと、および彼が源姓をもっていたことは信ずるに足りないと注記しています。
 謎めいた黒木氏ですが、この黒木氏については『鎮西要略』に興味深い記述があります(古賀稔康『松浦党祖考』芸文堂、所収)。

五年(康平)九月、源頼義、義家父子奥州合戦に打克ち、夷将安部貞任父子を殺し一族亡び東国悉く源氏に属す。貞任の弟宗任、則任を俘と為す。宗任を松浦に配し則任を筑後に配す。筑後の所謂川崎氏、宮部氏、黒木氏等は則任の種流也。宗任の子孫を松浦氏と称う。

 宗任とともに九州に配流された弟・則任ですが、この「則任の種流(末裔)」に黒木氏があるようです。古賀稔康氏は、「(則任の種流とされる)川崎氏は福岡県八女郡川崎、宮部氏は同県三池郡宮部、黒木氏は八女郡黒木に拠った豪族で戦国期に最もよくあらわれる」と指摘しています。
 宮部氏が拠った三池郡宮部は現在の大牟田市宮部ですが、川崎氏と黒木氏の二人が拠ったのが八女郡とされます。川崎は現地名で確認できませんけれども、黒木は八女郡黒木町にみられます。
『太宰管内志』の著者は、黒木氏は薩摩とは無縁だろうとしていましたが、九州に配流された安倍宗任の足跡伝説に拡大してみてみますと、薩摩と安倍氏末裔とはまんざら無縁でもないような伝説的伝承もあります。たとえば『続筑前風土記』には、次のように書かれています(古賀稔康、前掲書所収)。

宗任初め讃岐(伊予の誤)に流され、後さらに筑前大島に流され終に卒す。三子有り。長子松浦に適(謫)す。松浦党の祖也。次男を薩摩に適(謫)す。三男は即ち大島に在り。大島三郎季任と称す。

 安倍宗任の九州配流後の足跡は定説がなく、その係累にまつわる伝説はさらに伝説を生み、さまざまに肥大・交錯して語られるというのが実態です。しかし、弟の則任については、先にみた『鎮西要略』のほかにそう伝説があるわけでなく、これはこれで貴重かもしれません。
 松浦地方には、渡辺綱(源頼光の家来「四天王」の一人とされる)にはじまる渡辺源氏ではなく、嵯峨源氏の流れである源知[しる]が土豪化して勢力をもっていたことが『松浦党祖考』で考証されています。この源知の末裔と宗任(あるいはその末裔)が婚姻関係をもったことが、宗任(安倍氏)と松浦党を結びつけ、後世、さまざまに系図化されることにもなるようです。したがって、宗任の末裔が源姓を名乗ることは松浦党関係系図にはよく記されるところで、理路整然と実証的に語ることは困難にしても、黒木氏が安倍氏ゆかりの系にあるだろうことは、古賀氏の指摘とも相俟って感慨深いところがあります。
『太宰管内志』筑前之廿・上座郡祚田村の項には、安倍貞任の子孫が「安倍氏の産沙[うぶすな]神なりとて松島大明神を祭る」という記述があります。この松島大明神については、宗任ゆかりの筑前大島にもまつられていることが安川浄生『安倍宗任』(みどりや仏壇店出版部)に書かれていますが、松島大明神は男女二神から成り、その女神については、これも瀬織津姫神であったとはすでに指摘・考証されていることです(菊池展明『円空と瀬織津姫』上巻、風琳堂)。
 安倍氏本宗の信仰を黒木氏が継承していたとしますと、八女郡において、黒木助能が中瀬神を釜屋神・瀬織津姫神として丁重にまつりなおす動機はじゅうぶん以上にあったとみることができます。もっといえば、中瀬神は、その社名から、おそらくマガツヒノカミの名でまつられていた可能性もあり、とすれば、黒木助能は、本来の神名にもどしてまつりなおしたことも想像されてくるところです。
 湯辺田・釜屋神社においては祭神表示に曖昧の霧がかかっているものの、その元社である矢部川対岸の田形・釜屋神社(写真13)においては、かつての中瀬神という禊祓神ではなく「水祖の神」として瀬織津姫神がまつられつづけているのは、これも黒木助能(安倍氏)の信仰の流脈が生きているとわたしにはみえます(郷土資料・写真:白龍)。

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