千時千一夜

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 早池峰の開山伝承は複数あり、遠野側が四角藤蔵によるものとするのに対し、大迫[おおはさま]側は、藤原氏の末裔・藤原成房(のち山蔭・山陰と姓を改める)による開山伝承をもっています。遠野側の早池峰山里宮が伊豆神社ですが、大迫側のそれが田中神社です(写真1〜4)。
 田中神社宮司・山陰氏は、大迫・早池峰神社の宮司をも兼ね、同家はこの地域の旧家中の旧家でもあります。大迫町の人々の多くが早池峰大神を瀬織津姫神と認識しているのは、山陰氏の宣揚によるものとおもわれます。
 境内の由緒案内を読んでみます。

田中神社草創沿革記
 当社ノ草創ハ遠ク人皇五十一代平城天皇ノ御宇大同二年(八〇七年)三月八日郷ノ真中ノ地ニ一宇ヲ建立シ瀬織津姫命ヲ勧請シ東根嶽ノ里宮真中明神ト称シタリ
 即チ当社神主ノ先祖山陰兵部省藤原成房ト云ウ者コノ地ニ来リ大同二年三月狩猟ノタメ東根嶽ニ向ウ 折シモ山麓ニテ額ニ金星ヲ頂キソノ体ハ雪ノ如ク真白ナル奇鹿ニ遭遇セリ 成房之ヲ追テ雪ヲ渡リ遂ニ東根嶽山頂ニ至リ彼ノ鹿見失イケリ 時モ折遠野郷来内ノ四角藤蔵ナル者同シク奇鹿ヲ追テ山頂ニ来リ合セ共ニ神明影向ノ瑞相ヲ拝ス 成房藤蔵ノ二人等シクコノ奇異ニ深ク想ヲ巡ラシ山頂ニ宮ヲ建立シ奉ラムト談合セルモ今ハ雪深ク事成リ難シサレバ雪消ノ候ト約シ二人各々ノ猟具ヲ後ノ標ニト残シ下山セリト斯クテ雪消ノ六月東根嶽ニ登リ一宇ヲ建立セリト伝ウ コレ東根嶽ノ開山創始ナリ
 而シテ成房三月八日郷ノ真中ニ一宇ヲ建立シ真中明神ト崇メ自カラ神主トナリテ祭祀ヲ司トレリコレ即チ真中明神ノ創始ニシテ成房ハ山陰家開祖第一代ナリ真中明神ハコノ後同家三十九代ノ頃真中ニ水田ヲ拓クニ及ヒ田中明神ト改メ更ニ明治初年ノ神仏分離ニヨリ神号ヲ田中神社ニ改ム
 斯クテ山陰兵部省藤原成房真中明神創始以来実ニ千百数十余年当地域百家ノ宗トシテ現神主山陰幸三氏ニ至ルマデ連綿五十七代ニ亘リ歴代神主当社ノ盛衰ト共ニアリ祭祀ニ懈怠ナカリキ
  平成四年九月吉日         雲南住   山本一楽 謹書

 東根嶽(のちの早池峰山)の神霊は、「額ニ金星ヲ頂キソノ体ハ雪ノ如ク真白ナル奇鹿」へと変身し、自らの祭祀者として、藤原成房と四角藤蔵の二人を山頂に呼び寄せたようです。四角藤蔵は、東根嶽の神霊に、自らの守護神としての伊豆御神を感得したのでしたが、藤原成房の伝承には、四角藤蔵の守護神のルーツにあたるものが表されておらず、ただ「瀬織津姫命ヲ勧請」したと書かれるのみです。
 山陰氏よりいただいた由緒書によれば、この成房という人物について、「開祖は大織冠鎌足公二十五代の孫、内大臣藤原道隆公の四男道長十六代の孫政房の末孫藤原実房の子、兵部省藤原成房といふ人(其後故ありて山蔭と改む)此の地に来たり」云々とあり、中臣=藤原氏の流れを汲むようです。
『早池峯神社社記』では「大織冠藤原鎌足の後裔実房と云える人、何か故ありて奥州稗貫郡大迫郷に流浪し来り、此の地に在住することと定めた。其の子兵部卿成房(後に田中兵部、又は山蔭兵部とも云う)狩猟を好み」云々とされ、大迫郷にやってきたのは成房の父・実房としていますが、前者では「故ありて山蔭と改む」、後者では「何か故ありて奥州稗貫郡大迫郷に流浪し来り、此の地に在住」と、中央・主流の藤原氏とは異なる道を歩んできたことが伝わってきます。
 各由緒書は、「故ありて」の「故」(理由)を明記しませんが、藤原氏も一枚岩ではなく、たとえば、朝廷の中枢にいて、日本の神まつりに変質をもたらすことに腐心した藤原不比等系もあれば、こういった中央的祭祀思想から切れたところで、本来の氏神を奉じて朝廷思想の外に出た藤原氏もいたようです。そういえば、美濃国に流れてきて、その後藤井氏を名乗る藤原氏もいました(岐阜県・野宮神社の項を参照)。この藤原→藤井氏が自身の氏神として奉祭していたのが瀬織津姫神でしたが、大迫郷では、藤原→山蔭・山陰氏もまた、瀬織津姫神を奉祭していて、それを東根嶽の神霊に重ねるように感得したことが想像されます。
 神霊のいる山(高山)の周囲にはいくつもの郷村があり、当初は、郷村ごとに独自の信仰をつくっていたはずですが、遠野郷の東根嶽信仰に早くから介入してきたのが円仁率いる天台宗でした。円仁は自身の高弟・持福院を残して妙泉寺を建立し、四角藤蔵を脇にのけて一社家にしました。妙泉寺は、大迫の岳地区にも分院の妙泉寺を設け、おそらくこのことが、東根嶽山頂で四角藤蔵と藤原成房が偶然に出会うといった奇縁を縁起に取り入れることをさせた理由かとおもわれます。
 大迫・岳の妙泉寺も、境内に新山宮を設置していて、明治期の神仏分離から廃仏毀釈へと時代が大きく変わったとき、寺は廃絶、境内の新山宮が早池峰神社を名乗ることになるのは遠野側と一緒です。いや、正確にいっておくなら、岳妙泉寺の新山宮は、明治九年の『岩手県管轄地誌』には「早池峰神社遙拝所」、祭神は「姫神」と記されています(『大迫町史』教育文化編)。
 ちなみに、『岩手県管轄地誌』は、田中神社(戦前の社格は村社)のみ祭神を「瀬織津姫命」と記しています。田中神社が自社由緒において「東根嶽ノ里宮」、また「早池峰里宮」というも(写真1)、早池峰神社里宮といわないのは、田中神社側の早池峰信仰に、一方的な介入をしてきた妙泉寺の存在と歴史があったからなのでしょう。妙泉寺にも史的興亡があり、のちに真言宗の寺となりますが、田中神社はもともと神仏混淆を望んだわけではなかったものとおもわれます。
 岳妙泉寺が廃絶したあとにできた早池峰神社(花巻市大迫町内川目1-1)を訪れると(写真5〜9)、おそらく多くの人が気づくでしょうが、参道の斜め左手に早池峰山が望まれることです。それはいいのですが、拝殿・本殿にしても、早池峰山を遙拝するようには建立されていないことがいささか奇異です。遠野郷の早池峰神社は、拝殿・本殿の先に前薬師(現在の薬師岳)から早池峰山頂を拝むように建立されていて、山岳信仰のオーソドックスな社殿建立をしています。やはり、大迫・岳の早池峰神社の建立方法は特異といえます。方位磁石は、岳・早池峰神社の拝殿・本殿を拝む方向は東南東を指していて、地図で確認すると、この方向には遠野・早池峰神社が鎮座しています。明治九年の地誌が「早池峰神社遙拝所」と記していたのは、どうやら、遠野・早池峰神社の「遙拝所」という意味だったようです。
 この遙拝所が早池峰神社と名乗り、のち(大正時代末)に「県社」という社格を国から認定されます。それまで「遙拝」されていた遠野・早池峰神社は「村社」据え置きという不自然さについての分析は『エミシの国の女神』に譲りますが、一つだけ指摘しておけば、遠野・早池峰神社は一貫して祭神を「瀬織津姫命」としていたのに、その「遙拝所」(岳・早池峰神社)は祭神を「姫神」(昭和十四年時点では「姫大神」…『岩手県神社事務提要』岩手県神職会)としていたことです。
 明治期から敗戦時(昭和二十年)までは、岳・早池峰神社の祭神は「姫神(姫大神)」でしたが、しかし、戦後は「瀬織津比売神」と本来の祭神名にもどされています(これは、神社本庁との関係からいえば、勇気の要るカムバック表示だったとおもいます)。
 岳・早池峰神社の境内には枝垂[しだ]れ桂が植栽されていますが、この桂には早池峰の女神ゆかりの「ちょっといい話」が伝わっています(境内案内板)。

妙泉寺しだれ桂
 岩手県には世界的にも例のない、枝葉の垂れ下がった「南部しだれ桂」という珍木がある。しだれ桂の大木は盛岡市などにあり、現在では三本が国の天然記念物に指定されている。このしだれ桂は、もともとは岳の妙泉寺の境内にただ一本生育していたものであったという。この妙泉寺のしだれ桂には、大変面白い伝説が残っている。
 岳の妙泉寺では、お盆が近づくころになると、桂の緑葉を採って干し、粉末香にしてその年に使う分を作るのが習わしであった。
 さて、いつものようにお盆も近づいて来たある日、和尚は寺の小僧に境内にある桂の枝を切るように言いつけた。ところが、この桂の大木は毎年毎年枝を切るので、手のとどかないような高いところにしかなくなってしまっていた。小僧は梯子をかけて必死に枝を切ろうとしたが、どうしたはずみか足を滑らせて、枝を手にしたまま地面にドウとばかり落ちて気絶してしまった。
 そのとき、気絶した小僧の枕上に、早池峰山の女神「瀬織津姫」が現れて、
「お前はよく師匠の言いつけを守って、毎年この桂の枝を採っているが、このままでは下枝がなくなり、ついにはどんなに長い梯子をかけても及ばなくなろう。岳の水無沢の東、参道の所から二十歩ほどの岩のくぼみに、一本の枝のたれた桂を育てておいたから、それをもって来て寺の境内に植えて置くがよい」
と申されたのである。
 小僧はふと目をさまして、あたりを見回したが誰もいない。不思議なこともあるものだと、その出来事を和尚に話すと、「それは誠に有り難いことだ」といって大変喜んだ。和尚と小僧が明朝早く出掛けてみると、神様のお告げの場所に、お告げのとおりの枝のたれた桂が一本あった。二人はこれを寺の境内に移し替え、それからは毎年たくさんのお香を作ることができたという。
 このしだれ桂は、それから二、三百年を経て実にみごとな大木となったが、寺の普請のために切られてしまった。しかし、その株から出た新梢は、各地の寺院などに分けられ、後に国の天然記念物に指定された南部しだれ桂の原木となったという。

 早池峰山の女神「瀬織津姫」は、寺の小僧さんの難儀をみかねて、「一本の枝のたれた桂を育てておいた」とされます。このさりげない一言から、「瀬織津姫」は以前から小僧さんの難儀に気づいていたことも伝わってきて、なんとも心憎い気配りをしていたものです。この伝説の謎の作者による早池峰山の女神に寄せる思いは、「天照大神荒魂」や「八十禍津日神」などといった異称神名に込めようとした中央側の思いとはあまりに対極的なものです。

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